第107話 黙って座る
天正十四年、七月。
利三と共に、京へ行った。三度目だった。
一度目は、俺が話した。これが、斎藤利三にございます。二度目は、二人で話した。俺が半分、利三が半分。
そして、三度目。俺は、黙ることにした。
村井貞勝の役所。村井は、いつもの無表情で座っていた。
「日向守どの。またお越しか」
「は」
それだけ言って、黙った。
村井は、少し首を傾げた。そして、利三を見た。
「斎藤どの。何用でござる」
利三は、身を固くした。そして、俺を見た。
(見るな)
言わなかった。目も、合わせなかった。膝の上で、指を組んだ。
利三は、しばらく黙っていた。
「村井様。前回、伺いました帳面のことにございます。誤りの印にございます。――あれを、明智の家でも始め申した」
俺は、少し驚いた。
(やっていたのか)
知らなかった。
「やってみて、いかがでござる」
「難しゅうござる。誤りと気づくのが、遅うござる」
(そうか)
誤りに印を押すには、まず誤りに気づかねばならない。だが、気づくのは、ずっと後だ。
「斎藤どの。それがしも、同じにござる。十八年、印を押しており申す。だが、押すのは、たいてい三年後にござる。裁いたときは、正しいと思うており申す。三年経って、その村がどうなったかを見て、『ああ、誤りであった』と分かり申す」
「村井様。ならば、三年、見ておられるので。どうやって、でございますか」
「――帳面に、日を書いてござる。そして、三年後の日に、印をつけてござる。『この日、この裁きを見直せ』と」
俺は、身を固くした。
(知らなかった)
この人の帳面を、何度も見た。だが、それには気づかなかった。
「村井様。それは、どちらに書いてございますか」
「別の帳面にござる」
奥から、一冊持ってきた。利三が開いた。俺も、覗き込んだ。
日付だけが、書いてあった。その横に、短い文が。
――天正十一年三月五日。近江某村の裁き、見直すこと。
――天正十一年三月八日。京六条の訴え、見直すこと。
(先の日付だ)
この帳面は、未来の日付で書かれている。この日に、これをやれ、と。
俺は、口を開きかけた。
(黙れ)
利三が、聞いた。
「村井様。これは、何と申すものにございますか」
「名は、ござらぬ。強いて申せば、『先の帳面』にござろうか」
「村井様。これを、写させていただけませぬか」
俺は、驚いた。利三が、自分で頼んだ。
「斎藤どの。中身は、写しても役に立ち申さぬ。京の裁きにござれば」
「中身ではございませぬ。――やり方を、写しとうございます」
村井は、少し目を上げた。そして、初めて、ほんの少しだけ、口の端を動かした。
「斎藤どの。――良いことを申される」
俺は、黙って見ていた。
(繋がった)
俺が何も言わないうちに。
◇
帰り道、利三が言った。
「殿。今日は、一言も申されませなんだな。なにゆえ」
「言うことがなかった」
「嘘でござろう」
「嘘だ。三度は、言いたくなった。俺が言えば、村井様は俺に答える。そして、おぬしは、聞いておるだけになる」
「殿。難しゅうござったか」
「難しかった。特に、先の帳面のときだ。あれは、俺も知らなんだ。七年、あの方の帳面を見てきた。だが、あの帳面には気づかなんだ」
「なにゆえでございましょう」
「俺が、聞かなかったゆえだ。俺は、村井様に『帳面を見せてくれ』と頼んだ。そして、見せていただいた。――だが、『他にはないか』とは、聞かなんだ」
「それがしは、聞き申した」
「そうだ。なぜ、聞けたと思う」
「――知らぬゆえにござる」
俺は、深く頷いた。七年、村井貞勝を見てきた。だから、知っていると思っていた。知っていると思えば、聞かなくなる。
――長く付き合うた者ほど、聞かなくなる。知っておると思うゆえ。ゆえに、時々、知らぬ者を連れて行かねばならぬ。知らぬ者は、無知ではない。新しい目である。
◇
天正十四年、九月。
同じことを、他の繋ぎでもやり始めた。北陸へは、三沢を連れて行った。
柴田勝家は、最初、怪訝な顔をした。
「日向守。この者は」
「三沢と申します。荷を、預かっております」
「荷、か。――『荷の覚』を作ったのは、おぬしか」
三沢は、身を固くした。
「さ、さようにございます」
勝家は、しばらく黙っていた。そして、突然、大声で笑った。
「ははっ! そうか! わしは、あれを三年使うておる。そして、直しておる」
三沢が、身を乗り出した。
「どちらを、でございますか」
勝家は、書付を出した。
「雪の項だ。おぬしの書付では、足りぬ。雪の深さで、荷の量を変えておる。膝までなら、いつも通り。腰まで来れば、半分。胸まで来れば、出さぬ」
三沢は、しばらく書付を見ていた。
(目が、変わった)
「修理亮様。一つ、伺ってよろしゅうございますか。胸まで来る日は、年に幾日ございますか」
勝家は、少し目を上げた。
「――数えたことがない」
「数えられませぬか」
勝家は、しばらく黙っていた。
「――数える」
俺は、黙って見ていた。
(始まった)
俺が何も言わないうちに。
帰り、三沢が言った。
「殿。修理亮様は、恐ろしいお方と伺っておりました」
「違ったか」
「違いませなんだ。恐ろしゅうございました。――ですが、荷の話をしておる間は、恐ろしくございませなんだ」
俺は、考えた。人は、自分の得意な話をしているとき、恐ろしくなくなる。対等になるからだ。忠興は、歌を詠んだとき、癇癪九十五の男ではなくなった。
――身分の違う者と繋ぐには、共通の話を探せ。共通の話をしておる間、身分は消える。ゆえに、繋ぎを渡すには、話の合う者を選ばねばならぬ。誰でもよいわけではない。
◇
十月。繋ぎの一覧を、書き直した。
――村井貞勝……斎藤利三。柴田修理亮……三沢。丹羽五郎左衛門……明智秀満。千宗易……たき。
最後の行で、手が止まった。町の出の女を、堺の茶人に会わせる。無礼か。しばらく考えて、そのままにした。宗易どのなら、構わぬ。あの人は、身分で人を見ない。二畳の茶室に、身分は入らない。
だが、渡せていないものが、四つ残った。上様。中将様。羽柴筑前守。滝川左近将監。
(これは、渡せぬ)
重すぎる。この四人との話は、織田家の根幹に関わる。家臣に渡せる話ではない。
(ならば、俺が死ねば、四つが切れる)
――渡せぬ繋ぎは、四つ。これは、俺が死ねば切れる。ゆえに、書き残す。
(書き残しても、繋ぎは戻らぬ)
しばらく考えた。そして、気づいた。
(四つを、繋いでおけばよい)
――上様と、中将様。中将様と、羽柴筑前守。中将様と、滝川左近将監。
(そうだ)
俺が四人と繋がっていることが問題なのではない。四人が、互いに繋がっていないことが問題だ。俺は、円の中心に近い場所に、いつのまにか立っていた。
――俺が消えても困らぬようにするには、俺を替える者を探すのではない。俺を通さずに繋がる道を、作ることである。




