殺しなさい
気を抜いたその瞬間に意識が持っていかれそうになる。唾を呑みこむという、ただそれだけの行為に途方も無い労力をつぎ込んだ。
実体すら伴って全身に忍び寄るのは、絶対的な死の気配。
カチカチと歯が鳴った。
恐怖ですらない。もっと根源的な何かだ。
「おじい、さま……」
「薫子や、その少年はなぜ故、生きている」
「こ、これは、その……ッ」
俺達ルーキーとは隔絶した存在である圧倒的強者ならば、今までも出会ってきた。
弦月さん、ステルヴィア・セヴェリーノ、ネル・ロックハート。
なによりウチのお隣さんは【剣帝】アリョーシャ・エメリアノヴァだし、今回の臨時講師は日本屈指の魔導狙撃手フェイさんだ。
本気の彼らを見たことがあるし、相対した事だってある。彼らは敵対した瞬間に俺など挽肉にされてもおかしくない本物の強者たちだ。
しかし、と俺は思う。
「これが本物の、在来者……」
トップランナーを目の前にしても、こんな絶望感を覚えた事は無かった。魂の底から震えるような恐怖を感じたことは一度たりとも無かった。
巨大すぎる存在感に比して小柄な体躯。街を歩けばどこにでもいる人の好さそうな老人だ。なのにその老人が小さく足を踏み出しただけで、津波のように襲い来るプレッシャーに心折れそうになる。
距離は、ある。いくら老人の機動力が凄まじかろうが、俺達だって一般人ではない。
辛うじて会話が成立する距離、足場の悪い森の小道。互いのキル・レンジにはまだ遠い。
しかし佐々木は親指で鯉口を切ったまま肩で荒い息を繰り返している。葵は腰だめにハンマーを構えたまま彫像のように微動だにしない。
「儂は言ったな薫子や。お前が殺さなければ儂が殺す、と。この箱庭の『外』で」
「ま、待ってください……」
その台詞で、俺は全てを理解した。
田嶋から断片的に齎されたパズルのピースが音を立ててはまり、ようやく答えが見えてくる。
俺はナイフのグリップを握っては緩めてを繰り返した。
ここ数日の出来事が頭を過る。
合宿中、時折感じていた不穏な視線。俺に対する彼女の拒否反応。
刃を俺に向けた時の、悲しみに暮れた田嶋の顔。そして、全てを諦めた奈落色の虚ろな瞳。
人を殺したくなかった彼女が、俺を殺さなければならなかった理由。それが―――
「てめぇ、か……」
「一之瀬、落ち着け。勝てる相手じゃない。下手に刺激を―――」
「テメェが原因かクソっタレ……ッ!!」
一歩踏み出した俺の腕を葵が掴む。
佐々木が射線上に身を割り込ませた。
「……ミナト、ダメッ!」
「放せ葵ッ! 1発ブン殴ってやんねぇと気が収まンねぇッ!」
「一之瀬無茶だッ!」
泣いていた。殺したくないと。田嶋が、俺達の仲間が。優しいだけの普通の女の子が。
声を震わせ、喉を涸らして。
身内? 知るか。
泣いていたんだ。許せるかよクソが。
ただただ純粋な怒りだけが奔流となって押し寄せる。脳幹が焼き切れそうだった。
葵に掴まれた手を何度も引くが、絶対に離してなるものかと彼女は更に力を籠める。
ギリギリと手首に強い圧迫感。葵の小さな手が青アザになるくらい食い込んでいた。
こんな小さな女の子一人、振りほどけないのかと自身の非力を呪いながら、老人の姿だけを見据えてひたすらに睨み付ける。
「よう、ボケジジイ! あんまり徘徊してると家の人が探すぞ。ちゃんとオムツは履いてやがんのか? ああ!?」
「一之瀬ッ!」
「しょっぱいエルダーが今更しゃしゃり出てくんじゃねえ! 田嶋は冒険者になンだよッ! 老害は黙ってクソして寝てろッ!」
薄闇の中、ひっそりと佇む老人に向かって目を剥き唾を飛ばした。あらん限りの罵詈雑言を叩きつける。
老人がはじめて俺に顔を向けた。温厚そうな笑み。人畜無害な風貌。
だがそれは仮面だ。容赦なく押し寄せる暴の気配にその本質を見る。
細められていた目がゆっくりと開く。俺は暴言と一緒に息を呑んだ。
虚無。空洞。底無しの……沼。
その瞼の奥にあったのは、まるでぽっかりと空いた穴のようで――――
不意に、風が吹いた。
「なかなか囀る小童よ」
突如、背後から聞こえたその台詞に体が凍り付く。
老人がいたはずの場所を俺はまだ見ている。俺の脳が未だ老人がそこにいると認識していた。視覚情報としてそこに既に老人の姿は無いというのに。
何だ、何が起きて……
俺は老人から目が離していなかった。葵の手を振りほどこうとしている時も、瞬きすら我慢して老人に視線を向けていた。
敵性勢力と対峙した時に余所見など愚の骨頂だと、耳にタコが出来るくらい教えられている。
そう、だから俺は老人から目を離していなかった。それなのに――――
「一度、死んでみるか」
「~~ッ!!」
死が―――膨れ上がった。
反射的に振り返りながら間に合わない事を悟る。
『悪意』そのものが明確な意思を以って押し寄せる。装甲も障壁も紙切れのように引き千切る純粋な『死』が俺の喉笛を食い破ろうと迫り、
「殿は、やらせない……ッ」
「……ミナトはやらせないッ」
居合。
背筋が凍るほど美しい銀線は三日月形。乾いた破裂音はソレが音速を超えた証だ。
薄い火花と甲高い金属音、ほぼ同時に破魔の大槌が空間を削り取るように振り抜かれた。
数瞬遅れて、風圧が円状に広がり草木が揺れる。
見えなかった。反応すらも出来なかった。
何も出来ないまま無様に振り返った俺の目の前には、それぞれの武器を振り抜いた二人の仲間が壁となって立ちはだかっている。
「……ミナト、ここから離れて」
「一之瀬、広場に戻って先生を呼んできてくれないか。そうすればさすがに無茶は出来ないはずさ」
葵と佐々木が老人に聞こえないよう声を潜める。
足手まといだ。言外にそう言われているような気がして歯を食いしばる。
頭がスッと冷えていくのを感じた。辛うじて残っていた理性が、優先すべきは感情より仲間であることを告げる。ちっぽけなプライドは犬にでも食わせるべきだ。
それはわかっている。わかってはいるんだ。だけど……
肝心の老人は何もなかったかのように一定の距離を保ち、顔が煮崩れるような歪な笑みを浮かべた。
「ほう、【剣陣】佐々木の小倅に【神の依代】神城の雛かよ。中々良い剣筋であった」
「『最悪の田嶋』、田嶋喜左衛門。お会いできてセクシーだよ。最悪の気分さ」
「……じいさんはとっくに寝る時間」
「そこの小童とは違い多少は使うようだ。さすがは歴史を持つ者といったところか」
老人―――田嶋喜左衛門は狂喜の笑みを更に深め、そして―――
「だがこれはどうだ?」
喜左衛門の姿がグニャリと歪み、次の瞬間には葵の真横に立っていた。
「凌いで見せよ」
「……なっ!?」
「葵ッ!」
無拍子の掌底が葵を襲う。
辛うじて反応して見せた葵が大槌を間に差し入れ直撃を回避、しかし―――
―――ズンッ
それは砲撃音にも似た打撃音。
皺の寄った細い腕から繰り出されるには非現実的過ぎる一撃。まるでカタパルトだ。
大槌を介してなお殺されなかった衝撃が、葵の華奢な体をくの字に折り曲げる。
声を上げる間も無かった。地面と平行にすっ飛んでいった葵が木に衝突して崩れ落ちる。
胸部が微かに上下しているし、光化が始まっていないから死んではいないが、深刻なダメージなのは間違い無かった。
「一之瀬、避けるんだ!」
佐々木の怒号。
反射的に俺は飛び退った。回避するのは喜左衛門の攻撃ではない。佐々木の斬撃だ。
「―――シィッッ」
目にも止まらぬ一閃。闇夜に煌くのは銀の朧月。
俺をも巻き込む勢いで振り抜いた斬撃はしかし喜左衛門には届かない。
目を疑う光景だった。
スローモーションのようにふわりと宙に舞った喜左衛門が、佐々木の振り抜いた剣先にトンッと着地。
それは漫画でもなかなか見ない非現実的な光景。
そして、躱されたと知るやすぐさま躊躇なく切り上げに移った佐々木の技量たるや見事の一言。
しかし喜左衛門はその更に上を行く。
「一ノ撃は通らずして当然」
当たり前のように斬撃を掻い潜った喜左衛門がするりと着地。
そしてそのまま佐々木の懐に潜り込む。
「二ノ撃で動揺を誘えば儲けもの」
しかし佐々木は止まらない。
半身になりながらの追撃は、大上段からの逆袈裟切り。腰が入っていなくとも対人特化のエルダーはサムライ。斬撃が当たりさえすれば、人間には確実に届くはず。
しかし佐々木渾身の一撃は―――届かない。
「儂に届きたくば、せめて一呼吸の間にあと3撃用意せよ」
ヒュンヒュンと風切り音が鳴り、鈍色の光が残滓を放つ。
その連続切り自体が寒気を感じるほど見事な連撃だが、一向にその光が脂で曇る気配が無く、そして喜左衛門を捉えるイメージも無い。
これではまるで……
「あの佐々木が、遊ばれてる……」
どうする。どうしたらいい。
ここから離れて先生たちを呼んでくれとの事だったが、そんなの土台無理な事を思い知らされる。
田嶋のジジイは佐々木の剣撃を涼しい顔で回避しつつ、意識の半分を俺に向けている。
もし俺が逃げ出せば即座に追いかけてくるか、背中に向かって必殺の投擲をしてくるかのどちらかだろう。
唯一、反撃の目があるとすれば薫子だが、呆然と立ちすくんで震えているのを見る限りでは無理だ。
要するに、詰んでいた。
「佐々木ッ!」
葛藤は一瞬だったというのに、その一瞬の間に佐々木が田嶋のジジイに腕を掴まれている。
瞬きする暇も無くジジイが一歩踏むと、何をどうやったかわからないが佐々木の体がフワリと浮き、そのまま凄まじいスピードで地面に叩きつけられた。
「かヒュ―――ッ」
体中の酸素を排出させられた佐々木は、焦点が定まらない瞳を彷徨わせて何度かまばたきすると、眠るように静かに気を失った。
俺は乾いた喉に唾を押し込んだ。
入場制限が課されたこのフィールドになぜこんな危険人物が当たり前のようにいるのか、ただ敵は目の前にいて、責任転嫁などしている暇はないというのに今更ながらそんな甘ったれた思考が頭の中をグルグル回る。
佐々木を地面に叩き付けた体勢からユラリと立ち上がった喜左衛門が静かに言う。
「薫子や。邪魔者は無力化した。何をすればよいか……わかるな?」
クラスのトップ3がここに集結。2人が1撃で無力化され、1人が戦意喪失状態。残るは大した実力も無い俺一人。
殺される。そう思う。
佐々木も葵も死んではいない。だがそんな事実に意味はなかった。
俺に向けられる磨き抜かれた刃物のような殺気は、倒された2人には向けられていなかったものだ。
「殺しなさい。その手で。この少年を」
明日もUP




