六章 消えた創設者
さらに3日後、滝本は《Memoria》を訪れた。遥はいつもの奥の席で待っていた。テーブルにはノートパソコンと薄いファイルが置かれている。
滝本が向かいに座ると、マスターが注文を取りに来た。
「深煎りのコーヒーをお願いします」
マスターは頷いてカウンターへ戻った。遥はファイルに手を置いたまま、しばらく滝本の顔を見ていた。前回よりも表情が硬い。
「今日、滝本さんが以前どんな人物だったのか、お伝えするつもりです。だから、ここから先を聞くかどうかは、滝本さんにお任せします」
滝本の視線もファイルへ落ちた。
「それと、これは私個人の考えですが、退廃行為について制度側が説明していることを、私はそのまま信じていません。施行者を過去から遠ざけるための、都合のいい説明にも思えるんです」
そこまで言うと、遥は口を閉じた。続きを促すこともしなかった。
滝本にも、その考えは理解できた。過去の記憶を刺激することで脳神経に負担がかかる。その説明自体は分からなくもない。だが、それが深刻な損傷につながるほど危険なものなら、そもそも《セカンド・ライフ》という施行そのものが、現在のような制度として認められていることに違和感がある。施行後、何を見聞きするかまで完全に管理することなどできない。街を歩けば、偶然過去の知人と出会うことだってあるはずだ。だからといって、制度側の説明が嘘だと決めつけるつもりもなかった。ただ、過去の記憶を取り戻してはいけない理由が、ほかにあるのかもしれない。あるいは、過去を調べようとする行為そのものが、《セカンド・ライフ》という制度にとって都合が悪いのか。今の滝本には判断できなかった。
目の前のファイルには、自分が失ったものの一部がある。知らない方がいいのかもしれない。それでも、自分が何者だったのかも知らないまま、この先を生きていくことの方が、滝本には不自然に思えた。
「聞かせてください」
遥は滝本の顔をしばらく見つめていた。やがて小さく頷くと、ノートパソコンを開き、画面を滝本の方へ向けた。
《Secundus Aevum Co.》
《SA Corporation》
見覚えのある名前だった。
《セカンド・ライフ》の説明会が行われた会社だ。
遥が画面を操作すると、行政向けシステム、医療・福祉分野の情報基盤、仮想空間サービスなど、現在の事業内容が並んだページから古いニュース記事へと切り替わった。
2008年。《国家精神衛生法に基づく新たな精神医療支援の限定運用開始》という見出しの下には、厚生衛生省と複数の研究機関、そしてSAコーポレーションの名前が並んでいる。遥によれば、SAは創業当初から神経科学や認知情報処理に関する研究へ投資し、《セカンド・ライフ》の前身となる研究にも早い段階から関わっていたらしい。説明会がSAの施設で行われていた以上、制度と会社に関係があること自体は意外ではなかった。だが、遥が今日見せようとしているのは、そんなことではないはずだった。
「それと俺に、何の関係が?」
遥は答えず、別のページを開いた。
一枚の写真が表示された。
滝本は画面を見たまま動かなかった。スーツを着た40代ほどの男が、壇上で誰かに向かって話している。髪は短く整えられ、髭もない。年齢も写真の方がいくらか若く見えた。それでも、顔の輪郭も、目元も、鼻筋も、見間違えるはずがなかった。自分と同じ顔をした男が、自分の知らない場所で、自分の知らない人生を生きている。鏡を見るのとは違う。目覚めてから自分の顔なら何度も見ている。だが、画面の中にいる男は、滝本耕一ではなかった。
「……俺?」
遥は何も言わなかった。滝本は写真の下に記された文字へ目を移した。
《SAコーポレーション代表取締役 戸神尚人》
「戸神……尚人」
名前を口にした。店内には低い音量で音楽が流れ、カウンターの奥からカップの触れ合う乾いた音が聞こえてきた。それだけだった。懐かしさもなければ、頭痛もない。突然何かを思い出すこともなかった。写真の男が自分と同じ顔をしていることは分かるのに、その名前は他人のものにしか聞こえない。
「俺が、代表取締役...?」
戸神尚人、44歳。埼玉県出身。大学卒業後、IT関連企業での勤務を経て独立し、20代半ばでSAコーポレーションを設立した。遥が調べた経歴を聞いても、どこにも引っかかるものはなかった。大学名も、以前勤めていた会社も、ただの情報として頭に入ってくる。父親も母親もすでに亡くなっていた。母親は晩年、埼玉県内の施設で暮らしていたらしい。認知症を患っていたという。
その話を聞いたところで、滝本の視線が初めて画面から離れた。自分を産み、育てた人がいた。その顔も声も思い出せないまま、もう会うこともできない。写真の向こうにあるのは経歴だけではなかった。自分が忘れてしまった人たちの人生も、そこにつながっていた。
「母親のことも、もう少し分かりますか?」
「調べてみます」
遥は短く答えた。滝本は礼を言おうとして、うまく言葉にできなかった。
結婚歴は確認できず、少なくとも遥が調べた範囲では妻も子供もいないらしい。そのことを聞いた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなった。忘れてしまった妻や子供が、どこかで自分の帰りを待っているわけではない。その可能性が消えたことに、自分は安心している。そう気づくと、後味の悪いものが残った。
遥は何も言わず、次の写真を開いた。
今度は二人の男が写っていた。一人は戸神尚人。もう一人は九条寛樹という男だった。
現在のSAコーポレーション副社長で、戸神が表舞台から姿を消して以降、会社の実務を事実上取り仕切っている。肩書きだけを見れば部下だが、長年にわたり戸神と会社を動かしてきた人物らしい。
写真の二人は並んで握手をしていた。滝本は九条の顔をしばらく眺めたが、何も浮かばなかった。嫌悪も、親しみも、懐かしさもない。これほど近くにいたはずの人間を見ても、心は何一つ動かない。むしろ、そのことの方が不気味だった。
戸神尚人が《セカンド・ライフ》を受けたことは公表されていなかった。世間に対しては、3ヶ月ほど前から長期療養のため経営の第一線から離れているとだけ発表されている。
滝本は再び最初の写真へ目を戻した。壇上の戸神は片手を軽く上げ、誰かに何かを説明している。その姿を眺めているうちに、妙な感覚を覚えた。記憶ではない。その場所を知っているわけでも、誰に話しているのか分かるわけでもない。ただ、その立ち方が妙に自然に感じられた。自分なら、そう立つだろうと思った。
滝本は椅子へ座り直した。そのとき、右手の親指で左手の人差し指の付け根を擦っていることに気づいた。何気なく画面を見る。写真の中の戸神も、同じ場所へ指を添えていた。滝本の指が止まり、すぐに手を膝の上へ下ろした。同じ人間なのだから、同じ癖が残っていても不思議ではない。頭ではそう思う。それでも、写真の中から知らない男がこちら側へ指を伸ばしてきたような、奇妙な感覚が残った。記憶はない。それなのに、身体は覚えている。スーパーで何となく選んだ深煎りのコーヒーも同じなのだろうか。自分が今日まで「滝本耕一の好み」だと思っていたものの中に、どれほど戸神尚人が残っているのか。
「もう一つ、見てもらいたいものがあります」
遥が薄いファイルを開き、一枚の資料を差し出した。先ほどまで画面に表示されていた記事とは違う。国家精神衛生関連事業における共同研究の参加者名が記され、一部は伏せられている。その中にSAコーポレーションの名前があり、責任者欄には戸神尚人と記載されていた。
「これは一般には公開されていない資料です」
どこで手に入れたのか尋ねようとして、滝本はやめた。遥が簡単に答えるとは思えなかったし、今はそこではない。資料によれば、戸神尚人はSAコーポレーションを創業しただけではなく、《セカンド・ライフ》が制度として始まる以前から、その基礎研究に責任者として参加していた。
「俺は、作った側だったんですね」
「少なくとも、中心にいた一人だと思います」
その言葉が、すぐには頭に入ってこなかった。滝本は資料をテーブルへ置き、椅子の背にもたれた。店の外を車が通り過ぎ、窓ガラスの向こうをヘッドライトの光が流れていく。いつの間にか外は暗くなり、ガラスには通りの景色より店内の方が濃く映っていた。その中に、自分の顔がある。
何も知らずに目覚めたワンルーム。テーブルの上に置かれていた書類。厚生衛生省。《セカンド・ライフ》。SAコーポレーション。それまで別々だったものが、少しずつ一本につながっていく。自分は《セカンド・ライフ》を受けただけの人間ではない。それを作る側にいた。しかも、誰よりもその仕組みを理解していた可能性がある。制度上、《セカンド・ライフ》は本人の同意なしには施行できない。記録どおりなら、戸神尚人は何が起こるのかを理解した上で、自ら過去を手放すことを選んだことになる。
「どうして……」
口にしてから、その先の言葉が出なかった。遥にも答えられないのだろう。何も言わなかった。
しばらく資料を見つめているうちに、別の疑問が浮かんだ。
「朝田さんは、最初から俺が戸神尚人だと思ってたんですか?」
「可能性は高いと思っていました。でも、あのときはまだ確証がありませんでした」
3日前、遥は、知っていることと確認できていることは違うと言った。戸神尚人が表舞台から消えた時期と、滝本耕一として自分が現れた時期。顔、年齢、そして今日までに集めた情報。それらを照合し、ようやく彼女は確信したのだろう。そして、そこまでして自分の過去を調べた理由も、滝本には分かっていた。
「俺が《セカンド・ライフ》に関わっていたから、俺ならお兄さんが調べていたことを知っているかもしれないと思った」
遥の目がわずかに動いた。
「はい」
それだけで十分だった。遥は兄を探している。そのために滝本へ近づいた。彼女が自分の味方なのかどうかは、まだ分からない。おそらく遥自身にも、そう言い切るつもりはないのだろう。ただ一つ確かなのは、彼女にとって戸神尚人は手掛かりであると同時に、疑うべき相手でもあるということだった。
もし《セカンド・ライフ》に何か問題があり、朝田洋介がそれを調べていたのなら、制度を作った側にいた戸神尚人が無関係とは限らない。遥は今、兄の行方を知っているかもしれない人間と、兄の失踪に関わっているかもしれない人間を、同じ相手の中に見ている。
滝本は改めて遥を見た。ノートパソコンの光が、その横顔を淡く照らしている。最初に会ったときから物怖じしない女だとは思っていたが、今になって、その意味が少し違って見えた。
「怖くないんですか?」
遥は一瞬だけ考えた。
「怖いですよ」
それだけだった。
滝本は小さく息を吐いた。
「無茶な人ですね」
遥の口元がわずかに緩んだ。
「兄にも、よく言われました」
それ以上、言葉は続かなかった。マスターがカウンターの奥で食器を洗う音が聞こえる。いつの間にか入口に近い席には客が一人増え、本を読んでいた。外はもう完全に夜になっている。遥はしばらくしてノートパソコンを閉じた。
滝本は窓へ目を向けた。ガラスに自分の顔が映っている。数日前まで、その顔は名前すら持たない男のものだった。やがて滝本耕一という名前を与えられ、今日までその名前で生きてきた。今はもう一つ、名前を知っている。戸神尚人。44歳。SAコーポレーション創設者。《セカンド・ライフ》の初期研究に関わった人物。名前を知り、家族も、仕事も、自分が何をしていた人間なのかも少しだけ分かった。それなのに、ガラスに映る男が戸神尚人だとは、どうしても思えなかった。
冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦味だけは、最初に口にしたときと変わらない。もし記憶を失う前の自分が《セカンド・ライフ》を作ったのなら、戸神尚人は誰よりもこの制度を知っていたはずだ。何を失うのかも、施行したあとに何が起こるのかも知っていた。それでも自ら受けたのだとしたら――戸神尚人は、いったい何を忘れたかったのだろう。




