四章 死んだ兄
翌朝、滝本は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、しばらく布団の中にいた。ここが自分の部屋であり、自分の名前が滝本耕一で、44歳であることを知っている。昨日スーパーへ行ったことも、鮭を食べたことも、白いマグカップでコーヒーを飲んだことも覚えている。たった一日分にすぎないが、昨日まで存在しなかった「自分の記憶」がそこにはあった。
ベッドから起き上がり、昨夜の残りの水を飲んでからスマートフォンを確認する。昨夜作ったメモには、今日買うものが並んでいた。洗剤、タオル、食器、調理器具、数日分の食料。その下には《仕事を探す》と書いてある。
昨日までは過去だけでなく予定さえなかった。それが今は、今日やることを自分で決めている。大したことではないはずなのに、その事実が妙に新鮮だった。
簡単な朝食を済ませ、昨日買った深煎りのコーヒーを淹れた。湯を注ぐと狭い部屋に香ばしい匂いが広がる。白いマグカップを手に取り、ひと口飲んだ。やはり、この苦味は嫌いではない。なぜ昨日、棚に並んだ商品の中から深煎りを選んだのかは分からない。白いマグカップも同じだった。記憶を失っても、好みまですべて消えるわけではないのかもしれない。そんなことを考えながらコーヒーを飲み終えると、滝本は支度をして部屋を出た。
午前中は昨夜作ったメモを頼りに生活用品を買い揃えた。洗剤やタオル、食器、最低限の調理器具。数日分の食料も買った。何かを選ぶたびに自分の好みを試されているような感覚は残っていたが、昨日ほど戸惑うことはなかった。迷ったところで正解を知っている人間はいないのだから、好きなものを選べばいい。そう割り切ってしまえば、買い物は案外楽しかった。
最後の店を出た頃には昼を少し過ぎていた。両手にはいくつもの袋が下がっている。いったん部屋へ戻ろうかと思ったところで、通りの向こうから漂ってきた香りに足が止まった。コーヒーの匂いだった。
見ると、通りに面した建物の1階に小さなカフェがあった。昨日はスーパーでドリップコーヒーを買ったばかりだが、生活に必要なものをひと通り揃えたせいか、少しくらい贅沢をしてもいいような気がした。
「……たまにはいいか」
口にしてから、自分で少しおかしくなった。たまと言えるほどの人生を、まだ一日しか過ごしていない。
店へ入り、買い物袋を足元へ置いた。窓際の席へ案内されてメニューを開く。何種類もの豆の名前が並んでいたが違いは分からなかった。それでも説明を読みながら、自然と深煎りのものを選んだ。
しばらくして運ばれてきたコーヒーへ口をつける。昨日飲んだものより香りが強い。苦味の奥にわずかな甘さがあり、飲み込んだあともしばらく香りが残った。滝本はカップを置き、もう一度メニューに書かれた豆の名前を見た。少なくとも、自分について分かったことが一つ増えたらしい。どうやら自分はコーヒーが好きで、その中でも深煎りを好む。
もう一口飲もうとカップへ手を伸ばしたときだった。
「あっ」
すぐ横で声がした。顔を上げるより先に、肩から胸元へ熱いものがかかった。
「熱っ」
「すみません!」
椅子を引いて立ち上がる。黒いブルゾンの胸元から袖にかけて、茶色い染みが大きく広がっていた。傍らに立っていた女性が空になったカップを手に青ざめている。店員も慌ててタオルを持ってきた。
「本当にすみません。大丈夫ですか?」
「ええ……まあ」
幸いブルゾンの上からだったため、火傷をするほどではなかった。女性は何度も頭を下げながら、店員から受け取ったタオルで染みを押さえようとする。
「大丈夫ですよ。服だけですから」
「でも、かなりかかってます」
「洗えば落ちるでしょう」
「クリーニング代、払わせてください」
「いや、そこまでしなくても」
「お願いします。私の不注意なので」
強い口調ではなかったが、引くつもりがないことだけは伝わってきた。滝本は改めてブルゾンを見る。《セカンド・ライフ》を受けたあと、部屋に用意されていたものだった。自分で選んだわけでもなく、特別な愛着があるわけでもない。それでも、このまま染みを残して着続けるのも気分がいいものではなかった。
「じゃあ、クリーニング代だけ」
「はい」
女性はほっとしたように息をついた。
クリーニング代だけ出してもらえれば良かったのだが、いきつけのクリーニング店があると引かないため仕方なくついて行くことにした。結局、滝本はほとんど飲めなかったコーヒーを残し、買い物袋を手に女性と一緒に店を出ることになった。
店へ入ると、滝本はブルゾンを脱いで受付へ渡した。店員が胸元から袖にかけて広がった染みを確認し、ポケットの中身を出すように言った。財布はズボンに入れていたが、スマートフォンをブルゾンのポケットへ入れたままだったことを思い出す。滝本が買い物袋を床へ置いている間に、女性がスマートフォンを取り出した。
店員はいくつか質問してから仕上がりの日を告げた。女性は料金を払い、受取票を自分の財布へしまった。
受け取りも自分でするということなのか......。そこまでされると、滝本もこれ以上は何も言えなかった。偶然コーヒーをこぼした相手にしては少々世話を焼きすぎている気もしたが、ひどく責任感の強い人なのだろうと思うことにした。
ブルゾンを預けたことでシャツ一枚になった。店を出た途端、思っていたより冷たい風が身体に当たった。それを見た女性が申し訳なさそうに眉を寄せる。
「上着、買わせてください」
「いや、それはさすがにいいですよ」
「でもその格好で帰れないでしょう」
「家までそんなに遠くないので」
「風邪を引かれたら、もっと困ります」
滝本は断ったが、女性は今度も引かなかった。結局、近くの衣料品店で安いブルゾンを一着買ってもらうことになった。偶然とはいえ、ずいぶんな出費をさせてしまった。新しいブルゾンへ袖を通しながら、むしろこちらの方が申し訳なくなってくる。
店を出たところで、女性が呼び止めた。
「すみません」
振り返ると、その手に見覚えのあるスマートフォンがあった。
「携帯が上着に入っていたので、お返ししますね」
「ああ……ありがとうございます」
滝本は受け取り、何気なく画面へ目を落とした。何も表示されていない。側面のボタンを押しても反応がなかった。
電源が落ちている。
充電は十分に残っていたはずだ。そう思いながら電源を入れようとボタンを長押ししかけた。
「電源は入れないでください」
滝本の指が止まった。それまでとは違う声だった。顔を上げると、女性はもう先ほどまでの申し訳なさそうな表情をしていなかった。周囲へさりげなく視線を走らせてから、滝本を見る。
「そのままにしておいてください」
意味が分からなかった。コーヒーをこぼされ、クリーニング店まで連れてこられ、代わりの上着まで買ってもらった。そこまでは、まだ偶然の出来事として理解できた。しかし、これは違う。
滝本は手の中のスマートフォンを見た。自分で電源を切った覚えはない。
「……あなたが切ったんですか?」
女性は答えなかった。その沈黙が答えだった。
滝本は改めて目の前の女性を見る。カフェで初めて顔を合わせたときから、どこか妙なところはあったのかもしれない。だが、コーヒーをかけられたことも、必要以上にクリーニングを気にしたことも、そのときはすべて一つずつ理由のつく出来事だった。今になって、それらが別の形で繋がり始めている。
「もしかして......、コーヒーもわざとですか?」
女性は少しだけ間を置いた。
「少し付き合ってもらえますか?」
質問に対しての答えではなかった。
普通なら断るべきなのだろう。名前も知らない女がわざとコーヒーをかけ、スマートフォンの電源まで勝手に切った。警戒するには十分すぎる。それでも滝本は、その場から離れる気にはなれなかった。恐怖よりも疑問の方が勝っていた。
なぜ自分なのか。
昨日から滝本耕一として生き始めたばかりの自分に、なぜこんなことをする人間がいるのか。
「……分かりました」
女性は小さく頷き、歩き始めた。滝本は電源の切れたスマートフォンを新しいブルゾンのポケットへしまい、買い物袋を持ち直してその後を追った。
10分ほど歩いたところで、女性が一軒の店の前で足を止めた。少しアンティーク風の、古びた喫茶店だった。年季の入った木製の扉に、褪せた色の看板が掛かっている。ここからもコーヒーの香りが漂っていた。
滝本は店を見上げ、それから女性を見る。
「……ここですか?」
「はい」
女性はそれだけ答えると扉を開けた。小さなベルが鳴り、外で感じたよりも濃いコーヒーの香りが流れてくる。
「コーヒー二つ」
女性はカウンターの向こうにいるマスターへ声を掛け、そのまま奥の席へ向かった。注文を聞き返されることもない。どうやら何度も来ている店らしい。
滝本は両手の買い物袋を持ち直し、少し遅れて後に続いた。店内には低く音楽が流れ、客はカウンターに一人いるだけだった。年季の入った木のテーブルや椅子はところどころ艶が薄れ、壁際の棚には古いコーヒーミルやカップが並んでいる。
奥の席へ着くと、滝本は買い物袋を足元へ置いた。女性の向かいへ腰を下ろし、手にしていたスマートフォンへ目を落とす。画面はまだ真っ暗なままだった。
「これは、このままでいいんですか?」
「はい。電源は切ったままにしておいてください」
滝本はもう一度画面を見てから、新しく買ったブルゾンのポケットへスマートフォンをしまった。
「まず、あなた誰なんですか?」
女性はわずかに息を吐いた。ここへ来るまで張っていたものを、少しだけ緩めたように見えた。
「……朝田遥といいます」
朝田と名乗ったその女性はメガネを外し、結いていた髪の毛を解いた。先程とは雰囲気ががらりと変わる。
「朝田さん……俺のことを知ってるんですよね?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「友人、とか?」
遥はすぐには答えなかった。滝本の顔をじっと見つめ、何かを確かめるように目を細める。
「その前に、一つ確認させてください。以前のことは、本当に何も覚えていないんですか?」
滝本は眉を寄せた。
自分に記憶がないことを知っているのは、厚生衛生省の職員や医師だけだと思っていた。少なくとも、昨日から今日にかけて出会った人間の中で、それを知っている者はいない。
「……どうして、それを知ってるんです?」
「あなたが《セカンド・ライフ》を受けたことを知っているからです」
滝本は遥を見つめた。偶然カフェでコーヒーをこぼしたふりをして近づき、服をクリーニングへ出させ、スマートフォンの電源まで切った。その人間が、滝本耕一が《セカンド・ライフ》の施行者であることを知っている。 どうやら記憶を無くす前の友人ではなさそうだった。
「じゃあ、俺が以前誰だったのかも知ってるんですか?」
遥は答えなかった。
「朝田さん」
「先に、私の質問に答えてください」
苛立ちは覚えたが、ここで席を立つ気にはなれなかった。知りたいのはこちらの方だ。
「前のことは何も覚えてません。自分の名前も年齢も、そこで教えられました。滝本耕一っていう名前だって、昨日初めて知ったんです」
「人の顔や名前は?」
「覚えてません」
遥は一瞬ためらってから続けた。
「家族のことも?」
滝本は答えようとして、言葉に詰まった。
家族。
昨日から何度も、自分には過去がないと考えてきた。だが、家族という具体的な言葉で尋ねられたことはなかった。
「……何も。いたのかどうかも分かりません」
口にすると、それまでとは違う重さを伴って聞こえた。家族がいなかったのではない。いたのかもしれないのに、自分が覚えていないだけなのだ。両親がいたのか、兄弟がいたのか、結婚していたのか。それすら分からない。
遥の視線が落ちた。ほんの一瞬、何かに耐えるように唇を結んだが、すぐに元の表情へ戻った。
「……そうですか」
「何なんです?」
「確認したかったんです。《セカンド・ライフ》を受けた人が、本当にどこまで過去を失っているのか」
「制度について調べてるんですか?」
「はい」
「だったら答えてください。俺は誰だったんです?」
遥はしばらく滝本を見つめていた。
「正直に言うと、まだ特定できていません。ただ、可能性の高い人物はいます」
その一言で、滝本の意識が遥へ集中した。
昨日、自分の名前を検索しても何も出てこなかった。どこに住み、何をして、誰と関わって生きていたのか、その手掛かりすらない。その何もない場所に、初めて過去へ繋がる糸が垂らされたような気がした。
「誰です?」
「まだ言えません。私の考えている人物が本当にあなたなのか、確かめたいことが残っています」
「だから俺に近づいたんですか?」
「それもあります」
ちょうど二人分のコーヒーが運ばれてきた。マスターは何も言わずにカップを置き、カウンターへ戻っていく。滝本は立ち上る湯気を眺めた。外の店では今日二杯目のコーヒーだ。最初の一杯は、目の前にいる女性のせいでほとんど飲めなかった。
遥はコーヒーには手をつけなかった。
「その話をする前に、もう一つ説明しておきます。さっきの上着ですが、盗聴器が仕込まれている可能性があります」
滝本は顔を上げた。
「盗聴器?」
「入っていると確認したわけではありません。何もない可能性もあります」
今朝まで着ていた黒いブルゾンは、《セカンド・ライフ》を受けたあと部屋に用意されていたものだった。自分で買った服ではない。
「だからコーヒーを?」
「はい」
遥は今度は目を逸らさなかった。
「調べれば分かるんじゃないですか?」
「もし本当に何かが仕込まれていたら、見つけたことを相手に知られる可能性があります。今は、ここで話す内容を聞かれなければそれでいいんです」
「それでスマホも?」
「念のためです。何かあると確認したわけではありません」
滝本はポケットの中のスマートフォンを意識した。部屋も、服も、スマートフォンも、銀行口座も、そして滝本耕一という名前さえ、自分で用意したものではない。昨日まで、新しい人生を始めるために与えられたものだとしか考えていなかった。
「誰が俺を監視してるんです?」
「分かりません。そもそも監視されているかどうかも分かっていません」
「だったら、考えすぎって可能性もありますよね」
「あります。でも、間違っていたなら、それでいいんです」
遥は推測を事実のようには語らなかった。その点だけは信用できる気がした。
「そこまでして、俺と何を話したいんです?」
遥はすぐには答えなかった。ようやくカップへ手を伸ばしたものの、口には運ばず、両手で包むように持つ。
「私には兄がいます。朝田洋介といいます」
先ほど「家族のことも?」と尋ねた遥の表情が、滝本の頭に浮かんだ。
「両親は、私たちが子供の頃に交通事故で亡くなりました。その後は親戚に引き取られて、兄と二人で育ちました。大人になってからは別々に暮らしていましたけど、連絡はよく取っていました」
遥はそこで一度言葉を切った。カップを包んでいた指が、わずかに動く。
「その兄が、去年の9月に突然いなくなったんです」
「いなくなった?」
「家に戻らなくなって、電話も繋がらなくなりました。兄は警察官だったので、最初は仕事かもしれないと思いました。でも、何日経っても連絡がなくて」
「警察には?」
「相談しました。勤務先の警察署にも確認してもらいましたけど、出勤していないし、所在も分からないと言われました。事件に巻き込まれた形跡もないから、行方不明者届を出すなら受理するって」
「出したんですか?」
「はい」
遥はようやくコーヒーを一口飲んだ。味わうというより、喉を湿らせただけのようだった。
「それからも何度か問い合わせました。でも、何も分かりませんでした。兄の仕事について聞いても、業務のことは家族にも答えられない。それだけです」
警察官なら、家族にも話せないことはあるだろう。滝本にもそれくらいは分かる。遥も同じだったらしく、その対応自体を不審に思ったわけではないようだった。
「一週間経っても、一か月経っても連絡はありませんでした。それで、何か手掛かりがないか、自分でも調べるようになったんです」
兄の友人に話を聞き、部屋にも何度か足を運んだ。だが、所在に繋がるものは何も見つからなかったという。
「何度目かに兄の部屋へ行ったとき、古い本が目に入ったんです」
「本?」
「両親が亡くなって親戚の家で暮らしていた頃、兄と喧嘩したり、直接言いづらいことがあったりすると、その本に紙を挟んでおくことがあったんです。ごめんとか、明日は先に帰るとか、本当にくだらないことを」
遥の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。滝本は遥の瞳を見据えたまま、指先でコーヒーカップの取っ手をゆっくりとなぞっていた。
「もう何年もそんなことはしていませんでした。でも、その本を兄がまだ持っていた。それで、何となく開いてみたんです」
遥がカップを持ち直すと、左手首の細いブレスレットが光った。小さな金属板に、三つの文字が刻まれている。
「それも、お兄さんと?」
「え?」
「今、それを見てたから」
「ああ……これ、AHYって書いてあるんです。私たちの名前の文字を並べ替えただけ。昔、兄とそんな遊びをしてたんです」
遥は金属板を指先で押さえ、それから手を膝へ戻した。
遥の表情から笑みが消えた。
「そこには《セカンド・ライフ》についての資料がありました」
滝本の手が止まった。
「制度について書かれたものや、何人かの名前。それぞれについて兄が調べたらしいことが書かれていました」
「お兄さんが?」
「たぶん。兄って、昔から余計なことに首を突っ込む人だったんです。本人は放っておけなかっただけなんでしょうけど」
遥はカップへ視線を落とした。滝本はその横顔を眺めながら、それは兄だけの性格なのだろうかと思った。
「だから、仕事の中で何か気になることを知って、自分なりに調べていたのかもしれない。最初はそう考えました」
「その本の中に他には何があったんです?」
「白川武志という人の名前がありました。《セカンド・ライフ》を受けたあと、間もなく亡くなった人です」
「《セカンド・ライフ》が原因で?」
「分かりません。兄の資料にも、そこまでは書かれていませんでした」
滝本は少し考えた。
「じゃあ、たまたま亡くなった可能性もある。病気だったとか」
「はい。白川さんだけなら、そうだったのかもしれません。でも、他にもいました。施行後に亡くなった人や、行方が分からなくなった人。兄はそういう人たちについて調べていたみたいなんです」
滝本はしばらく黙っていた。
「それを見てから、考えるようになりました。兄が突然いなくなったことと、何か関係があるんじゃないかって」
最後の言葉だけが、それまでよりわずかに小さかった。
「調べていたことで、何かに巻き込まれた?」
「……分かりません」
遥は小さく首を振った。
「でも、それ以外に手掛かりがないんです」
店内に流れる音楽の向こうで、食器の触れ合う小さな音がした。滝本はコーヒーへ目を落とした。
朝田洋介が調べていた《セカンド・ライフ》。施行後に亡くなった白川武志。そして、突然姿を消した洋介。そこに因果関係があるとは限らない。今の話だけなら、偶然を繋ぎ合わせているだけとも考えられる。
だが、遥にとっては、それしか追うものがないのだろう。
「兄が何を調べていたのか。どうしていなくなったのか。それを知りたいんです」
短い言葉だったが、それまでの話よりも遥の理由がよく分かった。
滝本はふと、先ほどの質問を思い出した。
「家族のことを聞いたのも、そのためですか?」
遥の指がカップの取っ手に触れたまま止まった。
「兄のことを調べているうちに、考えるようになったんです。《セカンド・ライフ》を受けた人に家族がいたら、その人たちはどうなるんだろうって」
それ以上、遥は言わなかった。
滝本は自分のことを考えた。自分にも家族がいたのかもしれない。友人も、恋人もいたのかもしれない。自分はその誰も覚えていない。だが、相手も同じように自分を忘れているとは限らない。
昨日まで、《セカンド・ライフ》は自分だけの問題だった。過去を失ったのだから、これからどう生きるかを考えればいい。それで済む話だと思っていた。
だが、過去を失うのは施行を受けた本人だけだ。その人間を覚えている者の記憶まで消えるわけではない。
「それで……俺に辿り着いた?」
「はい。兄のことを調べるうちに、《セカンド・ライフ》そのものを調べるようになりました。その中で、あなたの存在を知りました」
「俺が以前誰だったのかも?」
「可能性の高い人物はいます。でも、まだ確証がありません」
「その人と、お兄さんに関係があるんですか?」
「それは分かりません。ただ、あなたを調べれば、《セカンド・ライフ》について何か分かるかもしれない。兄が調べていたことにも繋がるかもしれない。だから確かめたいんです」
滝本は遥を見た。自分の過去を知っているかもしれない人間が、ようやく現れた。しかし遥も答えを持っているわけではない。彼女にとって滝本もまた、兄へ辿り着くための手掛かりなのだろう。
「朝田さんは、俺の味方なんですか?」
遥は少し驚いたような顔をした。すぐには答えず、しばらく考えてから口を開いた。
「分かりません。私は兄に何があったのか知りたい。そのために、あなたから何かを得ようとしています。それを味方と呼んでいいのかは、私には分かりません」
味方だと言われるより、その答えの方が不思議と信用できた。
滝本はようやくコーヒーへ手を伸ばした。話しているうちに少し冷めてしまっている。それでも一口含むと、強い苦味のあとに香りが残った。
「この店のコーヒー、うまいですね」
遥が一瞬きょとんとした。
「……そうですね」
「最初の店では、ほとんど飲めなかったけど」
意味を理解した遥が、少しだけ困ったような顔をした。
「それは……すみません」
滝本はわずかに口元を緩めた。張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
「一つ、お願いがあります」
遥の声に、滝本は顔を上げた。
「自分が以前誰だったのか、しばらく調べないでください」
「どうして?」
「あなたが何を知るかより、過去を調べていることを誰かに知られる方が危険かもしれません」
滝本はポケットの中のスマートフォンを意識した。さらに、クリーニング店へ預けた黒いブルゾンを思い出す。
「《セカンド・ライフ》について調べるのも?」
「制度そのものについてなら構わないと思います。ただ、自分が以前誰だったのかを直接探すのはやめてください」
「昨日、もう自分の名前は検索しましたよ」
「滝本耕一を?」
「はい。何も検索には引っかかりませんでしたけど」
遥は少し考えてから頷いた。
「その程度なら問題ないと思います。おそらく私も同じ立場ならそうします。ただ、そこから先は待ってください」
「分かりました」
納得したわけではない。それでも、少なくとも遥が何かを確かめるまでは待ってもいいと思った。
「俺が誰だったのか分かったら、教えてくれるんですよね?」
「確証が持てたら、話します」
「約束ですよ」
「はい」
そこで滝本は、ふとポケットへ目を向けた。
「でも、どうやって連絡するんです?」
「連絡?」
「俺の携帯、使わない方がいいんでしょう?」
遥は一瞬考え込んだ。
「少なくとも、私との連絡には使わないでください」
「じゃあ、次は?」
「3日後の午後2時、またここに来てください」
「ここに?」
「はい。私も来ます」
滝本はカウンターへ目を向けた。マスターは二人の会話など聞こえていないように、洗ったカップを布巾で拭いている。
「この店なら大丈夫なんですか?」
「はい」
「ずいぶん信用してるんですね」
遥は一瞬だけカウンターへ視線を向けた。
「そうですね」
それ以上は説明しなかった。
「分かりました。3日後の2時」
「それまでは、できるだけ普通に過ごしてください。携帯も、ここを出てしばらくしたら電源を入れて構いません」
「普通って言われても、昨日からしかないんですけどね」
遥が滝本を見た。その口元がわずかに緩む。
「では、昨日からの続きで」
滝本も小さく笑った。
昨日まで、自分が誰だったのかを知りたいという気持ちは、もっと単純なものだった。名前が知りたい。仕事が知りたい。どんな人間だったのか知りたい。ただそれだけだった。
今は違う。もし自分にも家族や友人がいて、今も自分を探している誰かがいるのなら。自分が忘れたからといって、その人との関係まで消えたことになるのだろうか。
滝本は自分の両手を見た。自分にも、忘れてしまった誰かがいるのかもしれない。そしてその誰かは今も、自分のことを覚えているのかもしれなかった。




