第116話 出立
六月八日。
織田信長は、京を発った。備中へ。供は、三千。京に入ったときの、二十倍だ。
俺は、その行列を、京の西で見送った。
信長は、馬上にいた。俺の前を通るとき、こちらを見た。
「日向守。――丹波を、頼む」
俺は、額を地につけた。
「承知いたしました」
行列は、去った。背中が見えなくなるまで、平伏していた。
「殿。行かれ申した」
顔を上げ、立ち上がった。膝が、震えていた。
「殿ッ」
利三が、支えた。
「大事ない」
(終わった)
いや。首を振った。終わっていない。京での逗留が、終わっただけだ。
◇
その日、亀山へ戻り、書付を書いた。
――六月八日。上様、京を発たれる。備中へ。京での逗留、九日。異変なし。
(異変なし)
そう書いた。だが、本当に、何もなかったのか。
――ただし、六月二日、使者来たらず。半刻、異変を疑う。子細は、使者の怪我なり。
(これが、いちばん大きい)
何も起きなかった。だが、半刻、俺は「起きた」と思った。その半刻で、俺は何を考えたか。
書き出した。
――一、上様が討たれたと思うた。二、誰が討ったかを考えた。三、兵を動かすべきかを考えた。四、中将様へ報せることを考えた。
(三つ目だ)
あの半刻、確かにそれを考えた。二千の兵を、京へ入れるべきか、と。
(どちらを考えた)
記憶を探った。守るために、入れる。それは、確かだ。だが、本当に、それだけか。
(京を、押さえることも、考えなかったか)
身震いした。
(考えた)
認めた。あの半刻、俺は「京を押さえる」ことを考えた。なぜか。混乱を、防ぐためだ。上様が討たれれば、京は混乱する。略奪が起きる。誰かが京を押さえに来る。ならば、先に押さえておくべきだ。
その理屈を、書き出した。しばらく見ていた。
(正しい)
だが、外から見れば――
(謀反だ)
しばらく座っていた。
(同じことだ)
やることは、同じだ。兵を、京へ入れる。
(そうか)
八年、こう考えてきた。俺は、謀反を起こさない。なぜなら、動機がないからだ。
――謀反とは、動機から生まれるものにあらず。行いが、後から謀反と呼ばれるのである。
もし、あの半刻の後、俺が兵を京へ入れていたら。そして、上様が生きていたら。
(俺は、謀反人だ)
(紙一重だ)
(八年前の「歴史」も、そうだったのか)
明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか。誰も、知らない。
――もしかすると、あの男も、動機などなかったのかもしれぬ。ただ、その場に、その形があっただけかもしれぬ。
(形だ)
兵を持っている。京に近い。そして、主君が無防備でいる。その形が、揃ったとき。
(人は、選べるのか)
書付を取った。明智家、兵動かしの覚。三名のうち二名の花押。
(これがある)
あの半刻、もし俺が「兵を入れろ」と言っていたら。利三は、花押を押しただろうか。押しただろう。あの状況では。
(足りぬ)
――ただし、火急の場合、三名の花押を待つ間に、事が終わることあり。ゆえに、次のごとく定む。火急の場合、兵は動かさず、まず一人を遣わすこと。そして、その者が戻るまで、動かざること。
(待つ)
何が起きても、まず、待つ。そして、確かめる。
だが、待てば、間に合わぬ。
(間に合わなくても、よい)
その考えに、しばらく耐えた。上様が死ぬのを、防げなくても。
――間に合うことより、誤らぬことを取る。なぜならば、誤れば、家が滅ぶゆえ。
(これは、正しいか)
答えられなかった。
◇
その夜、煕子に文を書いた。
――上様は、京を発たれた。何も、起きなかった。だが、俺は、半刻、間違えかけた。使者が来ぬというだけで、兵を動かしかけた。八年、備えてきた。そして、いざとなれば、これだ。煕子。俺は、自分が怖い。
返事は、五日で来た。
――お文、拝読いたしました。そして、少し安堵いたしました。
(安堵)
――あなた様が、ご自分を怖いと思われるのは、良いことでございます。怖いと思う方は、踏みとどまれます。怖いと思わぬ方が、踏み越えられます。あなた様は、半刻、迷われました。そして、兵を動かされませんでした。迷うたことを、恥じられますな。迷わずに動くほうが、恐ろしゅうございます。
(そうか)
迷いは、欠点ではない。止める力だ。
――あなた様。一つ、お知らせがございます。玉より、文が参りました。子が、生まれました。男子にございます。
俺は、しばらく動けなかった。
(孫だ)
少し笑った。俺に、孫がいる。
――玉は、こう書いておりました。『父上に、お伝えください』と。『白紙は、まだ持っております』と。
(持っている)
あの、半分に裂いた紙を。俺が「捨ててもよい」と書いた紙を。
筆を取った。
――玉へ。子が生まれたと聞いた。めでたい。一つ、頼みがある。その子に、字を教えてやってくれ。そして、書き留めることを教えてやってくれ。何でもよい。
――俺は、たぶん、その子に会えぬ。丹後は、遠い。そして、俺は、六十だ。だが、書いたものは、残る。ゆえに、俺の書付を、その子に読ませてくれ。それが、俺がその子に会う道だ。
その夜、書付に書いた。
――人は、死ぬ。だが、書付は残る。ゆえに、書付は、死んだ者が生きた者に会う道である。
外を見た。六月の夜だった。蛙が、鳴いていた。
(今年の六月二日は、過ぎた。だが、来年もある)
少し疲れた。いつまで、続く。
(上様は、五年と仰せられた)
五年後、俺は六十四だ。生きているか。
(生きていよう)
――五年、生きる。そして、五年後、上様が中将様に渡されるのを、見る。
(これが、俺の線だ)
煕子に言われた、あの線だ。ここまでやったら、終わり。
(決まった)
書付を、丁寧に畳んだ。
だが、その二月後。俺のもとに、一通の書状が届いた。備中から。差出人は、羽柴秀吉ではなかった。
黒田官兵衛だった。




