第113話 誰が、討ちうるか
その書付を、三日かけて書いた。
――一、明智日向守。京に最も近い。兵二千。動機、なし。ただし、外より見れば、あり。
――二、羽柴筑前守。備中におり、遠い。兵は多い。三万を超える。動機。上様がおられぬほうが、自由になる。
三行目を書いて、手が止まった。書いてしまった。だが、続けた。
――ただし、備中より京まで、七日はかかる。ゆえに、直に討つことはできぬ。討たせるとすれば、京にいる者を使う。
背筋が冷えた。
(京にいる者。俺だ)
ありうるか。首を振った。ありえぬ。あの男は、俺を動かせない。そんな手蔓は、ない。
だが、そこで手が止まった。
(俺の家中は、どうだ)
身震いした。
(利三は)
いや。ありえぬ。
しばらく座っていた。
(これが、疑いか)
疑い始めると、止まらぬ。筆を置き、庭を見ていた。この書付は、危ない。だが、書き続けた。
――三、柴田修理亮。北陸におり、遠い。動機、なし。この方は、上様なくして立たぬ。
――四、滝川左近将監。東国におり、遠い。動機、なし。この方は、領国を持たぬ。ゆえに、討っても得るものがない。
――五、丹羽五郎左衛門。若狭。近い。動機、なし。ただし、京の東を固める。兵を持つ。
(足りない)
――六、御一門。中将様。動機、なし。ただし、家督を早く継げる。三介様(信雄)。動機、あり。役目が定まらぬ。三七郎様(信孝)。動機、なし。四国を任されておる。
三介様の行で、手が止まった。
――ただし、三介様には、兵を集める力がない。そして、討った後、家中が従わぬ。ゆえに、討っても意味がない。
――七、外の者。毛利。長宗我部。四国を取り上げられた。動機、あり。本願寺。足利義昭。動機、あり。だが、力がない。
数えた。動機がある者、四人。力がある者、三人。両方ある者――
(いない)
だが、それは、今の話だ。状況が変われば、動機は生まれる。そして、力も。
――動機は、状況が作る。ゆえに、今の動機を数えても、意味がない。動機は、変わる。力は、変わりにくい。ゆえに、力を見る。
――力とは、次の三つなり。一つ、京に近きこと。二つ、兵を持つこと。三つ、その兵を、疑われずに動かせること。
(これだ)
兵を持っているだけでは、討てない。兵を動かせば、必ず気づかれる。だが、動かしても不自然でない者なら。
その条件で、もう一度数えた。
――明智日向守。丹羽五郎左衛門。
二つの名を見て、動けなかった。
(俺が、警固を願い出たからだ)
俺は、自分で条件を作った。
三日、考えた。
――兵を、動かせぬようにする。
――一、兵の動きに、二人の同意を要すること。二、明智の兵を動かすには、明智日向守と、斎藤利三の、両名の花押を要す。三、右のうち、一方のみの命では、兵は動かざること。
(俺を、縛る)
俺自身を縛る仕組みだ。俺が、突然おかしくなっても、兵は動かぬ。
(俺は、俺を信じていない)
当たり前だ。八年、こう言ってきた。人の心は変わる。ゆえに、心を当てにしてはならぬ。俺の心も、同じだ。
◇
利三を呼んだ。
「利三。これを読め」
利三は読み、青くなった。
「殿。これは」
「明智の兵を動かすには、俺とおぬしの、両方の花押が要る」
「殿。それは、それがしに、殿を止める力を与えるということにござる。それがしは、そのような力を、欲しゅうござらぬ」
「知っている。だが、持ってくれ」
「殿。なにゆえ、このようなことを」
「俺が、おかしくなるかもしれぬゆえだ。人は、変わる。そして、変わった者は、自分が変わったことに気づかぬ」
「殿。それがしには、分かり申さぬ」
「利三。おぬしに、一つ聞く。俺が、突然、『京へ攻め入る』と言い出したら、どうする」
「――お止め申す」
「止まらなければ」
利三は、答えられなかった。
「そのとき、おぬしは、俺に従う。なぜなら、俺が主だからだ」
「――さようにござる」
「ゆえに、これが要る。おぬしが花押を書かねば、兵は動かぬ。そのとき、おぬしは、書かなくてよい」
「殿。書かねば、それがしはどうなり申す」
「斬られる」
利三は、少し笑った。
「やはり」
「だが、明智の家は、滅びぬ。利三。おぬしが斬られれば、家中は分かる。『殿は、おかしくなられた』と。そして、家中は、俺に従わぬ」
「殿。それは、あまりに」
「利三。これは、おぬしのためではない。明智の家のためだ。――そして、俺のためだ。俺は、俺が謀反人になるのが、怖い」
部屋が、静かになった。
「八年、それが怖かった。そして、今も怖い。ゆえに、縄を作る。俺自身を、縛る縄だ」
利三は、長いこと黙っていた。
「承知いたし申した。ですが、殿。一つ、お願いがござる。――それがしにも、縄をつけてくださいませ。それがしも、変わるかもしれ申さぬ」
俺は、少し笑った。
「そうだな」
書き足した。
――四、右の両名のほか、明智秀満の花押をもって、両名のいずれかに代えることを得。ただし、三名のうち、二名の花押を要すること。
「これでどうだ」
「殿。これは、良うござる。一人がおかしくなっても、動き申さぬ」
「そして、一人が死んでも、動く」
「殿。これを、他家にも見せまするか」
「見せる。見せねば、意味がない。これは、明智の兵が勝手に動かぬという証だ。見せてこそ、証になる」
◇
諸家に送った。
最初に返事をくれたのは、丹羽長秀だった。
――己を縛る書付を、他家に見せる者を、それがしは知り申さぬ。これは、恐ろしいことにござる。ですが、それがしも、同じものを作り申す。若狭の兵も、それがし一人では動かせぬようにいたす。
(増えた)
次に来たのは、羽柴秀吉だった。
――一つ、伺いたきことがござる。なにゆえ、己を縛られる。
――それがしは、それがしを信じておりませぬ。人は、変わりまする。そして、変わった者は、変わったことに気づきませぬ。ゆえに、変わる前に、縄をかけておきまする。
返事は、五日で来た。
――それがしは、真似いたし申さぬ。なぜならば、それがしは、それがしを信じておるゆえにござる。
身構えた。だが、続きがあった。
――ですが、日向守様。それがしは、いつか、この文を後悔するかもしれ申さぬ。ゆえに、この文を、お預けいたす。いつか、それがしが変わりし折、これをお見せくだされ。
俺は、しばらく座っていた。
(この男は)
自分を縛らない代わりに、自分の言葉を預けた。縄ではなく、証文だ。
書状を、丁寧に畳んだ。『諸将、心覚えの書』の、いちばん上に入れた。




