ふにふに
3日目も朝から鈴蘭相手に組手。
当たり前の事だが、漫画のように覚醒イベント的なものも発生しないまま気付けばもう夕方だ。
合宿前におふくろが来ることになっているし、さすがにシロが可哀想なので、俺は予定通り明日の朝に帰ることになっている。
実質最後の修行だから、せっかくなのでババア相手に1戦お願いした。ババアは無手。俺は例の通り小さい木刀と水鉄砲である。結果……
「まだまだだねえ」
何が起きたが理解できないまま俺は地面に転がった。
もっと臨場感溢れる描写をしたいが、表現なんてカケラも出てこない。ただ負けた。一輝の「はじめ」の一声と同時に負けた。本当にそれしか言い様がない。
ちょっと前に本気のアーニャと模擬戦をしたことがあるが、ここまで訳もわからないまま負けはしなかった。これがトップランナーにすら届くというサムライの実力。背筋が凍る思いだ。
とまあ、それで終われば夏の思い出の一コマとして上々だったのだが、俺の目の前には今、割とシャレにならない目付きで俺を睨み付ける美少女がいる。
「未熟なわたくしにすら勝てないようならば、いっその事……」
もはやお分かりだろうが鈴蘭さんである。そして完全に目がマジである。
女の子にこんな危ない目で見られた経験が無いので、ちょっと……興奮してます。
「一之瀬様、本気の立ち合いを所望いたします」
結局、鈴蘭から1本も取れないまま、俺は無様に地べたに転がり続けた。
なぜ鈴蘭が鼻息荒くしているのかわからないが、おそらく尊敬する兄の友人があまりに不甲斐なくて許せないのだろう。
「鈴蘭、先日も言ったけどお前は分を弁えるべきだ。僕を本気で怒らせたいのかい?」
「兄上、覚悟は出来ております。この後の処遇に異議などは申し立てませぬ。ただこのままではわたくしは納得出来ないのです」
先日は、本気の兄の威嚇に青くなって震えていた鈴蘭だが、今回は腹を決めたのか気丈に一輝を睨み返す。長い長い数秒間、蝉とカラスの鳴き声が寒々しい。
そして張り詰める空気の中、ふうっと体の力を抜いた一輝が俺に向き直った。
「一之瀬、悪いけど相手をしてやってくれないか。兄の僕が許すよ。本気のセクシーを見せてやって欲しい」
「いや本気も何も、俺負けっぱなしだぞ?」
「僕はここ数日立ち合いを見てきた。要所要所で手を抜くところもね」
「はは、そんな事ねーよ。俺はずっと本気で――――」
「―――本当かい? 僕が気付かないと本当に思ってる?」
一輝が覗き込むようにして俺の目を見る。黒曜石のように深く澄んだ瞳には少しの迷いも浮かんではいない。
心の中を見られているような感覚に目を逸らしそうになるが、逸らしたら負けのような気がしてその視線を無言で受け止める。
「鈴蘭が年下の女の子だからかい? 君のセクシーだと知っているけど、サムライにとってそれは侮辱だ」
ここ数日の模擬戦はあくまで修行だ。勝っても負けても損も無ければ得も無い。
負けるのは情けないし恥ずかしいけど、年下の女の子相手にムキになってケガさせる事の方がよっぽど恥ずかしい。だから一撃入れられるタイミングがあっても、どうしても迷いが出ていた。
もちろん、だから勝てていたかどうかはわからない。だけど回復機能の無いダンジョン外で、レベル1の女の子に木刀を打ち付けるのは、俺の中で思った以上にハードルが高かったんだ。
一輝は、そんな俺の迷いを見抜いていたらしい。
動きを読むコツとか、足運びや呼吸、相手の些細な動作を観察する事が、対人戦では想像以上に有意義に作用する。その事に気付いてから、そこそこ戦えるようになっていたし、正直、あわよくばの場面も何度もあった。
俺だって冒険者だ。大人気とか、そういうのをとっぱらったらもしかすると……
「わかったよ。勝てるかはわかんねえぞ」
確かに負けっぱなしというのも気分が悪い。修行に来て何の成果も出さないまま帰るというのも目覚めが悪い。
無意識的に右手が銃のスライドを探し、水鉄砲であることを思い出して苦笑した。
「それでいいさ。鈴蘭もそれでいいね? もし一之瀬に勝てたら、さっきの無礼は不問にしよう」
「なっ! 聞き捨てなりません! 一之瀬様程度にわたくしは負けませぬッ!!」
「ならば全力で戦うといい。じゃあ早速始めよう」
俺と鈴蘭は、一輝と夕日を立会人として向き合う。
薄紫の小袖を纏い、アップにした硬質の髪を、スズランの簪で一纏めにしたサムライガール。
歴史と伝統を背負った小さな背中が今、吸気と共に少しだけ丸められる。俺は軽く右足を引いて半身になった。
彼我の距離10m。一息で詰めれる迫撃の距離、互いに意図するは一撃必殺の短期戦。
「はじめ」
―――シィッ
突進。
1歩、2歩……目を踏んだ直後の交錯。
木刀が打ち鳴らす乾いた音。追撃は、無いッ
すれ違いざまに左手だけを後ろ向きに発砲。当たるとは思っていない。牽制だ。
そして左手を追いかけるように体を反転させると、丁度、開始時と逆の立ち位置で、再度対峙する。
「おっ、水鉄砲マグレで当たったんだ」
「くっ もう左腕は使いませぬ……ッ」
鈴蘭は悔しそうに吐き捨てて木刀の柄から左手を外した。
左袖を濡らす赤いシミ。どうやらラッキーパンチがヒットしたらしい。
「参ります。岩流居合―――」
その予備動作を俺は知っていた。
全身の産毛が逆立つ。回避しなきゃリアルで死ぬッ
俺は膝を折りながら思わず叫んだ。
「ダンジョン外だぞッ!」
それは…… 飛ぶ斬撃
「夜陰の残響」
――――オンッ
回避に―――成功。
例の如く、数本の髪の毛がハラリと宙に舞った。
今更ながら冷や汗が噴水のように湧き出る。
「っぶねえッ! 殺す気かッ!」
「峰打ちです」
「木刀に峰もクソも無ぇよッ!!」
何なんだこの兄妹は。峰打ちで人を殺す趣味でもあんのか
一輝で見てなかったら本気でヤバかった。頭きたぞこんにゃろう。本気で勝ちに行ってやる。
俺が木刀を逆さに握りこむと、鈴蘭がさらに深く腰を落とした。
「迎撃の居合―――円陣」
「誘いに乗ってやる。おいたが過ぎるガキにはお仕置きだ。行くぞッ!」
脚部を中心に魔導を流し込む。本気のスピードを見せてやる。
芝を抉って1歩目を踏み出す。軽い前傾姿勢、意図的に歩幅は狭く。
コンマ何秒で迫る鈴蘭。そして殺気満ちる迎撃網は二尺三寸。
あと半歩でキルゾーン。鈴蘭の右手の甲の筋が跳ねた。
今だ……ッ
「秩序破壊!」
何かが砕ける音。
急激に引き延ばされる視界。進行方向と逆に引っ張られるような感覚。レベル6からレベル1への急制動。
この0.0何秒のズレがすなわち―――
――――ブォンッ
「――なッ!!」
空振りを誘う!
胸元数センチを通り過ぎた木刀。右手だけで刀を返すには一動作要るだろう。そして俺の突撃は終わってない。
必殺の居合のフォロースルーを視界の片隅に、鈴蘭の懐に低く飛び込むと、驚きに見開かれた鈴蘭と目が合う。
「クールだろゥッ!?」
「~~ッ!」
逆手に握った木刀を全力で振り抜く―――こと無く、彼女の首筋にピトリと当てる。
駄目押しに心臓に向かって赤い水をぶっかけ。これが白かったら大問題なのでとても残念です。
チラリと見た鈴蘭は、負けたのがまだ信じられないといった表情だった。
「そこまで。勝者、一之瀬」
一輝のジャッジに安堵の溜息を一つ。
なんとか先輩の意地を見せる事が出来た。
「なんとか1勝だよ。挽回不能なほど負け越してるけどな」
「さすが土壇場には本当にセクシーだね。スキルをあんな風に使うとは思わなかったよ」
「今の俺の精一杯だよ。んな事よりお前、外であの技使わないように教育しとけよ。下手すりゃ死ぬぞ」
一気に弛緩した空気。
夕日を全身に浴びた一輝が肩を竦める。とんでもなく絵になっていてイラっとした。
さて修行も終わりだと縁側を見ると、ババアが茶を啜りながら目を細めていた。これはこれで絵になるなあと思った。
何だかんだ言っても、俺の修行にずっと付き合ってくれたのは鈴蘭だ。俺はお礼と労いの言葉をかけようと鈴蘭に向き直った。
「さて、ここ数日ずっと相手してくれてありがとな。お前のおかげで少しは強くなれた…… って、おい、どうした?」
俯いたままブルブル震えている鈴蘭。こりゃよっぽどショックだったのか。
本気の勝負で慰めは侮辱だ。それでも一応声はかけようと1歩足を踏み出した、その時だった。
―――ゾゾゾッ
今日一番の悪寒が背中を奔る。本気の殺気に細胞レベルで恐怖する。
鈴蘭の姿が――ブレた。
瞬間、時が止まったように感じる。目から入ってくる情報が静止画のように脳内をぐるぐる回る。
鈴蘭の瞳孔の開き切った瞳、いびつに歪んだ口元、その後ろで焦った表情の一輝。
そして、俺の喉元に向かって真っすぐ伸びてくる木刀の……切っ先。
サムライ渾身の刺突。本気で殺すつもりの一撃。食らったら、死ぬ。
俺たちは今、レベル1同士だ。本当の意味で対等の場面。血肉として練り上げた技術だけがモノを言う状況。
後ろに跳ぶ?
いやだめだ。完全にキレてやがる。追撃を食らって結果は同じだ。
諦めるのか? それもだめだ。
目を瞑るな。最高のタイミングで一歩、前へ。
右膝だけ僅かに沈める。その僅かな傾きに全てを掛けた。そして―――
「ああああぁぁぁッ!!」
首横の皮をわずかに引っ掛けながら、木刀の切っ先が突き抜ける。
皮がバチンと弾けるのを感じながら、つんのめるようにして鈴蘭に体当たり。
そのままもつれて俺たちは芝生に倒れ込む。
奇しくも年下美少女を押し倒す格好になってしまったが、そんな事言ってる場合じゃない。殺されかけたのだ。
俺は怒鳴った。
「今のはマジで危ねぇ………………ふにっ?」
喉元まで出かかった罵声が引っ込む。
なんか右手が『ふにっ』とした。俺は首を傾げた。
状況がよくわからないが、俺はふにふになんかに騙されない。
仕切り直して怒鳴ってやろうと彼女に向き直る。
鼻先数cmの超至近距離に鈴蘭の顔。気の強そうな切れ長の目。高く尖った鼻。花開く蕾のように少しだけ捲れ上がった桜色の唇。そして右手がいい感じだったので取りあえず『ふにっ』しておく。
そして俺は思わず呻いた。
「……まつ毛、超長ぇ」
俺、何言ってんの? と思ったが、やっぱり右手が気持ちよかったので反復運動的ふにふに。おそらくは本能的なものだ。
「お、お、お……」
「……お?」
至近距離で鈴蘭が何かを呟く。
俺は続きを促すように首を傾げた。やめられない止まらないので念のため、ふにふにを加速させる。
すると、茹でタコみたいに顔を真っ赤にした鈴蘭が絶叫した。
「お、お、お戯れえぇぇぇぇェェ~~~ッ!!!」
とんでもない声量に、俺は思わず左手で耳を塞いだ。右手は様々な要素を勘案してそのままの位置をキープした。
すると突然、背中に衝撃が奔る。
気づいたら俺は茜色に染まった空を見上げていて、そして鈴蘭さんにマウントを取られていた。
「あのっ す、鈴蘭、さん……?
なぜか半泣きになった鈴蘭さんが、昇天する世紀末覇者のように、拳を天に突き上げる。
そして――――
「ふ、ふ、ふああああああぁぁぁ~~~~ッッ!!」
「ちょ、待―――」
俺はボッコボコにされた。
何をふにふにしたんだろう……