第114話 本能寺
天正十五年、五月二十九日。
織田信長が、京に入った。
俺は、その日、丹波の亀山にいた。報せは、その日のうちに来た。
「殿。上様、御着京にござる」
「宿所は」
「――本能寺にござる」
その三文字を聞いて、しばらく動けなかった。
(本能寺)
八年間、頭の中で転がしてきた名だ。初めて、現実の報せとして聞いた。
「殿。いかがなされた」
「いや。――供は、何人だ」
「百五十ほどと」
目を閉じた。
(少ない)
だが、当然だ。京は、織田の地だ。誰も、京で襲われるとは思わない。だから、供が少ない。そして、それが、隙になる。
「利三。中将様は」
「岐阜にござる」
「動かれておらぬな」
「おられませぬ」
「利三。岐阜へ、日々、使者を出せ。『中将様は、岐阜におられるか』を確かめよ」
「殿。それは、疑うておられるので」
「疑っておらぬ。だが、確かめる。中将様は、来たがっておられる。そして、来たくなったとき、人は自分に言い訳をする。『一日だけなら』と」
◇
六月一日。
俺は、京の外にいた。兵は二千。京の西、桂川の向こうに置いた。京中には、入れていない。俺自身は、三十人の警固の者と共に、京の西の寺にいた。本能寺からは、十町ほど離れている。
その日の朝、使者が来た。
黒い男だった。初めて見た。背が高い。俺より、頭一つ高い。
視界の隅で、板が浮かんだ。久しぶりだった。
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弥助 年齢不詳
上様小姓
【総評】見間違えられぬ者。
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◆特記事項
識別のしやすさ 九十九
言葉の習得速度 八十八
役目への忠実さ 九十四
己の来歴を語る回数 零
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俺は、最後の一行を見て、しばらく動けなかった。
(――零)
三年、上様に仕えて、自分がどこから来たかを、一度も語っていない。
(――俺と、同じだ)
「明智日向守様にございますか」
驚くほど、流暢な言葉だった。
「さようだ」
「弥助と申します」
「上様のご様子は」
「お変わりございませぬ。朝、茶を召され、今は書状をお読みでございます」
「かたじけない。昼にも、来てくれるか」
「参ります」
弥助は、去った。
「利三。あの者は、言葉が達者だ」
「三年、上様に仕えており申す。上様が、直に教えられたとか。言葉を教え、名を与えられ申した」
(あの人は、家柄で人を使わない。国も、問わぬのか)
昼。弥助が、来た。
「日向守様。お変わりございませぬ」
夕。弥助が、来た。
「日向守様。お変わりございませぬ」
その夜、書付を書いた。
――六月一日。朝、昼、夕。使者、三度。異変なし。上様、本能寺にて逗留。中将様、岐阜。動かれず。
(何も、起きていない)
(明日だ)
その夜、眠らなかった。
「殿。お休みくださいませ」
「眠れぬ」
「殿。明日、何かあるので」
「分からぬ。だが、明日が、いちばん危ない」
「なにゆえ」
答えられなかった。夢で見た、とは言えぬ。
「――勘だ」
「殿の勘は、当たり申す」
俺は、少し笑った。
「外れることを願う」
◇
六月二日。
夜明け前。俺は、起きていた。正確には、寝ていなかった。庭に出た。風が、湿っていた。
(今日だ)
夜が、明けた。俺は、待った。弥助を。
明け六つ。来ない。
(まだだ。多少の遅れは、ある)
四半刻。来ない。拳を握った。
(落ち着け)
半刻。来ない。
「利三ッ」
「どうなされた」
「使者が、来ぬ。半刻だ」
利三の顔が、こわばった。
書付を出した。京警固之覚。火急の条。
――三つ、上様の使者が来たらざること、半日に及びしとき。
(半日)
半日は、待てぬ。だが、待たねば、条を破ることになる。俺が書いた条を、俺が破る。
しばらく立っていた。
「利三。人を出せ」
「兵でござるか」
「違う。一人でよい。本能寺へ行き、様子を見てこさせろ。――武具は、着けさせるな」
利三は、すぐに動いた。
俺は、待った。四半刻。
「申し上げますッ。本能寺、静かにございます。火も、兵も、ございませぬ。門は、閉まっております。人は、出入りしております」
(何も、起きていない。ならば、なぜ使者が来ぬ)
「利三。もう一人、出せ。今度は、寺の者に聞かせろ」
二人目が戻ってきたのは、昼近くだった。
「申し上げますッ。弥助様は、寺におられます。――足を、痛めておられるとのこと。昨夜、階を踏み外されたと」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、膝から、力が抜けた。
「殿ッ」
利三が、支えた。俺は、その場に座り込んだ。
(足を、踏み外した。それだけだ)
(それだけで、俺は)
しばらく座っていた。
(半刻、俺は何を考えていた)
上様が、討たれた。誰が。どうする。全部、考えていた。
(八年、備えていたのに。いざとなれば、これか)
立ち上がった。
「利三。書付を、直す。火急の条だ」
――三つ、上様の使者が来たらざること、四半刻に及びしとき。ただし、まず、武具を着けざる者一人を遣わし、様子を見ること。そして、半刻に及びて、なお異変の理由が分からざるとき、火急とみなす。
(段階を作った)
いきなり「火急」にはしない。まず、確かめる。
――四つ、使者が来たらざる理由が、病または怪我なりし場合。その旨を、直ちに知らせること。知らせざれば、こちらは異変とみなす。
弥助が足を痛めた。それは、仕方がない。だが、「今日は行けぬ」と知らせれば、済んだ。
――報せの者が来られぬときは、来られぬことを報せること。「何もないこと」と「報せられぬこと」は、別なり。
◇
書きながら、俺は前の世で見た図を思い出していた。
大きな商いの網を持つ会社が、世界中の荷を一つの盤で見ていた。何百という筋から数が集まってきて、盤の上に並ぶ。だが、その会社が誇っていたのは、数の多さではなかった。
――例外を見つける速さだ。
順調な荷は、見なくてよい。見るべきは、順調でない荷だけだ。ところが、順調でない荷は、たいてい「報せが来ない」という形で現れる。事故の報せが来るのではない。報せが来なくなるのだ。
その会社は、計画を立て直すのに二時間かかっていたのを、二分にした。速くなったのは、決めることではない。異変に気づくことだった。
(――同じだ)
俺が作った仕組みで、いちばん効いているのは、荷の覚でも、役目書でもない。
――弥助どのが、日に三度来ること。
来ることに意味があるのではない。来ないことに意味がある。
俺は、筆を止めた。
(――だが、今日、俺は半刻で誤った)
異変に気づくのが速くても、気づいたあとに何をするかを決めていなければ、速さは害になる。
俺は、書付にもう一行足した。
――速く気づくことと、速く動くことは、別である。
――気づくは、速いほどよい。動くは、確かめてからでよい。
(八年、こういうことばかりだ)
大きな仕組みを作る。そして、小さなことで、崩れる。階を、踏み外す。
◇
その日の夕。
弥助が、来た。足を引きずっていた。
「弥助どのッ。歩かれるな」
「申し訳ございませぬ。朝、参れませなんだ」
「足を痛めておられると聞いた」
「はい。ですが、参らねばならぬと」
「誰かに、言われたか」
「上様に。『日向守が案じておる。行け』と」
俺は、動けなかった。
(分かっていた)
「上様は、他に何と」
「『階から落ちたと、正直に申せ』と」
俺は、少し笑った。あの人らしい。
「弥助どの。かたじけない。だが、明日からは、無理をなさるな。来られぬときは、来られぬと知らせてくださればよい」
「日向守様。それは、役目の内でございますか」
「役目の内だ」
弥助は、少し笑った。
「ならば、いたします」
その夜、書付に書いた。
――六月二日。朝、使者来たらず。半刻、異変を疑う。子細は、使者の怪我なり。異変にあらず。
(何も、起きなかった)
六月二日は、過ぎた。八年、数えてきた日が、使者の怪我で終わった。
利三が、酒を持ってきた。
「殿。今日は、飲まれませ」
「まだ、上様は京におられる」
「存じており申す。ゆえに、一杯だけにござる」
俺は、一杯だけ飲んだ。二杯目を、利三が下げた。この男は、俺を止める役を、板に書かれるずっと前から、やっている。
(だが、まだ、上様は京におられる)




