EP6 土曜の朝
土曜日の朝は、平日より少しだけ遅い。
それでもミリーは、いつもの時間に目を覚ました。
空き家の窓から入る光はやわらかく、平日の朝ほど急かすようではない。
しばらくベッドの中で天井を見ていたが、やがて体を起こした。
今日は図書館が休みだ。
子どもたちも来ない。
それでも、ダイナーは開いている。
顔を洗い、簡単に髪をまとめて、薄いセーターにジーンズを穿く。
外へ出ると、空気は冷たかったが、空はきれいに晴れていた。
通りはまだ静かで、雑貨屋も閉まっている。
ガソリンスタンドのほうからだけ、低くラジオの音が聞こえていた。
ミリーはいつもの癖で、まずダイナーの裏へ回った。
ノックをしようとして、少しだけ迷う。
今日は土曜日だ。
ケンは週末になると、実家へ戻ることがあると聞いていた。
それでも、裏口の前に立つと、中から足音がした。
ドアが開く。
ケンはもう起きていて、いつものシャツの上に厚手のジャケットを羽織っていた。
「早いな」
「習慣で」
ミリーがそう言うと、ケンは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうか、よく見ないとわからない程度だった。
「今日は図書館、休みだろ」
「はい」
「なのに来たのか」
ミリーは少し考えてから言った。
「コーヒーを飲みに」
ケンは何も言わず、体をずらして中へ入れる。
店の中は、平日より静かだった。
窓から入る朝の光が、カウンターの端を白く照らしている。
ミリーはいつもの席に座った。
ケンはコーヒーを注いで前に置く。
「ありがとう」
「今日は昼、少し混む」
「土曜日だから?」
「教会のあとで来る連中がいる」
なるほど、とミリーは思った。
町の人たちの生活は、平日と同じようでいて、少しずつ違う。
コーヒーを飲んでいると、表のドアが開いた。
まだ開店してそれほど経っていないはずだが、入ってきたのはガソリンスタンドのおじさんだった。
帽子をかぶったまま、いつもの席に座る。
「早いな、アンナの孫ちゃん」
「おはようございます」
「今日は図書館は?」
「お休みです」
おじさんはうなずき、コーヒーを頼んだ。
ケンが無言でカップを置く。
「じゃあ今日は、こっち手伝うのか」
ミリーは少しだけ首を傾げた。
「まだ決めてないです」
それを聞いていたケンが、グリルに火を入れながら言う。
「暇なら、昼だけ入れ」
命令というより、必要なことを言っただけの声だった。
ミリーはカップを持ったまま、少しだけ笑った。
「はい」
土曜の午前は、平日よりゆっくりしていた。
けれど正午が近づくと、家族連れや年配の夫婦がぽつぽつ入ってきて、店の中はそれなりに埋まっていく。
ミリーはエプロンをつけ、平日と同じように皿を下げ、水を足し、テーブルを拭いた。
けれど客の空気は少し違った。
急いで昼を済ませる人たちではなく、食後のコーヒーまで飲んでいく人たちだ。
「ミリー、ケチャップ」
奥の席の男の子が声を上げる。
母親がすぐに「あんた、自分で取りなさい」と言ったが、ミリーは笑ってボトルを持っていった。
「どうぞ」
「ありがと」
その子は素直に礼を言った。
教員を目指していた時間が、こういうところに残っているのかもしれないと、ミリーはふと思った。
子どもに話しかけられるのは、嫌ではなかった。
昼の混雑が落ち着いたころ、マーサがやってきた。
今日は手作りの小さな紙箱を抱えている。
「ドーナツ、置いとくよ」
「店にか」
「店にじゃないよ。あんたたちにだよ」
マーサは当然のようにカウンターの上へ箱を置いた。
甘い匂いがふわっと広がる。
「朝、揚げたばっかり」
ミリーが箱の中を見ると、砂糖をまぶした丸いドーナツが並んでいた。
「ありがとうございます」
「いいのよ。どうせ売り物にするほど形が揃ってないからね」
そう言うわりには、どれも十分おいしそうだった。
マーサは店の中を見回してから、ミリーに聞く。
「今日は午後、暇かい」
「たぶん」
「じゃあ、うち寄りな。カーテンの丈、ちょっと見てやる。あの家、窓だけ無駄に大きいから」
ミリーは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「はい」
マーサは用件だけ言うと、コーヒーだけ飲んで帰っていった。
ケンはそれを止めもせず、ただ見送った。
「この町の人、みんな何かくれますね」
ミリーがぽつりと言うと、ケンは皿を拭きながら答えた。
「余ってるものを回してるだけだ」
「優しい言い方じゃないですね」
「事実だ」
けれど、それもたぶん半分だけだとミリーは思った。
午後、店が落ち着いてから、ミリーはマーサの雑貨屋へ寄った。
店の奥から布を抱えて出てきたマーサは、最初から待っていたような顔をしている。
「ほら、これ」
広げて見せられたのは、生成りの厚手のカーテンだった。
「前の住人が置いてったやつ。洗っといたから使えるよ」
「でも」
「でもじゃない。夜、外から丸見えじゃ落ち着かないだろ」
ミリーは言葉に詰まり、結局、ありがとうございますとしか言えなかった。
マーサは満足そうに鼻を鳴らす。
「アレックス呼んで、あとで金具だけ見せに行かせるよ。あの子、こういうのだけは器用だから」
「そんなにしてもらわなくても」
「町に住むってのは、そういうことだよ」
それは押しつけがましい言い方ではなく、ただ長くこの町で生きてきた人の、当たり前の言葉だった。
夕方前、ミリーが空き家へ戻ると、ほどなくしてアレックスがやって来た。
片手に工具箱を持っている。
「マーサに呼ばれた」
「ごめんね」
「別に。店のWi-Fi直すより簡単そうだし」
明るく言って、慣れた手つきで窓の上を見て、金具を締め、カーテンをかけていく。
話しながらでも手が止まらない。
「ここ、前に住んでた人、冬に隙間風すごいって文句言ってたんだよね」
「そうなの?」
「うん。でもカーテンつけるとだいぶ違う」
数十分で作業は終わった。
夕方の光の中で、新しいカーテンは少しだけ家をあたたかく見せた。
「ありがと」
「どういたしまして。なんかあったらグレイス経由で呼んで」
「直接じゃなくて?」
「町の仕組み」
アレックスは笑って帰っていった。
静かになった家の中で、ミリーはしばらく窓辺に立っていた。
布一枚下がっただけなのに、部屋の感じがずいぶん変わる。
外からの視線を遮るものがあるだけで、そこが急に「誰かの家」になる。
日が落ちるころ、ミリーはふと思い立って、ダイナーへ向かった。
エプロンも仕事もない時間に、客として入るのは初めてだった。
店の中には、夕食にはまだ早い半端な静けさがあった。
カウンターの奥で、ケンが一人、明日の仕込みをしている。
ドアのベルが鳴ると、ケンは顔を上げた。
「どうした」
「これ」
ミリーはマーサのドーナツの箱を少し持ち上げて見せた。
家に持ち帰っていたものを、二つだけ分けてもらったのだ。
「マーサにもらったんだけど、ひとりじゃ多いから」
ケンは少しだけ眉を上げたが、何も言わなかった。
ミリーはカウンターに座り、箱を開ける。
砂糖の粒が白く光る。
「食べます?」
ケンは手を洗ってから、無言でひとつ取った。
一口かじる。
「うまいな」
「形が揃ってないからって言ってた」
「嘘だな」
ミリーは笑った。
店の外は、ゆっくり夕方から夜へ変わっていく。
土曜日の町は、平日より少しだけのんびりしていて、どこか気が緩んでいる。
ミリーはカウンター越しにケンを見た。
仕込みの手を動かしながら、たまにコーヒーを飲み、必要なことだけ話す。
それは相変わらず無口な人のままだったが、もう怖くはなかった。
「今日、カーテンがついたんです」
ミリーが言うと、ケンは包丁を置かずに答えた。
「そうか」
「ちょっとだけ、家らしくなりました」
今度は少しだけ間があった。
「よかったな」
ただそれだけの言葉だった。
けれど、ミリーにはそれで十分だった。
ダイナーを出ると、通りの空気はすっかり冷えていた。
空き家へ戻って灯りをつけると、窓辺のカーテンがやわらかく揺れた。
誰もいない家なのに、昼までとは少し違って見える。
ミリーは靴を脱いで、静かな部屋を見回した。
まだ物は少ない。
けれど、少しずつ、ここで暮らすための形が整ってきている。
外では遠くに車の音がして、やがてそれも消えた。
土曜日の夜は、平日より少しだけゆっくり更けていった。




