第108話 俺を通さぬ道
天正十四年、十一月。
書付を作った。
――諸将、直に繋ぐ儀の覚。
――方面軍を預かる者は、互いに、年に一度、文を交わすこと。文には、その一年の荷の数、兵の数、国衆の数を書くこと。写しを、上様と中将様に出すこと。
(これは、危ない)
方面軍の長どうしが、直接文を交わす。この時代の常識では、危険な行為だ。謀議に見える。
四条目を足した。
――右の文は、必ず写しを上様に出すこと。写しを出さざる文を交わしたる場合、謀議とみなす。
(逆にした)
「文を交わすな」ではない。「文を交わせ。ただし、隠すな」だ。秀吉が二枚目の書付を送ってきたとき、俺は「隠すな、書き換えろ」と返した。あれを、条文にした。
◇
安土へ持って行った。信長は、しばらく黙っていた。
「日向守。これは、危ういぞ」
「危のうございます。ですが、上様。今、諸将は、互いを知りませぬ。柴田様は、羽柴様の兵の数をご存じない。羽柴様も、柴田様の荷の量をご存じない。――知らぬということは、案じるということにございます。『あの者は、どれほどの力を持っておるか』と。案じておる者は、備えまする。備えれば、相手も備えまする。――そして、備え合ううちに、疑いが育ちまする」
「日向守。おぬしは、諸将が互いを知れば、疑いが消えると申すか」
「消えませぬ。ですが、育ちませぬ。疑いは、知らぬところで育ちまする。知っておれば、疑いは、ただの心配で止まりまする」
「日向守。おぬし、これを己でやったか」
「やっております。柴田様とは、雪のことを。羽柴様とは、家中の疲れのことを。丹羽様とは、荷のことを」
「それで、何が変わった」
「――恐ろしくなくなりました。以前、それがしは羽柴様を恐ろしいと思うておりました。今も、恐ろしゅうございます。ですが、以前とは、恐ろしさが違います。以前は、何をするか分からぬゆえ、恐ろしゅうございました。今は、何をするか分かるゆえ、恐ろしゅうございます」
信長は、少し笑ったようだった。
「日向守。それは、進歩か」
「進歩にございます。分からぬ恐ろしさは、備えようがございませぬ。分かる恐ろしさは、備えられまする」
「日向守。一つ、聞く。――おぬしは、猿が何をすると思う」
(来た)
腹を決めた。
「上様がおられなくなれば、走られましょう。どこへ走られるかは、分かりませぬ。ですが、必ず走られます。――なぜなら、止まれば終わりだと、思うておられますゆえ」
「日向守。ならば、どうする」
「――走る先を、作っておくことにございます。あの方は、走らずにはおられませぬ。ゆえに、止めても無駄にございます。ならば、走る先を作りまする」
「どこへ走らせる」
「西にございます。毛利がおります。その先には、九州がございます。そして、その先には、海がございます。――南蛮の国々がございます」
「日向守。おぬし、それを本気で申しておるか」
「半分は、本気にございます。残り半分は、方便にございます」
「正直だな」
「上様。あの方に要るのは、『次』にございます。『次』がある限り、あの方は、そちらを向きまする。『次』がなくなったとき、あの方は、内を向きまする」
長い沈黙があった。
「日向守。おぬし、恐ろしいことを申すな。――だが、当たっておる。そして、それは、わしも同じだ。わしも、『次』がなくなれば、内を向く」
俺は、動けなかった。
(自覚している)
「上様。ならば、『次』を、絶やさぬようにせねばなりませぬ」
「日向守。それは、際限がないぞ」
「際限がございませぬ。ですが、上様。『次』は、外だけではございませぬ。――治めることも、『次』にございます。上様は、以前、こう仰せられました。『わしは、勝った。だが、治めておらぬ』と。治めることは、終わりがございませぬ。攻める先がなくなっても、治める仕事は残りまする。――そして、それは、攻めるより難しゅうございます」
「日向守。猿に、治めさせるか」
「治めさせまする。そして、それは、あの方にできまする。播磨をご覧くださいませ。三木を落とされた後、あの方は町を立て直されました。米を売り、証文を書かせ、働かせました。あの方は、治めることも、お上手にございます。――ただ。治めることは、褒められませぬ。城を落とせば、皆が褒めまする。ですが、町を立て直しても、誰も褒めませぬ。ゆえに、あの方は、城を落とすほうへ走られます」
三沢の言葉が、頭にあった。防いだ事故は、誰にも見えない。治めた町も、誰にも見えない。
「日向守。ならば、褒めればよいか」
「さようにございます。ですが、口で褒めても、足りませぬ。書いて、諸家に配ることにございます。『功の書』にございます。明智の家では、七年前から使うております。戦の功と、守りの功を、並べて書いております」
「日向守。それを、織田家でやれと申すか」
「さようにございます。そして、書くのは、上様ではございませぬ。――中将様にございます。上様に褒められるのは、当たり前にございます。ですが、中将様に褒められるのは、まだ珍しゅうございます。――そして、褒める者は、褒められる者より、上に立ちまする」
長い沈黙があった。
「日向守。おぬし、勘九郎を、猿の上に立たせようとしておるな」
「さようにございます。上様。それが、いちばん危うくない形にございます。もし、中将様と羽柴様が、並んでおられれば、上様がおられなくなったとき、必ず争いまする。ゆえに、今のうちに、上下を決めておかねばなりませぬ」
「日向守。猿が、それを呑むと思うか」
「呑まれましょう。――今なら。上様がおられる今なら、呑まれます。ですが、おられなくなってからでは、遅うございます」
長い沈黙。
「日向守。――やれ」
平伏し、退がろうとした。
「日向守。一つ、聞く。――おぬしは、勘九郎の下に立てるか」
俺は、答えられなかった。
(そうか)
秀吉のことばかり言っていた。だが、俺も同じだ。
「立てまする。――既に、立っておりますゆえ。甲州の折、それがしは中将様の裁きを、上様に庇いました。あれは、家臣のすることにございます」
「日向守。おぬし、勘九郎を庇うたな。なぜだ」
「あの方の裁きを、重くするためにございます。そして、それは、それがしのためでもございます。中将様が重くなれば、それがしは軽くなりまする。――そして、軽い者は、疑われませぬ」
「日向守。おぬし、そこまで考えておるか」
「考えております。七年、考えております。――どうすれば、疑われずに済むかを」
信長は、しばらく俺を見ていた。
「――疲れるだろう」
「疲れております」
信長は、少し目を伏せた。
「日向守。――わしは、おぬしを疑わぬ」
俺は、動けなかった。
(言った)
この人が、そう言った。板が浮かばなかった。浮かばなくても、分かった。
「ありがたく存じます」
「――だが。わしが死んだ後は、分からぬ」
顔を上げた。
「――ゆえに、備えよ」




