↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Second-Life  作者: 杜音
第一部 第二の人生

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/17

十五章 新山圭介

 翌朝、湯澤はいつもどおり店を開けた。

昨夜SAを出たのは日付が変わる少し前で、帰宅してから眠ったのは2時を過ぎていたはずだが、6時半には目が覚めた。3年間続けてきた習慣というのは厄介なもので、睡眠時間が足りていようがいまいが、身体は決まった時間に起きようとする。シャッターを上げ、店内の照明を点け、カウンターを拭いてからコーヒーマシンの状態を確認する。豆の残量を確かめ、冷蔵庫から昨日仕込んでおいたものを取り出す。毎朝繰り返してきた作業だけに、いちいち考えなくても身体が勝手に動いた。

 それが今朝は、妙に気になった。昨夜、SAの14階で滝本から言われた言葉が頭に残っていたからだ。

「本当に覚えてないんだよな」

 昔の仕事について尋ねられ、何も覚えていないと答えた。それは嘘ではない。湯澤浩二として目覚める以前の記憶は、今も何一つ戻っていない。それなのに昨夜の自分は、共同管理区画の認証端末を見ただけで、何を確認すればいいのか、どこから先へ踏み込めば痕跡を残す可能性があるのかを自然に判断していた。誰かに教わった記憶はなく、専門書を読んで身につけた覚えもない。ただ、分かったのだ。

 考えてみれば、似たようなことは以前からあった。店を始めた頃から機械の扱いには妙に慣れていたし、新しいレジを導入したときも説明書をほとんど読まずに設定できた。店のネットワークに不具合が起きれば自分で原因を探し、ホームページも、必要に迫られて触っているうちに形になった。これまでは単に自分がそういうことを得意としているのだと思っていたが、その器用さの中に前の人生が混じっている可能性など考えたこともなかった。

 湯澤はコーヒー豆をミルへ入れた。スイッチを押すと低い駆動音が静かな店内に広がり、やがて挽いた豆の香りが漂い始める。コーヒーの淹れ方そのものは湯澤浩二になってから覚えたものだ。それでも、機械を扱うことへの抵抗のなさや、手順を組み立てていく考え方まで、本当にこの人生で身につけたものなのだろうか。

 以前の自分が何者だったのかについて、興味がなかったわけではない。むしろ最初の頃は何度も考えた。大企業の経営者だったのではないか、研究者だったのではないか、あるいは映画に出てくるような凄腕のハッカーだったのではないか。そんな馬鹿げた想像をしていた時期もあったが、3年も暮らすうちに、次第にどうでもよくなった。湯澤浩二として生活ができ、店を持ち、常連客ができ、毎朝ここへ来てコーヒーを淹れる。それで十分だと思えるようになったからだ。

 過去を知らなくても、人は生きていける。少なくとも自分はそうしてきた。だが昨夜、SAの14階を歩いてから、その考えの中に小さな引っかかりが生まれている。あの場所を懐かしいとは思わなかったし、見覚えもなかった。それなのに、自分の身体と頭だけが、あの場所で使われている言葉を理解していた。

「今さらか……」

 誰に聞かせるでもなく呟いたところで、ミルが止まった。湯澤は挽き終えた豆を取り出し、いつもの朝と同じように開店準備を続けた。

 昼を過ぎて客足が途切れた頃、カウンターの端に置いていたスマートフォンが震えた。遥からのメッセージだった。

《今日、時間ありますか?》

 湯澤は時計を確認してから、《15時以降なら》と返信した。すぐに既読がつき、《滝本さんと行きます》と返ってくる。

《何か分かったの?》

 今度は少し間があった。

《湯澤さんに関係することです》

 その一文を見たまま、湯澤の指が止まった。昨夜から考え続けていたことを、まるで向こうから追いかけてきたようだった。


 15時を少し過ぎた頃、店の扉が開いた。遥が先に入り、その後ろから滝本が続く。午後の予定を調整して抜けてきたらしく、二人とも仕事中の服装だった。

「いらっしゃいませ」

「客じゃない」

「それでも店に入ったら客だよ」

「じゃあ、コーヒー」

「私もお願いします」

 湯澤は苦笑しながら二人分のコーヒーを用意した。幸い店内には他に客の姿がなかった。湯澤は二人をカウンターの奥へ座らせ、コーヒーを出してから、自分もカウンター越しに向き合った。

「それで、僕に関係することって何?」

 滝本は一口コーヒーを飲んでから、スマートフォンを取り出した。

「昨日のことが気になってな。あんた、14階でシステムを見たとき、何を確認すればいいのか自然に分かってただろ」

「そのことなら、僕も今朝から考えてた」

「やっぱりか」

「自分でも少し気持ち悪くなってきたんだ。覚えてないのに、どうして分かるんだろうって」

「だから調べてみた」

 滝本はスマートフォンをカウンターの上へ置いた。

「昨晩、ふと思ったんだ。あんたは以前、SAで働いていたんじゃないかってな。帰る前に社員記録を検索して、今朝、続きを確かめた」

「僕が?」

「ああ。14階の設備を見たときの反応が、どうも気になってな。単にコンピューターに詳しいというだけじゃなく、あの会社のシステムを知っているようにも見えた。それで、過去の社員記録を調べてみたんだ」

「私もそれは確認しましたが、現社員のデータが保存されている場所にはありませんでした」

「社長の権限なら見れたんだよ。これは最初に気付くべきだった。それで開発部門に所属していた退職者を中心に、顔写真付きの記録を調べていたら、見覚えのある顔が出てきた」

 滝本が画面を湯澤の方へ向けた。

 そこには古い社員情報が表示されていた。顔写真の男は今より少し若く、髪型も違えば眼鏡も掛けていない。それでも、他人と見間違えるような顔ではない。湯澤は画面を覗き込んだまま動かなくなり、やがて無意識に自分の頬へ触れた。

「……これ、僕?」

「そう見える」

「随分若いな」

 口から出たのは、そんな言葉だった。驚いていないわけではない。ただ、それ以外に何と言えばいいのか分からなかった。写真の男が自分だということは理解できるのに、見ていても懐かしさはなく、知らない人間の写真を見せられているような感覚しかない。


挿絵(By みてみん)


「名前は?」

 湯澤に尋ねられ、滝本が画面を拡大した。

 新山圭介。

 湯澤はしばらく、その名前を見つめていた。

「新山……圭介」

 自分の口から出た名前なのに、その響きにさえ覚えがなかった。

「何か思い出します?」

 遥に尋ねられ、湯澤は首を振った。

「何も。名前を見ても、他人の名前みたいだ」

 滝本には、その感覚がよく分かった。自分が戸神尚人だと知らされたときも同じだった。顔写真を見せられ、年齢や経歴を調べても、それは自分の人生ではなく、知らない男の情報を読んでいるようにしか感じられなかった。

「新山圭介は、SAの開発部門にいた。それも、普通の開発部門じゃない」

「どういうこと?」

「厚衛省との共同事業だ。《セカンド・ライフ》の開発に関わっていたらしい」

「……記憶を消す方の?」

「ああ」

 湯澤は画面から顔を上げた。

「どの程度、関わってたんだ?」

「かなり深いところまでだ。単なるプログラマーじゃない。基盤側の設計にも名前が出てくる。認証、対象者の情報管理、処理履歴の管理。複数の開発記録に新山圭介の名前が残っていた」

「じゃあ、本当にハッカーじゃなかったんだな」

 湯澤が残念そうに言うと、遥が眉を寄せた。

「ハッカーだと思ってたんですか?」

「少しくらい夢を見てもいいだろ」

「十分すごい仕事してるじゃないですか」

「まあ、そうなんだけどね」

 軽く返したものの、湯澤の視線は写真から離れなかった。

新山圭介。SAコーポレーション。《セカンド・ライフ》の開発担当。それだけでも、昨夜の自分の行動には説明がつく。認証システムや情報管理の仕組みを見たときに手順が自然と浮かぶのは、何年もそれを仕事にしていたからかもしれない。

 だが、そう考えた瞬間、別の疑問が生まれた。

「ちょっと待って」

 湯澤が顔を上げる。

「僕は《セカンド・ライフ》を作る側にいたんだよね?」

「ああ」

「それなのに、今はその施行を受けて、湯澤浩二として生きてる」

 滝本は黙って頷いた。

「記録上、新山圭介がSAを退職したのは3年前だ。湯澤浩二としてのあんたの記録が始まった時期とも重なってる」

 湯澤は画面を見たまま尋ねた。

「新山圭介は、普通に退職した?」

「人事記録上はな。ただ、俺が確認できた範囲では少し妙だった」

 言いながら滝本は別の資料を取り出した。

「人事情報には退職日が記載されていた。だが、開発部門に残っている資料には、引き継ぎの記録が見当たらなかったんだ。それだけなら資料が残っていないだけとも考えられるが、新山が関わっていたプロジェクトの記録も同じ時期に途切れている。仕事を終えて辞めたというより、それまで普通に仕事をしていた人間が、ある日を境にいなくなったように見える」

 湯澤の表情から、少しずつ笑みが消えていった。自分の過去について話しているはずなのに、知らない人間の失踪事件を聞かされているようだった。

「僕は自分から《セカンド・ライフ》を受けたのか?」

「分からない」

 滝本は一度言葉を切った。

「逆の可能性もある」

「逆?」

「自分の意思じゃなかった可能性だ」

 湯澤が黙る。店の奥で冷蔵庫のモーターが低く唸り、やがて止まった。

「どっちだと思う?」

 滝本は首を振った。

「自分から受けたと決める材料もないし、無理やり受けさせられたと決める材料もない」

 湯澤はしばらく黙っていたが、やがて画面に映る新山圭介を見ながら小さく息を吐いた。

「……何も覚えてないと、理由まで自分で埋めたくなるな」

「分かるよ」

 滝本も自分のコーヒーカップへ視線を落とした。

「俺も戸神について何か知るたびに、それが自分の記憶だったような気がしてくることがある。戸神の家で暮らし始めてからは特にな。知らないはずの物が自分の好みに合ったり、初めて使うはずの物が妙に馴染んだりする。そのたびに、思い出したのか、ただ知っただけなのか、自分でも分からなくなる」

 湯澤は黙って聞いている。

「だから、分からないことは分からないままにしておいた方がいい。都合のいい答えで空白を埋めたら、それまで自分の記憶だと思い始めるかもしれない」

 湯澤は滝本を見て、僅かに笑った。

「滝本さんに言われると、妙に納得するな」

「同じ立場だからな」

 滝本も小さく笑ったが、すぐに表情を戻した。二人は同じように過去を失っている。それでも違うのは、滝本には戸神尚人という過去が次々と押し寄せてきているのに対し、湯澤にはこれまで何もなかったことだ。新山圭介という名前を知ったことで、初めて彼にも過去を探すための入口ができた。

「他には何か分かった?」

 湯澤が尋ねた。

「住所は残ってた。ただ、今は別の人間が住んでるようだ。家族構成についても、社員情報から分かる範囲では近い親族は確認できなかった」

「友人は?」

「そこまでは分からない」

「会社なら、同僚がいるんじゃないですか?」

 遥が言った。

「3年前なら、まだ在籍している人もいるでしょう」

「いるだろうな。ただ、俺が社内で新山圭介について聞き回るのは危ない」

「どうしてです?」

「戸神尚人なら知っていた可能性が高いからだ」

 その一言で遥も理解したようだった。《セカンド・ライフ》の開発に深く関わっていた人間なら、社長だった戸神が知らない方が不自然だ。記憶が戻ったと言って会社へ復帰している以上、今さら社員に新山の経歴を尋ねれば、戸神の記憶そのものを疑われかねない。

「だったら、自分で調べるよ」

 湯澤が言った。

「新山圭介を?」

「うん。今まで過去に興味がなかったわけじゃない。でも、知らなくても困らなかったから、無理に探そうとは思わなかった。それがSAの人間だったと分かったら話は別だよ。《セカンド・ライフ》を作る側にいた人間が、どうして記憶を失って湯澤浩二になったのか。理由くらいは知りたい」

 滝本は何も言わずに頷いた。その気持ちも理解できる。自分も同じ理由でここまで来た。なぜ戸神尚人は滝本耕一になったのか。

 湯澤の場合、新山圭介という名前が判明したことで、ようやくその問いを持てるようになった。それまで彼には、問いかける相手の名前さえなかったのだ。


 店を閉めたのは20時を少し過ぎた頃だった。遥と滝本は午後のうちに会社へ戻っていたが、湯澤はいつもより長くカウンターに残っていた。照明を半分だけ落とし、店の奥に置いてあるノートパソコンを開くと、検索欄へ《新山圭介》と入力する。

 変換された名前を見ていると、自分自身を検索しているはずなのに、他人について調べているような妙な感覚があった。


挿絵(By みてみん)


 検索結果は多くなかった。同姓同名の別人が何人か表示され、古い大会記録や会社役員、SNSのプロフィールなどが並んでいる。年齢や地域から明らかに違うものを除いていくと、やがて何年も前に開催された技術系イベントの記録へ辿り着いた。登壇者の一覧に《SA Corporation 新山圭介》と記載されている。ようやくお目当ての自分の情報が出てきたが、これは過去の情報がネット上からも消されているのか、それともただ単にネットに出るような人物ではなかったのか。とはいえ、ネット上の痕跡は、容易には消せない。

 ページを開くと、テーマは大規模な情報処理システムにおける個人データの管理と、認証基盤の設計についてだった。登壇資料そのものはすでに公開を終了していたが、別の検索結果には当時の開発者向けの記事が残っていた。そこにも新山圭介の名前があり、所属はSAコーポレーションとなっている。

 湯澤は記事を読み進めていったが、途中から別のことが気になり始めた。書かれている内容が分かる。それも専門用語の意味が理解できるという程度ではなく、文章の先で何を説明しようとしているのか、途中まで読めば予測できる。古い技術について書かれている箇所では、今なら別の方法を使うのに、と無意識に考えている自分さえいた。

「気持ち悪いな……」

 湯澤は椅子にもたれた。記憶はない。それなのに、知らないはずの男が携わっていた技術を理解し、その考え方にまで妙な親和性を覚えている。

 記憶を失っても、すべてが消えるわけではない。技術だけではなく、考え方や判断の癖、物事を見る順序まで残るのだとしたら、それらは記憶とは別の場所にあるのだろうか。あるいは、自分では思い出せないだけで、どこかに残っている過去が今も行動を決めているのだろうか。

 答えは出ない。

 湯澤は検索結果へ戻り、さらに古い記録を辿った。本人と思われるSNSのアカウントは見つからず、会社関係の情報だけが断片的に残っている。それだけを見れば、新山圭介という人間には仕事しかなかったようにも思えるが、そんなはずはない。会社を出れば生活があり、友人もいただろう。休日には誰かと出かけたかもしれないし、恋人がいた可能性だってある。

 そこまで考えたところで、湯澤は手を止めた。

 もし、誰かがいたのだとしたら。

 新山圭介が《セカンド・ライフ》を施行されたあと、その人間から見れば彼はどうなったのだろう。

 死んだわけではない。今もこうして生きている。それでも名前が変わり、住所も電話番号も変わり、過去の人間関係をすべて忘れている。誰かが必死に探していたとしても、自分はそのことさえ知らない。

 湯澤は顔を上げ、暗くなった店内を見回した。

3年間、この場所でコーヒーを淹れてきた。毎朝店を開け、客を迎え、夜になれば片づけて帰る。しかも皮肉なことに、SAコーポレーションのすぐ近くでだ。だが、もし新山圭介を探している人間がいたとしても、湯澤浩二という名前を知らなければここまで辿り着くことはできない。

 それは死ぬこととは違う。だが、残された人間にとっても同じなのだろうか。

 湯澤はその考えを振り払うように画面へ視線を戻した。

同じ場所を調べていると写真も掲載されていた。前列と後列に十数人の男女が並んでいる。画質はそれほど良くないが、後列の端に立っている男が誰なのかはすぐに分かった。

 新山圭介だ。今より若い自分が、そこに立っていた。

 湯澤は写真を拡大した。笑ってはいないが、不機嫌そうでもない。カメラを向けられたから仕方なく列に加わったような、どこか所在なさげな表情をしている。

「愛想ないな」

 思わず笑ったものの、その笑みはすぐに消えた。写真の中にいるのは間違いなく自分なのに、会場も知らなければ、隣に立っている人間も知らない。この日、自分が何を話し、誰と会い、何を考えて帰ったのかも分からない。そこに自分がいたという事実だけを、記憶ではなく写真の方が覚えている。

 湯澤は長い間、その写真を見つめていた。

 やがてノートパソコンを閉じ、カウンターへ戻った。洗い終えたカップが伏せてあり、明日の朝になれば、またここでコーヒーを淹れる。新山圭介という名前を知ったからといって、その生活を捨てたいとは思わない。新山圭介に戻りたいとも思わなかった。そもそも、自分にとっては知らない人間の人生なのだから、戻るという感覚そのものがない。

 ただ、一つだけ昨日までとは違っていた。新山圭介は、もう想像の中にいる過去の自分ではない。実在していた。SAコーポレーションで働き、《セカンド・ライフ》の開発に関わり、そして3年前、仕事の途中で突然記録から姿を消している。その先に、湯澤浩二がいる。

 湯澤は店内の照明を消した。暗闇の中で、窓だけが通りの明かりをぼんやりと反射している。扉へ向かいかけてから足を止め、もう一度だけ、先ほど画面で見た名前を思い浮かべた。

「新山圭介、か」

 声に出してみても、記憶は何一つ戻らなかった。それでもその名前はもう、完全な他人のものには聞こえなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。