EP5 雨の日の買いもの
朝から空が低かった。
ミリーが目を覚ましたとき、窓の外はまだ薄暗く、屋根を打つ雨の音がしていた。
町に来てから、こういう雨は初めてだった。
空き家は古かったが、雨音だけは妙にやさしかった。
ミリーはしばらくベッドの中でそれを聞いていたが、やがて起き上がった。
ジャケットの上に薄いレインコートを羽織り、髪を後ろでひとつにまとめる。
傘を持って外へ出ると、通りは濡れて黒く光っていた。
ダイナーの裏口をノックすると、今日はすぐに開いた。
ケンはもう起きていた。
Tシャツの上にシャツだけ羽織っていて、片手でドアを押さえたままミリーを見る。
「降ってるな」
「かなり」
ミリーがそう言うと、ケンは少しだけ外を見た。
「中、入れ」
店の中はあたたかかった。
グリルはまだ火が入る前だったが、コーヒーの匂いがしていた。
ミリーはレインコートを脱いで椅子の背にかけた。
髪の先から少しだけ雨粒が落ちる。
ケンは黙ってマグカップを出し、コーヒーを注いだ。
ミリーの前に置く。
「ありがとう」
ケンは自分のカップにも注ぎ、カウンターの向こうに立ったまま飲んだ。
店の窓には細かな水の筋が流れていた。
通りにはまだ車も少ない。
「図書館、今日は静かそうですね」
「雨の日は客も減る」
「じゃあ、ダイナーも?」
「朝はな」
ケンはそう言ってから、少し間を置いた。
「昼は読めない」
ミリーはうなずいて、コーヒーを飲んだ。
あたたかいものが喉を通ると、体がようやく朝に追いつく。
こうして一日の最初にここへ寄ることが、いつのまにか当たり前になっていた。
やがてミリーはカップを流しに置き、図書館へ向かった。
午前中の来館者は二人だけだった。
古い地図を見に来た老人と、新聞を読みに来た女性。
雨の日の図書館は、普段よりいっそう静かだった。
本を返却棚に戻し、カウンターを拭き、子どもたちの机を整える。
窓の外では雨がずっと同じ強さで降っている。
昼前になると、ミリーは傘を差してダイナーへ戻った。
いつもより客は少ない。
それでも濡れたジャケットを脱いだ客がひとり、またひとりと入ってきて、店の中には湿った空気とコーヒーの匂いが混じった。
ミリーはテーブルを拭き、皿を下げ、水を足す。
雨の日は靴の裏に水がつくから、床を汚しやすい。
カウンターの足元をモップで拭いていると、マーサが入ってきた。
頭にフードをかぶり、大きな紙袋を両手で抱えている。
「まったく、ひどい天気だよ」
そう言いながら、マーサは袋をカウンターにどさりと置いた。
ミリーが顔を上げる。
「こんにちは」
「こんにちはじゃないよ、あんた」
マーサは当然のような顔で言った。
「家、見たけど、あんまり物が入ってないじゃないか」
ミリーは少し瞬いた。
「え?」
「台所。塩も砂糖も、ろくにありゃしない」
紙袋の口を開けると、中にはいろいろ入っていた。
乾麺、缶詰、クラッカー、ピーナツバター、小さな瓶のジャム、箱入りのスープ、キッチンタオル。
それから卵が一パック。
「そんな、大丈夫です」
「大丈夫じゃないから持ってきたんだよ」
マーサは言い切った。
「雨の日に買い足しに出るのも面倒だろ。あんた、車ないんだから」
ミリーは袋の中を見下ろした。
どれも、今日いきなり必要になっても困らないものばかりだった。
「……ありがとうございます」
「礼ならアンナに言いな。半分はあの人の差し金だよ」
そう言ってマーサは席に着いた。
いつものようにコーヒーを頼み、ドーナツをひとつ食べる。
ケンはそれを黙って出した。
マーサは一口かじってから、カウンター越しにケンを見る。
「ケン、あとでこの子の家まで袋、運んでやんな」
「近いだろ」
「雨なんだよ」
「傘がある」
マーサは鼻を鳴らした。
「卵を抱えて傘さして歩くのかい」
ケンは返事をしなかった。
ただハンバーグをひっくり返した。
ミリーは思わず少し笑った。
マーサはそれを見て、満足したようにコーヒーを飲んだ。
昼の忙しい時間は短く終わった。
雨の日は人の動きも鈍い。
いつものように、ケンはサンドイッチを紙に包んでミリーに渡した。
今日はそれに小さな紙袋がもうひとつついていた。
「スープ」
ミリーは紙袋を受け取った。
「え」
「雨の日だからな」
それだけ言って、ケンはまた厨房に戻った。
ミリーは少しだけその背中を見てから、サンドイッチとスープを持って図書館へ戻った。
午後になっても雨はやまなかった。
放課後、濡れたバックパックを背負った子どもたちが図書館に駆け込んでくる。
「靴、そこで拭いて」
ミリーが言うと、子どもたちは素直に入口のマットで足をこすった。
「今日は外で遊べないね」
「つまんない」
「本読む?」
「うーん」
それでも、机に座れば宿題は始まる。
窓の外に灰色の空を見ながら、子どもたちは鉛筆を動かしていた。
迎えが来るたびに、図書館のドアが開き、冷たい雨の匂いが入り込む。
最後の子が帰るころには、外はもう夕方だった。
閉館の札を下げ、灯りを落とし、ミリーは玄関で少し考えた。
マーサの紙袋は図書館の机の下に置いてある。
ひとつずつ運べば歩けないことはないが、雨足はまだ強い。
そこへ、外に車が止まる音がした。
ダイナーで見慣れた、無骨なランドクルーザーだった。
ミリーがドアを開けると、ケンが運転席にいた。
窓が少し下がる。
「乗れ」
助手席のドアが、内側から開く音がした。
ミリーは目を丸くする。
「でも」
「マーサがうるさい」
低い声でそう言う。
それが半分本当で、半分は違うのだろうと、ミリーにもわかった。
ミリーは図書館に戻って紙袋を持ち、車に乗り込んだ。
車内は外より少しだけあたたかく、雨とコーヒーの匂いがした。
「すみません」
「近い」
ケンは前を見たまま言った。
ワイパーが一定の速さで水を払っていく。
町の通りは夕方の雨に濡れ、灯りがぼんやり滲んでいた。
空き家の前に着くまで、本当に数分もかからなかった。
ケンはエンジンを切らず、助手席の足元に置かれた袋をひとつ持ち上げた。
「卵、こっちだな」
「そんな、本当に大丈夫です」
「雨だ」
昼にマーサが言ったのと、同じ言葉だった。
ミリーは少し笑ってしまった。
ケンは何も言わず、車を降りる。
二人で玄関まで袋を運ぶと、屋根の下でようやく雨音が少し遠くなった。
ミリーが鍵を開ける。
玄関の中は暗く、静かだった。
「ここでいい」
ケンは袋を渡す。
「ありがとう」
ミリーが言うと、ケンは短くうなずいた。
帰ろうとして、ふと足を止める。
「夜、冷える」
「はい」
「スープ、先に飲め」
それだけ言って、ケンはまた雨の中へ戻っていった。
ミリーは玄関先に立ったまま、その背中を見送った。
ランドクルーザーの赤いテールランプが、濡れた道に細く伸びる。
ドアを閉めると、家の中は急に静かになった。
台所に袋を並べる。
クラッカー、缶詰、ジャム、卵。
スープはまだ少しあたたかかった。
雨の音はずっと続いている。
ミリーは鍋を出し、ケンが持たせてくれたスープを温め直した。
窓の外は暗くなり始めていたが、不思議と、今日はこの家が少しだけ空っぽに見えなかった。




