第二十三話【ずっととなりに】
「ふにゅっ」
(………………………………)
俺は今、人生の分岐点に立たされていた。
いつもと少し違う朝。目も開かないままに、ほんの少しの寝苦しさを感じて手を伸ばした。
すると何もないはずの空間が俺の手のひらを優しく受け止めたのだ。
ふにゅって。
(ふにゅ…………っ!!?!?!?!?!?!?!?!??)
一瞬で完全覚醒する意識。蘇る昨夜の記憶。
その記憶を頼りに即座に導き出される手のひらの感触の正体。
(い、いやぁ、まさかな……?)
恐る恐る目蓋を開き、視線だけを動かして自らの手のひらの位置を探る。
初めに視界に映ったのは、昨夜同じベッドで眠りについたヒナの寝顔。
俺の手のひらはそれよりもう少し下に触れていた。
顔よりも下。首よりも、肩よりももうちょっとだけ下。
「ふに……」
俺の手を包み込んでいたのは、豊満なヒナの胸だった。
「ッ!!!!!!!!!!!!」
叫び出しそうになるのをぐっとこらえる。
飛び上がりそうになるのをぐっとこらえる。
そんな事をした瞬間ヒナは目覚めてしまうだろう。
それはつまり、俺の社会的な死が確定する。
(……そりゃヒナはそこまでブチギレはしないだろうけど)
ヒナとレイは俺の事を取り合っている。
その中心に居る俺が片方の身体に触れて興奮してる所を見られてみろ、チェックメイトと言わんばかりにイキり出すに決まってる。
何より長年幼馴染として育ってきた相手の胸を触ってしまうと言う背徳的行為自体、あらゆる面で危険だ。
そんなに脳内でうだうだと御託を並べてる暇があるならさっさと手を離せばいいだろう、そう思うかもしれない。
ならばこちらも訊こう。
(やっ……やわらけー……)
故意じゃないとは言え、一度触れてしまった胸から簡単に手を離せる男子高校生がこの世にどれほど居るってんだ。
手からはちょっと溢れるくらい大きくて、柔らかくて、相手は俺の事を好きで、同じベッドで、まだ寝てて気付いてない相手の胸に触れて、この状況を堪能する前に離れられる男がどれだけいるんだって聞いてるんだ。
指を動かすほど怖いもの知らずじゃない。しかし手を離せるほど潔くも無かった。
(いや、でもこれ以上は本当にマズい……!)
だがこの辺りで切り上げておかないと、俺の方も危険な事になっていた。
いや、俺の方と言うか、もう一人の俺と言うか。
寝起き特有の生理現象に加えて、突然のラッキースケベに異常な反応を見せていた。
パジャマの素材は普段着よりも薄く柔らかい。身体の変化など一目瞭然だった。
(で、でも最後にもう一回だけ……)
人の夢は終わらない。
男子高校生の欲望と言うものは何よりも強く、純粋で、抗い難かった。
「ふにゅん」
最後にもう一度だけ。
ヒナを起こさない様に、刺激を与えない様に、優しく指を沈みこませた。
無意識、反射的と来て最後に初めて自分の意思で感じたヒナの胸の感触。
禁断の果実に触れて楽園を追放されたアダムとイヴの気持ちがわかった気がした。
ありがとう。それしか言う言葉が見つからない。
俺はゆっくりと手を引いた。
「……いや、起きてるんだけどさ」
「……………………………………」
ヒナと目が合った。
信じられないほど冷たい視線を俺に向けていた。
「三回」
「…………」
たった一言が俺の背中に滝の様な冷や汗を流させる。
呼吸が乱れ、脳に酸素が満足に届かなくなるのを感じた。
「ふーん、そっか。カイトって寝てる女の子の胸に触っちゃうような人だったんだ。そっか」
ここからヒナはどんな反応をする。
以前の様に平手でも飛んでくるか。それとも責任を取らせようと迫ってくるか。
どちらにせよ俺に逃げ場はなかった。
「……ねえ、か~いと」
ヒナは優しく俺の名を呼び、引いている途中で止まっていた手を捕まえた。
そしてそのまま自らの方へ引き寄せた。
「……ふにゅ」
「はっ!?」
「触りたかったなら、言ってくれればいいのに……♡」
どちらでも無かった!
俺の理性を破壊して俺から手を出させようとしていた!
「カイトだって、一緒に寝ようって言ってくれた時から、ちょっとは期待してたんじゃないの……?」
「ぐっ……お前、この前の仕返しかよ」
「ふふ、どうかなぁ」
小悪魔の様に笑いながら、ヒナは自らの胸にぐりぐりと俺の手を押し付ける。
「今、二人っきりだよ?」
「…………」
「あんなこともこんなこともし放題じゃない?」
「……………………」
「今の私を見て、どこまでならして良いと思う……?」
「………………………………」
完全にこの前ヒナをからかった時の意趣返しだ。
ただあの時と決定的に違う点がある。
ヒナがからかい目的でこれを言っている訳じゃない事。
俺が手を出したら、ヒナはそれを本気で受け入れてしまいそうな事だ。
「あ、でももしカイトがその気なら……」
熱っぽい瞳で、じりじりとヒナの顔が近付く。
「私もキスしてほしいな。レイカさんにしたみたいに」
レイにしたみたいに。
それはきっと、唇同士のキスの事で。
「あ、あれはレイからやってきた訳で……」
「じゃあ、カイトからのキスは私が初めてを貰えるね」
「俺はするなんて一言も……」
「……ん」
俺の言葉を聞いているのか聞いていないのか、ヒナは目を閉じて小さな唇を突き出す。
俺からの返事を、行動で示せと催促する様に。
「ヒナ……」
ダメだ、吸い込まれる。
様々な要因で血が足りない俺の頭では、この本能に抗う術を持たなかった。
俺達の唇は、磁石のN極とS極のように引き寄せられていった。
「ガチャン!!!!!!」
「「ビクッ!!?!?!?」」
「えっち警察です!!!!!!」
そして磁石の同じ極のように飛び上がった。
「どーーーーーーーーん!!!!!!」
「きゃっ!?」
「ガハッ!!?」
突如俺の部屋に飛び込んできたえっち警察さんは、俺とヒナが眠るベッド目掛けて容赦なく飛び込んできた。
下敷きにされた俺とヒナから苦悶の声が漏れる。
「レ、レイィ……お前、なんで……」
「部屋の外から盗み聞きしてた!!」
「清々しい自白だな!?」
「どうして今入って来たのよ!!」
「だって今止めなきゃえっちな事してたでしょ!!」
「してなっ…………」
してない。そう答える途中でヒナは気まずそうに口をつぐんだ。
想像したのだろう。レイが止めに入らなかった場合の俺達を。
「えっちな事しようとしてたんですねっ!」
「だ、だったら何よ~っ!!」
「え!? 開き直んのお前!?」
「いい雰囲気だったんだからチャンスを掴もうとして何が悪いのよ!!」
「だめ!! 羨ましい!!」
「お前もお前で欲望に正直だな!?」
やいのやいのと騒ぎつつ、狭いベッドの上で俺の身体を取り合う二人。
当然この狭さでは二人の身体がぎゅうぎゅうと押し付けられる訳で。
俺も、もう一人の俺も非常に苦しかった。
「た、頼むから……一旦起きようぜ……」
俺の願いが二人に届き、俺と俺に平穏が訪れたのはそこから十数分後の事だった。
◇
「なあ、レイ」
朝食を終え、ヒナが洗い物をしてくれている所でレイに声をかけた。
「どしたの?」
「お前に聞きたい事があんだけどさ……」
チラッとヒナの方を見る。
ヒナは何かを察したのか、こちらには一切目を向けず、洗い物に専念していた。
やっぱりお前に相談したのは正解だったよ。
「もし答えづらかったら無理に答えなくていい。知らなかったら知らないで良いんだけど……」
一度深く息を吸って、吐いた。
昨日会ったじいさんに貰った名刺、そこに書かれていた名前を思い出し、レイに訊ねた。
「……鏑木賢友って名前のじいさん、知ってるか?」
「っ!!?」
じいさんの名前を聞いた途端、表情から一切の笑みが消えたレイ。
ヒナも一瞬だけこちらをチラッと見た。
「あっ…………えっと……」
レイがあっという間にしどろもどろになる。
これは俺の仮説の一つが当たっていたかもしれない。
「カイト、私お昼ご飯の材料買ってくるよ。何食べたい?」
「……任せる」
「はーい、任されました」
自分が居てはレイが話し辛いと思ったのだろう、ヒナは自主的に外へ出掛けてくれた。
冷静な時なら本当に頼りになる幼馴染だよ。
「…………知ってる名前か?」
パタンと玄関が閉じる音を聞いて、優しい声色を意識してレイに確認する。
レイは小さく頷いた。
「…………世話になってたって言うじいさんか?」
レイは再び頷いた。
(なるほどな……決まりだ)
俺が昨日助けたじいさん。
レイが殺したと思ってたじいさん。
同一人物で確定した。他でもないレイのこの反応、嘘をついてるようにも見えないし、全て知ってる俺に嘘をつく理由も無い。
「……そのじいさんな、生きてるぞ」
「……えっ!?」
伝えるべきか少し悩んだ。昨日の俺ならレイの反応を見て、伝えなかったかもしれない。
だが、一晩悩んだ俺は全てを伝える事にした。
そのうえでレイの意見を聞こうと思った。
「昨日たまたま会ったんだ。外で倒れてて、俺が助けて。話を聞いたら人を探してるって言われてさ。ピンク髪の女の子……まあお前の事だな」
「おじいちゃん、生きてたんだ……」
「会いたいか?」
「え……?」
「連絡先の書かれた名刺貰ってるから、レイが会いたいって言うならすぐにでも会わせてやれる。でもレイが会いたくないって言うんだったら、名刺はコンロで燃やしてそれまでだ」
レイは葛藤していた。
きっとじいさんが生きていた事は嬉しかっただろう。
だがそれが、もう一度会いたいに直結するかは別の話だ。
恨まれているのではないか、その可能性は昨日俺もヒナも行き付いた可能性だ。
「……カイトならどうする?」
「俺?」
「あたし……どうすればいいのか……わかんない」
そりゃそうだ。殺したと思ってた奴が生きてて、自分に会いたいと言っていて、どうするのが正解かだなんて本人からしたらわかるはずもない。
レイの立場になって答えを出すなんて、俺にだってできやしない。
「…………俺は」
だけど、逆なら。
「会ってもいい、と思う」
じいさんの立場なら、俺にもわかるかもしれないと思った。
「……どうして?」
不思議そうなレイの声。
そうだろうな。お前の立場ならそう簡単に会うとは言えないはずだ。
でも考えたんだ。レイじゃなく、じいさんの立場に立って。
「……例えばさ、ある日レイが俺の血を吸い過ぎて、俺がぶっ倒れたとする。でも俺は何とか助かって、目を覚まして家に帰った時にレイが居なかったら、俺だったら心配になる……お前に会いたくなると思ったんだ」
「……カイトは、怒らないの?」
「怒るだろうな。つーか実際風呂場で襲われた時なんかはしっかり怒ってただろ。でもそれ以上にお前を心配する。きっと責任感じてるんだろうなとか、怖かっただろうなとか」
「なっ……何で心配してくれるの? 死んじゃう所だったんだよ?」
「んなもん、ひとつしかねえだろ」
俺はレイに近付き、まっすぐ手を伸ばして頭を撫でた。
「だって俺達、家族なんだぜ?」
「っ…………」
「悪い事したら怒る。居なくなったら心配する。家族ならどっちも普通の事だ、違うか?」
俺が楽観的なのかもしれない。
だけど俺の記憶の中のじいさんは、強い目をしていたのと同時に、優しさが溢れていた。
復讐が目的の奴があんなに優しい声色で、落ち着いて話せるものだろうか。
俺は違うんじゃないかと思った。思いたかった。
「あのじいさんはお前にとって、どんな人だったんだ?」
「……お父さんとお母さんと同じくらいあたしの事可愛がってくれて、いつも優しくて、いつも笑ってた。本当のおじいちゃんみたいな人だった」
「じゃあ、俺は?」
「カイトは……いつもあたしの事見ててくれて、たまに怒ると怖いけど、それ以上に優しい……大好きな人」
大好きな人は余計だっつの。
「それじゃあさ、レイの事を見てる俺とじいさん、何か違うか?」
「…………っ!!」
レイは何かに気付いた様に大きく目を見開いた。
「…………ううん、おんなじだよ。あたしを大切にしてくれて、ずっと一緒に居てくれた……家族……」
そう言ってレイはほんの少しだけ微笑んだ。
辛い記憶の中にも、幸せな思い出があったのだろう。
「だったらきっとじいさんも俺と同じように思ってるはずだ。少なくとも、娘みたいに可愛がってた奴を恨むなんて事は無いんじゃねえかな」
無責任な言葉だ。
楽観的な思い込みだけで構成された、無責任な発言。根拠すらも希望的観測。
だとしても、これがレイの過去を清算できるチャンスなら、絶対に無駄にしてはいけない。
「安心しろ。レイがじいさんに会うって言っても、やっぱり会わないって言っても……」
「あっ……」
「俺はこうやって、ずっと隣に居てやるからさ」
レイをそっと抱き寄せ、言い切ってやった。
レイの選択を尊重する。それも家族の務めだから。
「…………わかった」
しばらくそうしていると、決心した様にレイが口を開く。
どさくさに紛れて俺の事を抱き返したりして。
「あたし、会いたい。おじいちゃんにもう一回会ってみたい」
「……そうか」
「カイト、ついてきてくれる?」
「当然。隣に居てやるって言ったばっかだろ」
「そうだね。えへへ……」
ようやくいつものレイの様な笑顔が戻ってきた。
どうやら踏ん切りがついたみたいで良かった。
後はじいさんに会わせて上手くいくことを祈るばかりだが。
「はーいえっち警察でーす」
「ひゃぁ~~っ!?」
「うわっ!?」
なんだかいい雰囲気でレイと見つめ合っていると、背後からとげのある声がリビングに響いた。
「ヒナ!? お前買い物行ったんじゃなかったのかよ!!」
「玄関のドアを開けて閉じただけよ。全部立ち聞きしてたわ、やらしい雰囲気にならない為にね」
「ひっ、ヒナタさん……」
とんでもない仕返しを受けて涙目で震えるレイ。
意外にもヒナはレイに(いつもに比べれば)優しく語り掛けた。
「……それじゃ、三人で今度こそ買い出しに行かない? 今日のお昼は、その、レイカさんが食べたいもの作ってあげるから」
「へ?」
「たっ、たまにはね! いつもカイトの好きなものばっかり作ってたら、私がカイトしか見えてないみたいで印象悪いじゃない!?」
「間違ってねえだろ」
「カイト、静かに!!」
ツンデレのお手本の様な言い回しについツッコんでしまう。
ヒナなりにレイを勇気付けようとしてくれているのだろうか。
「え、えっと、さっきの話……」
「よくわからないわね。昔喧嘩した家族と会いたいとかそんな話だったかしら」
「あ、いや……」
「その通りだ。よく聞いてんなヒナ」
「へへん、もっと褒めてもいいのよ」
レイは否定しようとするが、俺とヒナはそのまま話を進めてしまう。
円滑な関係の為には、別に全てをありのまま話す必要も、全ての罪を断ずる必要も無いんだ。
それに、レイに本当に罪が残るかどうかはじいさん次第だ。
もし他でもないじいさんがレイの事を許してくれたら、その時は……。
「ほら、レイも早く用意しろ。置いて行くぞ」
「私は別に置いて行ったって良いんだからね」
「わ、わわっ!! すぐ用意してくるから待ってぇ~!!」
さっさと前を歩く俺とヒナを追いかけるように、後ろからレイが追いかけて来る。
きっと今日の昼飯はトマトがたくさん並ぶんだろうな、なんて考えながら。
まるで三人家族みたいな俺達は仲良く買い出しに出掛けたのだった。




