十三章 多くの中の一つ
村越良太は椅子の背にもたれ、ディスプレイの中に立つ女のアバターを眺めていた。淡い色の髪に、白を基調とした簡素な服。派手な装飾品を身につけているわけでもなければ、特別に珍しい容姿を選んでいるわけでもない。それなのに、今の《Second Life Connect》でYumiほど注目を集めているユーザーはいなかった。
理由は、また一つ増えた。
《In the beginning, Deity has created the heaven and the earth.》
Yumiの日記に、新しい一文が書き加えられていた。
「初めに、神は天と地を創造した……か」
良太は翻訳結果を見ながら呟いた。最初の《Words fly away, the written remains.》も意味が分からなかったが、今回も負けず劣らず意味が分からない。ただ、最初の言葉が投稿されたときとは状況が違っていた。Yumiの存在はすでに一部のユーザーの間で知られ始め、その正体や言葉の意味について、いくつものコミュニティで議論されている。
良太は検索画面を開いた。《Yumi》と入力しただけで、関連する投稿が次々と表示された。
「運営の仕込みではないか」「何かのイベントが始まるのではないか」「暗号ではないか」。中には、Yumiが《Second Life Connect》そのものについて何かを告発しようとしているのではないかと推測する者までいる。
そこまで大げさな話ではないだろう、と良太は思う。しかし、運営側の人間としては放置しづらくなってきた。
良太自身も《Second Life Connect》ではRyoというアバターを使っており、SAコーポレーションのスタッフであることを公表している。ユーザーとの交流やイベントの進行、問い合わせへの対応などが主な役割で、いわば運営と利用者の間に立つ案内役だった。そのRyoのもとへ、ここ数日Yumiについての質問が相次いでいる。
《Yumiは運営アカウントですか?》
《次の公式イベントの伏線?》
《運営が違うなら否定してください》
良太は机の上に置いてあったペットボトルを手に取り、一口飲んだ。面白がっているだけなら構わない。しかし、運営が一般ユーザーを装って話題を作っているという疑惑が広がるのは困る。《Second Life Connect》は現実とは違う名前と姿で人間関係を作れる場所だからこそ、運営側がどこまでユーザーの世界へ介入しているかについては敏感な利用者も多い。
何より、良太自身もYumiが何者なのか知らなかった。
管理画面から確認できる範囲では、通常の手続きを経て作られた一般ユーザーのアカウントにしか見えない。登録されてからまだ日が浅く、他のユーザーとの交流もほとんどない。その一方で、アバターや仮想空間内のアイテムにはそれなりの金額を使っている。妙な使い方ではないが、入ったばかりの利用者としては珍しかった。
良太はYumiのアバターを拡大し、しばらく眺めた。
「何がしたいんだ、お前」
当然、画面の中の女は答えなかった。
夕方、遥のスマートフォンに通知が届いた。仕事を終え、SAの入るビルを出たところだった。人の流れから外れて画面を確認すると、《Second Life Connect》からの通知が表示されている。Yumiの日記が更新されたという知らせだった。
《In the beginning, Deity has created the heaven and the earth.》
遥は足を止めた。意味を調べるのに時間はかからなかった。
――初めに、神は天と地を創造した。
遥はしばらく画面を見つめた。
神。
その言葉から真っ先に連想した人物がいる。
戸神尚人。
《Second Life Connect》を生み出したSAコーポレーションの創設者であり、国家事業である《セカンド・ライフ》の開発にも深く関わった人物。二つの異なる仕組みを生み出した人間を「神」と表現しているのだとすれば、意味が通らないわけではない。
最初の言葉は「言葉は飛び去るが、書かれた文字は留まる」。そして今度は「初めに神は天と地を創造した」。どちらも古い格言や引用に由来する言葉らしいが、意味の上ではまるでつながっていない。
遥は滝本へ送ろうとして、指を止めた。
また二人で意味を考えたところで、答えが出るとは思えなかった。それより気になったのは、《Second Life Connect》の中でYumiを巡る騒ぎが予想以上に大きくなっていることだった。
検索をかけると、すでに多くの投稿が表示された。
「神とは運営会社のことではないか」
「仮想世界を作った開発者を指している」
「天と地とは現実と仮想世界ではないか」
中には戸神尚人の名前を挙げている者までいる。
遥はその投稿を開きかけ、別の知らせに気づいた。
《Yumiさんに関するお問い合わせについて》
投稿者はRyo。《Second Life Connect》の運営スタッフであることを公表しているアカウントだった。YumiはSAコーポレーションが用意した宣伝用アカウントではなく、現在行われている公式イベントとも無関係であること。ユーザー間で憶測が広がっているため、今夜19時から中央公園で簡単な説明を行うことが記されていた。
遥は時刻を確認した。
18時27分。
今度は迷わず滝本へメッセージを送った。
《Yumiが新しい言葉を残しました。今夜、Second Life Connect内で運営から説明があるみたいです》
数分もしないうちに返信が来た。
《見る》
それだけだった。
遥はスマートフォンをバッグへ戻し、駅へ向かった。
19時を少し回った頃、《Second Life Connect》の中央公園には普段とは比較にならない数のアバターが集まっていた。
滝本は自宅のテーブルにノートパソコンを置き、画面の中の人混みを眺めていた。遥もどこかから接続しているはずだが、わざわざ探そうとはしなかった。
《Second Life Connect》を利用し始めてから、それほど長い時間は経っていない。それでも、この世界の作りには少しずつ慣れてきた。現実の都市をそのまま再現しているわけではなく、広場や公園、店舗、住宅区画などが配置され、ユーザーはそこで会話をしたり、買い物をしたり、イベントへ参加したりする。現実とは違う名前と姿を選び、そこで新しい人間関係を作っている者も少なくない。
滝本にとっては、そこに奇妙な皮肉があった。
過去を失い、新しい名前を与えられた自分と、現実とは別の名前と姿を選んで生きる《Second Life Connect》の住人たち。片方は国家の制度によって与えられた人生で、もう片方は自ら選んで入る仮想世界だが、どちらにも「別の自分として生きる」という共通点がある。
戸神尚人は、その両方に関わっている。
偶然とは思えなかった。ただ、二つの仕組みが実際につながっているという証拠は、今のところ何もない。
公園中央に設けられた小さなステージへ、Ryoという名前のアバターが上がった。
《皆様、お待たせしました。Ryoです》
チャット欄に文章が表示されると、周囲のアバターが拍手のアクションを始めた。クラッカーのエフェクトが弾け、少し遅れて別の場所から花火が上がる。真面目な説明会というより、すでにイベントとして楽しんでいる者の方が多いらしい。
《本日は、最近皆様の間で話題になっているYumiさんについて、運営から簡単にご説明します。最初にお伝えしておきますが、YumiさんはSAコーポレーションが運用している公式アカウントではありません。また、現在予定されているイベント、キャンペーン等とも関係ありません》
すぐにチャット欄が流れ始めた。
《じゃあ本当に一般ユーザー?》
《運営が知らないって逆に怖い》
《本人呼んでよ》
《今日来るの?》
Ryoは少し間を置いてから続けた。
《Yumiさんご本人にも、本日19時から説明を行うことを事前にお伝えしています。ただ、現在まで返答はいただいていません》
またチャットが流れる。
滝本はそれを眺めながら、妙な光景だと思った。数100人の人間が、顔も名前も知らない一人の女を待っている。現実なら異様な状況だが、ここでは誰もが別の名前と姿をしている。Yumiが現れたところで、その向こう側にいる人間が誰なのかは分からない。それでも彼女が残したわずかな言葉だけで、これだけの人間が集まっていた。
そのとき、公園の端で人の流れが僅かに動いた。
一人のアバターが歩いてくる。
滝本は無意識に身体を前へ傾けた。白を基調とした服に、淡い色の髪。頭上に表示された名前を見た瞬間、チャット欄が一気に加速した。
《Yumi》
《来た》
《本人?》
《Yumiだ》
《マジで来た》
文字が次々と流れ、花火やクラッカーのエフェクトが画面を埋めていく。Ryoもすぐには反応できなかったらしく、ステージの上で立ったまま動かない。
Yumiは周囲の反応を無視して、そのままステージへ向かった。階段を上がり、Ryoの隣まで進んだところで足を止める。
Ryoが何かを入力している。数秒後、チャット欄に文章が現れた。
《Yumiさん、来ていただいてありがとうございます。もしよろしければ、皆さんに何か――》
返事はなかった。
Yumiは動かない。
周囲のアバターも次第に動きを止めていった。さっきまで飛び交っていたチャットも目に見えて減り、公園に奇妙な緊張が広がっていく。滝本の部屋にはパソコンのファンが回る音があり、画面の中では環境音が流れ続けている。それでも、何100人もの意識が一人のアバターへ集中していることだけは伝わってきた。
やがて、Yumiの名前で新しい文章が表示された。
《One of many.》
それだけだった。
滝本は画面を見つめた。
――多くの中の一つ。
直後、沈黙していたチャット欄が爆発したように流れ始めた。
《どういう意味?》
《三つ目?》
《また格言?》
《多くの中の一つって何が?》
《神の次がこれ?》
《暗号だろ絶対》
Ryoも問いかける。
《Yumiさん、それはどういう意味ですか?》
Yumiは答えなかった。
滝本は椅子に座ったまま、これまでの言葉を頭の中へ並べてみた。
《Words fly away, the written remains.》
《In the beginning, Deity has created the heaven and the earth.》
《One of many.》
言葉は飛び去るが、書かれた文字は留まる。
初めに、神は天と地を創造した。
多くの中の一つ。
意味だけを追えば、つながっているようには見えない。最初は言葉と記録について、次は神と創造、そして今度は多くの中の一つ。Yumiが何かを伝えようとしているようには思えるのに、何を伝えようとしているのかは、言葉が増えるほど分からなくなっていく。
スマートフォンが震えた。
遥からだった。
《見てますか?》
《見てる》
《三つ目です》
《ああ》
滝本は返信してから、もう一度Yumiを見た。何百ものアバターに囲まれながら、彼女だけが動いていない。
続けて遥からメッセージが届いた。
《二つ目の「神」は、戸神さんのことだと思いますか?》
滝本はすぐには返信しなかった。
その解釈は自分も考えていた。《Second Life Connect》を作り、《セカンド・ライフ》の開発にも関わった戸神尚人を、世界の創造者になぞらえて「神」と呼んでいる。そう考えれば筋は通る。
だが、なぜか引っかかった。
《分からない》
そう返したあと、少し考えてもう一文送った。
《でも、もしそうなら気持ち悪いな》
《気持ち悪い?》
理由を説明しようとして、滝本は指を止めた。神と呼ばれることが大げさだからではない。自分とは別人だと思っていた戸神尚人が、周囲の人間の言葉によって少しずつ自分へ近づいてきているように感じるからかもしれない。
屋上で溝口に言われた言葉が蘇った。
――戸神さんらしい答えですね。
下山からは、以前の戸神と同じ言葉を口にしたと言われた。そして今、Yumiが残した「神」という言葉まで戸神を指しているのだとすれば、自分の知らない男の輪郭だけが、周囲から少しずつ形を与えられていく。
《戸神を神と呼ぶ人間がいるなら、そいつは戸神をどう見てたんだろうな》
それだけ送った。
遥からの返信はすぐには来なかった。
画面の中では、Yumiを取り囲むようにアバターが集まり始めていた。直接話しかける者もいれば、隣で写真を撮ろうとする者もいる。Ryoは混乱を抑えようとしているが、すでに説明会どころではなくなっていた。その中心にいるYumiだけが、何の反応も示さない。
やがてYumiが動いた。
人垣を抜けるようにステージを降り、そのまま公園の出口へ向かって歩き始める。Ryoが呼び止めるメッセージを送ったが、返事はない。何人かのユーザーが後を追ったものの、Yumiは立ち止まらなかった。
滝本も自分のアバターを動かそうとして、やめた。追いかけたところで意味はない。画面の向こうにいる人間が誰なのか、自分たちはまだ何も知らないのだから。
やがてYumiのアバターが公園から消えた。
残されたユーザーたちは、それぞれの解釈をチャットへ書き込み始めた。神とは誰なのか。多くの中の一つとは何なのか。三つの文章にはつながりがあるのか。推測は時間が経つほど増え、同じ言葉からまったく違う意味が生まれていく。
滝本はその様子をしばらく眺めたあと、Yumiのプロフィールを開いた。
三つの言葉が並んでいる。
何度読み返しても、答えは見えなかった。
一つ目の言葉から遥は記憶操作との関係を疑い、二つ目の「神」からは戸神尚人が連想された。そして三つ目は、多くの中の何か一つを指しているようにも読める。しかし、それらが本当に正しい解釈なのか、それとも自分たちが知っている情報へ無理に結びつけているだけなのか、確かめる術はない。
滝本は、言葉の意味ではなく、並び方にも目を向けた。それでも、三つの文章を結ぶ規則は見つからなかった。
滝本は三つの文章をメモへコピーし、順番を変えずに保存した。これ以上考えても同じところを回るだけだと思い、ノートパソコンを閉じようとしたところで、もう一度だけ二つ目の文章へ目が止まった。
《In the beginning, Deity has created the heaven and the earth.》
初めに、神は天と地を創造した。
もし、この「神」が戸神尚人を指しているのなら、Yumiは戸神の存在を意識しているのかもしれない。
滝本はしばらく画面を見つめていた。
何100人ものユーザーが同じ言葉を読み、それぞれに異なる意味を見いだしている。自分もまた、その一人にすぎない。
Yumiが何を伝えようとしているのか。それとも、そもそも誰かに何かを伝えるつもりがあるのか。
今はまだ、何も分からなかった。




