第三十話【二律背反】
「…………くぁ」
いつもとは違う寝心地の布団でゆっくりと意識が覚醒する。
「……知らない天井だ」
知らなくはない。昨日から泊まっている部屋なんだから。
身体を起こし、周囲を見渡しながら昨夜の事を思い返す。
「あれからどうやって寝たっけ」
可愛い事を言っていたヒナを抱き枕にして、しばらくは小声で話していた気がするんだが。
ヒナが眠っていた方の布団は既に綺麗にたたまれていた。旅行なのに早起きで偉い。
俺やレイなんて時間の許す限り眠りこけているって言うのに。
「って、え?」
そう思いながら反対側を向くと、レイの布団も既にたたまれていた。
珍しい事もあるものだ。レイに至ってはいつも俺より起きるの遅いのに。
早く起きたとしても俺の布団に潜り込むくらいの事はされる覚悟をしていたのに。
「……寝過ごしたって訳じゃねえよな」
枕元で充電ケーブルに刺さったままのスマホを手に取り、現在時刻を確認する。
午前八時三十分。早くは無いが集合予定の無い旅行の朝と考えれば別段遅くも無いはずだ。
「あ、起きたんだね」
ミノ達の部屋から連絡がないか確認していると、俺が起きたのを確認する様にヒナが顔を覗かせてきた。
「おはよう、カイト」
「ん、おはよ……」
「ふふっ、眠そうだね」
まだ目が半開きな俺を見てクスクスと笑うヒナ。見せもんじゃねーぞ。
「昨夜は激しかったもんね」
「誤解を招くような言い方はやめろ、誰かに聞かれたらどうすんだ」
「私にとっては激しかったけどなぁ……ふふ」
ヒナに言われて昨夜の行動を思い返す。
確かにレイも居る部屋で布団の中、思いっきり抱き締めるのは激しい行為かもしれないけど。
「……そうだ、レイは?」
いつもなら俺とヒナの会話に聞き耳を立てていそうな所だが。
それこそ「えっち警察です!」とか言って飛び込んでもおかしくないが、部屋の中に他の誰かの気配はなかった。
「うーん、私も見てないのよね」
「あんだって?」
「レイカさん、私より早く起きてたみたいなの」
これは一体どういう事だ。早起きレースぶっちぎりの最下位候補だったレイがヒナより先に起きて一位通過だと。
「着替えやタオルが減ってたから、温泉の方に行ってるんじゃないかとは思うけど」
「朝風呂か、それも珍しいな」
レイは入浴と言う行為に抵抗はもっていないが、かと言ってお風呂大好きという感じでもない。
家に居る時も烏の行水かって早さで済ませる程だ。
とは言えここは温泉旅館、普段よりも魅力的な温泉に惹かれたとも考えられる。
「まあ今日はお昼ご飯以外自由行動だし、ゆっくり待ってればいいんじゃない?」
「それもそうだな」
せっかく温泉旅館に来ているのだ、レイの温泉への憧れを止める権利なんて誰にも無い。
部屋で待つことを決め、俺は浴衣から着替えようと思った所で手が止まった。
「……着替えるから一旦出てってくれない?」
「え~?」
ヒナが俺の背中をまじまじと見つめていた。
「私はここで着替えたよ?」
「……俺が寝てる横で?」
「いつ起きちゃうかってドキドキしてた」
「…………下着は?」
「もちろん、着けてなかったな~」
クソッ!! なんで寝てたんだよ俺のバカ野郎!!
「って、そうじゃなくて。はよ出てってくれよ」
「…………にこっ」
「ニコニコしてもダメ」
笑えば誤魔化されると思ってんのか。
やっぱりお前、それでドスケベ否定すんのは無理だよ。
「じゃあ、着替え手伝ってあげよっか?」
「早く出てけっつってんだ!!」
「や~ん!!」
大声で叱られる事でようやくヒナは部屋から退散してくれた。
まあこの場で全裸になる訳でも無し、別に今更ヒナに着替え見られたところで恥ずかしい訳でも無いんだが。
俺の直感が囁いていた。昨夜のアレでヒナが得意気になっていると。
確かに俺は昨夜、確実にヒナに対して感情が揺れていた。それは認める。
しかしそれを肯定し、ヒナの猛攻を許すとレイが介入する余地がないまま一気に持っていかれそうなのだ。
あいつ、俺が関わるとマジで手段を択ばないから。
「……それにしても、朝風呂か」
普段ならそこまで魅力を感じる行為では無いのだが、ここが温泉旅館だと考えると言葉の意味がまるで変わってくる。
「どうせ着替えんなら、俺もさらっと行ってくるかな」
ここの温泉が素晴らしいのは昨日体験済みだ。
今日も寝る前には世話になるだろうが、この辺りでもう一度味わっておくのも悪くない。
「そうと決まれば、善は急げだ」
俺が着替えようと用意していた服を抱え、タオルを持って大浴場へ向かった。
◇
「……お?」
男湯に向かう途中の廊下、女湯の前で見慣れた顔が椅子に腰かけているのが見えた。
「おはよ、レイ」
「っ……カイト?」
レイは俺の声にビクッと反応し、不思議そうな目でこちらを見つめていた。
「んだよ、ぼーっとして」
「んー……ちょっとのぼせちゃって」
そう語るレイの顔は確かに少し赤く染まっていた。
のぼせていた影響か、よく見れば髪もほとんど乾いていない。
慌てて温泉から上がって、身体を冷ますためにここで座っていたという所か。
「気分はどうだ?」
「だいぶ落ち着いたかなぁ」
「そっか。んじゃ……」
「カイト? ……わっ!」
俺はレイの隣に腰を下ろし、自分用に持って来たタオルをレイにかぶせた。
「髪ちゃんと拭いてやるから、じっとしてろ」
「……わかった」
なんだろう、レイの反応がいつもより淡白だ。
俺が構ってやるといつも嬉しそうに笑うのに。
「……ありがと、カイト」
今日のレイはなんだか、心ここにあらずって感じだ。
体調が悪いのに無理しているという程でも無いんだが。
「なんか悩みでもあるのか」
「えっ?」
「元気ねえじゃん」
「そうかなぁ」
「いつものお前はもっとニコニコしてるぜ」
レイは毎日鈴を転がしたように笑い、満開の花の様な笑顔を見せる。
それに比べて今日のレイはなんだか、辛い過去の話をしてる時のレイみたいだ。
「俺で良ければ話聞くぞ」
「…………かいと」
俺に髪を拭かれながら、拳をきゅっと握る。
「ねえ、かいとは……」
「カイトにレイカさん、ここに居たんだ」
「っ!!」
レイが何か言いだした時、ヒナが廊下の向こうから歩いてきた。
「ヒナか、どうした?」
「二人で居たなら丁度良かった。そろそろ朝食バイキングの時間終わっちゃうから声掛けておこうと思って」
「げっ!? 朝飯ってそういうシステムだったのかよ!」
「昼と夜は部屋に運ばれてくるけど、朝は食べる人と食べない人と居るからね。遅れたらお昼まで食べられないよ」
「うぐ……朝風呂は諦めて飯行くか……」
俺はどちらかと言えば朝飯は食いたくない人間であると同時に、食わなければならない人間だった。
貧血、低血圧によって意識がなかなか覚醒しない寝起きに物を食うのは大変だ。とは言え食わなければ貧血の身体にエンジンをかけるのはさらに難しくなるのだ。
俺は隣で座るレイの手を握って立ち上がった。
「あっ……カイト?」
「レイも一緒に行くだろ?」
「えっと……」
「行きましょうよ。さっき見てきたけど、どれも美味しそうだったわよ」
「だってさ。ほら行こうぜ」
「っ……………………うん!」
俺に手を引かれて、レイも一緒に歩きだした。
返事をした時、レイは今日初めて笑顔を見せた。
どこかぎこちない笑顔だった。
◇
「ね、カイト。今日はどこ行こっか」
俺とヒナ、レイは滑り込みで朝食を済ませた後、部屋に戻って今後の予定を話し合っていた。
「うーん、昨日でこの辺りは結構見て回れたしなぁ」
「レイカさんはどこか気になる所とか……レイカさん?」
「レイ?」
「っ……」
だが、レイの様子は相変わらずおかしいままだった。
ずっと何かを考えている様な、別の事で頭がいっぱいな様な。
「えっと、ごめん。なんだっけ」
朝食の間も何度か話しかけてはみたが、結果は毎回同じ様な言葉が返って来るだけだった。
「……レイ、やっぱお前具合悪いんじゃねえか?」
「だ、だいじょうぶだよ……」
「全然大丈夫に見えねえって」
気になった俺はレイの額に手を当てる。
いつも通りの低体温な気もするが、いつもより熱い気もする。
こんな時自分と平熱が違うと不便なものだ。
「私、逆月先生呼んでこようか?」
「そうだな、連れて来てくれるか?」
「任せて!」
ヒナもレイを心配しているのだろう、俺達よりも吸血霊鬼に詳しそうな紗霧ちゃんを呼びに行ってくれた。
保険医かつ吸血霊鬼の紗霧ちゃんならより正確にレイの容態を診てくれるだろう。
「あたし、だいじょうぶだよ……」
「無理すんなって。大丈夫だ、元々予定らしい予定なんてねえんだから、具合悪いんだったら俺がそばに居てやる」
「……だめ」
「なっ……レイ?」
レイの肩に手をついて語り掛けていたが、俺の手を払い除ける様にして俺の言葉を否定するレイ。
「何がダメなんだよ……あっ、もしかしてさっき聞けなかった事と関係あるのか?」
朝食の前、レイが何かを言いかけたタイミングでヒナに声を掛けられ、時間が無かった俺達は急いで食堂へと向かった。
結局その時の事は聞けずじまいだった。
「悪かった、聞こうとしたのは俺なのに話を遮っちまって。でも今ならもう急ぐ事も無い、今度こそ聞いてやれるから」
「…………」
「レイ、さっき何を言おうとしたんだ?」
レイは唇をキュッと噛み締めた。
俺に言いたい事はあるけど、言葉にするのを恐れているかの様な。
聞きたいけど聞きたくない、その二律背反に苦しんでいる様な。
「安心しろ、どんな悩みだって聞いてやる。どんな質問だって答えてやるから」
「……ほんと?」
「ああ。俺がレイに嘘つくわけねえだろ」
「…………」
レイの唇は重く、なかなか開かなかった。
それでもやはり言葉にする事を選んだのか、覚悟を決めたようにゆっくりと口を開いた。
「……かいと」
「なんだ?」
震える声で、消え入りそうな声で、たったひとつだけ俺に訊ねた。
「……かいとは、ひなたさんのほうが……すき?」
「……えっ」
レイの疑問は唐突なものに感じた。
それと同時に、凄く嫌な予感もした。
たった一言の言葉で、時間を止められたような錯覚に陥った。
「えっと、レイと比べて……って事か?」
俺の質問にレイは小さく頷いた。
「い、いや! レイもヒナも俺には大切だ。優劣なんて……っ!?」
口ではそう言っていたが、言葉にする中でひとつの疑問が浮上してきた。
なぜレイは今、急にそんな事を聞いてきたのか。
昨日まではいつも通りの元気なレイだったはずだ。となると俺が寝てから目覚めるまでの間に何かがあったはず。
「……………………」
いや、寝る前……か?
「お前まさか、起きてたのか? 昨夜、布団の中で……」
「…………」
「俺が、ヒナと話してた時に……」
レイは顔を伏せたまま頷かなかった。
だがそうとしか考えられない。自分とヒナ、どっちの方が好きかだなんて質問、あの時起きてなきゃ出てくるはずがないんだ。
「なあ、レイ……!?」
困惑する俺を前に、レイが顔を上げた。
「お前……」
レイは、今にも泣き出しそうなほどに辛そうな顔をしていた。
目尻には涙を溜め、いつもの笑顔なんてどこにも見当たらなかった。
「……かいとがもしヒナタさんの方が好きなら、あたしはどこか行かなきゃって、かいとから離れなきゃって思ってて……」
「いや……待てよレイ」
「かいとに選んで欲しかったけど、だめならしょうがないって……」
「待てって!」
「でもっ!!」
「おわっ……!?」
突如としてもの凄い力が加えられ、俺の身体が壁に押し付けられた。
「痛って……え!?」
吸血霊鬼の力が人より強い事は知識として知っていた。でもどこか他人事のようにも思っていた。
レイは俺と生活する中で、一度も人間の枠を外れた力を見せた事が無いからだ。必要が無かったのか、俺に気を遣っていたのか、真実を知るのはレイしか居ないけれど。
そのレイが今、力任せに俺を壁に押し付けている。明らかに異常事態だ。
「でもぉ……やだよ……」
「レ、レイ?」
ただの人間のガキな俺にも一目瞭然だった。
レイは今、感情が抑えきれていない。
「かいとと離れるのやだ……かいとが取られちゃうのやだっ……会えなくなるの……やだっ!!」
「落ち着け!! よく考えてみろ!! 前のヒナならまだしも、今のヒナが本気でお前を追い出そうとしてると思うか!?」
ヒナは変わった。良い方向へ大きく成長した。
最初は本気でレイの事を敵視していただろうけど、今のヒナからはレイに対する愛情すら感じる事が出来る。
「今のお前はヒナにとっても仲の良い友人だ!! 恋敵以前に友達なんだよ!! 本当に会えなくなるわけないだろ!?」
「それもだめなのッ!!!」
「なっ!?」
俺の両手を、レイの両手が掴んでいる。
ガタガタと震えながら、力を込め過ぎない様に必死に耐えながら掴み押さえている。
「あたし、かいとが好き……でもヒナタさんも好きなの!! 優しくしてくれる、相手してくれるヒナタさんも好きなの!!」
「レイ、お前……」
「だからっ……もし二人が恋人になったらきっと、あたしとも仲良くしちゃうでしょ……?」
仮定の話だ。あくまで仮定の話だが。
確かに俺とヒナが付き合う事になっても、それでレイの事を無碍にしたりはしないだろう。少なくとも今までと同じような対応はするはずだ。
「でもそれじゃだめなんだよ……かいとの好きはヒナタさんが独り占めできなきゃだめなの……」
「……だからさっき俺の手を払ったのか」
「だから、もしそうならあたしは…………」
身を退く。姿を消すって言うのかよ。
どうしてレイがここまで情緒不安定になっているのか、ようやく理解できた。
俺達三人は、全員が全員の事を大切に思ってるんだ。
だからもしヒナが俺を勝ち取ったなら、ヒナだけが愛されるべきだと、こいつは本気でそう思ってるんだ。
だけど頭でそう思っていても、レイの感情がそれを否定している。俺を奪われたくない、離れたくない、好かれたい、愛されたい。
レイは今、二つの感情の間でぐちゃぐちゃになってるんだ。
「……レイ、落ち着いて聞け」
ぽろぽろと大粒の涙を流すレイに、落ち着いた声で語り掛けた。
「そもそも俺は、ヒナを選んだって訳じゃない。確かに昨夜はすこしグラついたけど、振り切れないって思う位にはお前の事だって大切なんだ。じゃなきゃこうやってお前に付きっきりで心配する訳ないだろ?」
昨夜俺は二人に挟まれながらも、ヒナの方へ向いて、ヒナを抱き締めた。
その行動が、ここまでレイの心を揺さぶると思ってなかった。
「……わかってるよ」
「なら……」
「わかってるけど、想像しちゃったんだ……」
レイの言葉に、昨夜の情景が蘇る。
「かいとがあたしの手を振り払って、ヒナタさんの所に行っちゃうかもって……」
「……………………」
俺はどれだけ迂闊だったんだ。
昨夜の行動は、今レイが危惧した光景そのものじゃないか。
「……ごめんねかいと、あたし……かいとの事すごく困らせてるよね」
「いや、んなことは……」
「でも、ごめんね……あたし……」
レイの両手が、俺の顔を捕まえた。
「っ!?」
「もう、とまれないの」
潤んだ瞳が閉じ、長いまつげの端から涙が一筋の軌跡を描く。
悲しげなレイの顔が、まっすぐ俺の顔に近付いてきた。
「んっ……!?」
「ちゅ……」
今のレイに押さえつけられた俺に抵抗する事は出来なかった。
ただ、レイの震える唇が俺の口を塞ぐまで、呆然と眺める事しか出来なかった。
「ちゅ……んむ、かいと……ちゅ」
「むっ……ぁあっ!! 待てよレイ!!」
必死に力を込め、自由になった両手でレイの両肩に力を込め引き剥がす。
「不安にさせたのは俺のせいだ!! でもそこまでする必要は……あむっ!!?!?!?」
しかし、あっという間にレイの唇が再び俺の唇へと重ねられる。
それだけではない、今度はレイの舌が俺の唇を割って口内に侵入を図っていた。
「ちゅ、れろっ……んっ」
(こ、こいつ……!?)
完全に言葉が封じられた俺は、今更脳内に警報が鳴り響いていた。
舌を絡めるキス。通常のキスよりも相手を求める、恋人同士でも中々やらないキス。
人間同士ならスキンシップの延長かもしれないが、今はそれが非常に危険な行為であると俺の経験が警報を鳴らしていたのだ。
(く……そ、感覚が……)
吸血霊鬼の唾液は麻酔効果がある。レイと生活し始めてから毎日経験している事。
もしそれを体内に流し込まれたらどうなるか。
(力が……入らねぇ……)
吸血霊鬼の唾液に麻酔の成分が含まれると言っても、それは常に分泌されるわけじゃない。ある程度はコントロールできるのだとレイは言っていた。でないと自分の麻酔で簡単に麻痺してしまうと。
レイがただのキスをするつもりだったら俺は今こうして身体が痺れるような状況には陥っていない。レイは意図して俺に麻酔効果のある唾液を流し込んているんだ。
(どうして、そこまで……)
何か理由があるはずだ。
レイが俺の抵抗を拒む理由が。
「ぷぁっ……ごめんね、かいと」
「はぁっ……はぁっ……」
気付けば、再びレイに両手を掴まれていた。
酸素の減った頭に届いたのは、泣きそうなレイの謝罪だった。
「でもあたし、どうしてもかいとを取られたくない」
そう言ってレイは三度目のキスを交わした。
その瞬間だった。
「ガチャッ」
「ッ!!?!?!?」
紗霧ちゃんを呼びに行っていたヒナが戻ってきた。
壁に押し付けられた俺と、レイの目の前に。
「はっ……えっ? うそ…………?」
(ヒナ!?)
口は塞がれていて、もう言葉は出せなかった。
真っ青な顔で俺達二人を見つめるヒナに対し、今の俺には何も出来る事が無かった。
(……なんで)
どうして、こんな状況になっちまったんだ。
いくら考えても、状況は一向に好転しなかった。




