七章 帰還
鏡の中にいる男は、もう見知らぬ人間ではなかった。
戸神尚人、44歳。SAコーポレーションの創設者であり、《セカンド・ライフ》の初期研究から中心にいた人物の一人。
数日前まで、その顔を見ても自分が誰なのか分からなかったというのに、今では名前も経歴も知っている。ただし、それはあくまで調べて得た知識にすぎなかった。鏡の前に立っている自分と、遥が見せた写真に写る戸神尚人は、同じ顔をした別人にしか思えない。
滝本はネクタイを締め直し、鏡から少し離れて全身を確認した。濃紺のスーツは遥が用意したもので、サイズはほとんど直す必要がなかった。白いシャツに落ち着いた色のネクタイ。外見だけなら企業経営者として通用するのかもしれない。問題は、その中にいる人間が、自分の名前を知ってからまだ数日しか経っていないことだった。これから自分が創設したという会社へ行き、何年も一緒に働いていた人間たちを相手に、戸神尚人として振る舞わなければならない。
「やっぱり無茶だろ……」
鏡に向かって呟いてみても、戸神尚人は何も答えてくれない。
SAコーポレーションへ戻ることを最初に提案したのは遥だった。外部から会社を調べ続けても、いずれ限界が来る。それなら戸神尚人本人が戻ればいい。言葉にしてしまえば単純だが、滝本にしてみれば、自分の知らない人生へいきなり放り込まれるようなものだった。
それでも最終的に戻ると決めたのは自分だった。
戸神尚人は《セカンド・ライフ》を作る側にいた。その人間が、なぜ自ら施行を受けたのか。その答えを探すなら、戸神がいた場所へ行くのが一番早い。
しかも、ただ会社へ顔を出すわけではない。滝本は「戸神尚人の記憶が戻った」と偽ることになっている。戸神がSAコーポレーションから姿を消して、およそ3か月。その間、会社の代表業務は副社長の九条寛樹が引き継いでいた。長年戸神と会社を動かしてきた人物であり、今日もっとも警戒しなければならない相手でもあった。
テーブルには、昨夜まで何度も読み返した人物資料が置かれていた。
九条寛樹。SAコーポレーション副社長。高峰由希は九条付きの秘書。そして資料の最後には、井川沙織という名前がある。その横に印刷された写真は、間違いなく朝田遥だった。
遥は兄の失踪を追うため、井川沙織という別人の身分でSAへ入り込んでいた。どうやってその身分を用意したのか尋ねても、「協力してくれた人がいます」としか答えなかった。
元々社長秘書をしていた女性が退職し、新たに井川沙織という女性が秘書として採用された。その採用情報に細工をして、朝田遙が井川沙織になりすまして会社に入り込んだそうだ。本当の井川沙織はどうしたのか聞くと「門前払いされたと思います」と遥は言った。遥自身も無事では済まないことをしているが、その覚悟だけは滝本にも分かった。
ただ、秘書として潜り込んでも遥が集められた情報には限界があった。
現在在籍している社員については、顔写真や所属部署、役職などを確認できたが、退職者の情報は通常の社員名簿には残されていなかった。過去の人事記録は別の場所で管理されているらしく、遥に与えられた権限では閲覧できない。公開されている資料も調べてみたが、そこから得られる情報は断片的なものばかりだった。戸神はセカンド・ライフが施行されていたが、体調不良により休職中ということで情報は残っていたのだ。
滝本は資料を閉じ、テーブルの端に置いていたスマートフォンを手に取った。数日前、遥から渡されたものだった。《セカンド・ライフ》施行後に支給された端末で連絡を取り合うのは避けた方がいいというのが、遥の判断だった。
滝本耕一として支給されたスマートフォンも手元には残していたが、そちらで遥と連絡したことはない。
画面を開くと、遥から短いメッセージが届いていた。
《予定通り正面から入ってください。私は15階にいます》
滝本は画面を消し、スマートフォンをポケットへ入れた。もう一度鏡を見る。そこにいるのは、どう見ても戸神尚人だった。
問題は、自分だけがその男を知らないことだった。
SAコーポレーション本社へ着いたのは、午前10時を少し過ぎた頃だった。滝本は歩道に立ち、ガラス張りの建物を見上げた。写真では何度も見ている。会社の沿革も、入居しているフロアも、主要部署も頭へ叩き込んできた。それでも、この建物を自分が何年も出入りしていたという実感は少しも湧かなかった。
入口からは社員らしい人間が次々と出入りしている。その中には、以前の自分と何度も顔を合わせた者がいるのかもしれない。そう考えると、建物そのものより、その中にいる人間の方が恐ろしく思えた。
ここで立ち止まっていても仕方がない。自動ドアを抜けると、外の雑踏が背後で途切れた。明るいエントランスの奥に受付があり、その先には入館ゲートが並んでいる。受付の女性が顔を上げ、滝本を見る。最初は来客を見るだけの表情だった。それが数秒後、明らかに変わった。
「……戸神社長?」
小さな声だったが、近くを歩いていた社員が振り返るには十分だった。受付の女性は慌てて立ち上がった。
「いつ、お戻りに……」
「今だよ。中に入りたいんだが」
「あ、はい。失礼いたしました」
女性は慌てて受付の内側へ手を伸ばした。短い電子音が鳴り、入館ゲートが開く。
「ありがとう」
滝本はそのままゲートを抜けた。背後では受付の女性がまだこちらを見ている気配がした。近くにいた社員たちも同じだった。何の連絡もなく、3か月姿を消していた社長が突然現れたのだから、当然の反応なのだろう。
エレベーターへ向かう間にも視線を感じた。立ち止まって頭を下げる者もいれば、少し離れた場所からこちらを見る者もいる。誰かと目が合うたびに、相手が自分をどの程度知っているのかと考えた。戸神なら名前を呼んで声をかけるような相手かもしれない。それでも滝本には、誰一人として見覚えがない。下手に愛想を振りまくより、堂々としていた方がいい。そう判断して、そのままエレベーターへ向かった。
扉が閉まった瞬間、ようやく息を吐いた。静かな箱の中に一人になると、肩へ力が入っていたことに気づく。まだ九条にすら会っていない。それなのに、すでに神経が擦り減っていた。
15階へ到着すると、正面に受付スペースがあり、その先へ役員フロアが続いていた。厚い絨毯が足音を吸い込み、下の階とは空気まで違って感じられる。滝本は昨夜まで何度も確認した平面図を頭に浮かべながら廊下を進んだ。どこへ向かえばいいのかは知っている。だが、それは自分の会社を歩いている人間の動きではなく、地図を暗記して初めて来た場所を歩く人間のそれだった。
「……戸神社長?」
秘書室の前まで来たところで、女の声がした。
振り返ると、二人の女性が立っていた。先に声を上げたのは高峰由希だった。資料で何度も顔を確認している。九条付きの秘書で、戸神が会社にいた頃から勤務している女性だった。椅子から立ち上がったまま、信じられないものを見るようにこちらを見つめている。受付や一般社員とは違う。戸神尚人をよく知る人間の反応だった。
「本当に……戸神社長ですよね?」
「ああ。幽霊にでも見えるか?」
「いえ、そういう意味では……。何のご連絡もなかったので」
高峰の表情がわずかに緩んだ。その変化を見て、今の返しは少なくとも大きく外してはいなかったらしいと滝本は思った。
その隣に立っていたもう一人の女性へ、そこで初めて気づいたように視線を移す。黒いスーツに細いフレームの眼鏡。髪は後ろできちんとまとめられ、普段とは印象が違っている。それでも、間違えるはずがない。
遥だった。
もちろん、戸神尚人は彼女を知らない。
高峰が二人を交互に見てから口を開いた。
「こちらは井川沙織です。社長がご不在の間に入社した秘書です」
井川は一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。井川沙織と申します」
「そうか」
「よろしくお願いいたします」
「ああ」
それだけで会話は終わった。互いに相手が何者なのか知っている。それでも、ここでは今日初めて顔を合わせた社長と社員だった。
「すぐに九条副社長にご連絡します」
「ああ、社長室にいる」
「承知しました」
高峰が内線へ手を伸ばすのを横目に、滝本は社長室へ向かった。すぐ後ろから井川の足音がついてくる。
「社長室までご案内いたします」
滝本は返事だけして歩き続けた。二人の間には、人一人分ほどの距離がある。秘書室から離れ、廊下から人の姿が消えたところで、遥が前を向いたまま声を落とした。
「……大丈夫ですか?」
「今さら聞くな」
滝本も顔を動かさず答えた。それだけで十分だった。
社長室の前で足を止める。
この扉を、戸神尚人は何度開けたのだろう。
「九条副社長が来られましたら、こちらへお通しします」
「ああ」
「失礼いたします」
井川が去るのを待ってから、滝本はドアノブへ手を掛けた。
扉を開く。
大きな窓、重厚なデスク、革張りのソファー。壁際には書籍や表彰盾、写真が並んでいる。窓から差し込む午前の光が、磨かれたデスクの天板に細長く反射していた。整然とした室内には、長く主を失っていた部屋特有の静けさがある。
初めて見るはずの部屋だった。
滝本はゆっくり中へ入り、デスクの前で足を止めた。指先で天板に触れてみる。何も起こらない。懐かしさも、安心感もない。ここに座って何を考えていたのか、誰と話し、どんな決断をしてきたのか、その痕跡は何一つ自分の中には残っていなかった。壁に飾られた写真の中には、自分が写っているものもある。そのどれもが、他人の人生を展示しているように見えた。
自分の会社へ帰ってきた。自分の部屋へ帰ってきた。それなのに、帰ってきたという感覚だけが、どこにもなかった。
数分後、扉が強くノックされた。
「どうぞ」
九条寛樹が入ってきた。
写真で何度も確認した顔だった。実際に目の前に立つと、写真から受けた印象よりも精力的で、立っているだけでも人を引っ張る側の人間なのだと感じさせるものがある。だが、その九条は入口で足を止めたまま、しばらく何も言わなかった。
「……戸神社長」
「久し振りだな、九条」
「......いつ戻られたんです?」
「ついさっきだ」
「何の連絡もなかったので、驚きました」
「連絡してからじゃないと、自分の会社にも帰れないのか?」
九条の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「そういうところは変わりませんね」
滝本の胸の奥が一瞬だけ強く脈打った。何気なく返した言葉だった。それが、九条の知る戸神尚人と重なったらしい。
「少しお話を。コーヒーを持って来させます」
九条はそう言って内線を取り、秘書室へ繋いだ。
「社長室にコーヒーを二つ。戸神社長には深煎りを頼む」
滝本はわずかに視線を上げた。九条は何事もなかったように受話器を置き、向かいのソファーへ腰を下ろした。
深煎り。
スーパーで何となく手に取った豆も、喫茶店で自然に選んだコーヒーも同じだった。あれは滝本耕一になってから生まれた好みではなかったらしい。名前も会社も忘れているのに、そんなものだけは以前の自分から残っている。
滝本も九条の正面へ腰を下ろした。ローテーブルを挟んだ距離は近い。写真でしか知らない男と、自分を長年知っていた男が向かい合っている。その事実を意識した途端、自分の表情まで不自然になったような気がした。
「記憶は戻られたんですか?」
「ああ」
九条はすぐには次の言葉を続けなかった。
「すべて?」
「どこまで戻れば、すべてと言える?」
九条は一瞬黙り、それから小さく頷いた。
「確かに、そうですね」
「少なくとも、自分が誰なのか分からず鏡を見ていた頃よりはましだ。場所を見たり、人の名前を聞いたりしているうちに、少しずつ思い出した。まだ曖昧なところもあるがな」
昨夜、遥と何度も確認した説明だった。完全に戻ったと言い切れば、細かな記憶を問われたときに破綻する。断片的に戻っていることにしておけば、覚えていないことがあっても不自然ではない。
九条は背もたれへ身体を預けた。最初の驚きはすでに薄れ、代わりに何かを考えているような静けさがあった。
「施行後に過去の記憶が回復した例は、これまで確認されていません」
「なら、私が最初だ」
九条の目がわずかに細くなった。
「……相変わらずですね」
まただ、と滝本は思った。自分では何が戸神らしいのか分からない。それでも、考えて答えた言葉の中に、九条が知る戸神尚人がいる。
「原因の特定を急ぎます。これまでにない事例ですから」
「好きに調べればいい。ただし、もう一度施行を受けろと言うなら断る」
九条はわずかに笑った。
「分かりました」
ほどなくしてコーヒーが運ばれてきた。滝本の前には、九条が頼んだ深煎りのコーヒーが置かれる。立ち上る香りにも、やはり違和感はなかった。
その後、九条は戸神が不在だった3か月間の会社の動きを説明した。代表業務を九条が引き継いでいたこと、取引先や社員には長期療養と説明していたこと、正式に復帰するなら社内外への告知や各種手続きが必要になること。滝本は話を聞きながら、手元に置かれた資料へ視線を落とした。数字を見れば意味は理解できる。事業内容についても話そのものは追える。だが、そこに戸神尚人としての3か月前までの記憶だけがない。
分からないことを聞き返しすぎれば不自然になる。滝本は細部には踏み込まず、必要な資料を後でまとめて見せるよう九条に伝えた。九条はそのたびに頷いたが、ときおり会話の切れ目で滝本を見ていた。問い詰めるわけでもない。ただ、こちらの言葉を待つような短い間がある。その沈黙を意識するほど、カップを置く位置や足の組み方まで気になってくる。以前の戸神なら、こんなときどうしていたのか。正解を知っているのは目の前の九条だけだった。
話が一段落したところで、滝本はコーヒーカップを置いた。
「そういえば、私が以前使っていた携帯はどうなってる?」
「以前の端末ですか?」
「ああ。今持っているのは施行後に渡されたものだからな。残っているなら使いたい」
九条は首を横に振った。
「申し訳ありません。社用でお使いになっていた端末や、こちらでお預かりしていた私物は、《セカンド・ライフ》の施行に伴って処分されています」
「そうか」
「ただ、ご自宅はそのままです。そちらに残されているものまでは処分されていません。ご自宅へ戻られるようでしたら、鍵などはこちらで手配いたします」
滝本は少し考えた。
「家は残ってるのか」
「はい」
「分かった。そっちも頼む」
「承知しました」
滝本は再びカップへ手を伸ばした。携帯電話が残っていれば、そこから何か分かったかもしれない。誰と連絡を取り、施行直前に何をしていたのか。自分がなぜ《セカンド・ライフ》を受けたのか、その手掛かりさえ残っていた可能性がある。だが、自宅が残っているなら話は別だった。戸神尚人が生活していた場所には、会社とは違う何かが残されているかもしれない。
「業務用の端末が必要でしたら、新しく手配します」
ひと通り会社の状況を確認すると、九条は内線を取り、高峰と井川を社長室へ呼んだ。ほどなく二人が入ってくる。高峰は慣れた様子で九条のそばに立ち、井川はその半歩後ろに控えた。
「戸神社長は今日から復帰される。高峰君はこれまで通り私の方を頼む。井川君、君はしばらく戸神社長についてくれ」
井川がわずかに目を見開いた。
「私が、ですか?」
「戸神社長は3か月会社を離れていた。今の社内事情を把握している人間がそばにいた方がいい。それに、君はまだ入社して日が浅い。特定の役員や部署との関係も深くないから、動きやすいだろう」
「承知しました」
井川は滝本へ向き直り、丁寧に頭を下げた。
「改めまして、よろしくお願いいたします」
「ああ。よろしく頼む」
九条はそのやり取りを黙って見ていた。やがて高峰を伴って部屋を出ていく。扉が閉まり、廊下を歩く二人の足音が完全に聞こえなくなるまで、遥も滝本も口を開かなかった。
「……疲れた」
滝本はようやくソファーへ深く身体を沈め、上着だけ脱ぎ捨てた。
「まだ始まったばかりですよ」
眼鏡を掛けたまま、遥が小さく笑う。上手に出来ましたと軽く手を叩く動作をしているが、からかわれている気もする。
「分かってるから言ってるんだ」
滝本はテーブルに残されたカップを手に取った。コーヒーはすっかり冷めていたが、口に含めば、強い苦味の奥にわずかな甘みを感じる。九条は何の確認もせず、当然のように自分へ深煎りを頼んだ。
スーパーで何となく手に取った豆も、喫茶店で選んだコーヒーも同じだった。どうやらこれは、滝本耕一になってから生まれた好みではないらしい。
滝本はカップを置き、改めて社長室を見渡した。戸神尚人の人生だった場所に、自分は今、その本人として座っている。壁の写真も、机の傷も、棚に並んだ本も、何一つ記憶にはない。
それでも、深く煎ったコーヒーの苦味だけは知っていた。




