八章 十四階
翌朝、滝本がSAコーポレーションへ着いたのは9時を少し過ぎた頃だった。昨日とは違い、正面玄関を抜けても足を止める者はいなかった。受付の女性も一瞬だけ表情を引き締めたものの、すぐに「おはようございます、社長」と頭を下げる。わずか1日で戸神尚人の復帰が社内に広まったらしい。
「おはよう」
自分でも驚くほど自然に答え、入館ゲートへカードをかざした。昨日は開くかどうかさえ不安だったゲートを、今日はほとんど意識せず通り抜ける。戸神尚人として会社へ戻って2日目。たったそれだけのことなのに、人間は思った以上に早く環境へ慣れるものらしい。もっとも、慣れたのはこの建物への入り方だけで、すれ違う社員の顔は相変わらずほとんど分からなかった。向こうはこちらを知っている。自分だけが相手を知らない。その奇妙な関係にも、いずれ慣れてしまうのだろうか。
15階へ上がると、高峰と井川がすでに秘書室にいた。高峰が席を立ち、それに合わせて井川も立ち上がる。
「おはようございます、社長」
「ああ、おはよう」
「本日の予定ですが、午前中は特に入っておりません。九条副社長からも、しばらくは社内の状況を確認する時間に充てていただいて構わないとのことです」
「そうか。ちょうどいい」
滝本は井川へ視線を向けた。
「井川君」
「はい」
「会社の中を見て回りたい。付き合ってくれ」
「承知しました」
戸神が会社を離れていた3か月の間にも、組織や業務には変化があったはずだ。復帰した社長が社内の状況を確認することに不自然さはない。それに滝本自身、社長室に座って資料を読んでいるだけでは何も分からないと思っていた。戸神尚人がどんな会社を作り、どこで何をしていたのか。実際に自分の目で見ておきたかった。
二人は15階を出てエレベーターへ乗り込んだ。扉が閉まり、箱の中に二人だけになる。
「昨日よりは余裕がありそうですね」
遥が階数表示を見たまま言った。
「そう見えるだけだ」
「昨日はもっと酷かったですよ」
「こっちは必死だったんだぞ」
「分かってます」
遥は小さく笑い、14階のボタンを押した。
「まずはここからにしましょう。システム開発の中心です。《Second Life Connect》の開発部門もあります」
滝本は頷いた。
《Second Life Connect》という名前は、遥が調べたSAコーポレーションの事業資料にも載っていた。一般向けの仮想空間型SNSであり、厚生衛生省が管轄する《セカンド・ライフ》とは別のサービスだ。しかし、同じ会社が関わり、名前にも共通する意味がある。
「名前だけじゃなく、技術的にも何かつながりがあるんだろうな」
「同じ会社が開発している以上、共通する技術はあると思います。ただ、どこまで関係しているのかは分かりません」
「その辺りも調べてみるか」
エレベーターが止まり、扉が開いた。
14階は、15階とはまるで雰囲気が違っていた。役員室や応接室が並ぶ上階とは異なり、こちらは実際にシステムを動かしている人間たちのための空間だった。ガラスで区切られた会議室の向こうにはデスクが並び、壁際の大型ディスプレイには複数のグラフやシステムの稼働状況が表示されている。
スーツ姿だけでなく、シャツやパーカー姿の社員も目立ち、キーボードを叩く音や短い打ち合わせの声が絶えず聞こえていた。
戸神の姿に気づき、何人かが作業の手を止める。立ち上がろうとする社員もいた。
「そのままでいい。仕事を続けてくれ」
滝本が言うと、社員たちは軽く頭を下げ、それぞれの画面へ戻っていった。
「だいぶ社長らしくなってきましたね」
遥が小声で言った。
「昨日から何度それを言うんだ」
滝本は前を向いたまま歩き続けた。
フロアの中央付近まで進むと、周囲とは少し造りの違う一角があった。複数の大型モニターに、現実の都市を模した仮想空間が映し出されている。広場や公園、店舗の並ぶ通りを、さまざまな姿のアバターが行き交っていた。
「これが《Second Life Connect》か」
「はい」
滝本は足を止めた。
《Second Life Connect》は2008年にサービスを開始したSAコーポレーションの仮想空間型コミュニケーションサービスだった。現在はPCやスマートフォン、VR機器から利用でき、利用者は自分のアバターを作って仮想空間内で他者と交流する。
プロフィールや投稿、メッセージ、コミュニティといったSNSとしての機能だけでなく、仮想空間内の住宅や店舗、イベントなども提供されている。
基本利用は無料だが、衣装や家具、住宅などには有料のものもあり、企業とのタイアップも行われていた。
近年では、個人同士の交流にとどまらず、企業活動の場としても利用が広がっている。自動翻訳機能によって異なる言語を使う者同士でも会話ができるため、海外企業との商談や国際会議、商品の展示販売などにも活用されていた。現実には遠く離れた場所にいる人間たちが、同じ仮想空間に集まり、言葉の壁を越えて仕事をする。SAコーポレーションにとっては、国内だけでなく世界各国の企業を相手にできる事業でもあった。
「18年か……」
「かなり長いサービスですね」
「その頃から俺は会社にいたんだよな」
「創設者なんですから、当然でしょうね」
滝本はモニターに映る仮想都市を眺めた。何も感じない。昨日、社長室へ入ったときと同じだった。懐かしさもなければ、見覚えがあるという感覚もない。もし戸神尚人がこのサービスの開発に深く関わっていたとしても、その痕跡は意識のどこにも残っていなかった。
少し離れたところで、一人の男がモニターを確認しながら別の社員と話していた。20代半ばほどだろうか。明るい茶色の髪にシャツとネクタイという格好で、遥から渡された社員資料の中にあった顔に見覚えがある。
「君、ちょっといいか」
呼ばれた男はこちらを振り向いた。
戸神が自分を呼んでいると気づいた途端、驚いたように背筋を伸ばす。
「はい」
「少しいいか?」
「はい。もちろんです」
村越良太。《Second Life Connect》のサービス運用を担当している社員だった。直接話すのはこれが初めてだが、それを知っているのは資料を読んだからにすぎない。
「今の《Second Life Connect》について聞きたい。君が担当なんだろ?」
「はい。運用関係を担当しています」
村越は近くのモニターを使いながら、現在の運営状況や開発体制について説明した。話の中で、古くから使われているシステムの保守に苦労していることにも触れた。
「初期のシステムに詳しい人間は?」
「今なら下山ですね。下山拓馬。あいつ、《セカンド・ライフ》の開発にも関わってるんですけど、古いところまで掘るのが好きなんですよ。普通なら触りたくないような昔のコードまで平気で追いますから」
14階の開発部門は、大きく二つのエリアに分かれていた。一つは一般向けの《Second Life Connect》を扱う開発エリア。もう一つは、厚生衛生省との共同事業である《セカンド・ライフ》の開発エリアだった。村越は前者を担当し、下山は両方のシステムに携わっていたが、現在は主に後者で作業をしているという。
「下山拓馬……」
「腕は間違いないです。ちょっと変わってますけど」
村越はそこで、自分が社長を相手に同僚のことを余計に喋ったと気づいたらしい。慌てて言葉を選びながら、仕事に熱心なだけで悪い人間ではないと付け加えた。
「本人にもそう言っておく」
「ちょっ、社長、それは勘弁してくださいよ」
村越が本気で焦った顔をしたので、滝本は思わず笑った。
「冗談だ」
村越もつられるように笑ったが、その直後、不思議そうに戸神の顔を見た。
「社長、そういう冗談言うんですね」
その一言に、滝本の笑みがわずかに止まった。
「……意外か?」
「いや、すみません。俺、社長とまともに話したことなかったんで」
「なら、今のは忘れてくれ」
村越は笑いながら頭を下げた。
滝本は村越と別れ、遥とともに開発エリアの奥へ向かった。
「今の、まずかったか?」
「大丈夫だと思いますよ。村越さん自身が、以前の戸神さんをよく知らないと言ってるんですから」
滝本は頷いたものの、不安が消えたわけではなかった。自分では何が戸神らしくて、何が戸神らしくないのか分からない。誰かと話すたびに、正解の分からない試験を受けているような気分だった。
遥は少し考えてから、記憶を失っていたのだから多少の変化があっても不自然ではないと答えた。以前とまったく同じ人間を演じる必要はないという。
「便利な言い訳だな」
「使えるものは使いましょう」
遥は平然と答えた。
《セカンド・ライフ 開発エリア》と表示された扉の前で滝本がカードをかざすと、緑色のランプが点灯してロックが解除された。中には開発用の端末が並ぶスペースや小さな会議室があり、その先にも通路が続いている。
しばらく歩いたところで、遥が足を止めた。
「こんなところまで来たのは初めてです」
「社員でも?」
「私の仕事は15階が中心ですから。用事もないのに開発部門の奥を歩き回っていたら、それこそ怪しまれます」
「今日は社長の案内だからな」
「やっぱり便利ですね、戸神社長」
「都合よく使うな」
滝本が答えながら前を見ると、通路の突き当たりに、それまでとは明らかに造りの違う扉があった。窓はなく、壁と一体化したような重厚な造りになっている。脇にはカードリーダーのほか、認証用らしい端末が設置されていた。
扉の上に表示された文字を見て、二人は同時に足を止めた。
《国家精神衛生サービス共同管理区画》
「……こんなものが会社の中にあるのか」
遥も表示を見上げていた。
「知ってたか?」
「いいえ。厚衛省との共同研究をしていることは知っていましたけど、専用の管理区画まであるとは」
滝本は扉へ近づいた。これまで調べてきた資料から、厚生衛生省とSAコーポレーションが《セカンド・ライフ》を共同で進めていること自体は分かっている。しかし、一般向けの《Second Life Connect》を開発するフロアのさらに奥に、厚衛省との共同管理区画が存在している。
「入ってみるか」
「大丈夫ですか?」
「自分の会社だぞ」
言いながら滝本はカードを取り出し、読み取り部へかざした。短い電子音が鳴り、先ほどの扉では緑色だったランプが、今度は赤く点灯する。
《アクセス権限がありません》
滝本は表示を見つめた。
「……社長でも駄目、か」
「戸神さんの権限が止められているのかもしれません」
共同管理区画であれば、SA側の役職だけで権限が決まるものではないのかもしれない。遥は認証端末を眺めながら、厚衛省側にも管理者がいるはずだと考えていた。
「そういえば、溝口という名前を何度か見たことがあります」
「溝口?」
「厚衛省側の共同事業担当です。社員ではありません。会議予定や九条副社長宛ての連絡に名前が出ていました。共同事業については、九条副社長と直接やり取りしているみたいです」
滝本は溝口という人物について尋ねたが、遥も名前しか知らなかった。SAの社員ではないため、調べた社内資料にも写真はなく、実際に会ったこともないという。
「その溝口なら、ここへ入れるかもしれないな」
「可能性は高いと思います」
滝本はもう一度、扉へ目を向けた。
再びカードを試すことはしなかった。認証に失敗した記録が残る可能性もある。一度なら、復帰した社長が自分の会社を見て回っていたという理由で押し通せる。
「戻ろう」
滝本は扉に背を向けた。数歩進んだところで、何気なく振り返る。
赤いランプはすでに消えていた。
無機質な扉だけが、何事もなかったようにそこにあった。
15階へ戻ったのは昼を少し過ぎた頃だった。高峰が用意してくれた昼食を社長室で簡単に済ませると、遥は秘書室へ戻り、滝本はデスクに積まれた資料へ目を通した。
戸神尚人が会社を離れていた3か月の間に決裁された案件、取引先との契約、各部署から上がってきた報告。読めば内容は理解できる。数字の意味も分かるし、事業計画を見て不自然だと思う箇所もある。だが、それが以前の自分ならどう判断したのかとなると、まったく分からなかった。
不思議なのは、仕事そのものに強い戸惑いを感じないことだった。資料のどこを見るべきか、複数の数字のうち何が重要なのか、報告書のどこに曖昧な表現があるのか。意識して考える前に目が向き、疑問が浮かぶことがある。
だからといって、戸神尚人の記憶が戻ったわけではない。
コーヒーの好みと同じなのかもしれない、と滝本は思った。覚えていることと、身についていることは別なのだろうか。
考えているうちに、内線が鳴った。
「はい」
『九条です。今、よろしいですか?』
「ああ」
『厚衛省の溝口さんが来ています』
滝本は資料から顔を上げた。
『戸神社長が戻られたと聞いて、直接お会いしたいそうです』
「溝口……」
午前中、14階で聞いた名前だった。
『ご存じですよね?』
一瞬、答えが遅れた。
「ああ。もちろんだ」
『では、社長室へお通しします』
「頼む」
通話を切った滝本は、受話器に手を置いたまま考えた。厚衛省側の共同事業担当。九条と直接やり取りし、戸神尚人とも以前から何度も会っている人物。そして、おそらく14階の共同管理区画にも関係している。
できれば一対一で話したかった。
滝本は引き出しからスマートフォンを取り出した。遥が用意した、二人だけの連絡用端末だった。《セカンド・ライフ》施行後に支給された端末は、遥との連絡には使わないことにしている。
《溝口が来た。俺は一人で話してみる。さっきの14階の区画について、もう少し探ってくれ》
少しして返信が来た。
《分かりました》
滝本は画面を消した。井川沙織を秘書として同席させることもできるが、厚衛省との関係や共同管理区画について探るのであれば、余計な人間がいない方が溝口も話しやすい。それに、戸神自身が入れなかった場所について、遥には別の方向から調べてもらいたかった。
数分後、社長室の扉がノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、30代半ばほどの男だった。濃紺のスーツを着こなし、手には薄いビジネスバッグを持っている。整った身なりと落ち着いた物腰からは、年齢以上の経験を積んできたような印象を受けた。首から下げているのはSAの社員証ではなく、来訪者用のカードだった。
「ご無沙汰しております、戸神社長」
穏やかな声だった。
滝本は立ち上がる。
「久し振りだな」
「九条さんから連絡をいただきまして。まさか本当に戻られているとは思いませんでした」
溝口は笑った。
その顔に見覚えはない。当然だった。九条も高峰も、滝本にとっては資料で覚えた人間にすぎない。だが溝口については、その資料さえなかった。目の前の男が以前の戸神とどの程度の距離感で接していたのかも分からない。
「座ってくれ」
「失礼します」
向かい合ってソファーへ腰を下ろす。
溝口はしばらく滝本の顔を見つめた。その視線には、久し振りに再会した相手の無事を確かめる以上の、何かを見極めようとする慎重さがあった。
「お元気そうで安心しました」
「迷惑をかけたようだな」
「迷惑というより、驚きました。《セカンド・ライフ》の施行後に記憶が戻ったと聞きましたので」
溝口はこの事業に長く関わっているものの、施行後に過去の記憶を取り戻した例は知らないという。その説明を聞きながら、滝本は相手の表情を注意深く観察していた。溝口は穏やかな態度を崩さなかったが、時折、滝本の反応を確かめるように視線を向けてくる。
「なら、私が最初だ」
溝口は一瞬だけ黙った。それから、わずかに目を細めた。
「なぜ社長自ら《セカンド・ライフ》の施行を希望されたのか、今は深く伺いません。まずは無事に戻って来られて、社長としての立場に戻られたこと、安心しております」
滝本は表情を変えなかった。
「では、一つ確認もさせてもらっていいか」
「なんでしょう?」
「《セカンド・ライフ》の開発部門も久し振りに見た。それで奥にある共同管理区画だが」
溝口の表情がわずかに引き締まった。
「私のカードが弾かれた」
溝口は少し姿勢を正した。
現在、戸神尚人の共同事業に関するアクセス権限は停止されているという。
《セカンド・ライフ》の施行を受けた時点で、機密区画への立ち入り権限が失われたらしい。厚衛省との共同事業である以上、SA側の役職だけで自由に出入りできる場所ではなかった。
「社長でも?」
「社長でも、です」
滝本は背もたれへ身体を預けた。
「もし必要であればアクセス権を戻す手続きをいたしますが、今回の件は前例がなく、記憶が回復した経緯を確認した上で厚衛省側とSA側の双方で判断する必要があるかと思います」
溝口個人の判断で決められるものではなかった。
滝本はそれ以上追及しなかった。
「急ぐことはないが万が一の時のために申請はしておいてくれ」
とだけ返した。
「かしこまりました」
溝口は腕時計へ目を落とした。
「すみません。もう戻らないと」
「厚衛省か?」
「ええ。今日は元々こちらへ来る予定ではなかったので、仕事を残してきています」
「わざわざ悪かったな」
「いえ。社長がお元気なのを確認できただけでも十分です」
溝口は立ち上がり、ビジネスバッグを手に取った。
「また近いうちに」
「ああ」
扉の前まで歩いたところで、溝口が振り返った。
「戸神社長」
「何だ?」
「本当に、記憶が戻って良かった」
穏やかな笑みだった。
「ありがとう」
溝口は頭を下げ、部屋を出ていった。
社長室を出た溝口は、秘書室の前を通りかかったところで足を止めた。扉が開き、一人の女性が出てきたのだ。手には薄いファイルを持っており、中身を確かめながら歩いているため、こちらには気づいていない。
溝口はその姿を見た瞬間、動きを止めた。何かを確かめるように目を細める。ほんの数秒のことだったが、その表情からは先ほどまでの穏やかさが消えていた。
女性が顔を上げかけた。
溝口は反射的に身を翻し、廊下の角へ入った。足音が近づき、そのまま通り過ぎていく。しばらくして廊下へ目を向けると、女性はエレベーターホールへ向かって歩いていた。途中で社員らしい男とすれ違い、軽く会釈する。その仕草を見届けてから、溝口はゆっくりと息を吐いた。
女性の姿が見えなくなっても、しばらくその場を離れなかった。やがて腕時計へ目を落とし、何事もなかったようにエレベーターへ向かった。
社長室では、滝本が閉じた扉を見つめていた。
会話に致命的な失敗はなかったはずだ。それでも、九条と話したときとは違う疲労が残っていた。何を知っているのか分からない相手と、自分が何を知っていることになっているのか分からないまま話す。それだけで神経を削られる。
スマートフォンを取り出し、遥へメッセージを送った。
《終わった。戻っていい》
少しして返信が来た。
《分かりました。こっちも少し分かりました》
滝本は画面を見つめた。すぐに電話をかけたい衝動を抑える。社内で何を監視されているか分からない以上、必要以上の連絡は避けた方がいい。
スマートフォンを伏せ、窓の外へ目を向けた。共同管理区画。厚生衛生省。溝口。会社へ戻れば何か分かると思っていた。実際、分かったことはある。しかし、扉を一つ開けるたび、その向こうにもう一つ扉が現れるようだった。
SAコーポレーションを出た溝口は、地下駐車場から車を出してしばらく走った後、人通りの少ない道路脇へ車を寄せた。ハザードを点け、運転席に座ったままフロントガラスの向こうを見つめる。
違和感が消えなかった。
会話した内容だけを拾えば、特に不自然なところはない。顔も声も戸神尚人そのものだった。何気ない受け答えの中には、以前の戸神を思わせる部分さえあった。それでも、何かが違う。仕草なのか、言葉の間なのか。それとも、自分が知っている戸神尚人なら当然そこにあるはずの何かが欠けているのか。具体的に説明しろと言われれば答えられない。ただ、目の前にいた男を以前と同じ戸神尚人だと受け入れることが、どうしてもできなかった。
溝口はスマートフォンを取り出し、履歴から一件を選んで発信した。数回の呼び出し音の後、相手が出る。
「私です。ええ、会ってきました。ですが……どうも腑に落ちないというか。戸神は本当に記憶を戻したのか疑問を感じています」
相手の返答を聞きながら、溝口はサイドミラーへ目を向けた。後方を走る車が何台か通り過ぎていく。
「監視は続けます。ただ、こちらから直接関与するのは避けておいた方がいいでしょう。逆に怪しまれては今後に差し支えますので」
短いやり取りの後、通話を終えた。
助手席に置いていたビジネスバッグを引き寄せ、書類の束を取り出す。戸神尚人に対して《セカンド・ライフ》が施行された際の記録だった。
処置は確かに行われている。
記録上も異常はなく、施行後の戸神が自分の名前すら認識できなくなっていたことも確認されている。
ならば、本当に記憶が戻ったのか。それとも――戻った振りをしているのか。
溝口は書類を束へ戻し、しばらく考えた後、バッグの中からもう一つのファイルを取り出した。膝の上へ置き、表紙へ目を落とす。
《セカンド・ライフ施行予定候補者リスト》
そこに記された文字を、溝口はしばらく無言で見つめていた。
先ほどSAコーポレーションで見かけた女性の姿が、再び脳裏に浮かんだ。
……なぜ、あそこにいたのか。
溝口はファイルを鞄へ戻し、ハザードランプを消した。車を発進させると、バックミラーの中でSAコーポレーションの入るビルが少しずつ遠ざかっていった。




