第109話 褒める者
天正十五年、正月。
織田家の『功の書』が、初めて出された。書いたのは、織田信忠だ。
――織田家、功の書。天正十四年分。織田中将信忠、これを記す。
中身は、二つに分かれていた。戦の功。守りの功。俺の様式と、同じだ。
だが、読み進めて、唸った。
(違う)
守りの功の項目が、俺のものと違っていた。
俺の『功の書』は、こうだった。一、兵糧を切らさなかった功。二、荷を遅らせなかった功。三、村の争いを、争いのうちに収めた功。四、過ちを早く申し出た功。五、人が死なずに済んだ功。
信忠のものは、こうだった。一、治めたる功。二、繋ぎたる功。三、教えたる功。四、退きたる功。五、止めたる功。
(違う)
俺のは、「失敗しなかったこと」を数えている。信忠のは、「作ったこと」を数えている。
――一、治めたる功。羽柴筑前守。播磨、但馬、因幡を治む。三年、一揆起こらず。
身を乗り出した。秀吉が、筆頭だ。しかも、戦の功ではない。治めた功だ。
――二、繋ぎたる功。柴田修理亮。北陸の荷の様を書き記し、他家へ渡す。滝川左近将監。東国の諸家と織田家を繋ぐ。
(良い)
この二人は、これまで「繋ぐ」ことで評価されたことがない。
――三、教えたる功。佐久間右衛門尉。明智家中の若き者に、退き口を教う。四年に及ぶ。
俺は、動けなかった。
(佐久間様が)
追放されかけた人が、織田家の『功の書』に載っている。教えた功として。
――四、退きたる功。該当者なし。
少し首を傾げた。該当者がいないなら、項目ごと外せばいい。だが、残している。
(項目があれば、来年、誰かが狙う)
唸った。「退いた功」という項目を作っておけば、退くことが恥ではなくなる。むしろ、功になる。仁科盛信が自分で決めた退き口を、この人は、来年の項目にした。
――五、止めたる功。斎藤利三。明智日向守の無理を止む。二度に及ぶ。
思わず声が出た。
「利三ッ」
飛んできた。
「なんでござる」
書付を突き出した。利三は、それを読んだ。そして、固まった。長いこと、動かなかった。
「殿。これは」
「そのままだ。おぬしが、載っておる」
利三は、書付を持ったまま、震えていた。
「なにゆえ、それがしが」
「中将様に、文を出したろう。『殿を止めてくださいませ』と」
利三は、青くなった。
「ご存じでござったか」
「知っておる。中将様が、それを功と認められた」
利三は、しばらく黙っていた。それから、掠れた声で言った。
「殿。それがしは、家中で、いちばん役に立たぬと思うており申した。槍を取っており申さぬ。書付を書き、殿に文句を申し。――それだけにござる」
俺は、動きを止めた。
「利三。七年前、俺は『功の書』を作った。そのとき、守りの功の筆頭に、おぬしの名を書いた」
「覚えており申す」
「だが、あれは、明智の家の書付だ。家中しか、読まぬ。これは、違う。織田家の書付だ。柴田様も、羽柴様も、丹羽様も、滝川様も読まれる。そして、その家中も読む。――おぬしの名は、天下に出た」
利三は、しばらく黙っていた。
「殿。それがし、母に見せてもよろしゅうござるか」
俺は、少し驚いた。
「母上は、ご存命か」
「七十五にござる。近江におり申す」
「行け。今から行け。そして、十日、休め」
「殿。十日も休めば、家が」
俺は、少し笑った。
「止まらぬ。七年、そのために書付を作ってきた。――試してこい」
利三は、深く平伏した。
「行って参り申す」
◇
利三が去った後、書付を読み返した。最後のページに、こうあった。
――右の功の書、明智日向守の作りたる様式に倣う。ただし、項目は、我が改む。なにゆえ改めたるかを、以下に記す。
――日向守の書は、失わざりしことを数う。我の書は、成したることを数う。二つは、別のものなり。
(分かっている)
――日向守は、失うことを恐れておる。ゆえに、失わざりしことを数う。これは、正しい。されど、失わざることのみを数えおれば、家は縮む。ゆえに、成したることも数えねばならぬ。
俺は、動けなかった。
(そうか)
俺は、守りの人間だ。失うことを、恐れている。七年、そうしてきた。本能寺を防ぐ。家が割れるのを防ぐ。家臣が潰れるのを防ぐ。全部、防ぐ話だ。攻めの話が、ない。
(前世も、そうだった)
経営企画部。リスク管理。内部統制。業務改善。全部、防ぐ話だ。新しい事業を作ったことがない。一度も。
(俺は、守りしか知らぬ)
(だから、上様が要る)
少し笑った。
(俺は、あの人を制度化しようとしていた)
だが、俺一人では、何も作れぬ。
――守る者と、攻める者は、別である。守る者は、攻める者を制度にできぬ。なぜなら、攻めることを知らぬゆえ。ゆえに、両方が要る。どちらか一方では、家は続かぬ。
(そうか)
七年、こう考えていた。上様がおられなくても回る形を作る。だが、それは、間違いだった。上様がいなくても回る形など、要らない。
――上様がおられずとも回る形を作るのではない。上様のような者が、次に出るまで、家が保つ形を作るのである。
(これだ)
制度は、天才の代わりにはならない。だが、天才が現れるまでの時間を、稼ぐことはできる。
――家が保っておれば、いつか、次の者が出る。潰れておれば、出る場所がない。
(俺の仕事は、場所を残すことだ)
◇
その夜、煕子が書院に来た。
「あなた様。利三どのが、お発ちになりました。嬉しそうでございました」
「母上に会いに行った」
煕子は、少し目を伏せた。
「あなた様。ご母堂は」
「疾うに、亡くなっておる」
「さようでございますね。――わたくしは、お会いしております。嫁いだ折に」
俺は、顔を上げた。
「どのような方だった」
「覚えておられませぬか」
「覚えておらぬ。病んでから、いろいろ抜けた」
「――厳しいお方でございました。そして、あなた様に、よく似ておられました」
「どこがだ」
煕子は、少し笑った。
「『分からぬ』と、よく仰せられました」
俺は、しばらく黙っていた。この体の母を、俺は知らない。丹波の噂は、その人を人質に出したことにした。俺は、その噂を消せなかった。今夜、初めて、その人が「分からぬ」と言う人だったと知った。
帳面に書いた。
――正月。母は、「分からぬ」と言う人だった。煕子より。




