EP3 図書館の席
一週間もすると、町の人間はだいたい顔を覚える。
名前まで正確に知らなくても、どこの誰につながっているかがわかれば、それで十分なことが多い。
シダーリッジでは、ミリーはもう「アンナの孫ちゃん」だった。
昼どきのダイナーで皿を下げている、背の高い若い女。
にこやかに挨拶をして、水を足し、空いた皿を流しへ運ぶ。
それだけのことでも、毎日同じ時間に同じ場所にいれば、人はすぐに町の風景の一部になる。
その日も、昼前から店は少し混んでいた。
トラックの運転手が二人。
町役場の職員が三人。
ガソリンスタンドのおじさんは、いつものようにカウンター席でコーヒーを飲んでいる。
ケンはグリルの前でハンバーグを返し、トーストを焼き、注文票を順に片づけていた。
ミリーは四人がけの席の皿をまとめ、流しへ運ぶ。足取りにもう初日の硬さはない。
「ありがとうね」
席を立った女が言うと、ミリーは自然に笑った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
教え込まれたような返しではなく、相手をちゃんと見て言っている声だった。
それを、ケンはグリル越しに何度か聞いていた。
客の前で無理に明るく振る舞う人間はいる。
けれど、ミリーの応対はそういうものとは少し違った。
必要なぶんだけ柔らかく、必要以上に踏み込まない。人と距離を取ることにも慣れている声だった。
昼の波がいちばん高くなるころ、流しの前の皿はすぐに積み上がる。
ミリーは袖をまくり、洗い終わったカップを棚へ戻していく。
「アンナの孫ちゃん、手際いいな」
カウンターからガソリンスタンドのおじさんが声をかける。
ミリーは少しだけ振り向いた。
「まだまだです」
「いや、最初の日から比べたら大したもんだ」
「比べる相手が低すぎませんか」
その返しに、カウンター席で小さく笑いが起きた。
ケンは何も言わず、ベーコンを裏返した。
けれど、口の端だけがほんの少し動いたのを、ミリーは見なかった。
一時を過ぎるころには、店はようやく落ち着きを取り戻した。
空いたテーブルが増え、入口のベルもしばらく鳴らない。
ミリーが流しの手を止めて布巾で指を拭くと、ケンはサンドイッチをひとつ作りはじめた。
ターキーとチーズに、今日は薄くマスタードも塗る。
紙に包んでカウンターの端へ置く。
ミリーが気づいて近づいた。
「ありがとうございます」
「昼飯だ」
「わかってます」
そう言って、ミリーは少しだけ笑った。
初日なら、その一言をそのまま受け取っていたはずだ。けれど一週間もすると、少しは返せるようになる。
ケンは包丁を洗いながら言う。
「午後も図書館か」
「たぶん」
「たぶん?」
ミリーはサンドイッチを持ったまま、少し考える顔をした。
「行く場所が、ほかにあまりないので」
それは冗談めかした言い方だったが、半分は本音なのだろうとわかった。
町に来てまだ日が浅い。家とダイナーと図書館以外、彼女の居場所と呼べる場所はほとんどない。
「静かでいいんです」
そう付け足す。
ケンはうなずいた。
「昼過ぎは人が少ない」
「ですよね」
ミリーはエプロンを外し、椅子の背に掛けた。
髪を軽く整え、紙包みを抱えるようにして裏口へ向かう。
「また戻ります」
「夕方まではいらん」
言い方はそっけないが、追い払う響きではない。
ミリーは「はい」と答えて店を出た。
外は、昼過ぎの光で少し白く見えていた。
通りを渡ると、町役場の隣に建つ図書館が見える。煉瓦色の外壁に、白い窓枠。町にしてはきちんとした造りだが、規模は大きくない。
ドアを開けると、いつものように中は静かだった。
午前中に来たらしい老人が一人、窓際で新聞を広げている。
奥の棚の近くでは、若い母親が小さな子に絵本を選ばせていた。
あとは誰もいない。
ミリーは入口近くのテーブルに腰を下ろし、サンドイッチの包みを開いた。
窓から差し込む光の中で、白い紙が少し明るく見える。
一口かじる。
ダイナーの中で立ったまま食べるのとは違って、こうして静かな場所で食べると、味がはっきりわかった。
ターキーとチーズ。
少しだけ辛いマスタード。
食べ終えてから、ミリーは紙をきちんと畳み、くずかごへ入れた。
それから館内をゆっくり歩く。
本棚は高すぎず、木の色も古びている。児童書の棚は入口から見える位置にまとまっていて、絵本の表紙は色があせているものが多い。
子ども向けの机と椅子が、窓の近くにいくつか置かれていた。
小学校の図書室に似ている、とミリーは思った。
規模はもっと小さいが、子どもの声があれば、たぶんよく似た空気になる。
午後三時に近づくにつれ、館内の静けさが少しずつ変わっていった。
外から、遠くにスクールバスの音が聞こえる。
役場前の停留所で止まる、低いブレーキの音。
やがて、入口のドアが開いた。
最初に飛び込んできたのは、赤いバックパックを背負った男の子だった。
そのあとに二人、三人と続く。年齢はばらばらで、小学校の低学年から中学年くらいまでが多い。
「静かにね」
新聞を読んでいた老人が、顔を上げずに言う。
けれど子どもたちは、あまり気にしていない。
慣れているのだろう。
一人の女の子が、児童書の棚の前で立ち止まって、しばらく表紙を見比べていた。
もう一人は机に座ったものの、バックパックから何を出せばいいのかわからないらしく、ごそごそしている。
ミリーは少し迷ってから、その机に近づいた。
「宿題、あるの?」
男の子が顔を上げる。
「ある」
「じゃあ、先に出したほうがいいかも」
男の子は少しだけ考え、それからバックパックの中からしわの寄ったプリントを引っぱり出した。
算数だった。
「わかる?」
「ちょっとだけ」
ミリーは椅子を引き、机の端に腰を下ろす。
「じゃあ、一緒に見ようか」
言いながらプリントを見る。
難しい問題ではない。繰り上がりのある足し算と、短い文章題。
隣の机では、さっきの女の子が絵本ではなく、動物図鑑を開いていた。
もう一人の子は、鉛筆を持ったまま窓の外を見ている。
「ミリー」
いつのまにか、名前で呼ばれていた。
振り向くと、役場の裏口から入ってきたグレイスが立っている。
グレイスはいつも通り、少し上等なジャケットを着ていた。町役場のおばちゃん、という顔もあれば、この町を実際に回している人間の顔もある。その両方を自然に持っている女だった。
「こんにちは」
ミリーが立ち上がると、グレイスは手を軽く振った。
「座ってな。いま、いいとこだったろ」
ミリーは少しだけ戸惑いながら、また椅子に腰を下ろした。
男の子はプリントの続きを待っている。
グレイスはその様子を少し離れたところから見ていた。
子どもたちが特別騒がしいわけではない。ただ、それぞれ好き勝手に本棚や机のあいだに散っている。
ミリーは男の子のプリントを見ながら、たまに他の子にも声をかけた。
「それ読み終わったら戻してね」
「鉛筆、貸そうか」
「走らない」
言い方がきつくないのに、子どもたちはちゃんと聞いていた。
無理に押さえつけるのではなく、自然に場を整えている。
しばらくしてから、グレイスが言った。
「アンナの孫ちゃん」
ミリーが顔を上げる。
「はい」
「働く気はあるかい」
訊き方があまりにまっすぐで、ミリーは一瞬だけ言葉に詰まった。
「え……」
グレイスは周りを見回した。
古い本棚、窓辺の机、子どもたちのバックパック、返却棚の山。
「町は金がない」
それが第一声だった。
「正規の司書を置くほどじゃない。けど、閉めちまうには惜しい場所なんだよ、ここは」
ミリーは黙って聞く。
グレイスは続けた。
「午前中は静かだ。昼はあんた、ケンのとこに行く。放課後はこうして子どもが来る」
その言葉に、ミリーは目を少しだけ見開いた。
グレイスは最初から全部見ていたらしい。
「一週間見てた」
案の定、そう言った。
「ダイナーでも見たし、ここでも見た。子どもに向く顔してるね、あんた」
ミリーは、どう返せばいいかわからなかった。
「昔、教員を目指してました」
気づくと、そう答えていた。
グレイスはうなずく。
「だろうと思ったよ」
役場の人間らしい勘の早さだった。
「本を貸して、少し整理して、放課後は迎えが来るまで子どもを見てやる。たいした給料は出せないが、ないよりはましだ」
言葉は現実的で、飾りがない。
けれど、どこか温情ではなく、戦力として見ている響きがあった。
それがミリーにはありがたかった。
かわいそうだから置いてやる、という声ではない。
空いている場所に、ちょうどはまる人間がいたから声をかける。そういう言い方だった。
「できるかい」
グレイスが訊く。
その間にも、男の子はプリントの続きを待っている。
隣の女の子は図鑑を抱えたまま、こちらをちらちら見ていた。
ミリーはその子たちを見て、またグレイスを見た。
「できます」
口に出すと、自分でも少し驚くほどすんなり言えた。
グレイスは満足そうにうなずいた。
「よし。じゃあ決まりだね」
それで話はほとんど終わったらしい。
書類の細かい話は明日だ、と続けて言う。
「マーサの親戚の空き家、まだ空いてるよ。町の近くで、歩ける」
「え」
「アンナの家じゃ遠いだろ」
たしかに遠い。
朝はアンナに送ってもらえるとしても、毎日では限界がある。
グレイスはすでに先の段取りまで組んでいる顔だった。
「話、通しておく。嫌なら断ってもいいけどね」
嫌ではなかった。
むしろ、そんなふうに言われると、断る理由のほうが見つからなかった。
「お願いします」
ミリーがそう言うと、グレイスは「うん」と短く答えた。
そのとき、さっきの男の子がプリントを差し出してくる。
「これ、できた」
ミリーは思わず受け取った。
「ほんとだ。ちゃんとできてる」
男の子は少し得意そうな顔をした。
グレイスはそれを見て、肩の力を抜いたように笑う。
「ほらね」
その一言に、たぶん多くの意味が含まれていた。
夕方、子どもたちが一人ずつ迎えに連れられて帰っていくころには、図書館の中はまた静かになっていた。
窓の外の光はやわらかく傾き、役場の影が長く伸びている。
ミリーは返却棚の本を整えながら、まだ少し現実感の薄いまま考えていた。
働く。
この町で。
図書館で。
子どもたちのいる場所で。
それは大きな出来事のようでいて、けれど不思議と、何かに押し流された感じはしなかった。
空いていた席に、静かに座るような感覚だった。
閉館の札を下げる前に、ミリーは一度だけダイナーのほうを見た。
通りの向こうには、夕方の灯りが入った窓が見える。
ケンはたぶん、もう夜の仕込みに入っている。
あの店で昼を手伝い、朝コーヒーを飲み、午後はここにいる。
その形が、今日から少しだけ確かなものになる。
ミリーはドアの鍵を確かめてから、通りを渡った。
ダイナーの裏口をノックすると、中からすぐに「入れ」と声がした。
店の中には夕方の匂いが満ちている。焼いた肉とコーヒー、洗ったばかりの皿の熱。
ケンはまな板の前で手を動かしたまま、顔だけ上げた。
「何だ」
ミリーは少しだけ息を整えた。
「グレイスに、図書館で働かないかって言われて」
ケンは手を止めなかった。
「そうか」
「午前中、図書館を開けて、昼はここに来て、放課後は子どもを見るって」
「だろうな」
あまりに迷いのない返事だったので、ミリーは少しだけ拍子抜けした。
「知ってたんですか」
「グレイスは、そういう顔してた」
それだけ言って、ようやく包丁を置く。
「受けるのか」
「はい」
ケンは一度だけうなずいた。
「じゃあ、朝はもっと早くなるな」
それは祝福の言葉でも、感想でもなかった。
ただ、新しい生活の形を、その場で受け止めた声だった。
けれどミリーには、その言い方がちょうどよかった。
「そうですね」
そう答えると、ケンはコーヒーポットに手を伸ばした。
「飲むか」
「はい」
カウンターに置かれたマグから、湯気が立つ。
ミリーはそれを両手で受け取りながら、窓の外に目をやった。
夕方のシダーリッジは静かだった。役場の前の通りを一台の車が曲がっていき、そのあとには何も残らない。
何かが大きく変わったようには見えない。
けれど、その日からミリーの生活は、前よりも少しだけ町の中に根を下ろしはじめていた。




