十二章 溝口
昼を過ぎた頃、滝本はようやく手元の資料から顔を上げた。
朝から社長室に籠もり、九条が用意した報告書や各部署から上がってきた決裁資料に目を通していた。合間には《セカンド・ライフ》に関する資料を調べ、気になる記述を見つければ関連する文書を探す。そうしているうちに、いつの間にか昼を過ぎていた。
滝本は椅子の背にもたれ、大きく息を吐いた。
慣れない会社経営の仕事は、想像していたよりもずっと神経を使う。だが、不思議と苦痛ではなかった。数字を追い、複数の資料を比較し、問題になりそうな箇所を拾い出す。分からないことも多かったが、それを調べ、考え、自分なりに答えを出していく作業には、どこか面白ささえ感じていた。
ふと、滝本は妙なことに気づいた。
仕事をしている間、自分が記憶を失っていることを忘れていたのだ。
もちろん、《セカンド・ライフ》について調べているのだから、記憶のことをまったく考えなかったわけではない。ただ、目の前の資料を読み、仕事を進めている間は、自分が滝本耕一であることも、戸神尚人として生きていることも、ほとんど意識していなかった。
ただ、目の前の仕事に夢中になっていた。
「……なるほどな」
思わず独り言が漏れた。
仕事に夢中になって、家族や恋人を蔑ろにしてしまう人間がいる。この数日の自分なら、どうしてそこまで仕事を優先するのか不思議に思っただろう。だが、今なら少し分かる気がした。
目の前にやるべきことがあり、それを片づければ次の課題が見つかる。考え始めれば時間を忘れ、気づけばほかのことが頭から抜け落ちている。誰かを大切に思っていないわけではない。ただ、その瞬間は仕事以外のことが見えなくなってしまうのだ。
滝本は机に広げられた資料を眺めた。
きっと、以前の自分もそういう人間だったのだろう。
家族や恋人に、以前の自分がどう接していたのかは分からない。それでも、こうして仕事に没頭している自分を見ると、何となく想像がついた。
「ろくでもない奴だったのかもな」
滝本は苦笑した。
もっとも、今の自分がそのことを笑える立場なのかも怪しい。こうしている間にも、遥は兄の行方を追っている。自分は協力すると約束しておきながら、目の前の仕事に夢中になっていたのだから。
滝本はペンを置き、窓の外を見た。
秋晴れだった。薄い雲が高いところを流れ、その下にビルが連なっている。時計を見ると、昼休みの時間はとうに過ぎていた。
少し休憩しよう。
コーヒーでも飲もうかと思ったが、朝から何杯も飲んでいる。どうせなら外の空気を吸いたかった。
滝本は椅子から立ち上がり、社長室を出た。
廊下へ出ると、高峰が顔を上げた。
「少し出てくる」
「外出ですか?」
「いや、ちょっとその辺。休憩だよ」
高峰は軽く頷いた。
「承知しました」
滝本はエレベーターへ向かいかけ、廊下の奥にある階段の表示に気づいた。最上階は15階だが、その先へ階段が続いている。非常階段の扉には《屋上》と表示されていた。
そういえば、屋上には行ったことがなかった。
何となく、その扉を開けた。
コンクリートの階段を上がり、もう一枚の重い扉を押す。途端に冷たい風が顔へ当たり、滝本は思わず目を細めた。
屋上は想像していたより広かった。空調設備や給水設備が並ぶ一角を除けば何もなく、外周には高いフェンスが設けられている。社員向けの休憩スペースというわけでもないらしく、ベンチすら置かれていなかった。それでも扉に鍵はなく、立入禁止の表示もない。
滝本はゆっくりとフェンスの方へ歩いた。15階の窓から見ていたものと同じ街のはずなのに、ガラスが一枚なくなるだけで印象が変わる。風の音に混じって、遥か下を走る車の音が聞こえてくる。遠くには高層ビルが霞み、その隙間を縫うように道路と鉄道が伸びていた。
戸神尚人も、この景色を見たことがあるのだろうか。
そう考えてみたが、何も浮かばなかった。懐かしさも、胸騒ぎもない。ただ、社長室にいるよりは息がしやすかった。
フェンスの手前まで来たところで、人の気配に気づいた。給水設備の陰になっていて、扉からは見えなかったらしい。少し離れた場所に男が一人立っていた。背を向けて街を眺めていたが、足音に気づいたのか、ゆっくり振り返る。
滝本は足を止めた。
「……溝口」
男も僅かに目を見開いた。
「戸神さん」
先日会った厚生衛生省の男だった。
溝口は驚いた様子を見せたものの、それ以上の反応はなかった。手には何も持っていない。首から下げた来訪者用のカードが風に揺れている。SAの社員ではないことを示すそれを見て、滝本は今日も九条との打ち合わせか何かで来ているのだろうと思った。
「こんなところで何してるんだ?」
「それはこちらの台詞ですよ」
「俺の会社だぞ」
「そうでした」
溝口は微かに笑い、再び街へ視線を戻した。
滝本は引き返そうかとも思ったが、やめた。わざわざ逃げる理由もない。数メートル離れた場所まで歩き、同じようにフェンスの向こうを眺める。互いに話すこともなく、しばらく風の音だけが続いた。
「ここ、好きでしたよね」
溝口が不意に言った。
滝本は横を見なかった。
「そうか」
「よく来ていたでしょう」
試されているのか。その考えが浮かんだが、すぐには決めつけなかった。溝口にしてみれば、過去を知る相手との何気ない会話なのかもしれない。こちらが過剰に反応すれば、それこそ不自然になる。滝本は眼下の街へ視線を落とし、少し間を置いてから答えた。
「今も悪くないと思ってるよ」
溝口から返事はなかった。風が強く吹き、フェンスが低く鳴る。滝本は乱れた髪を押さえながら、何気なく隣を見た。溝口は相変わらず街を見ている。今の返答をどう受け取ったのか、その横顔からは読み取れなかった。
「今日は九条に?」
「ええ。定例の会議です」
「それで屋上か」
「会議の合間の休憩ですよ」
「役所の人間が、他人の会社でずいぶんくつろいでるな」
「戸神さんに教えてもらった場所ですから」
まただ。過去の戸神を知っているという事実を、溝口はことさら強調しているわけではない。それでも会話の端々に、自分の知らない時間が入り込んでくる。滝本はそれ以上、屋上の話を続けなかった。
沈黙は気まずくなかった。むしろ溝口という男には、無理に会話を続けない方が似合っているように思えた。先日会ったときもそうだった。必要以上に喋らず、こちらの言葉を聞いてから答える。九条とは違う。九条が会話の主導権を握ろうとする人間なら、溝口は相手が何を話すのかを待ち、その中から必要なものだけを拾う人間だった。その違いに気づいたとき、滝本は少し警戒した。
「記憶が戻るというのは、どんな感じなんです?」
溝口は街を見たまま尋ねた。唐突な質問だったが、声には探るような響きがない。厚衛省で《セカンド・ライフ》に関わる人間なら、尋ねても不自然ではない質問だった。
「少しずつだよ。最初から全部思い出したわけじゃない」
「何かを見たことがきっかけで?」
「場所だったり、人だったり。いろいろだな」
「なるほど」
そこで終わるかと思ったが、溝口は僅かに間を置いて続けた。
「戻った記憶と、あとから知ったことの区別はつきますか?」
滝本はすぐには答えなかった。自分が今知っている戸神尚人についての情報。そのほとんどは、記憶を取り戻したものではない。遥から聞いたこと、インターネットで調べたこと、SAへ戻ってから知ったことだ。もし具体的な記憶について話せば、それが本当に戸神の経験と一致するのか、溝口には確認できる可能性がある。
最初の質問は入口だったのかもしれない。
滝本はようやく隣を見た。溝口もこちらを見ていたが、穏やかな表情に変化はない。
「つかないものもあるな」
「つかない?」
「思い出したと思ってることが、本当に自分の記憶なのかなんて証明できないだろ。誰かから聞いた話を、いつの間にか自分の記憶だと思い込んでるかもしれない。人の記憶なんて、そんなに正確なものなのか?」
「正確ではないでしょうね」
「なら、俺にだって分からないよ」
嘘を隠すために答えたはずだった。だが、口にしてみると、それは奇妙なほど自分の中へ馴染んだ。自分が本当に経験したことなのか、誰かに聞いたことなのか、何度も思い返すうちに作り変えてしまったものなのか。そもそも人間は、記憶を失っていなくても自分の過去を正確に覚えているものなのだろうか。
溝口はしばらく滝本を見ていた。
「戸神さんらしい答えですね」
その一言に、滝本の思考が止まった。今の答えは誰かから教わったものではない。資料で読んだものでもない。質問された瞬間に、自分で考えて出した答えだった。それを、溝口は戸神らしいと言った。
「そうか?」
できるだけ何気なく返すと、溝口は短く「ええ」と答え、それ以上説明しなかった。
滝本も黙ったが、先ほどまでとは沈黙の意味が変わっていた。溝口が見ているのは、自分の記憶なのか、受け答えなのか。それとも、戸神尚人という人間が今もここにいるかどうかを確かめているのか。そう考えた瞬間、知らないことを悟られないようにするだけでは、一方的に試され続けることになると気づいた。
「ずいぶん俺の記憶が気になるんだな」
「担当していた人間ですから」
「それだけか?」
溝口はすぐには答えず、滝本へ視線だけを向けた。
「どういう意味です?」
「別に。深い意味はない」
「そうですか」
短いやり取りだったが、滝本はそこで一つ確信した。溝口は、自分が何を覚えているのか知りたがっている。厚衛省の担当者だからというだけでも説明はできる。しかし、それなら先日の面会でも確認できたはずだ。それでも今、何気ない会話の中へ記憶の話を滑り込ませ、こちらの返答を見ている。
ならば、こちらも同じことをすればいい。
「溝口。俺が記憶を取り戻すと、何か困るのか?」
初めて、溝口が真正面から滝本を見た。驚きと呼べるほど大きな変化ではなかったが、先ほどまで一定だった視線が僅かに止まった。
「なぜ、そう思うんです?」
「否定しないんだな」
「戸神さんこそ、ずいぶん私を疑っていますね」
溝口の声は変わらない。滝本は、その落ち着きがかえって気になった。記憶が戻ったという人間から疑いを向けられているのに、理由を問い詰めるでもなく、笑って否定するでもない。ただ、こちらが次に何を言うのかを待っている。
「疑われるようなことをしてるんじゃないのか?」
「しているように見えますか?」
「それを聞いてる」
溝口の口元がごく僅かに緩んだ。笑ったというより、何かを確かめたように見えた。
「やはり、変わっていませんね」
また、その言葉だった。何が変わっていないのかと問い返すことはできる。だが、それを聞けば、自分には分からないと教えることになる。滝本は溝口の表情を見ながら、できるだけ自然に答えた。
「人間、そんな簡単に変わらないだろ」
「記憶をすべて失っても?」
滝本はすぐには答えなかった。風に煽られた溝口の来訪者カードが胸元で揺れ、やがて元の位置へ戻る。その問いは、目覚めた日から自分自身へ向け続けてきたものでもあった。記憶を失えば人は別人になるのか。名前も過去も人間関係も失ったあとに残るものがあるとすれば、それは何なのか。だが、厚衛省の人間である溝口から向けられると、単なる興味から出た言葉には聞こえなかった。
「それを俺に聞くのか?」
「経験した人間にしか分からないこともありますから」
「そうかもしれないな」
滝本は一度視線を街へ戻した。問いに答える必要はない。むしろ知りたいのは、なぜ溝口がその問いを口にしたのかだった。
「でも、施行する側のお前たちは、どう考えてる?」
溝口はすぐには答えなかった。
「施行する側、ですか」
「ああ。俺は記憶を失った側だ。だったら、その人間がその後どうなるのか、長い間見てきたのは厚衛省の方だろ」
戸神尚人が《セカンド・ライフ》の開発に深く関わった人間であることは分かっている。だが今ここにいる滝本に、その記憶はない。少なくとも現在の自分より、制度として被施行者を追ってきた厚衛省の方が多くの事例を知っているはずだった。
溝口はしばらく考えるように街を眺めていた。
「知っていることと、理解していることは違いますよ」
やがて返ってきたのは、それだけだった。
滝本は横目で溝口を見る。答えになっているようで、なっていない。しかし、否定もしなかった。
「ずいぶん役人らしい答えだな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
溝口は僅かに笑ったが、その表情から先ほどの言葉の意味を読み取ることはできなかった。ただ、滝本には一つだけ引っかかるものが残った。厚衛省は《セカンド・ライフ》を施行し、その後の人間も見てきた。それでも溝口は、人がどうなるのかを「理解している」とは言わなかった。
風が一段強くなり、フェンスが低く軋んだ。二人とも自然に目を細め、風が弱まるのを待った。滝本はそのわずかな間に、ここまでの会話を頭の中で組み直した。溝口は戸神の過去を知っている。それだけではなく、今の自分が何を覚え、何を知らないのかを測ろうとしている。ならば、こちらが具体的な記憶について語るほど相手に材料を与えることになる。
「戸神さん」
「何だ?」
「あなたは、何を思い出したんです?」
やはり来た、と滝本は思った。これまでの質問とは違う。具体的な答えを求めている。人でも、場所でも、出来事でもいい。一つでも口にすれば、溝口はそこから真偽を判断できる。
滝本はすぐに答えず、溝口を見た。問いかけた本人は急かす様子もなく、ただ返事を待っている。その姿を見ているうちに、妙な感覚が生まれた。自分には戸神としての記憶がない。だから不利なのだと思っていた。だが、溝口もまた、自分がどこまで知っているのかを知らない。その一点だけを見れば、互いに見えていないものを抱えていることに変わりはなかった。
「それを知って、どうする?」
溝口の眉が僅かに動いた。質問に質問で返されたことに気づいたのだろう。だが、溝口はそれを指摘せず、滝本も何も言わなかった。
その反応を見ながら、滝本は自分でも意外なほど冷静でいることに気づいていた。勝ったとは思わない。ここまでの会話で、自分も相手にかなりの材料を与えているはずだ。溝口が何を拾い、何を疑ったのかは分からない。ただ、少なくとも一方的に調べられているだけではなくなった。
しばらくして、溝口は腕時計を確認した。
「そろそろ戻ります」
「九条のところへ?」
「いえ。今日はもう厚衛省へ戻ります」
「まだ会議が残っていたんじゃないのか」
「あとは私がいなくても問題ないと思いますので」
溝口は軽く会釈し、扉へ向かって歩き始めた。滝本はその背中を見送っていたが、数歩進んだところで溝口が足を止めた。
「戸神さん」
振り返った溝口は、少し離れた場所から滝本を見ていた。
「本当に、よくここへ来ていましたよ」
その言葉が最後の確認なのか、それとも単なる思い出話なのか、滝本には最後まで分からなかった。
「そうか」
それ以上は答えなかった。
溝口も何も言わず、扉の向こうへ消えた。重い金属音がして、屋上には再び風の音だけが残った。
滝本はしばらくその場から動かなかった。少なくとも戸神尚人にとって、溝口は決して遠い人間ではなかったのだろう。話し方や考え方を知り、この屋上へ何度も来ていたことまで知っている。それほど近くで戸神を見ていたにもかかわらず、溝口はSAの社員ではない。厚衛省の人間として会社へ出入りし、《セカンド・ライフ》に関わり続けている。
フェンスへ近づき、冷たい金属に両手を添えた。眼下には変わらず街が広がり、道路を埋める車も、歩道を行き交う人間も、ここで交わされた会話とは無関係に動き続けている。滝本はその景色を眺めながら、先ほどのやり取りを頭の中でもう一度辿った。
記憶が戻るとはどんな感じなのか。戻った記憶と、あとから知ったことの区別はつくのか。そして、何を思い出したのか。偶然の会話にしては、記憶についての質問が多すぎる。溝口は、自分の記憶が本当に戻ったのかを疑っている。そこまでは、ほぼ間違いないだろう。
だが、それ以上に滝本の中へ残ったのは、別の言葉だった。
――戸神さんらしい答えですね。
あの答えは、戸神を演じるために用意していたものではない。どう答えれば嘘を見抜かれないかを考えながら、その場で自分なりに導き出しただけだった。それを戸神尚人を知る溝口は、戸神らしいと言った。
滝本耕一として目覚めてから、自分なりに考え、自分なりに判断してきたつもりだった。だが、その「自分なり」というものさえ戸神尚人から受け継いだものだとしたら、自分はどこまで滝本耕一で、どこからが戸神尚人なのか。
その境界を確かめる方法など、今の滝本には思いつかなかった。考えれば考えるほど、安心よりも薄い気味の悪さが胸の奥へ広がっていく。
風が吹き抜け、ジャケットの裾を大きく揺らした。滝本はフェンスから手を離して顔を上げた。今はまだ、答えを出す必要はない。ただ、溝口という男については少しだけ見えたものがある。あの男は単なる厚衛省との連絡役ではない。戸神尚人をよく知り、今の自分がどこまで戸神尚人なのかを確かめようとしている。そして、それを真正面から尋ねるつもりはない。
ならば、こちらも同じだった。次に会うときは、自分が試されていることを承知した上で、溝口を見ることができる。彼が何を尋ね、何を尋ねず、どんな答えを避けるのか。その積み重ねの先に、今は見えない何かがあるはずだった。
滝本は最後にもう一度、屋上から街を見渡した。初めて来たはずの場所に懐かしさはなく、何かを思い出すこともなかった。それでも、自分がかつて何度もここに立っていたという事実を知ったことで、さっきまでただの風景だった場所に、記憶のない過去だけが静かに重なっていた。




