第119話 早すぎる
広間が、ざわついた。
俺は、平伏したまま、考えていた。五年ではなかったのか。
「わしは、九州へ行く。島津を、片付ける。その間、天下の仕置きは、勘九郎がやる」
(そういうことか)
家督を渡すのではない。留守を任せるのだ。だが、「天下の仕置き」と言われた。御動座之覚では、「近江・美濃・尾張の外におられる間」だった。今度は、天下だ。
◇
評定の後、呼ばれた。
「日向守。驚いたか」
「驚きました。五年と伺いました」
「早めた」
「なにゆえ、でございましょうか」
信長は、しばらく黙っていた。
「――猿が、泣いた。『よう治めた』と言うたら、泣いた。五十を過ぎた男が、だ。そのとき、思うた。わしは、二十年、あれを見ておらなんだ。見ておった。だが、言わなんだ。そして、言わねば、見ておらぬのと同じだ」
俺は、腹の底で受けた。読んでいるが返事を書かない、と俺が三沢に見抜かれた話を、この人は、二十年分、自分でやった。
「日向守。わしは、五年待てぬと思うた。五年後、勘九郎に渡す。だが、その五年、わしは何をする。全部、わしが決める。そして、五年後、突然、勘九郎に渡す」
「上様。それでは、中将様は困られます」
「そうだ。ゆえに、今から渡す。そして、五年、わしが見ておる」
(逆だ)
これまで、上様が決めて、信忠が見ていた。それを、逆にする。信忠が決めて、上様が見る。
「上様。お見事にございます」
「褒めるな。褒められると、止まるゆえだ」
俺は、思わず笑った。
「上様。それは、ご自身にも当てはまりまするか」
信長は、少し目を細めた。
「――当てはまる」
◇
だが、実際に始まってみると、混乱した。
二月。俺のもとに、書状が殺到した。
――丹波の年貢の儀、中将様に伺うべきか、上様に伺うべきか。
――兵の割り振り、どちらに願い出るべきか。
額を押さえた。当然だ。「天下の仕置きは、信忠がやる」と言われた。だが、上様も、まだいる。どちらに伺えばよいか、分からない。
「利三。これは、多いか」
「多うござる。一月で、四十七通にござる」
「他家にも、来ておろう。確かめよ」
三日で、答えが来た。丹羽家、三十二通。柴田家、十八通。滝川家、二十六通。
(百二十通)
一月で、百二十通。全部、「どちらに伺えばよいか」だ。
(境界がない)
――上様が「天下の仕置きは勘九郎」と仰せられた。だが、どこからどこまでかが、定まっておらぬ。ゆえに、皆が迷う。権限を渡すには、範囲が要る。「全部」では、渡したことにならぬ。
三年前の「肩書きだけ渡して、権限を渡していない」の、逆が起きている。権限を渡して、範囲を渡していない。どちらも、下が動けない。
書付を作った。
――仕置き分けの覚。
――中将様に伺うべきこと。一、諸国の年貢、荷、普請の儀。二、国衆の所領安堵。ただし、一万石まで。三、家臣の役目替え。ただし、方面軍の長を除く。四、村・町の裁き。五、他家との日々の取次。
――上様に伺うべきこと。一、戦を始めること。二、戦を終えること。三、方面軍の長の任免。四、一万石を超ゆる所領の儀。五、他家との盟の締結、破棄。
――どちらとも定めがたきこと。一、まず中将様に伺うこと。二、中将様が『上様に』と申されたる場合、上様に伺うこと。三、右のやり取りを、書き記すこと。
(迷ったら、まず信忠様だ)
そして、記録する。記録が溜まれば、境界が見えてくる。
まず信忠に送った。返事は、四日で来た。
――書付、読んだ。そして、助かった。この一月、わしのもとにも書状が来ておる。二百を超えた。そして、わしは、その半分に答えられなんだ。なぜならば、わしが決めてよいか分からぬゆえだ。
(同じことだ)
皆が迷い、信忠も迷っている。誰も、境界を知らない。
――日向守。一つ、直したい。『一万石まで』とあるが、これは多い。五千石にせよ。なぜならば、一万石を決められるのは、大名を作れるということだ。それは、まだ、わしには重い。
(正しい)
一万石は、独立した大名になれる規模だ。それを決めるのは、当主の権限だ。留守の裁きで五千を千にしたときと、同じ目だ。
――そして、もう一つ、足したい。『中将が決めたることを、上様が覆されたる場合』の条だ。覆されるのは、構わぬ。わしは、まだ未熟だ。誤ることもある。だが、覆される折、なにゆえ覆されたかを、書き記していただきたい。なぜならば、理由が分からねば、次も同じ誤りをするゆえだ。
(育っている)
◇
安土へ行った。
「日向守。これは、勘九郎が直したのか。どこを直した」
「二箇所にございます。一つ。一万石を、五千石に。『一万石は、大名を作れる。それは、まだ重い』と。もう一つ。上様が覆されたる場合、理由を書いていただきたいと。『理由が分からねば、次も同じ誤りをする』と」
「日向守。おぬしが教えたか」
「教えておりませぬ。ですが、八年前、それがしが上様に申し上げたことにございます。『なぜ』を渡さぬ命令は、命令ではなく、呪いにございます、と」
「覚えておる。そして、勘九郎も、同じことを言うか」
「同じことを、申されました」
「日向守。おぬしの言葉が、勘九郎に移っておるな」
(疑われるか)
「咎めておらぬ。だが、覚えておけ。言葉が移るということは、考えも移るということだ。そして、勘九郎は、いずれおぬしを超えねばならぬ。日向守。おぬしは、勘九郎に何を教えた」
「書くことにございます。そして、聞くことにございます。他には、ございませぬ」
「ならば、よい。書くことと、聞くことは、道具だ。道具は、使う者が変われば、違うものになる」
俺は、深く平伏した。俺が教えたのは、道具だ。そして、信忠様は、それで別のものを作られる。功の書が、既にそうだった。
「上様。上様は、九州へ、いつ行かれますか」
「来年だ。春だ」
(春。六月ではない。形が、崩れる)
少し安堵した。
「――だが、その前に、京へ入る」
動きを止めた。
「いつ、でございましょうか」
「今年の六月だ」
(また、六月か)




