十四章 共同管理区画
戸神尚人の家で暮らし始めて、数日が経っていた。
会社へ戻った以上、厚生衛生省から与えられた滝本耕一の部屋から通勤するわけにはいかなかった。
SAコーポレーションの社員たちには、戸神は3か月の療養を終えて復帰したことになっている。会社へ戻りながら住む場所だけが以前と違えば、余計な疑念を招く可能性がある。
そう考えて移ったものの、滝本はいまだにこの場所を自宅と呼ぶことができずにいた。
都心から少し離れた住宅街に建つ一戸建てで、44歳の独身男が一人で暮らすには十分すぎる広さがある。室内に華美な装飾はなく、家具も必要なものだけが揃えられていた。社長という肩書から想像していたより、ずっと生活感の薄い家だった。
初めて足を踏み入れた夜、滝本は玄関でしばらく動けなかった。知らない家だった。それなのに、ここが戸神尚人の家である以上、本来なら自分が何年も暮らしていた場所ということになる。玄関からリビングへ続く廊下も、階段の位置も、窓から見える景色も、何一つ覚えていない。懐かしさを覚えることさえなかった。
だが、数日暮らしてみると、別の気味の悪さが生まれた。
クローゼットに並ぶ服は当然のように身体へ合い、選ぼうとすると自分の好みに近いものへ手が伸びる。洗面台には見覚えのない整髪料や髭剃りが置かれているのに、使っていて違和感がない。キッチンの棚には酒も置かれていたが、甘いものはほとんどなく、冷蔵庫の中身も自分が買い足そうと思ったものと妙に重なっていた。
知らない男の生活に入り込んでいるはずなのに、その男の選んだものが自分に馴染む。
そのことを、滝本はなるべく考えないようにしていた。
家の中を詳しく調べてもいない。書斎らしい部屋もあり、棚や収納には戸神の私物が残されている。最初の夜に扉を開けたものの、中へ入らず閉めた。何かを見れば記憶が戻るかもしれないという期待がなかったわけではない。だが今は、戸神尚人について知ることと、自分の記憶を取り戻すことの境界が曖昧になり始めている。
写真や記録を先に見てしまえば、それを後から思い出したと錯覚する可能性さえある。
溝口に問われた言葉が、そこでも頭に残っていた。
――戻った記憶と、あとから知ったことの区別はつきますか?
あの質問をされてから、滝本は以前より慎重になっていた。
今夜も帰宅してから書斎へは入らず、リビングで簡単な食事を済ませた。時計は21時を回っている。SAの社員たちも、ほとんど帰宅している頃だろう。
ダイニングテーブルの上に置いていたスマートフォンの画面を点けると、遥からメッセージが届いていた。
《湯澤さん、予定どおり来られるそうです》
滝本は短く返信した。
《22時半に》
送信してから、椅子の背に掛けていたジャケットを取った。
今夜、会社へ戻る。
目的は14階の奥にある《国家精神衛生サービス共同管理区画》だった。
数日前、開発フロアで見つけた扉。戸神尚人の社員証をかざしても、認証端末には《アクセス権限がありません》と表示された。
社長であるはずの自分が入れない区画。
その向こうで何が行われているのか、確かめる必要があった。
22時26分、滝本がSA本社の入るオフィスビルへ着くと、遥はすでにエントランス前で待っていた。
昼間とは違い、ガラス張りのエントランスホールにはほとんど人影がない。照明も一部が落とされ、受付カウンターは無人になっている。奥の警備室だけに明かりがあり、監視モニターの光がガラス越しに見えていた。
「遅かったですね」
「4分前だぞ」
「社長は人を待たせないものかと思ってました」
「社長は最後に来るものだ」
遥が小さく笑った。ここ数日、会社では井川沙織として接しているせいか、こうして外で遥の顔を見ると、それだけで少し肩の力が抜ける。
「湯澤さんは?」
「向こうです」
遥が視線を向けた先に、湯澤が立っていた。いつもの店で見るシャツ姿ではなく、濃い色のジャケットを羽織り、肩からノートパソコンの入ったバッグを下げている。
「何だか、本当に仕事に来たみたいですね」
「少なくとも警備員にはそう説明してくれ」
「分かってる」
滝本は二人を連れて正面玄関へ向かった。
夜間用の認証端末へ社員証をかざすと、戸神尚人の名前と顔写真が表示され、ロックが解除された。警備室にいた警備員が画面へ目を向け、わずかに背筋を伸ばした。
遥も井川沙織の社員証で続く。湯澤だけは来訪者のため、警備室で手続きが必要だった。
警備員は湯澤の身分証を確認し、端末へ来訪記録を入力した。このビルにはSAコーポレーション以外にも多くの企業が入居しており、夜間でも外部の人間が出入りすることは珍しくない。
訪問先には《15F 社長室》、用件には《空調設備点検》と表示される。
警備員から渡された来訪者カードを、湯澤が首から下げた。手続きはそれだけで終わった。
三人は警備室を離れ、エレベーターホールへ向かった。
「普通に入れるんだな」
扉が閉じてから湯澤が言った。
「何を期待してたんだ?」
「もう少しこう、裏口から忍び込んだりするのかと」
「映画の見すぎです」
遥が呆れたように言う。
「俺はここの社長で、朝田さんは社員だ。正面から入れる人間が裏口を探してたら、その方が怪しいだろ」
「それもそうか」
湯澤は苦笑した。
滝本は15階のボタンを押した。
「ただし、今夜の目的を警備員に知られるわけにはいかない」
その言葉で、二人の表情が変わった。
「入館記録は残った。監視カメラにも映ってる。だから、何かあっても説明できるようにしておく」
「空調設備の点検ですね」
遥が言った。
「ああ。14階と15階の空調制御を確認してもらったことにする。夜間なら業務の邪魔にもならない」
「それなら、俺が来た理由にもなるな」
湯澤が肩に掛けたバッグを軽く持ち上げた。
「ただし、実際に設備をいじったことにはしない方がいい。点検記録を求められたら困る」
「分かってる。あくまで不具合の確認だ」
今回調べに来たのはSAコーポレーションの14階と15階のみにした。オリエンテーションが行われた13階はSAコーポレーションの施設ではなく、各テナントの共用フロアだった。会議や発表会といったときにどのテナントも借りられるようになっている。今回はその13階は確認不要だろうという判断だった。
エレベーターが15階へ到着した。
滝本は二人を社長室へ通した。照明を点け、テーブルの上に湯澤のバッグを置かせる。
「まず確認しておきたいことがある」
滝本は二人を見た。
「今夜は無理に扉を開けるつもりはない。何か見つかっても、危険だと思ったらそこでやめる」
湯澤は頷いた。
「朝田さんもいいな」
「はい」
遥は頷いたが、どこか不満そうだった。
「ただ、何も分からないまま帰るのは嫌ですけど」
「俺だってそうだ」
滝本は社長室の時計を確認した。
「行こう」
三人は非常階段から14階へ下りた。フロアへ続く扉には社員証で解錠する電子錠が設けられていた。滝本がカードをかざすと、短い電子音とともにロックが外れ、三人は続けて中へ入った。
昼間の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。
照明は大半が落ち、通路と一部の作業スペースだけに夜間照明が残っている。無数のモニターが並んでいたデスクも今は暗く、空調設備の低い音だけが聞こえていた。
滝本は先頭を歩いた。
《Second Life Connect》の開発エリアを抜け、さらに奥へ進む。昼間には社員が行き交っていたため気づかなかったが、夜になるとフロアの広さが際立つ。自分たちの足音だけが床へ響き、少し離れたところにある複合機の待機ランプが暗闇の中で点滅していた。
やがて、あの扉が見えた。
《国家精神衛生サービス共同管理区画》
その下に、SAコーポレーションと厚生衛生省の名称が並んでいる。
滝本は扉の脇にある認証端末へ目を向けたが、社員証には手を伸ばさなかった。
数日前、同じ端末に戸神尚人のカードをかざし、《アクセス権限がありません》と弾かれている。結果が変わる理由はない。それどころか、この区画だけは入退室の管理が厳重かもしれない。こんな時間にもう一度試す必要はなかった。
湯澤は扉へ近づいたものの、端末へ触れることはしなかった。認証装置、扉の構造、天井付近へ視線を動かしながら、しばらく黙って確認している。
「無理に触るのはやめた方がいいな」
「開けられない?」
「開ける方法だけを考えるなら、何かあるかもしれない。でも、問題は扉じゃない。こういう区画なら、普通のオフィスとは違って入退室の履歴も残しているはずだ。認証端末だけどうにかしても、管理側に異常が残ったら意味がない」
「じゃあ、何もできないんですか?」
遥が尋ねた。
湯澤はすぐには答えず、暗い開発フロアを振り返った。
「いや、調べる場所を変えればいい」
「どういう意味だ?」
「この区画が完全に独立してるなら、今夜できることはほとんどない。でも、14階の開発部門と何らかのデータをやり取りしてるなら、どこかに接点があるはずだ。まず、それを探す」
「そんなことが分かるのか?」
「調べてみないと。ただ、設備の配置や管理の仕方から、ある程度の見当はつくかもしれない」
滝本は共同管理区画の扉を見た。
社長の権限で開けられない場所へ、無理に入り込む。最初はそれしか方法がないと思っていた。しかし、湯澤の言うとおり、扉の向こう側だけが調査の対象とは限らない。
「分かった。見てくれ」
三人は共同管理区画の前を離れ、《セカンド・ライフ》の開発エリアへ戻った。一般向けサービスの開発区画と接する場所だが、この列に並ぶ端末は共同事業の作業に使われている。
湯澤は手近な社員の端末へ触れるようなことはせず、フロア内の設備や端末の配置を確認しながらゆっくり歩いていく。何を見ているのか滝本にはよく分からなかったが、喫茶店でコーヒーを淹れているときとは別人のようだった。視線の動きも判断の速さも違う。
「本当に覚えてないんだよな」
「何が?」
「昔の仕事」
湯澤は足を止めずに答えた。
「何も」
「それで、そこまで分かるのか?」
「分かるというより、こういうものを見ると、何を確認すればいいかが自然に浮かぶんだ。誰に教わったのかも、いつ覚えたのかも分からないけど」
滝本は下山との会話と、屋上で溝口から言われた言葉を思い出した。
以前の戸神と同じ言葉を口にしたと下山に言われたこと。そして、自分の何気ない返答を溝口が「戸神さんらしい」と評したこと。
自分もまた、知らないはずの何かに従って行動しているのかもしれない。
「俺も似たようなものかもしれない」
湯澤は一瞬だけ滝本を見たが、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、その足が止まった。
「……これは?」
湯澤が見ている先には、他と変わらないように見える一台の端末があった。二台のモニターが並び、本体は足元のラックへ収められている。机の端には、小さな人型のフィギュアが置かれていた。
《Second Life Connect》のロゴが入った台座。
滝本はすぐに誰の席か気づいた。
「下山の端末だ」
「下山?」
「ここの開発担当だ」
湯澤は端末そのものには触れず、周囲の構成を確認した。
「この席だけ、他と少し違う」
「何が?」
「足元の機器。他の席にはないものがある」
滝本も覗き込んだ。
ラックの奥に、薄い金属製の装置が収められている。ケーブルが何本か接続されていたが、滝本には何の装置なのか分からなかった。
「普通の開発用じゃないのか?」
「そうかもしれない。ただ、他の席とは配線の取り回しも違う。個別の検証環境か、別のシステムと接続するための機器か……」
「共同管理区画と関係あるのか?」
「まだ分からない」
湯澤は立ち上がった。
「少なくとも、この席だけ別の用途があるように見える」
滝本と遥が顔を見合わせた。
最初から下山を疑ってここへ来たわけではない。だが、共同管理区画との接点を探した先にあったのが、下山拓馬の席だった。
「確認できるか?」
「この状態では、接続先までは分からない」
湯澤は少し考えてから続けた。
「端末を起動したり、機器へ接続したりすれば、もっと調べられるかもしれない。ただ、何を記録しているシステムなのか分からない以上、触らない方がいいだろうな」
「痕跡が残る?」
「その可能性がある。誰がいつアクセスしたのか、記録されているかもしれない」
滝本は下山の席を見た。
昼間、戸神尚人を見る下山の目には、単なる社員が社長へ向けるものとは違う熱があった。だが、それと今見つかった事実が結びつくのかは分からない。
「なら、やめよう」
遥が滝本を見る。
「いいんですか?」
「今ここで欲を出して、明日全部バレたら終わりだ。下山の席だけ他と違う。それが分かっただけでも十分だ」
湯澤も頷いた。
「今夜は調べられる範囲を見極めるだけにする」
滝本はもう一度、下山の席を見た。何かがある。だが、今はそれ以上のことを確かめられない。
「14階の奥に入れないなら、15階へ戻りましょう」
遥は通路の先を見た。
「厚衛省の人間が来る場所なら、上にもあります」
三人は非常階段から15階へ戻った。
ここは滝本にとって、昼間なら自由に歩ける場所だ。社長室もある。夜に来たところで、それ自体は不自然ではない。ただし、他人の部屋を調べているところを見られれば話は別だった。
15階へ出ると、廊下の照明だけが残されていた。
滝本は社長室を通り過ぎ、その先へ進んだ。九条の副社長室、高峰と井川が使う秘書スペース、会議室。そして、厚衛省との打ち合わせに使われる部屋が並んでいる。
遥が一つの扉の前で足を止めた。
「ここです」
プレートには《共同事業連絡室》とある。
「溝口さんが来たとき、ここを使っています」
「専用の部屋なのか?」
「完全な専用ではないと思います。厚衛省との打ち合わせや、共同事業関係の来客にも使っています。ただ、溝口さんが来る日はここが押さえられていることが多いです」
滝本はドアノブへ手をかけた。
開かない。
「鍵か」
「電子錠じゃないな」
湯澤が扉を確認する。
「普通の鍵だ」
滝本は一度手を離した。
「九条なら、鍵を持ってるかもしれないな」
湯澤は廊下に並ぶ扉を見渡した。
「社長室や副社長室の電子錠は、単純にロックを解除するだけのものだ。入退室の記録までは残していないはずだ」
「調べてみるか」
滝本は副社長室へ向かった。
扉の認証端末へ役員カードをかざす。短い電子音が鳴り、ロックが解除された。
「入れるんですね」
遥が言った。
「少なくとも、こっちはな」
滝本は扉を開けた。
中には九条らしい整然とした空間が広がっていた。机の上に書類はほとんどなく、壁際のキャビネットもすべて閉じられている。
昼間なら何度も入ったことのある部屋だが、主のいない深夜に立つと印象が違う。
「手分けするぞ。ただし、元の位置は絶対に変えるな」
遥はキャビネット、湯澤は室内の設備、滝本はデスクを調べ始めた。
引き出しの多くは施錠されていなかった。文房具、名刺、会議資料。どれも仕事で使うものばかりで、秘密らしい秘密は見つからない。
最後の引き出しだけが開かなかった。
「鍵がかかってる」
滝本が呟いたとき、遥が声を抑えて呼んだ。
「滝本さん」
振り返ると、遥がキャビネットの内側を指している。
奥に、小さな革製のケースが置かれていた。
開くと、中には二本の鍵が入っていた。
「これじゃないですか?」
滝本は一本を手に取り、デスクの鍵穴へ差し込んだ。
入らない。
もう一本も同じだった。
「違うな」
「何の鍵でしょう」
「分からない」
湯澤が近づき、鍵を見た。
「片方は小型の保管庫か何かだな。もう片方は……普通の部屋の鍵にも見える」
滝本は二本を手のひらへ載せた。
「さっきの部屋の鍵か」
遥が顔を上げた。
「共同事業連絡室ですか?」
「ああ。試してみる価値はある」
「でも、戻しに来なきゃいけませんよ」
「分かってる。使えなければすぐ戻す」
滝本はケースの置かれていた位置を確認し、二本の鍵を持って副社長室を出た。
共同事業連絡室の前へ戻り、鍵穴に一本目を差し込む。
回らなかった。
二本目を試す。小さな金属音がした。
滝本と遥は思わず顔を見合わせた。
「九条が鍵を持ってたんだな」
「共同事業なら、不自然ではないですけど」
「問題は中だな」
滝本はゆっくり扉を開けた。
部屋は小さな会議室に近かった。
デスクが一つと、四人掛けのテーブル。壁際には鍵付きの収納棚が並び、厚衛省とSAの共同事業に関する冊子やファイルが収められている。
その奥に、見慣れない装置が置かれていた。
滝本の足が止まった。
診察用のリクライニングチェアに似た椅子。その周囲に複数の機器が組み合わされ、頭部の位置にはセンサーらしきものが配置されている。
遥も言葉を失っていた。
「これ……」
滝本はゆっくり近づいた。
目覚めた直後の自分には、施行されたときの記憶がない。だから実際にどんな装置が使われたのかも知らない。
それでも、用途を想像するのは難しくなかった。
「《セカンド・ライフ》の装置か?」
湯澤が背後から覗き込む。
「そう見えるな」
遥が装置の脇にある小さなプレートを確認した。
《国家精神衛生サービス 施行説明用モデル》
「説明用?」
滝本は眉を寄せた。
湯澤が装置の周囲を確認する。
「本物ではなさそうだ」
「どういうことだ?」
「見た目はそれらしく作られているけど、頭部のユニットに必要な配線がほとんどない。少なくとも、この状態で何かの処置ができる装置には見えないな」
「模型ってことか」
「おそらく。説明やデモ用ってところだろう」
滝本は椅子を見つめた。
最初に見た瞬間、自分がここへ座らされていたのではないかという考えが浮かんだ。だが、それすら外見から勝手に作った想像にすぎない。
まただ。
知ったことと、思い出したこと。
その境界が曖昧になる。
滝本は装置から目を逸らした。
「ここじゃない」
「何がです?」
「本当に施行してる場所だよ。少なくとも、これは違う」
遥が周囲を見回した。
「だったら、やっぱり14階の奥……」
「その可能性はある。でも、まだ決めつけられない」
滝本は収納棚へ視線を移した。
背表紙には《共同事業運用概要》《国家精神衛生サービス説明資料》などの文字が並んでいる。いくつか手に取ってみたが、書かれているのは制度の概要や運用手順についての一般的な説明ばかりだった。
少なくとも、施行を受けた人間の個人情報や、記憶処理の具体的な内容は見当たらない。
「これじゃ、表向きの説明と変わらないな」
滝本はファイルを元の場所へ戻した。
そのときだった。
廊下の遠くで、小さな音がした。
三人とも動きを止める。
「何だ?」
滝本が声を落とした。
湯澤は扉の方へ耳を澄ませた。
「エレベーターの方だ」
滝本は時計を見た。23時を回っている。
清掃員か警備員なら珍しくはない。しかし、今いる場所を見られるわけにはいかなかった。
「出るぞ」
滝本は小声で言った。
装置にも棚にも触れた跡が残っていないことを確認し、三人は共同事業連絡室を出た。滝本が鍵を閉める。
廊下の先にあるエレベーターの階数表示が、13から14へ変わった。
「朝田さんたちは階段で14階へ」
「滝本さんは?」
「九条の部屋から鍵を持ってきたままだ。これを戻しに行く」
「でも――」
「早く」
遥は一瞬迷ったが、湯澤とともに非常階段へ向かった。
滝本は反対方向へ歩き出した。
15。
表示が変わる。
エレベーターの到着音が、静まり返った廊下に響いた。
滝本は社長室へ向かった。
鍵を開けて中へ入ればいい。自分の会社なのだから、夜遅くまで仕事をしていても不自然ではない。
そう考えたが、廊下の向こうから足音が聞こえた瞬間、身体が止まった。
間に合わない。
滝本はすぐ脇にある秘書スペースへ入り、デスクの陰へ身を落とした。
自分でも何をしているのかと思った。ここは自分の会社で、自分は社長だ。見つかったところで、会社にいること自体は何もおかしくない。
だが万が一九条だった場合、副社長室から鍵を持ってきてしまっている。言い訳できなくはないが、できれば避けたいところだ。
足音が近づく。
滝本は息を潜めた。
廊下を歩いてきた人物が、秘書スペースの前を通過する。その横顔が一瞬だけ見えた。
――溝口だった。
滝本は動かなかった。顔を出して声をかけてもよかったが、なぜかそうしなかった。
溝口はそのまま廊下の奥へ進んでいく。やがて足音が止まり、金属製の鍵が回る音がした。
共同事業連絡室。
先ほどまで自分たちがいた部屋だ。
扉が閉じる。
滝本は暗がりの中でゆっくり息を吐いた。
なぜ、こんな時間に溝口が。
共同事業を担当する厚衛省の人間なのだから、夜間にSAを訪れること自体があり得ないとは言えない。まして、あの部屋は厚衛省との共同事業に使われている。溝口が鍵を持っていることにも説明はつく。
それでも、23時を過ぎて一人でここへ来る理由までは分からなかった。
自分たちがここにいることを知っているのか。
その考えが浮かんだが、滝本はすぐに打ち消した。
まだ決めつけるな。
スマートフォンが震えた。
遥からのメッセージだった。
《14階の階段にいます。大丈夫ですか?》
滝本は画面の明るさを最低まで落とした。
《溝口だ》
数秒後。
《え?》
《共同事業連絡室に入った》
返信はしばらく来なかった。
《どうします?》
滝本は考えた。
《待つ》
それしかなかった。
時間の流れが異様に遅く感じられた。
5分、10分。
秘書スペースの床にしゃがんだまま、滝本は廊下の気配を探っていた。何度か立ち上がろうとしたが、そのたびに思い直した。
15分ほど経った頃、ようやく扉が開く音がした。
足音が戻ってくる。何やら話し声が聞こえる。
滝本は再び身を低くして、隙間から確認した。
溝口はどうやら電話をしているようだった。
「はい、誰もいませんでした。ええ、ええ……。戻ります」
溝口は秘書スペースの前を通過し、そのままエレベーターホールへ向かった。
到着音。
扉が閉まる。
階数表示が14、13と下がっていく。
それでも滝本はすぐには動かなかった。1階まで下がったことを確認してから立ち上がる。
遥へメッセージを送った。
《降りた。動く》
すぐに返信が来た。
《分かりました》
滝本は共同事業連絡室の前まで行った。
扉は施錠されている。
当然だ。
だが、その扉を見つめる目は、先ほどまでとは違っていた。
溝口は厚衛省の人間だ。この部屋を使うこと自体は不自然ではない。それでも、23時を過ぎて一人でここへ来る理由までは分からない。
そして、先ほどの電話だ。
――誰もいませんでした。
誰もいないことを、わざわざ誰かに報告していた。
それは、この部屋に誰かがいる可能性を考えていたということなのだろうか。
もしそうなら、なぜだ。
自分たちがここへ入ったことを、誰かが知っていたのか。
滝本は廊下の天井を見上げた。
監視カメラがこちらを向いている。昼間から存在していた、ごく普通のカメラだ。秘書スペースの手前に設置されており、その奥へ進む人物を捉えることはできる。ただ、各部屋の扉までは映らない位置にある。
少なくとも、共同事業連絡室へ入ったところを、このカメラに直接撮影されたわけではないはずだ。
だが、それだけで安心できるものでもなかった。
自分たちが夜間に来社したことは記録されている。廊下を歩く姿も、どこかのカメラに残っているかもしれない。
それでも、溝口がここへ来たことと、自分たちの行動を結びつける証拠はない。
偶然かもしれない。別の用件だったのかもしれない。
滝本はもう一度、共同事業連絡室の扉を見た。
今は何も分からない。だが、あの電話の言葉だけは、妙に耳に残っていた。
副社長室へ戻り、持ち出した二本の鍵を元のケースへ収めた。
滝本は部屋を出て、扉が施錠されたことを確認した。
それから非常階段へ向かった。
14階の階段では、遥と湯澤が待っていた。
「遅いですよ」
「15分くらいだ」
「隠れてる側の15分は長いんです」
「俺も隠れてたんだけどな」
滝本は階段へ腰を下ろした。湯澤が隣に立つ。
「溝口さんという人が?」
「ああ。厚衛省の人間だ。共同管理区画にも関わってる」
「なんでこの時間に?」
「分からない。ただ、誰かに電話で報告していた」
「報告?」
「『誰もいませんでした』とな。まるで、誰かを探しに来たみたいな言い方だった」
遥が眉を寄せた。
「私たちのことですか?」
「それは分からない。偶然、別の用事で来た可能性もある」
滝本は二人を見た。
「ただ、今夜のことは知られたと思っておいた方がいいかもしれない」
湯澤が頷いた。
「その方が慎重に動けるな」
「でも、もし本当に知られていたら……」
遥の言葉に、滝本は首を振った。
「今は考えても仕方ない。分かってることだけ持って帰ろう」
今夜分かったことは少なくない。
下山の席には、一般の開発環境とは異なる用途を思わせる機器がある。九条は共同事業連絡室の鍵を持っている。そして、その部屋には《セカンド・ライフ》の施行装置を模した説明用モデルが置かれていた。
どれも決定的な証拠ではない。だが、14階の奥にある共同管理区画が、SAの通常の開発業務とは別の何かにつながっている可能性は、以前より強く感じられた。
溝口の深夜の訪問も気になる。それが自分たちと関係しているのかどうか、今は判断できなかった。
「帰るぞ」
「14階の共同管理区画は?」
遥が尋ねる。
「入れないものは仕方ない」
「諦めるんですか?」
「逆だ」
滝本は14階へ続く扉を見た。
「正面から開かないなら、開けられる人間を調べる」
下山。九条。溝口。
立場の違う三人の周囲に、14階の奥へつながるものが少しずつ見え始めている。ただ、それが同じ線なのか、それぞれ別の線なのかはまだ分からない。
「それと、今夜のことが後から問題になる可能性はある」
滝本は二人を見た。
「会社へ来た理由を聞かれたら、空調設備の点検だと答えてくれ。14階と15階の両方を確認した。俺はそのあと、社長室で少し仕事を済ませた。それだけだ」
「分かった」
湯澤が答えた。
遥も頷く。
「明日は何事もなかったように出社します」
「頼む」
滝本は階段を上がり始めた。
「どこへ?」
遥が尋ねる。
「社長室だ。仕事をしたことにするんだから、少しくらい本当に仕事をして帰る」
「律儀ですね」
「社長だからな」
滝本がそう答えると、遥は小さく笑った。
滝本は15階の社長室へ戻り、しばらく仕事をしてから退館した。
今夜も、扉の向こうへ入ることはできなかった。
それでも、昼間にはただ閉ざされているだけだった《国家精神衛生サービス共同管理区画》が、今は少し違って見える。
扉そのものを開ける必要はないのかもしれない。
そこへ出入りする人間を辿れば、いずれ向こう側にあるものへ届く。
滝本はそう考えながら、社長室に向かった。




