EP4 町に近い家
ミリーが町の近くへ移ってきたのは、その週の終わりだった。
マーサの遠縁が持っている空き家は、雑貨屋から少し奥に入ったところにあった。
白い板張りの小さな家で、窓は古いが大きく、玄関の脇には細い木の椅子が一つ置かれている。庭と呼ぶには控えめな前庭には、去年のままらしい枯れた草が残っていた。
「贅沢言うんじゃないよ。歩けるだけで十分だ」
鍵を渡しながら、マーサはそう言った。
ミリーは小さく笑った。
「十分すぎます」
実際、その通りだった。
アンナの家から町へ出るには車がいる。朝の送り迎えを頼めばアンナは嫌な顔一つしなかったが、それが毎日続くのは、ミリーにも居心地がよくなかった。
ここなら歩ける。
図書館にも、ダイナーにも、雑貨屋にも。
町に近い、というだけで、生活はずいぶん変わる。
荷物らしい荷物は多くなかった。
ボストンから持ってきた衣類と本が少し。洗面道具。ノート。古いマグカップ。
必要最低限と言うより、必要なものだけを選んだ結果、そうなった感じだった。
アンナがトランクから最後の紙袋を下ろしながら言った。
「足りないものは、あとで揃えな」
「うん」
「遠慮して何も持たないでいるのが一番だめだよ」
その言い方が、少しだけ厳しくて、でもあたたかい。
ミリーは玄関の中へ紙袋を運び込みながら、小さくうなずいた。
家の中は静かだった。
古い床板がわずかに鳴る。
家具は最低限で、キッチンに小さなテーブルと椅子が二脚、居間にはソファが一つ、寝室にはベッドがある。どれも新しくはないが、掃除はきちんとされていた。
窓の外から差し込む光が、何も置かれていない部屋の広さを少しだけ強調して見せる。
「今日はもう町へ戻らなくていいからね」
帰り際、アンナが玄関先で言った。
「明日の朝から歩けるだろ」
「うん」
「ケンのとこにも、自分で行きな」
それだけ言って、アンナは車に乗り込んだ。
エンジン音が遠ざかるのを見送ると、家は急にしんとした。
ミリーはしばらく玄関に立ったままでいた。
ひとりで住む家の静けさは、嫌いではない。
けれど、静けさにも種類がある。ここはまだ、自分の気配が馴染んでいない静けさだった。
その日の夜は、荷物をほどききる前に終わった。
服をクローゼットに掛け、本をベッド脇に積み、アンナが持たせてくれた缶詰やクラッカーを棚に入れる。
カーテンのない窓は、日が落ちると少し心細く見えたが、ブラインドだけでもなんとかなる。
湯を沸かし、インスタントのスープを作って飲む。
それだけで、初日の夜は十分だった。
翌朝、ミリーは目覚ましより少し早く目を覚ました。
家の中はまだ薄暗い。
外は完全には明るくなっていないが、もう起きていい時間だと体が知っている。
顔を洗い、髪をまとめ、軽いセーターの上にコートを羽織る。
玄関の鍵をかけて外へ出ると、朝の空気が頬に冷たかった。
歩いてみると、本当に近い。
雑貨屋の前を通り、まだ閉まったままの役場を横目に見て、ダイナーの裏へ回る。
車に乗らずにここへ来られることが、ミリーにはまだ少し不思議だった。
裏口をノックする。
一拍おいて、中で足音がした。
ドアが開く。
ケンはすでに起きていた。
シャツの袖をまくり、片手でドアを押さえたままミリーを見る。
「早いな」
「近いので」
ミリーが答えると、ケンは少しだけ外を見た。
家からここまでの距離を頭の中で測るような目だった。
「そうか」
それだけ言って、中へ入れる。
店の中はまだ営業前の匂いがする。
淹れたばかりのコーヒー、これから火を入れるグリル、洗った床のわずかな水気。
ミリーはコートを椅子の背に掛け、カウンターのいつもの席に座った。
ケンがマグを出し、コーヒーを注ぐ。
「ありがとうございます」
「ああ」
窓の外は少しずつ明るくなっていた。
表通りを、郵便トラックが一度だけ通り過ぎる。
「もうアンナに送ってもらわなくていいんですね」
ミリーが言うと、ケンはマグを持ったまま短く答えた。
「そのための家だろ」
「そうですね」
言いながら、ミリーは少しだけ笑った。
車の助手席に乗せてもらって町へ来ていた朝とは違う。
自分の足で歩いてきた朝は、それだけで少しだけ身軽だった。
「昨日、ちゃんと眠れたか」
唐突にそう聞かれて、ミリーは少しだけ目を上げた。
「え」
「家」
ああ、とミリーは息をつく。
「眠れました。まだ、少し変な感じはしますけど」
「変?」
「静かで」
言ってから、それだけでは足りない気がした。
「静かなんですけど、まだ自分の家って感じがしなくて」
ケンはそれ以上聞かなかった。
ただ、マグを置いて言う。
「そのうちする」
言い方は簡単だったが、それで十分な気がした。
やがてミリーはマグを流しに置き、図書館へ向かった。
午前中の図書館は、相変わらず静かだった。
返却棚の本を戻し、カウンターを拭き、窓を少し開ける。役場の始業時間が近づくと、廊下の向こうで人の声がし始める。
仕事といっても、忙しいわけではない。
それでも、自分の手で開けた建物の中にいると、何もしていない感じはしなかった。
正午が近づくと、ミリーはダイナーへ向かった。
裏口を開けると、昼の店の熱気がもう立っている。
ケンはグリルの前にいて、入口のベルが鳴るたびに客が入ってくる。
ミリーはエプロンをつけた。
皿を下げ、水を足し、テーブルを拭く。
一週間前にはぎこちなかった動きが、少しずつ店の流れに混ざるようになっている。
カウンター席のガソリンスタンドのおじさんが、コーヒーを飲みながら言った。
「アンナの孫ちゃん、今日は歩きか」
ミリーは水差しを持ったまま振り向いた。
「わかります?」
「車の音がしなかったからな」
そう言われて、ミリーは少し笑う。
「町の近くに引っ越したんです」
「ほう。じゃあ、ほんとにこっちの人間だな」
その言い方が妙におかしくて、ミリーは「まだです」と返した。
「もう半分はそうだろ」
おじさんは満足したようにうなずく。
ケンはグリルの前で何も言わなかったが、ハンバーグを返す手は止まらない。
昼の混雑は、いつものようにあっという間だった。
町役場の職員たちがばらけて戻り、持ち帰りの注文が二件入り、家族連れが一組来て去っていく。
客が引けるころには、流しには皿が積まれ、店の空気は少しだけ重くなる。
ミリーが手を洗っていると、ケンが紙に包んだサンドイッチを差し出した。
「昼飯」
「ありがとうございます」
受け取ったところで、ふとミリーは言った。
「歩いて帰れるって、思ってたより気が楽ですね」
ケンはコーヒーポットを片づけながら聞いていた。
「家が近いと、戻るのが億劫じゃないです」
「ああ」
「前は、アンナの家まで戻るとなると、それだけで一つ予定みたいだったから」
そう言いながら、ミリーは自分で少し驚いた。
そんなふうに感じていたのかと、口にして初めてわかった。
ケンはしばらく何も言わなかったが、やがて短く言った。
「町の中に住むと、そうなる」
大げさな励ましでも感想でもない。
ただ、知っていることをそのまま言っただけの声だった。
午後の図書館には、小さな兄妹連れが来た。
兄のほうは宿題のプリントを広げ、妹は絵本の棚の前にしゃがみこんでいる。
「ミリー、これ読んでいい?」
妹のほうがそう聞く。
絵本を両手で持ったまま、こちらを見る目はまっすぐだった。
「いいよ。読み終わったら元に戻してね」
「うん」
兄のほうは算数の問題で止まっていて、鉛筆を噛みそうな顔をしていた。
「どこがわからないの」
ミリーが聞くと、男の子は無言で問題を指さす。
分数ではない。まだそこまでは行っていない。けれど、文章題は少し苦手らしい。
「じゃあ、一回声に出して読もうか」
そう言って椅子を引く。
男の子は少し恥ずかしそうにしながらも、ちゃんと読み始めた。
放課後の時間が終わり、最後の子どもが親に手を引かれて帰っていくころには、外の光はすっかり傾いていた。
閉館の札をかけ、窓の鍵を確かめる。
図書館を出ると、通りの向こうにはダイナーの灯りが見えた。
ミリーは少しだけ立ち止まったが、そのまま家へ向かった。
歩いて十分もかからない。
夕方の空気の中を、買い物袋も持たず、ただ自分の家へ帰るだけの道。
玄関の鍵を開け、中へ入る。
朝出たときと同じ部屋なのに、少しだけ違って見えた。
ベッド脇に置いた本、椅子の背に掛けたカーディガン、流しに伏せてあるマグカップ。小さなものが少しずつ、ここが誰かの家だと教えはじめている。
ミリーはコートを脱いで椅子に掛けた。
窓の外はもう暗い。
台所でケトルに水を入れながら、今日歩いた道を思い出す。
朝、ダイナーまでの道。昼、図書館からダイナーまでの道。夕方、ここへ戻る道。
どれも短い。
けれど、その短さのぶんだけ、生活が自分の手の届くところに寄ってきた気がした。
湯が沸く音がし始める。
ミリーは棚からマグを取り出した。
まだ物の少ない家の中で、その音だけが静かに広がっていく。
ここに住む。
ここから町へ出て、また帰ってくる。
それは特別な決意というより、もっと小さくて確かなものだった。
シダーリッジの生活は、そうやって少しずつ、当たり前の形を取っていくのかもしれなかった。




