二章「セカンドライフ」
指定された場所へ向かう電車の窓に、自分の顔が薄く映っていた。滝本は何度かその顔へ視線を向けたが、朝、鏡で初めて見たときほどの衝撃はもうなかった。それでも、他人の顔を借りて電車に乗っているような感覚は消えない。
部屋のクローゼットに入っていた白のシャツと黒いパンツを選び、薄手のジャケットを羽織った。**外に出ると気温も低かったため、頭にはニット帽を被った。**
なぜその組み合わせを選んだのかと聞かれても答えられない。並んでいた服の中から自然に手が伸びただけだった。
駅までの道はスマートフォンの地図を使った。改札では交通系ICを設定し、案内表示を確認しながら目的の電車へ乗った。どれも初めて経験しているはずなのに、操作そのものにはほとんど迷わない。電車の乗り方も、スマートフォンも、自動改札もエスカレーターも知っているのに、これまで自分がどの路線を使い、どの駅で降りていたのかだけが分からなかった。
知識だけが残り、その知識を使って生きてきた自分が抜け落ちている。
そんなことを考えているうちに、電車は目的地へ着いた。
指定されたビルはオフィス街の一角にあり、吹き抜けになったエントランスには、この建物に入居する企業の名称が並んでいた。その中に、朝の資料にも記載されていたSAコーポレーションの名前がある。
13階から15階。SAコーポレーションの入居階は三つあり、14階には開発部門、15階には役員室などが置かれているらしい。オリエンテーションの受付完了通知に記された国家精神衛生サービスセンターの会場は、その1階下にあたる13階だった。しかし、建物の案内板にサービスセンターの名称は見当たらない。
滝本はフロア案内を見上げた。SAコーポレーションという名称に何の心当たりもなく、記憶を刺激されるような感覚もない。案内表示を確認してエレベーターへ向かおうとしたところで、少し前を歩いていた女性が受付で足を止めた。
「すみません。SAコーポレーションのサービスセンターはこちらで合っていますか?」
年齢は30代くらいだろうか。カジュアルなジャケットにパンツ姿で、小さなバッグを肩から掛けている。受付係から13階だと説明されて頭を下げると、女性は滝本より先にエレベーターへ向かった。
どうやら同じ場所へ行くらしい。
滝本がエレベーターホールへ着いたときには、すでに扉が閉まりかけていた。
「すみません、乗ります」
声を上げると、中にいた女性が開ボタンを押した。
「何階ですか?」
「13階です」
「同じですね」
滝本は軽く会釈し、女性から少し離れた位置へ立った。扉が閉まり、エレベーターが上昇を始める。会話はそこで途切れ、階数表示の数字だけが増えていった。
ふと女性と目が合った。
ほんの一瞬だったが、彼女の表情が変わったように見えた。驚いたというほど大きな反応ではない。ただ、何気なく向けられていた視線が滝本の顔で止まった。
女性はすぐに正面へ向き直った。
滝本は横顔を見た。見覚えはない。そもそも今の自分に、見覚えのある顔など一つもない。
13階に到着し、滝本が先に降りる。数歩進んでから何となく振り返ると、女性もこちらを見ていた。再び目が合うと、今度も彼女の方から視線を逸らした。
妙な人だと思ったものの、それ以上の感情は湧かなかった。
サービスセンターでは受付を済ませた後、タブレット端末を渡された。氏名や住所などの確認に続き、現在の精神状態を確認するための質問が並んでいる。
《目覚めた直後、最も強く感じた感情を選択してください》
《現在、最も不安に感じていることを記入してください》
《過去の記憶を取り戻したいと思いますか》
最後の質問で指が止まった。
選択肢は「はい」「いいえ」「どちらとも言えない」の三つ。朝なら迷わず「はい」を選んでいたかもしれない。しかし、自分の意思で記憶を手放したと知らされてからは、過去を知ることへの恐怖も生まれている。少し考えた末、滝本は「どちらとも言えない」を選んだ。
回答を送信すると、受付係から奥の待合室へ案内された。すでに数人が座っており、年齢も服装もばらばらだった。20代に見える若い男もいれば、60代くらいの女性もいる。
この人たちも自分と同じなのだろうか、と滝本は思った。昨日までどんな仕事をしていたのか、どんな家族がいたのか、何をして生きてきたのかを知らない。隣に座った人間が医師だったかもしれないし、教師だったかもしれない。あるいは、人に知られたくない過去を持つ人間だった可能性だってある。それを誰にも確かめることはできず、本人ですら知らない。
少し離れた席には、先ほどの女性も座っていた。彼女はタブレットを膝に置き、正面を見たまま、今度はこちらへ視線を向けようとはしなかった。
やがて室内の照明が落ち、正面の大型ディスプレイに映像が表示された。同時に、壇上へスーツ姿の男性が現れる。
「皆様、本日は国家精神衛生サービスセンターへお越しいただき、ありがとうございます。担当の工藤です」
柔らかな口調で挨拶をした工藤は、参加者を見渡してから説明を始めた。
「皆様は本日より、新しい人生を始められます。ただ、目覚めたばかりの今は、喜びよりも不安の方が大きいかもしれません。自分が誰なのか分からない。なぜ以前の人生を手放したのかも分からない。当然のことです。まず知っていただきたいのは、《セカンド・ライフ》が法的根拠を持つ正式な国家精神衛生プログラムであるということです」
画面に《国家精神衛生法 2005年制定》という文字が表示された。
「制度の原型となった研究は、重度の心的外傷や自殺企図を繰り返す患者への治療研究として始まりました。その後、医療、心理、神経科学分野で長期的な研究と検証を重ね、2008年から限定的な運用が開始されています。現在は厚生衛生省の審査を経て、一定の条件を満たした方に限り利用が認められています。施行に必要な技術と設備の提供、運用支援についてはSAコーポレーションが担っています」
18年前から、この制度は存在していたことになる。自分はその間、どこで何をしていたのだろう。そんな疑問が浮かんだが、答えが返ってくるはずもない。
「重要なのは、すべての施行が本人の同意に基づいていることです。皆様は施行前に十分な説明を受け、複数回の意思確認を経ています」
会場のどこかで椅子が軋んだ。
滝本は自分の手へ視線を落とした。自分は説明を受けた。納得した上で同意し、その同意をしたことさえ忘れた。制度としては必要なのかもしれないが、どこか奇妙な話だった。
「《セカンド・ライフ》の目的は、過去を取り戻すことではありません。新しい人生を築くことです。ただし、《セカンド・ライフ》は法的責任を消滅させる制度ではありません。施行前の犯罪行為、債務その他の法的責任については、施行後も本人に帰属します」
ディスプレイに新しい文字が浮かんだ。
《あなたには、もう一度人生を選ぶ権利がある》
美しい言葉だと滝本は思った。同時に、なぜかひどく薄気味悪くも感じた。
「もう一点、過去との接触についてです。《セカンド・ライフ》施行後、ご自身の過去を調査したり、以前の関係者と接触したりする行為は、運用上、原則として認められていません」
「認められていない?」
「以前の記憶に関係する強い刺激が、施行後の心身に影響する可能性があるためです。刑罰を科すためではなく、安全管理上の措置とお考えください。こうした接触を《退廃行為》、接触を進める人を《退廃主義者》と呼ぶ場合もありますが、法律上の名称ではありません」
滝本は眉を寄せた。自分が以前どんな人間だったのか、知りたいという気持ちはすでにある。だが、それを知ろうとすること自体が、自分にとって危険だということらしい。
「皆様の健康を維持する措置として、受け止めて頂ければと思います」
そう言って工藤は頭を下げた。
ほかの参加者から質問が出ることもなく、そのまま説明会は終わった。そのあとは順番に個別確認へ呼ばれていった。滝本が自分の番を待っていると、少し離れたところで職員が先ほどの女性に声を掛けた。
「桐原由美様、こちらへお願いします」
桐原が立ち上がる。そのとき、滝本と目が合った。
エレベーターから数えれば、これで三度目になる。
滝本は迷った末、彼女が近くを通ったところで声を掛けた。
「すみません」
桐原が足を止める。
「何でしょう?」
「変なことを聞きますけど……俺の顔に何かついていますか?」
「え?」
「さっきから何度か、俺のことを見ていたような気がしたので」
桐原は一瞬だけ言葉に詰まった。その変化はごく小さなものだったが、今度は滝本にも分かった。
「あなたも、私を見ていたでしょう」
「それは……何度も見られれば気になりますよ」
桐原はわずかに笑った。
「そうですね。すみません。たぶん、気のせいです」
「気のせい?」
「私も今日からなんです。いろいろ混乱しているだけだと思います」
そう言って職員の方へ歩き出しかけたが、二歩ほど進んだところで立ち止まった。
「でも――」
振り返った桐原は、一瞬だけ滝本の顔を見つめた。
「今日初めて会ったんでしょうね。少なくとも、今の私たちにとっては」
それだけ言うと、今度こそ職員について歩いていった。
滝本はその後ろ姿を見送った。
妙な言い方だった。
それに、もう一つ引っかかる。
彼女は「私も今日からなんです」と言った。
自分が今日からだと、滝本は彼女に話していない。
エレベーターで交わしたのは、何階へ行くのかという会話だけだ。
同じ説明会に参加しているのだから、そう思っただけかもしれない。
それでも、何かが引っかかった。
滝本は桐原が消えた廊下をしばらく見つめていた。
彼女だけは、自分を知っているような気がした。




