五章 退廃主義者
それから3日間、滝本は何事もなかったように生活した。
朝起きてコーヒーを淹れ、簡単な朝食を作り、足りない生活用品を買い足す。サービスセンターから送られてくる就労支援の案内にも目を通した。近所を歩けば少しずつ土地勘も生まれ、駅までなら地図を見なくても行けるようになった。スーパーの売り場も覚え、冷蔵庫の中には自分で選んだ食材が増えている。
数日前まで存在しなかった滝本耕一の日常が、驚くほど簡単に形を持ち始めていた。
その一方で、夜になると遥から聞いた話を考えた。
朝田洋介。白川武志。そして、《セカンド・ライフ》。
遥との約束どおり、自分の過去について調べることはしなかった。その代わり、《セカンド・ライフ》について公開されている情報を調べた。
厚生衛生省の公式説明では、《セカンド・ライフ》は重度の精神的苦痛を抱える者に新たな生活を与えるための支援制度とされている。施行者のプライバシーは厳重に保護され、対象者の選定基準や具体的な施行方法について公開されている情報は少ない。
厚生衛生省。
目覚めた日に初めて目にしたその名称を、滝本は改めて検索した。
こんな行政機関が存在するとは知らなかった。しかし、調べてみると、厚生労働省から派生する形で設立された、精神衛生分野を専門に扱う行政機関であることが分かった。組織の存在や基本的な業務は公開されているものの、具体的な施策や運用については明らかにされていない部分も多いようだった。
その厚生衛生省の公式説明によれば、《セカンド・ライフ》は重度の精神的苦痛を抱える者に新たな生活を与えるための支援制度とされている。
制度を肯定する記事では、自殺企図を繰り返した者が過去から解放され、新しい人生を始めるための画期的な制度だと評価されていた。一方で、本人の意思をどこまで確認できるのか、家族や債権、契約、犯罪歴など過去の社会的責任をどう扱うのかといった批判もある。施行者の身元が秘匿されているため、制度の実態を外部から検証することが難しいという指摘もあった。
どれも理解できる話だった。
少なくとも自分自身について考える限り、《セカンド・ライフ》を受けたことで苦痛を感じているわけではない。過去がないことへの戸惑いはある。それでも朝になれば腹は減るし、コーヒーはうまい。買い物をして、仕事を探し、明日の予定を考えることもできる。
過去がなくても、人間は案外普通に生きていけるらしい。
そんなことを考えていたとき、オリエンテーションで聞いた言葉を思い出した。
《退廃主義者》。
施行者の過去を調べたり、以前の関係者と接触させようとしたりする者。新しい生活を妨げ、過去へ引き戻そうとする者をそう呼ぶことがあると、工藤は説明していた。
そのときにも引っ掛かりは覚えた。自分が以前どんな人間だったのか知りたいという気持ちは、すでにあったからだ。
そして今、その言葉に当てはまりそうな人物を一人知っている。
朝田遥。
滝本は、就職活動のために買ったばかりのノートパソコンへ《退廃主義者》と入力した。
検索結果は多くなかった。厚生衛生省の公式サイトにも、その言葉を正式に定義したページは見つからない。一部の記事や古い投稿、すでに削除されたページを引用した書き込みの中に、断片的に残っているだけだった。
しかも、使われ方が一定していない。
制度そのものに反対する者を指す場合もあれば、施行者の以前の身元を調べ、過去の家族や知人を探し出そうとする者を指している場合もある。中には、《セカンド・ライフ》を受けた本人が自分の過去を探そうとする行為まで、退廃主義と表現しているものがあった。
滝本は画面を見つめた。
それなら、自分も同じではないのか。
以前の自分が誰だったのか知りたい。その気持ちは、目覚めたときから消えていない。遥に止められたから今は調べていないだけで、知りたくなくなったわけではなかった。
それに、もう一つ気になることがある。
なぜ過去を知ろうとすることを、そこまで警戒する必要があるのか。
《セカンド・ライフ》によって過去の記憶は失われている。少なくとも、そう説明されている。
ならば、以前の自分の名前を知ったところで、それは知識が一つ増えるだけではないのか。写真を見せられても、そこに写っている人間を懐かしいとは思わない。家族がいたと教えられても、一緒に過ごした時間を思い出すわけではない。
過去との接触が精神的な負担になるから推奨しない。それなら理解できる。
だが、過去へ近づけようとする人間に《退廃主義者》という名前までつけ、施行者に接触を警戒させるのは、少し違うように思えた。
答えは出なかった。
滝本は検索画面を閉じた。
3日後の午後2時より少し前、滝本は再びあの喫茶店にいた。
今回は一人で扉を開けた。カウンターの向こうにいたマスターは滝本を見ると軽く頭を下げ、注文を聞いただけで余計なことは何も尋ねなかった。前回と同じ奥の席へ座り、コーヒーを飲みながら遥を待つ。
約束の時刻まで、あと十分ほどある。
以前の自分なら、こういう時間をどう過ごしていたのだろう。スマートフォンを見るのか、本を読むのか。それとも何もせず待っていたのか。
そんなことを考えているうちに扉のベルが鳴った。
入ってきた遥は店内を見回し、滝本を見つけると少し驚いたような顔をした。
「早かったんですね」
「この3日、暇でしたからね。44歳で職歴なしの人間には、予定なんてほとんどありません」
向かいへ座ろうとしていた遥の動きが止まった。
「職歴がないわけじゃありません」
「俺は知らないんだから、今のところ同じですよ」
遥は何か言いかけたが、結局口を閉じて椅子を引いた。
その反応を見ながら、滝本はカップへ口をつけた。やはり、以前の自分について何か知っている。
「何か調べました?」
「自分のことは調べてませんよ。約束しましたから」
「そういう意味じゃありません」
「《セカンド・ライフ》についてなら少し」
滝本はカップを置いた。
「それで、オリエンテーションで聞いた言葉を思い出しました」
「何です?」
「《退廃主義者》」
遥の表情がわずかに変わった。
「俺みたいな施行者に過去の情報を教えたり、以前の関係者へ接触させようとしたりする人間を、そう呼ぶことがあるらしいです」
「知っています」
遥は滝本の顔を見た。
「朝田さんのことじゃないですか?」
遥は一瞬黙ったが、否定はしなかった。
「そうかもしれません」
「ずいぶん簡単に認めるんですね」
「少なくとも、制度側から見ればそうでしょうね」
ちょうどマスターが注文を取りに来た。遥はコーヒーを頼み、足音がカウンターの向こうへ遠ざかるのを待ってから口を開いた。
「兄の資料にも、その言葉がありました。それで私も調べたんです」
「どういう人を指すんです?」
「正確な定義は分かりません。正式な制度上の名称でもないみたいです。ただ、《セカンド・ライフ》によって切り離された過去へ接触しようとする人を、かなり広くそう呼んでいるように見えました」
「施行者本人も?」
「そう呼ばれる場合があるみたいです」
滝本は小さく息を吐いた。
「だったら、俺も退廃主義者になりそうですね」
「滝本さんは、まだ何もしていません」
「知りたいとは思ってますよ」
「それだけなら、ほとんどの施行者が一度は考えるんじゃないですか」
運ばれてきたコーヒーが遥の前へ置かれた。遥はマスターへ軽く頭を下げた。
「でも、おかしいんですよね」
滝本の言葉に、遥が顔を上げる。
「本当に記憶を消したなら、過去を調べたって何が困るんでしょう」
遥は何も言わなかった。
「俺は何も覚えてない。仮に以前の俺の写真を見せられて、これがあなたですと言われても、そうなんだと知るだけです。家族がいたと教えられても、その人たちとの記憶が戻るわけじゃない。それなのに、過去へ近づけようとする人間に名前までつけて、接触するなと警告する。精神的な負担になるからやめた方がいいというだけなら、少し大げさじゃないですか?」
遥はしばらく黙っていた。
「私も、同じことを考えました」
やがて鞄を開き、薄いファイルを取り出した。
「兄が残した資料を調べていくうちに、白川さん以外にも何人か名前が出てきました」
テーブルへ数枚の紙が並べられた。新聞記事を印刷したものや、公開されている情報を遥自身がまとめたものらしい。余白には日付や短いメモが書き込まれている。
滝本は一枚を手に取った。
「この人は?」
「施行者だったこと自体は確認できていません。公表される情報じゃありませんから」
遥は別の紙を滝本の前へ置いた。
「ただ、この人が亡くなっていることは確認できました。兄の資料に書かれていた時期から、それほど経っていません」
「事故?」
「そう記録されています」
「《セカンド・ライフ》と関係してる証拠は?」
「ありません」
返事は早かった。
「こっちは?」
「その人も兄の資料に名前がありました。今は所在が分かりません。ただ、失踪した時期と兄が調べていた時期が近いというだけで、それ以上のことは分かっていません」
滝本は並べられた資料を順番に見た。
どれも決定的なものではない。
死亡した人間がいる。所在の分からない人間がいる。洋介は彼らを《セカンド・ライフ》と結びつけて調べていたらしい。
分かるのはそこまでだった。
「朝田さん」
「はい」
「無理に繋げてませんか?」
遥の視線が滝本へ向いた。
「お兄さんがいなくなった。お兄さんは《セカンド・ライフ》について調べていた。その資料に名前があった人を追いかけていけば、何でも関係があるように見えてくる気がします」
口にしてから、少し言い過ぎたかと思った。
だが、遥は怒らなかった。テーブルの資料を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「私も、そう思うことがあります」
意外な返事だった。
「だから調べてるんです」
遥は資料の端を揃えた。
「兄の失踪と《セカンド・ライフ》が関係していると思いたいわけじゃありません。関係がないと分かれば、それでいい。でも、今の私にはこれしか手掛かりがないんです」
3日前にも聞いた言葉だった。
兄について話していたとき、遥は洋介を「余計なことに首を突っ込む人だった」と言った。
滝本は目の前の女性を見た。やはりそれは兄だけの性格ではない。
「白川武志は?」
「兄の資料の中では、比較的詳しく調べられていました。《セカンド・ライフ》を受けたあと、それほど時間を置かずに亡くなっています」
「それは確認できたんですか?」
「はい。でも、《セカンド・ライフ》を受けたことについては、兄の資料にそう書かれていたというだけです」
「死因は?」
「電車への飛び込みです」
滝本の手が止まった。
「自殺?」
「おそらくは」
「施行から、どのくらいで?」
「兄の記録が正しければ、それほど経っていません」
遥はそこで言葉を切った。
滝本は白川の資料を見た。過去の精神的苦痛から人間を解放し、新しい人生を与えるための制度。その施行を受けたはずの人間が、ほどなくして自ら命を絶った。
確かに気にはなる。
だが、それだけで制度に原因があるとは言えない。
「白川も、自分の過去を調べていたという痕跡は?」
「分かりません」
「じゃあ、《退廃主義者》とは関係ないかもしれない」
「はい」
遥はあっさり認めた。
その反応に、滝本は少しだけ安心した。少なくとも、自分に都合のいいように事実を曲げるつもりはないらしい。
「ただ、兄は白川さんが亡くなったあとも調べ続けています」
遥は白川の資料へ目を落とした。
「亡くなったことを確認して終わりにはしていない。ほかの人の名前や日付も増えている。だから、白川さんを調べている途中で、何か別のことに気づいたんじゃないかと思っています」
「それが《退廃主義者》?」
「それも分かりません」
滝本は思わず苦笑した。
「分からないことばかりですね」
「そうなんです」
遥も困ったように笑った。
その表情は、3日前より少しだけ年相応に見えた。
「だから、兄が何を見つけたのか知りたいんです。何を調べていて、どうして突然いなくなったのか」
滝本はコーヒーを一口飲んだ。
白川の死と制度に関係があるとは限らない。ほかの死亡や失踪も同じだ。洋介が姿を消した理由については、なおさら何も分からない。
それでも、一つだけ事実として言えそうなことがある。
洋介は《セカンド・ライフ》について調べていた。そして、その中に《退廃主義者》という言葉があった。
「朝田さんは、警察にはこのことを?」
遥は一瞬だけ考えたあと、首を振った。
「兄がいなくなったときに、行方不明者届は出しました。でも、この資料を見つけたのはそのあとです」
「見せなかった?」
「はい」
「どうして?」
「最初は見せようと思いました」
遥はカップに手を添えた。
「でも、調べていくうちに、《セカンド・ライフ》を受けた人の身元を探ること自体が、普通のことじゃないと分かってきました。兄がどうやってこの人たちを調べたのかも分かりません。そんなものを持って警察へ行って、どこから手に入れたのかと聞かれても、私には答えられない」
「警察官だったお兄さんが持っていた、と言えば?」
「兄が仕事で調べていたものなのかどうか、それすら分かりませんから」
滝本は黙った。
洋介は交番勤務の警察官だった。その兄が、なぜ一般には確認できないはずの《セカンド・ライフ》施行者について調べていたのか。
遥が警察へ資料を持ち込まなかった理由は、それだけでも理解できた。
「それに――」
遥が続けた。
「兄がいなくなったあとで、兄が隠していたものを私が勝手に調べてるんです。誰に見せていいものなのかも分からない。だから、もう少し自分で確かめてからにしようと思いました」
「その結果が俺ですか」
「そうなりますね」
「ますます退廃主義者っぽいですね」
遥が少しだけ眉を寄せた。
「褒めてます?」
「まさか」
滝本はカップを持ち上げた。
だが、笑って済ませられる言葉でもない。
配布資料には、そうした人物から接触を受けた場合はサービスセンターへ相談するよう書かれている。その説明に従うなら、自分が今すべきことは遥と話を続けることではない。彼女との接触を報告することだ。
それでも、そうしようとは思わなかった。
「滝本さんはどう思います?」
「何を?」
「《セカンド・ライフ》についてです」
問われて、滝本は少し考えた。
「まだ分かりません」
「怖くないですか?」
「何が?」
「白川さんみたいな人がいたことが」
滝本はテーブルに並んだ資料へ目を向けた。
「気にはなります。でも、それだけで《セカンド・ライフ》が悪い制度だとは思いません」
遥は黙って聞いている。
「俺自身、今のところ施行を受けたことを後悔してません。後悔しようにも、以前の自分がどうして受けたのか知らないですから」
滝本は少し考えてから続けた。
「朝起きて、飯を食って、買い物して、仕事を探す。別に苦しいわけじゃない。むしろ普通です」
「過去を知りたいとは思わない?」
「思いますよ」
滝本は即答した。
「でも、それとこの制度が正しいか間違ってるかは別でしょう」
白川が亡くなったことも、所在の分からなくなった者がいることも気になる。洋介がいなくなったことも同じだ。だが、それらを一つの原因で説明するには、まだ材料が足りない。
「ただ――」
滝本はそこで言葉を切った。
「《退廃主義者》って言葉は、やっぱり引っ掛かります」
「どうしてです?」
「過去を捨てさせる制度なら、過去へ戻ろうとする人間が出てくることくらい、最初から分かってるはずです」
滝本は遥を見た。
「なのに、それをする人間をわざわざ区別する言葉がある。しかも施行者には、そういう人間との接触を警戒しろと教えている」
オリエンテーションで抱いた小さな違和感が、今は以前よりはっきりした形を持ち始めていた。
「過去を知ることに何か問題があるのか。それとも、知られると困ることがあるのか」
「どちらだと思います?」
「分かりません」
滝本は首を振った。
「今はまだ、どっちも仮説です」
分からないものを、分かったことにはしたくなかった。
遥はしばらく滝本を見つめたあと、小さく頷いた。
「そうですね」
「だから調べます。朝田さんのためじゃなく、自分のために」
「それで構いません」
「ただし、あなたの考えをそのまま信じるつもりもありませんよ」
「はい」
返事は早かった。
「私も、自分が正しいと証明したいわけじゃありません」
遥は少しだけ間を置いた。
「兄に何があったのか知りたい。それだけです」
滝本はそれ以上何も言わなかった。
遥はテーブルの資料を揃え、ファイルへ戻していった。
「次に会うときは、あなた自身について話せると思います」
滝本の視線が上がった。
「分かったんですか?」
遥の手が止まった。
「かなり絞れました。でも、もう一つだけ確認したいことがあります」
「3日前も似たようなこと言ってませんでした?」
「3日前よりは進んでいます」
「そのまま一生言い続けるつもりじゃないでしょうね」
遥の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「それはありません」
「じゃあ、次は教えてください」
「確認できたら」
「またそれですか」
滝本は呆れながら背もたれに身体を預けた。
聞き出そうと思えば、もっと強く迫ることもできる。だが、遥が確証のないことを事実として口にしない人間なのは、少しずつ分かってきた。
それなら、もう少し待ってもいい。
少なくとも今は。
遥と別れて帰宅したあとも、《退廃主義者》という言葉が頭に残った。
以前の自分を知りたいと思うこと。それは、それほど危険なことなのだろうか。もし過去を知ることが施行者にとって危険なのだとすれば、制度側が警戒する理由は分かる。
だが、そうでないのなら。
困るのは、いったい誰なのだろう。




