(38)フィオナの覚悟。
その日の夜、アルフレッドの部屋をフィオナが訪れていた。
「こんな夜半に申し訳ありません」
「いえいえ。フィオナさんが訪ねてくるなんて珍しいですね」
アルフレッド自らお茶を淹れ、フィオナの前のテーブルに置くと、自身も席についた。
「…………。」
「……? どうしました?」
「……これなんです」
「……え?」
「奴隷の私にも、領主であるアルフレッド様自らがお茶を淹れて下さる。それを奴隷の私が座って出されるのを待っている……やっぱり、いくら考えてもこんなのおかしいです」
フィオナは眉をハの字に寄せ、困った顔を向けてくる。
「いやいや。そうして欲しいって頼んだのはこちらなんですから、気にしないで下さい」
「そもそもそれがおかしいんです。私に敬語もいりません」
フィオナは、俯いて今にも泣き出しそうになっていた。
「……急にどうしたんですか?」
「……今日、広場で獣人の人たちを見て改めて思ったのです。一歩違っていたら、私たち母娘は今ごろ、あの人たちと同じかもっとひどい扱いを受けていたはずだと。それをアルフレッド様が金貨700枚もの大金をはたいてお救いくださった。なのに、さらにそのうえ私がナタリーと友人だからといってこんなに甘やかされているのでは、やっぱり間違っていると思うのです。そのことに私自身が納得出来ないんです」
「ん〜。そう言われてもなぁ。フィオナさんには色々手伝ってもらって感謝してるし、シェリルもミーシアと親友になってくれてありがたく思っているからね。それで充分じゃないかな」
「いえ。そんなことでは私に金貨700枚の価値はありません。あくまでも私は買われた身の奴隷なのですから」
フィオナは完全に下を向いて、声を震わせている。
「……では、どうしたら良いですか?」
今度は、アルフレッドが困ってしまった。
しばらく、そのまま下を向いていたフィオナだが、意を決したように立ち上がると、テーブルを回り込みアルフレッドの頭をその胸に包み込んだ。
「ちょっ、ちょっとフィオナさん!?」
「……私にできることで思いつくのは、もうこれくらいしかありません。ただ、他の皆さんのようにうまくいかないかも知れませんが……」
豊かな胸の谷間に顔を埋められたアルフレッドは、そのまま身動きができずに固まってしまった。
フィオナの肌からは風呂上がりの石鹸の良い香りが漂い、甘やかな体温が鼻腔をくすぐった。
「フィ、フィオナさんッッ、ちょっ……」
突然フィオナはアルフレッドの両頬にそっと手を添え、その顔を自分の方に向けさせた。
「アルフレッド様、『フィオナさん』ではありません。『フィオナ』とお呼びください」
翡翠色の大きな瞳で覗き込むように真っ直ぐ見つめられ、アルフレッドは逆らうことができなかった。
「⋯⋯フィ⋯フィオナ、っ……」
「⋯⋯はい」
にっこりと微笑みを浮かべるフィオナの姿は、アルフレッドの目にはまるで聖母のようにさえ感じられるほど、慈悲深さに満ちていた。
「……それなら、お願いがあるんだけどさ」
「……えっ?」
アルフレッドはフィオナの目を見つめ、ゆっくりと話し出した。
「さっき、フィオナは自分が甘やかされてるって言ってたよね? もちろんそんなつもりはなかったんだけど。でも、もしそう思っているなら手伝って欲しいことがあるんだけど」
「……お手伝い……ですか? もちろん私に出来ることがあれば何だっていたしますけど……何をすればよろしいのでしょうか?」
フィオナの翡翠色の大きな瞳がじっとこっちを見つめ返してくる。
「うん。実はさ、リンドロット村も人が増えて子供たちの数も随分と増えてきたと思うんだよね。だから今度学校を作ろうかと考えているんだ。フィオナにはそこで先生をやってもらいたいんだよね」
「せ、先生ですかっ!? 私がっ!?」
フィオナは、その大きな瞳をさらに大きく見開いて驚きの表情を見せた。
「そう。フィオナは商会で働いていたから読み書きと計算が出来るでしょ? それを子供たちに教えてあげて欲しいんだ。フィオナは優しいし頼りがいもある。それに普段シェリルと一緒にミーシアの面倒も見てもらっているからか、子供たちの扱いも上手いし、信頼もされている。先生役にはぴったりだと思うんだよね。もちろんフィオナひとりに任せっきりにしたりなんかしないから……どうかな、やってもらえないかな?」
「……私が、先生……」
フィオナは、しばらく何かを考えるように視線を落としていた。だが、パッと顔を上げると、迷いのない口調でアルフレッドに答えた。
「はい、分かりました。私に出来ることがあるなら、ぜひやらせて下さい」
フィオナは、自分でも役に立てることが見つかったと嬉しそうに微笑んだ。
「では、よろしくね。……それと、そのことについてもうひとつお願いがあるんだけど……」
「お願い……ですか?」
「うん。さっき、先生役はフィオナひとりに任せっきりにはしないって言ったよね? 他にフィオナの知り合いで、先生役が出来そうな人に心当たりはないかと思ってさ」
アルフレッドは、できればこの際に外から優秀な人材を確保出来ないかと考えていた。だが、フィオナの返答はアルフレッドの思っていたのとは違っていた。
「うーん。以前の知り合いで先生役が出来そうな人は……ちょっと思い付かないですね。それに、いきなり領の外から人を連れてきて先生として子供たちの前に立たせると、子供たちが警戒してしまうかもしれません。少なくとも学校としての活動が軌道に乗るまでは、知らない人たちは入れないほうが良いと思います」
なるほど、そう言われるとその通りなのかもしれない。子供たちに寄り添うフィオナの視点にアルフレッドは感心し、また、フィオナを先生役として指名して良かったと心から思える一幕になった。
「それは良いわね。私は大賛成よ」
学校を作る話をしたところ、フローラはすぐに賛成してくれた。
そこからのフローラの動きは早かった。大工のガルドさんと石工のゼノさんに話を通して、立派な校舎を校庭付きであっという間に作り上げてしまったのだ。
先生役は相談の結果、まずフローラが校長の座に就くことになった。他には、フィオナとアルフレッドの母親のマーガレット。それと、フローラお付きのメイドであるサラさん、家令のブルックスの四人が読み書きと計算を教え、エルフのセシルが薬草を、エレノアとフローラお付きのミレーユさんが剣術や弓術をそれぞれ教えることになった。他に、全体のサポートとオヤツや昼食の準備をメイドのルーチェ、リナ、マリベルさんがしていくことで落ち着いた。
妹のミーシアと親友のシェリルもここに通うことになった。村の子供たちだけでなく、エルフや獣人の中にも子供がいたので、ここで子供同士が仲良くなって、良い友達が出来たらと願うばかりだ。
それからしばらくして学校が始まった。
学校が始まったばかりの頃は、何から何まで手探りの状態で内心ヒヤヒヤしていたのだが、そんな心配はまったく必要なかった。
想定外に子供たちの食いつきが良く大好評だったのだ。新しい知識をスポンジのように吸い込み、あっという間に授業内容を覚えて行ってしまう。その驚異的な成長の早さにはこちらの方が驚かされることばかりだった。
これなら、さらに色々な分野を学ぶのも良いかもしれないと皆に相談したところ、冒険者パーティーを率いるミランダから、『それなら、冒険者の連中を講師にしたらどうだい?』と提案をされた。
その内容は、時折現役の冒険者たちが教壇に立って実際の経験談を話しながら、魔物の解体やナイフの扱い方、ポーションの見分け方や効能、さらには野営で役立つ即席料理まで教えると言うもので、本来なら冒険者ギルドの初心者講習で受けるようなのを子供向けにしたもの。
それらはすべて、過酷な現場を潜り抜けてきた者ならではの生きた知識ばかりで、実際に授業を行ってみたところ、子供たちは憧れの眼差しを冒険者たちに向けながらも真剣に取り組んでいて、こちらも大人気の授業となっていく。
その他にも、手の空いている時に錬金術や魔法を専門家たちが特別に基礎を教えに来てくれるようになった。本物の魔法に触れるたび、子供たちは目を輝かせて大はしゃぎし、誰もが夢中になって楽しそうに学んでいる姿がとても印象的だった。
この学校で学ぶ子供たちの中から、次の世代を担う人材がきっとたくさん出てきてくれるはずだ。小さな背中がこれからどんな風に大きく育っていくのか、今から楽しみで仕方がなかった。
「ねぇ! にぃ様も一緒にお勉強しよう!」
「うん、良いよ。やろうやろう」
「では、問題ね。lim[n→∞] 1/n Σ[k=1_n] ∛(1 + (k/n)²) + ∫[0_π/2] (e^(-x²)・cos x)/(1 + sin²x) dx = ∮_C (z³ + e^z)/(z² + 1) dz =…………」
「ファッ!?」




