第111話 形が、揃う
――家中の三人に一人が、眠れていない。
――そして上様は、京へ入られる。宿は、本能寺。
――二十年、俺が数えてきた日が、近づいている。
天正十五年、三月。
俺は、その書状を、三度読んだ。
――上様、御動座。備中へ、御出馬。京にて、御逗留。
(来た)
だが、震えは来なかった。八年前、天正十年の六月が近づいたときは、毎朝、腹の底が冷えた。今は、冷えない。
(八年、備えた)
「利三。『御動座之覚』を出せ」
利三は、すぐに動いた。三年前に作った書付だ。朱印も押してある。
――第一条。上様が御動座の折、中将様は本国に留まること。
――第二条。上様と中将様は、同じ国に同時に入る場合、別の宿所に泊まること。
――第三条。右の間、中将様は本国にて、諸方の報を受け、裁可を行うこと。
(これが、生きる)
「利三。中将様は、どちらにおられる」
「岐阜にござる。動かれる気配は、ござらぬ」
少し安堵した。第一条は、守られている。だが、まだ分からぬ。
「利三。岐阜へ文を出せ。『御動座之覚、第一条を守られよ』と」
利三は、首を傾げた。
「殿。それは、無礼ではござらぬか」
「無礼だ。だが、書く。中将様は、必ず京へ来たがられる」
「なにゆえ、そう思われます」
「俺なら、行く。父が京に入る。そして、備中へ発たれる。ならば、見送りたい。それは、当たり前の情だ。――そして、当たり前の情ゆえに、危ない」
◇
返事は、七日で来た。
――日向守へ。『御動座之覚』は、覚えておる。だが、一つ、申しておく。わしは、父上を見送りたい。ゆえに、そなたに問う。なにゆえ、いけぬのか。
(理由を、聞いている)
本当の理由は、書けない。同時に討たれるのを防ぐため、とは。
三日考えて、書いた。
――理由は、二つございます。一つ。裁きが、止まりまする。上様が備中へ発たれた後、近江・美濃・尾張の裁きは、中将様がなさいます。中将様が京におられれば、その間、裁きが止まりまする。
――二つ。これが、大事にございます。
筆が止まった。
(書けるか)
書いた。
――中将様。織田家の頭は、二つございます。上様と、中将様にございます。二つの頭が、同じ場所におられるのは、危うございます。なぜならば、そこで何かが起きれば、二つとも失われますゆえ。
(書いた)
初めて、はっきり書いた。八年、書けなかったことだ。
――何かが起きる、と申しておるのではございませぬ。ただ、起きたときのことを、申しております。
返事は、五日で来た。
――分かった。岐阜に留まる。ただし、一つ、聞きたい。そなたは、何かが起きると思うておるか。
(答えねばならぬ)
――思うております。
(もう、引き返せない)
――ただし、誰が何をするかは、存じませぬ。それがしが案じておるのは、人ではございませぬ。形にございます。上様が、少ない供で京に入られます。その間、諸将は、それぞれの戦線におります。柴田様は北陸。羽柴様は中国。滝川様は東国。そして、それがしは、丹波にございます。もし、京で何かが起きれば、誰も、間に合いませぬ。
――間に合う者が、一人だけおります。それがしにございます。
その一行を、長いこと見ていた。
(これは、危ない)
「私だけが間に合う」と書く。それは、疑われる。史実の光秀が、まさにその場所にいた。
だが、書いた。
――ゆえに、それがしは、丹波を動きませぬ。上様が京におられる間、それがしは坂本にも入りませぬ。丹波の亀山に留まり、日々の動きを書き記し、写しを中将様に送りまする。
(これしかない)
自分の行動を、全部記録して、第三者に送る。前世なら、アリバイと言う。そして、それは、疑いを前提にしている。
返事は、四日で来た。
――そなたの文、読んだ。そして、腹が立った。なにゆえ、そなたが疑われる前提で書く。わしは、そなたを疑わぬ。
(怒っている)
――だが、考えた。そして、そなたの言うことが正しいと分かった。わしが疑わずとも、他の者は疑う。そして、疑いは、わしには止められぬ。ゆえに、こうする。そなたの記す日々の書付を、わしが受け取る。そして、わしの名で、諸将に回す。
息を呑んだ。
――そなたが自分で送れば、それは弁明に見える。わしが回せば、それは公事になる。
(分かっている)
俺のやろうとしていることの意味を、正確に理解している。そして、「公事」に変えている。八年前、この人は「書き留めてよろしいか」としか言わなかった。
(俺を、守っている)
◇
四月。安土から、正式な触れが出た。
――上様、五月に上洛。京にて逗留の後、六月、備中へ御出馬。
(六月)
暦を広げた。天正十五年、六月。俺の知っている日付は、天正十年六月二日だ。五年、ずれている。だが、六月だ。
身震いした。
(偶然か)
いや。しばらく考えて、気づいた。偶然ではない。六月は、動きやすい季節だ。田植えが終わり、収穫の前。農民を動員しやすい。そして、梅雨の前だ。
(形だけではない。季節も、同じか)
――日付は、動く。だが、季節は、動かぬ。なぜなら、季節は、田と天が決めるゆえ。ゆえに、大きな動きは、必ず同じ季節に起きる。そして、その季節に、同じ形が揃う。
(揃った)
上様が、京に入る。秀吉が、備中で毛利と対する。柴田は北陸、滝川は東国。そして、俺は丹波。全部、揃った。五年、遅れて。
書き出した。
――八年前と、違うこと。一、中将様が、岐阜に留まる。二、『上様、御不慮の折の覚』がある。三、諸将が、互いを知っている。四、俺の行動が、記録され、中将様の名で回される。
(足りるか)
分からぬ。だが、八年前より、遥かに良い。
――防げるかは、分からぬ。だが、防げなんだときの被害は、八年前より遥かに小さい。それで、十分とせねばならぬ。全部を防ぐことは、できぬゆえ。
(割り切れ)
だが、割り切れぬ。
◇
外に出た。春の夜だった。湖が、月に光っていた。
「あなた様。お休みになりませぬのですか」
「眠れぬ」
煕子は、隣に立った。しばらく黙っていた。
「あなた様。上様が、京へ来られますね。――それが、あなた様の申しておられた日でございますか」
俺は、答えられなかった。
(知っている)
この人に、何も話していない。だが、この人は、知っている。二十年の帳面は、俺の顔色も書いている。
「分からぬ。だが、形は、同じだ」
「あなた様は、その日、どこにおられますか」
「丹波だ。亀山に留まる。坂本には戻らぬ。坂本は、京に近すぎる」
「それは、疑われぬためでございますか」
「そうだ。疑われぬためには、遠くにおるしかない」
煕子は、しばらく黙っていた。
「あなた様。それでは、間に合いませぬ」
俺は、動きを止めた。
(そうだ)
遠くにいれば、疑われない。だが、間に合わない。近くにいれば、間に合う。だが、疑われる。
「煕子。どちらを取ればよい」
「わたくしには、分かりませぬ。――ですが、間に合わなんだら、あなた様は、一生悔やまれます」
「煕子。だが、疑われれば、明智の家が滅ぶ」
「さようでございましょう。――ですから、両方を取ってくださいませ。近くにおって、疑われぬ形を、お考えくださいませ」
俺は、しばらく黙っていた。
(ある)
「煕子。一つ、思いついた。だが、それは、俺一人ではできぬ。――中将様に、頼まねばならぬ」




