第115話 茶を、一服
六月三日。
朝、弥助が来た。足を引きずってはいたが、昨日より軽い。
「日向守様。お変わりございませぬ。――そして、上様よりお言葉がございます。『来い』と」
俺は、しばらく動けなかった。
(呼ばれた)
――五、上様の宿所には、上様のお召しなくば、近づかざること。
お召しがあった。
「利三。本能寺へ行く」
「殿ッ。それは」
「お召しだ。兵は、連れぬ。警固の者、五人だけだ」
「殿。それは、少なすぎ申す」
「多ければ、疑われる。そして、これは、警固ではない。――客だ」
◇
京の西の寺から、本能寺まで、歩いた。五人の警固は、十間後ろに置いた。四条の通りには、去年の二月と同じ数の子供が走っていた。誰も、俺を見なかった。二千の兵を桂川の向こうに置いた男が、供五人で歩いているのを、京の町は、当たり前の光景として通り過ぎた。それでいい。当たり前に見えることが、疑われないということだ。
本能寺は、思ったより小さかった。
(寺だ)
城ではない。堀もない。石垣もない。塀と、門だけだ。八年間、頭の中でこの寺を燃やしてきた。燃えるはずだ、と思った。燃えやすい。
(守れぬ)
通されたのは、奥の一室だった。信長は、脇息にもたれ、書状を読んでいた。いつも通りだ。
「日向守にございます」
「来たか。座れ。――弥助が、階から落ちた。おぬしが、案じたそうだな。半刻でか」
「半刻でございます」
信長は、少し笑ったようだった。
「気が短いな。――だが、それでよい。半日待っておれば、遅い」
「上様も、そうお思いでございますか」
「思う。おぬしの書付を読んだ。『半日に及びしとき』とあった」
「直しました。四半刻にございます」
「良い。――日向守。茶を点てる。付いてこい」
◇
通されたのは、小さな部屋だった。四畳半。道具が置いてある。
(狭い)
宗易の二畳台目ほどではない。だが、この人が、この狭さに座るのは、初めて見た。
信長は、茶を点て始めた。
(速い)
宗易の所作とは、まるで違う。音がする。動きに、迷いがない。そして、美しい。
「飲め」
濃い。そして、熱い。この人らしい。
「結構にございます」
「日向守。おぬし、茶は好きか」
「――分かりませぬ」
「正直だな。わしも、分からぬ。茶は、道具だ。人を測り、人を動かす道具だ。――だが、時々、道具でないときがある。今が、それだ」
俺は、動けなかった。
「上様。かたじけのう存じます」
「日向守。おぬし、幾つになった」
「五十九にございます」
「わしは、五十四だ。日向守。わしは、備中へ行く。毛利を片付ける。その後、九州へ行く。島津がおる。そして、その先には、海がある」
(俺が言ったことだ)
走る先を、作る。
「上様。海の先は」
「知らぬ。だが、宣教師が地図を持ってきた。この国は、思うたより小さい。日向守。わしは、この国を取ったら、終わりだと思うておった。だが、地図を見て、変わった。――この国は、地図の端にある」
(そうか)
その地図を、知っている。前世で、見たことがある。日本は、端だ。この人は、端から見ている。
「上様。海の先へ、行かれますか」
「行かぬ。五十四だ。そして、この国も、まだ取っておらぬ」
「あと、幾年かかりましょうか」
「五年だ。五年で、この国を取る。そして、そこで、わしは終いだ」
俺は、身を固くした。
「終い、と」
「五年経てば、わしは五十九だ。今のおぬしと、同じだ。日向守。おぬしは、今、走れるか」
「――走れませぬ」
「ならば、わしも走れぬ。ゆえに、五年で終いだ」
「その後は」
「勘九郎だ」
俺は、深く平伏した。
(言った)
初めて、はっきり言った。五年後、家督を渡す、と。
「上様。それを、中将様にお伝えになりますか」
「言わぬ。言えば、待つゆえだ」
(そうか)
五年後に渡す、と言えば、信忠は待つ。待つ者は、動かない。そして、五年、育たない。
「上様。仰せの通りかと存じます。ですが、一つ、お願いがございます。――書いておいてくださいませ。『五年で、勘九郎に渡す』と。そして、それを、封じてくださいませ」
「誰に預ける」
「村井様に。五年後に開けていただきまする」
「日向守。おぬし、なにゆえ、それを頼む」
「上様が、忘れられるゆえにございます」
信長は、少し笑った。
「そうだな。四国のことも、忘れた」
「そして、もう一つ、理由がございます。――上様が、五年の内に、おられなくなった場合にございます」
部屋が、静かになった。
「日向守。おぬし、それを言うか」
「申し上げます。そのとき、その書付があれば、『上様は、勘九郎様に渡すおつもりであった』と、皆が知りまする」
信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。――書く。だが、一つ、足す。『勘九郎を助けよ』と、書いておく」
「誰に、でございましょうか」
「おぬしにだ」
俺は、動けなかった。
「上様。それは、なりませぬ。それがしも、五年後には、六十四にございます。生きておるか、分かりませぬ」
「ならば、誰に書く」
「名を、書かぬことにございます。『勘九郎を助くべし』と、それだけお書きくださいませ。誰に、とは書かず。名を書けば、その者だけの役目になりまする。名を書かねば、読んだ者、全部の役目になりまする」
長い沈黙があった。
「日向守。おぬしは、八年、そればかり考えておるな」
「さようにございます」
「疲れるだろう」
「疲れております」
信長は、しばらく黙っていた。それから、茶碗を取った。
「日向守。――もう一服、飲め」
二服目は、一服目より、少しぬるかった。この人が、点てる速さを、少し落としたのだと思った。




