一章「滝本耕一」
カーテンの隙間から差し込んだ光が、瞼の裏を白く染めていた。男は眉間に皺を寄せ、掛け布団を顔まで引き上げた。自分の体温で温められた空気が鼻先に籠もり、そのままもう一度眠りに落ちかけたが、頭の奥に残る鈍い痛みがそれを許さなかった。ひどく喉も渇いている。舌が上顎に張りつくような不快感に、二日酔いに似ている、と男は思った。
昨夜、そんなに飲んだだろうか。
そう考えたところで目を開いた。昨夜のことが、何一つ思い出せなかった。
「……飲み過ぎたか」
掠れた声が出た。男は布団を押し退けてゆっくり上体を起こすと、こめかみを指で押さえながらベッドの縁に腰を下ろした。床には薄い灰色のカーペットが敷かれ、正面には小さなテレビ、その横には簡素なテーブルと椅子が一脚。壁際にはクローゼットがあり、反対側には小さなキッチンが見える。どこにでもありそうなワンルームだったが、部屋のどこを見ても見覚えがなかった。
ホテルだろうか、と考えたものの、それにしては生活設備が整いすぎている。玄関近くには洗濯機があり、小さいながらもキッチンまで備わっている。その一方で、ホテルなら置かれているはずの館内案内や内線電話などは見当たらない。
誰かの部屋なのだろう。
そう考えたところで、男は眉を寄せた。
では、誰の部屋なのか。
男は立ち上がった。わずかに身体がふらつき、反射的にベッドへ手をついたが、吐き気はなく、頭痛も我慢できないほどではない。昨夜の酒が残っているというより、長い眠りから無理やり起こされたような倦怠感に近かった。同時に、強い喉の渇きを感じる。まずは水を喉に通したい。
男はキッチンへ向かった。戸棚を開けてみたものの食器は一つもなく、隣の収納にも何も入っていない。シンクには使われた形跡がなく、スポンジも洗剤も置かれていなかった。冷蔵庫を開けると、500ミリリットルの水が数本だけ並べられている。男はそのうちの一本を取り出し、半分ほど一気に飲んでからようやく息をついた。
そこで改めて室内を見回した。
人が生活するためのものは揃っている。それなのに、誰かが生活していた痕跡だけが不自然なほど存在しない。テレビ台に私物はなく、壁に写真やカレンダーもない。読みかけの本も、脱ぎ捨てた服も、使いかけのティッシュ箱さえ見当たらなかった。
「……何なんだ、ここ」
誰に聞かせるでもなく呟き、水をテーブルへ置いて窓へ向かった。カーテンを開けると朝の光が一気に流れ込み、男は眩しさに目を細めた。窓の外には住宅街が広がり、中層のマンションや戸建て住宅、その向こうには幹線道路が走っている。信号待ちの車が列を作り、歩道を通勤途中らしい人々が歩いていた。
やはり、見覚えはなかった。
では、自分にとって見覚えのある場所とはどこなのだろう。自宅や実家、職場、よく行く店、近所の道。何か一つくらい浮かぶはずなのに、どれだけ考えても具体的な風景が出てこない。
男は窓辺に立ったまま、昨夜どこで飲んでいたのかを思い出そうとした。誰といたのか、何を食べたのか、そもそも本当に酒を飲んだのか。そこにも何もない。
昨日の朝。
一昨日。
一週間前。
先月。
一つずつ遡ってみたが、どこまで行っても何もなかった。
それでも「一週間」や「一か月」が何を意味するのかは理解できる。窓の外を走っているものが自動車だということも、手に持っている透明な容器がペットボトルであることも分かる。冷蔵庫の使い方も知っているし、文字も読める。言葉も問題なく話せている。
自分が男であることも、言葉や社会の仕組みも理解できる。だが、自分がどんな人生を送ってきたのか、その記憶だけが見当たらなかった。
その事実に気づいた途端、心臓が急に速くなった。男は無意識に胸元を押さえ、自分の名前を口にしようとしたが、何も出てこない。仕事も、家族も、結婚しているのかどうかも、両親や友人の顔も、自分が何歳なのかさえ分からなかった。
洗面所へ向かうと、洗面台の上に取り付けられた鏡の中に一人の男がいた。年齢は40代くらいだろうか。伸びた黒髪にはわずかに白いものが混じり、頬から顎にかけて無精髭が伸びている。目の下には薄い隈があり、眉間には年齢相応の皺が刻まれていた。
知らない顔だった。
男は鏡へ近づき、右手を上げてみた。鏡の中の男も同じように手を上げる。頬に触れると、指先に硬い髭の感触が返ってきた。間違いなく自分の顔なのに、どこを見ても自分だという実感が湧かなかった。
「……嘘だろ」
目元を触り、額を確かめ、髪を掻き上げてみる。どこかに手術痕でもあるのではないかと思ったが、目立つ傷はなく、後頭部に触れても強い痛みはなかった。鏡の中では、見知らぬ男が自分と同じように青ざめている。
「俺は……誰だ?」
口に出した瞬間、それまで漠然としていた異常が現実になった。
男は洗面台へ両手をつき、荒くなりかけた呼吸を整えた。事故か。病気か。頭を打ったのか。それとも、誰かに何かをされたのか。
いくつか可能性を考えたところで、「記憶喪失」という言葉が浮かんだ。
しばらく鏡を見つめていたが、やがて男は顔を上げた。考えているだけでは何も分からない。まずは自分が誰なのかを確認する必要がある。財布、免許証、スマートフォン、郵便物。何でもいい。
部屋へ戻ると、入口から順番に調べ始めた。玄関には新品に近いスニーカーが一足あり、靴箱には革靴と別のスニーカーが収められていた。試してみると、どれも足のサイズに合う。クローゼットにはシャツやジャケット、下着、部屋着が揃っていたが、着古したものは一着もなく、タグこそ外されているものの、ほとんど新品だった。洗面台の収納も同じで、歯ブラシ、髭剃り、タオルといった最低限の生活用品だけが用意されている。
まるで誰かが、一人の男をここで生活させるために必要なものだけを選んで揃えたようだった。
最後にテーブルへ目を向けた。先ほどは気づかなかったが、端に何枚かの書類が整然と重ねられ、その横には財布、キーケース、カードケース、黒いスマートフォンが置かれていた。
男はまずスマートフォンを手に取った。画面に触れるとロック画面が点灯し、時刻と日付が表示される。8時12分。10月――そこまで見て、指が止まった。
日付ではなく、年だった。
2026年。
「……2026?」
数字そのものは理解できる。だが、今年が2026年だという認識が自分の中に存在していなかった。現在の年を、スマートフォンから初めて教えられたことになる。
試しに端末を操作してみると、指はほとんど迷わず動いた。ホーム画面を開き、ブラウザを起動し、検索欄に文字を入力する方法も知っている。自分が何者なのか分からないのに、スマートフォンの使い方は知っている。
男はしばらく自分の指を見つめた。
何も覚えていない、というわけではないらしい。
では、覚えていることと、覚えていないことの違いは何なのか。
答えは出なかった。
カードケースを開くと、身分証が一枚入っていた。顔写真には鏡で見たのと同じ男が写っている。
氏名――滝本耕一。
「滝本……耕一」
声に出してみたが、懐かしさも違和感もなく、他人の名前を読み上げているようにしか感じられなかった。住所、本籍、生年月日と目を移し、そこで再び手が止まる。生年月日は分かったが、現在の年を知らなかったため、自分が何歳なのかさえすぐには分からなかったのだ。
スマートフォンを見る。2026年。
生年月日と照らし合わせる。
「44歳……」
鏡に映った顔から受ける印象とも、おおむね一致している。滝本耕一、44歳。そこまで分かったところで、男――滝本は身分証をテーブルへ置いた。
名前が分かれば何かが戻ってくるのではないかと期待していたが、何も起こらなかった。住所を見ても同じで、記載されている地名に何の感情も湧かない。
財布には現金が1万円ほど入っており、キャッシュカードが一枚だけ入っていた。スマートフォンには銀行アプリが設定され、残高は30万円。取引履歴には数日前の入金が一件だけあり、その入金元に見慣れない名称が記されていた。
「厚生衛生省……?」
厚生衛生省が行政機関であることは知っている。だが、そこから自分の口座へ金が振り込まれた理由には、まるで心当たりがなかった。滝本はテーブルの書類へ視線を移した。
最上部の紙には、その名称が印刷されていた。
厚生衛生省 国家精神衛生課
その下に「滝本耕一様」とある。
滝本は椅子を引いて腰を下ろし、紙を手に取った。
『セカンド・ライフ』を施行された方へ
最初の一行を読んだだけで、胸の奥に嫌なものが広がった。それでも目を逸らさず、その先へ視線を進める。
【あなたは本日より、新たな人生を開始します。
過去の人生における記憶は、本人の同意に基づき《セカンド・ライフ》施行時に処置されています。
新たな氏名は、滝本耕一。
新しい住所、身分情報、生活環境については、同封された資料をご確認ください。
当面の生活費として30万円が支給されています。
今後の生活に関する説明については、国家精神衛生サービスセンターにて実施します。】
そこまで読むと、滝本は紙をテーブルへ置いた。
しばらく見つめてから、もう一度手に取る。同じ文章を最初から読み返した。
「……本人の、同意?」
事故ではない。病気でもない。少なくとも、この書類が事実なら、自分は自分の意思で過去の記憶を失ったことになる。
椅子にもたれ、天井を見上げた。
「何でだよ……」
自分が本当に44歳なら、それだけの人生があったはずだ。両親がいて、友人がいて、恋人がいたかもしれない。妻や子供がいた可能性だってある。仕事をし、誰かと出会い、失敗し、喜び、腹を立て、何かを好きになり、何かを嫌いながら44年を生きてきた。
そのすべてを、自分の意思で手放した。
しかも、その理由を知っていたはずの自分には、もう辿り着けない。
怖い。
ようやく、その感情をはっきり自覚した。目覚めた直後よりも、自分の名前を知らなかったときよりも、今の方がずっと怖かった。事故で記憶を失ったのなら取り戻せばいい。病気なら治療すればいい。しかし、自分から手放したのだとしたら、そこにはそうしなければならないほどの何かがあったことになる。
残りの資料へ手を伸ばすと、注意事項には過去を調べないことが繰り返し記されていた。
以前の住所を探さない。以前の人間関係を調べない。自分が《セカンド・ライフ》施行者であることを不用意に第三者へ明かさない。過去の記憶へ強い刺激を与える行為は、精神的、神経学的な負担を生じさせる可能性があるという。
そこまでして過去から切り離す必要があるのか。
滝本はスマートフォンへ目を向けた。
検索すればいい。
厚生衛生省。国家精神衛生法。セカンド・ライフ。それだけではない。滝本耕一という名前を検索してもいいし、今なら画像から人間を探す方法だってあるかもしれない。
指をスマートフォンへ伸ばしかけて、止めた。
注意書きが目に入ったからではない。もっと単純に、検索結果に何が出てくるのかが怖かった。
自分が何者だったのか。
そして、なぜその人生を手放したのか。
知りたい。
しかし、知りたくない。
手を引いた瞬間、胸の奥にわずかな安堵が生まれた。過去を知らなくてもいいのだと思った途端、確かに何かが軽くなった。その感情が何より不気味だった。
「……俺は、何から逃げたんだ?」
答える者はいなかった。
そのとき、スマートフォンが突然震えた。肩を跳ねさせて画面を見ると、着信ではなく《本日のご案内》という通知が表示されている。国家精神衛生サービスセンターからのもので、午後に行われるオリエンテーションの時刻、会場、地図へのリンクが記載されていた。
今の自分には何もない。名前も今日知った。年齢も今日知った。この部屋も今日から自分の部屋になった。それなら、少なくとも自分に何が起きたのかくらいは知る必要がある。
滝本は参加手続きを押した。
《受付が完了しました。新しい人生の第一歩を、心よりお祝い申し上げます》
画面に表示された文章をしばらく眺めてから、滝本は小さく息を吐いた。
「……何がおめでたいんだよ」
スマートフォンを伏せてテーブルへ置き、窓の外へ目を向けた。知らない街は、自分に何が起きたかなど関係ないように動き続けている。歩道を行き交う人々には昨日があり、その前の日があり、それぞれが積み重ねてきた人生があるのだろう。
自分にだけ、それがない。
滝本はもう一度、身分証を手に取った。そこに印刷された自分の顔を眺めながら、確かめるように名前を口にする。
「滝本耕一……」
何度呼んでも、まだ自分の名前には聞こえなかった。それでも今日から、この名前で生きていかなければならない。そして、その事実を奇妙なほど冷静に受け入れようとしている自分がいた。
過去を失ったことよりも、そのことの方が、なぜか恐ろしかった。




