三章「白いマグカップ」
部屋へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
朝とは違い、玄関の鍵を開けることにはもう抵抗がない。まだ一日も暮らしていない部屋なのに、外から戻ってくると不思議と「帰ってきた」という感覚があった。
靴を脱ぎ、何気なく玄関の左端へ揃えたところで、滝本は自分の手元を見た。誰かに教えられたわけでも、意識してそうしたわけでもない。外から帰れば靴を揃える。それが当然であるかのように身体が動いたのだ。ジャケットも椅子の背へ掛けようとして途中で気が変わり、クローゼットまで持っていってハンガーに掛けた。外出時に来ていた白いシャツから紺色のシャツに着替え直す。
「こういうのも残るんだな……」
生活習慣と呼ぶべきなのか、性格と呼ぶべきなのかは分からない。以前の自分は几帳面な人間だったのかもしれないし、単にそうするよう躾けられていただけかもしれない。いずれにしても、朝から何度も同じようなことがあった。スマートフォンを使えることも、電車に乗れることも、箸を使えることも知っている。自分について何も知らないというのに、自分が身につけてきたはずのものは、至るところに残っていた。
冷蔵庫を開けると、朝と変わらず水しか入っていない。そこでようやく、今日は水以外ほとんど口にしていないことに気づいた。
「飯くらい食わないとな」
スマートフォンで周辺を調べると、徒歩十分ほどの場所にスーパーがあった。財布を持って再び部屋を出る。朝には地図を何度も確認しながら歩いた道だったが、今度は最初の角を曲がるところまで画面を見る必要がなかった。そのことにも途中で気づいたが、いちいち立ち止まって考えていたら何もできないような気がして、そのまま歩き続けた。
スーパーへ入ったところで、思いがけない問題にぶつかった。
何を食べたいのか分からない。
食べ物を知らないわけではない。野菜も肉も魚も分かるし、売り場に並んでいる食材を見れば、どう調理するものなのかもある程度は想像できる。カレーもラーメンも寿司も知っているし、醤油とソースを間違えることもないだろう。それなのに、自分が何を好んで食べていたのかとなると、何一つ浮かばなかった。
買い物かごを手に惣菜売り場を眺めながら、唐揚げ、とんかつ、焼き魚、煮物と順番に目を移していく。弁当を一つ手に取ってみたものの、どうもしっくりこなくて戻し、別のものを取っても同じだった。
「……こんなことまで分からないのか」
口にした途端、自分でも少し可笑しくなった。朝から自分の存在そのものについて悩んでいた男が、今度は夕食を選べないことに真剣に困っている。記憶を失った人間だろうと腹は減るし、何かを食べなければ明日を迎えられない。そんな当たり前のことが、今は妙に現実的だった。
結局、鮭の塩焼きといくつかの惣菜、それに米や最低限の調味料をかごへ入れた。酒売り場の前も通ったが、特に飲みたいとは思わない。朝、目覚めた直後には2日酔いだと思ったが、少なくとも今の自分は積極的に酒を欲しがる人間ではないらしい。
そのままレジへ向かおうとしたところで、コーヒーの棚が目に入った。
なぜか足が止まった。
豆、粉、ドリップバッグ、インスタントと様々な商品が並んでいる。滝本は何となく眺めていたつもりだったが、気づけば深煎りと書かれた商品へ手を伸ばしていた。手に取ってから自分でも不思議に思い、隣にあった浅煎りの商品へ持ち替えてみる。
何となく違う。
もう一度、最初の商品を手に取る。やはり、こちらの方がいいような気がした。
コーヒーが好きだったのだろうか。あるいは、今日初めて好きになったのか。それすら今の滝本には判断できない。ただ、理由を説明できないまま選べるものがあるという事実は、少しだけ面白かった。
部屋にはミルもドリッパーもないため、同じ焙煎度のドリップバッグをかごへ入れた。出口近くの生活用品売り場ではマグカップも買うことにした。最初に目についた黒いカップを手に取ったが、しばらく眺めてから棚へ戻し、代わりに飾りのない白いカップを選んだ。
なぜ白なのかは分からない。それでも、これは自分で選んだものだった。
朝から身につけている服も、財布も、スマートフォンも、住んでいる部屋さえ誰かに用意されたものだ。そんな中で、自分の意思だけで選んだ最初のものが数100円のマグカップだと思うと、少し笑えた。
部屋へ戻ると米を炊き、買ってきた惣菜を皿へ移した。炊飯器にも電子レンジにも迷うことはなく、説明書を読む必要さえなかった。買ったばかりの白いマグカップにはコーヒーを淹れ、一人分の夕食をテーブルへ並べる。
「いただきます」
自然に言葉が出た。
箸を取ったところで、滝本はまた自分の手を見た。持ち方を知っている。鮭の骨を避けることもできるし、熱いコーヒーへ不用意に口をつければ火傷することも知っている。44年間の記憶を持たない自分の中に、それでも生活するための知識や身体に染みついた動作は無数に残っている。
《セカンド・ライフ》は、自分からいったい何を奪ったのだろう。
説明会では、過去の人生に関わる記憶を処置したと説明された。しかし、すべてを失っているわけではないことくらい、今の自分を見れば分かる。何を残し、何を失わせるのか。その境界がどこにあるのかまでは説明されなかった。
考えながら鮭を一口食べると、程よい塩気が広がった。
「……うまいな」
思わず声が出て、自分で笑った。記憶があろうとなかろうと、腹は減るし、食べれば美味いと感じる。そんな単純なことに妙な安心を覚えた。
食事を終え、コーヒーを口にする。苦味は強かったが嫌ではない。むしろ、香りを吸い込んでいるだけで少し気持ちが落ち着いた。
カップを手にしたまま室内を眺める。朝と同じ殺風景なワンルームのはずなのに、今はスーパーの袋があり、流しには使った食器があり、テーブルには白いマグカップが置かれている。それだけで、部屋の印象が少し変わっていた。
ほんの数時間前まで、ここには滝本耕一という人間が存在した痕跡が何もなかった。
今はある。
白いマグカップは誰かに用意されたものではない。《セカンド・ライフ》を運営する人間が選んだものでも、以前の自分が使っていたものでもない。少なくとも今日の自分が、自分の意思で選んだものだった。
これからこうして物が増えていくのだろう。服を買い、家具を選び、仕事を見つけ、誰かと知り合う。その一つ一つが積み重なれば、いつかこの部屋は自分の部屋になり、滝本耕一という人間にも過去ができる。
それは案外、悪くないことなのかもしれない。
そう思った自分に気づき、滝本はコーヒーを飲む手を止めた。
食器を洗い終えると、急にすることがなくなった。
テレビをつけてニュースを見る。政治家も芸能人もほとんど知らず、スポーツ番組に変えても選手の名前には心当たりがない。それでも国の仕組みやニュース番組の構成、競技のルールそのものは理解できる。世界についての知識は残っているのに、その世界と自分との関係だけが切り取られていた。
しばらくチャンネルを変えていたが、やがてテレビを消し、スマートフォンを手に取った。朝から何度も迷っていた検索画面を開き、《厚生衛生省》と入力する。
検索結果の上位には公式サイトが表示された。国家精神衛生政策を所管する行政機関として実在しており、《国家精神衛生法》についても2005年に制定された法律として確認できた。その後、何度かの改正を経ていることや、2008年から一部の精神医療分野で新たな支援制度の限定運用が始まったことも記されている。
《セカンド・ライフ》について一般向けに公開されている情報もあった。過去の経験によって日常生活に重大な支障を抱え、従来の治療では十分な改善が得られなかった者などを対象とした国家精神衛生プログラム。ただし、施行方法や選定基準、施行者に関する情報の多くは、個人情報保護や安全上の理由から非公開とされている。
少なくとも、説明会で聞いた話と大きく食い違うものは見つからなかった。
次に《SAコーポレーション》と入力してみる。
企業の公式サイトが表示された。
開こうとして、指が止まった。
今日、説明会が行われた場所だ。厚生衛生省と共同で《セカンド・ライフ》の技術開発と運用に関わっている企業だと聞いている。調べること自体は何も不自然ではない。
それでも、今すぐ知る必要があるのか、と考えた。
朝から、分からないことに出会うたびに答えを求めてきた。しかし、目の前にある情報を片端から集めたところで、それが何を意味するのか判断できるとは限らない。少なくとも今の自分には、何を探すべきなのかさえ分かっていない。
滝本はしばらく画面を見つめたあと、入力した文字を消した。
急ぐ必要はない。
代わりに、検索欄へ自分の名前を入力する。
滝本耕一
検索すると同姓同名はいくつか出てきたが、自分と思われる人物はいなかった。SNSも調べてみたものの、それらしいアカウントは見つからない。画像検索をしても、自分の顔は出てこなかった。
今日から与えられた名前なのだから当然なのかもしれない。それでも、自分という人間が世界のどこにも記録されていないような感覚は、思っていた以上に気味が悪かった。
検索欄に表示された自分の名前を見ながら、以前の名前さえ分かれば、そこから過去を調べられるのだろうと思った。以前の自分を知る人間に辿り着けば、家族がいたのか、どんな仕事をしていたのか、そしてなぜ《セカンド・ライフ》を選んだのかも知ることができる。
しかし、今はその入口さえ分からない。
滝本はスマートフォンを置き、ベッドへ横になった。
朝は恐ろしかった部屋の静けさが、今は少し違って感じられる。誰も自分を知らず、自分も誰も知らない。明日から何をしてもいい。仕事を探してもいいし、行ったことのない場所へ行ってもいい。趣味を見つけてもいい。これまで一度もやったことのない何かを始めたとしても、誰かに「お前らしくない」と言われることはない。
それは孤独であると同時に、自由でもあった。
そう考えると、胸の奥に朝と同じ安堵が生まれた。今度は、その感情をすぐに恐ろしいとは思わなかった。
もしかすると、自分は本当にこうなることを望んだのではないか。名前も、人間関係も、それまで背負っていたものもすべて手放し、何者でもないところから人生を始めたかったのではないか。
もちろん、理由を知らない以上、勝手にそう決めつけることはできない。それでも朝にはあれほど強かった「過去を取り戻したい」という気持ちが、わずか一日のうちに薄れ始めていることだけは確かだった。
滝本は身体を起こし、テーブルの上に置かれた白いマグカップを見た。
以前の自分なら、別の色を選んでいたかもしれない。
魚が嫌いだったかもしれない。
コーヒーなど飲まなかったかもしれない。
反対に、今日とまったく同じものを選んでいた可能性もある。
過去を知らない以上、比べることはできない。
ならば、今感じているものを自分のものとして受け入れてもいいのではないか。
そんなことを考えていると、《セカンド・ライフ》という言葉の意味が、朝とは少し違って聞こえてきた。
人生をやり直す。
言葉にすれば簡単だが、本当にそんなことが可能なのだろうか。
記憶を失っただけで、人は別の人間になれるのか。
それとも自分はこれから何を選ぼうと、結局は以前と同じものを好きになり、同じような考え方をし、同じ失敗を繰り返すのだろうか。
答えは分からなかった。
ただ、少なくとも明日の朝には、今日という記憶がある。
滝本耕一として過ごした、最初の一日が。
シャワーを浴びる前に、必要なものを書き出しておこうと思った。スマートフォンのメモを開き、歯磨き用のコップ、洗剤、ゴミ袋、タオル、調理器具など、今日気づいたものを順番に入力していく。仕事も探さなければならない。生活費として支給された30万円があるとはいえ、いつまでも暮らせる金額ではなかった。
職業紹介についてはサービスセンターから案内があるらしいが、それを待つ必要があるのかも分からない。求人サイトを開いてみると、当然ながら職種を選択する項目が出てきた。
そこで、また困った。
自分に何ができるのか分からない。
営業、事務、販売、IT、建築、運送、製造。並んでいる職種を見ても、自分がどんな仕事をしてきたのか思い出せない。資格についても同じだった。
試しにパソコン関係の求人を開いてみる。書かれている用語のいくつかは理解できたが、自分にその仕事ができるという確信はない。営業職を見ても、人と話すことが得意なのか不得意なのかすら分からなかった。
「44歳、職歴なし、資格も分からない、か……」
改めて口にすると、なかなか厳しい条件だった。
思わず苦笑したものの、不思議と絶望はしなかった。何ができるのか分からないのなら、これから確かめていけばいい。そう思える程度には、朝より気持ちが落ち着いている。
滝本は求人サイトを閉じた。
明日は生活用品を揃える。その後、街を少し歩いてみよう。仕事のことはサービスセンターにも相談してみればいい。そんなふうに予定を考えている自分がいる。
明日の予定。
その言葉が妙に新鮮だった。
過去は何もないのに、未来の予定なら作ることができる。
滝本はメモの最後に《仕事を探す》と入力して保存した。




