「滝本耕一」 手記
人の記憶ほど、曖昧なものはない。
昨日の夕食に何を食べたのか思い出せなくても、10年以上前に交わした何気ない会話だけは、昨日のことのように覚えていることがある。忘れたいと願った出来事がいつまでも頭から離れない一方で、決して忘れたくないと思っていた人の声が、いつの間にか思い出せなくなっていることもある。
記憶は時間とともに薄れていく。それだけではない。少しずつ形を変え、ときには実際にはなかったものまで付け加えながら、本人にとって都合のいい物語へと姿を変えていく。
同じ場所にいて、同じものを見て、同じ時間を過ごした二人でさえ、数年後にはまるで違う出来事として語ることがある。一方が鮮明に覚えている言葉を、もう一方は口にしたことさえ覚えていない。それでも二人とも、自分の記憶こそが正しいと信じて疑わない。
では、そのどちらが事実なのだろう。
記録を残すことはできる。写真や映像、文章として残されたものを見れば、そのとき何があったのか、その一部を確かめることはできる。
けれど、その瞬間に何を感じ、何を考え、何を恐れたのかまで記録してくれるものはない。
それを知っているのは、自分だけだ。
だから人は、自分の記憶を信じる。
それがたとえ、知らないうちに形を変えていたとしても。
では――その記憶を失ったとしたら、人はどうなるのだろう。
名前を忘れる。
家族を忘れる。
愛した人を忘れる。
憎んだ人を忘れる。
何に笑い、何に怒り、何を恐れ、何を求めて生きてきたのか。そのすべてを忘れる。
それでも、同じ人間だと言えるのだろうか。
人を愛した記憶を失えば、その愛情も消えるのか。
誰かを憎んだ理由を忘れれば、憎しみも消えるのか。
犯した罪を忘れた人間は、その罪を犯す以前の人間へ戻ることができるのか。
あるいは――記憶を失ってなお残るものがあるとすれば。
考え方。
癖。
好み。
恐怖。
優しさ。
残酷さ。
本人さえ理由を説明できない何かが、それでもその人間の中に残っているとしたら。
それこそが、その人間の本質なのだろうか。
答えは分からない。
ただ、その問いに答えなければならない。
カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、見知らぬ部屋を照らしていた。
自分が誰なのかさえ、分からなかった。




