第8話 西壁村の奴隷売買 (4)
.
崩落音と何かが砕ける音を背に、息を整えようと角を曲がり、鉄格子の前で立ち止まった。
「はあ……はあ……はあ……」
「…………」
……体力にもペナルティがあるのか?
俺ほどではないが、呼吸が乱れているところを見ると、こいつもさすがに疲れているらしい。
ガシャン、ガシャン!
「どなたか存じませんが、お願いです! 私たちの……せめてこの子だけでも助けてください!」
背中を預けた鉄格子の向こうで、中年の女性が六歳から八歳くらいの子供の手を握り、必死に格子を叩いていた。
「お願いします! この子だけでも連れていってください! どうか!」
「……難しいと思います」
俺は大して悩むこともなく断った。
鉄格子くらいサラなら飴細工のように曲げられるだろう。問題は子供を外に出したあとだ。
子供を背負って連中から逃げるなんて、一緒に死のうと言っているようなものだし、かといって格子だけ開けても、逃げ出した奴隷を密売人たちが見逃すとは思えない。
「うちの、うちのポメルは言うことをよく聞くし、迷惑もかけません! そうでしょう? できるわよね?」
「うん……! できるよ」
「そう! いい子ね、ポメル」
子供はそう答えると、俺をじっと見つめた。
自分がどんな状況に置かれているのかもわからず、母親の必死な様子に合わせて返事をしている。
「坊主、名前は?」
「ポメルだよ」
「そうか、ポメル。お母さんの言うことを聞いて待ってれば、このお姉ちゃんが迎えに来るからな」
「このお姉ちゃんが?」
「ああ、このお姉ちゃんが」
中年の女性は俺の言葉を聞いても、もう一度無理やりにでも連れていってくれと頼みたそうだった。だが、黙って口を閉じたところを見ると、意外と状況を理解しているらしい。
「お姉ちゃん、お母さんも迎えに来てくれる?」
しゃがみ込んで無言で俺を見上げるサラに、俺は小さく頷いた。
サラは無表情のまま子供に答えた。
「……命令だって」
「お母さん! お母さんも迎えに来てくれるって!」
無邪気に大声を上げる子供と、俺たちに見捨てられたと思ったのか寂しそうに笑う女性を背に、俺は振り返った。
「お兄ちゃん、約束だよ!」
「…………」
俺はその言葉に答えなかった。
「サラ、行くぞ」
再び走り出そうとした瞬間、角から現れた密売人と目が合った。
「いったいどこに行きやがっ……」
「……っ!」
男は俺を見るなり、手にしていた鉈のような刃物を大きく振り回した。
「このドブネズミが!」
ブンッ――。
反射的に横へ身をかわし、顔を向けると、目の前で男が後方へ吹っ飛んでいた。
――ドンッ!
男は壁に激突し、床に落ちた。
「サラ?」
「……殺してない」
横に伸ばしていた脚を下ろし、サラが静かに言った。
どうやら俺が殺すなと言ったのを守っているらしい。
吹っ飛んだ男を見ると、床の上でかすかに痙攣していた。
……手加減してこれかよ。
殺すなという命令がなければ、あいつは壁に叩きつけられて破裂していたかもしれない。
「……よ、よくやった」
「うん」
音を聞きつけたのか、廊下の向こうから連中の声がした。
「あっちだ!」
「E区画の突き当たりだ!」
「前後を塞げ! 一人も逃がすな!」
子供の無邪気な声と女性の泣き声を必死に無視して、俺たちは再び走り出した。
* * *
ドン! ドン!
天井からぱらぱらと降る石の粉や埃を浴びながら、走っても走っても、この蟻の巣のような通路は終わらなかった。
「サラ! 道が多すぎる!」
「あそこ」
サラが短く告げた。
その指先が示すのは、別の地下広場の奥にある、半ば崩れた鉄の扉だった。
扉は閉まっているが、サラはその向こうへ続く空気の流れを感じ取ったらしい。
俺は迷わず扉へ向かって走った。
そして廊下を抜け、広場へ飛び込んだ瞬間。
「見つけたぞ!!」
ローブ姿の男が背後の廊下から飛び出し、手を伸ばした。
――フォンッ。
俺とサラの足元に光る魔法陣が現れ、回転しながら全身を包み込む。
……これは、拘束魔法……。
一歩も動けない。
徐々に巻きついてくる光が、もがく俺の手に触れた瞬間、熱を感じた。
――【危険を感知しました】
【身体への圧迫を感知しました】
【《イレギュラー》により再執筆】
【魔法『光鎖』を破壊します】
――パリンッ!
俺を拘束していた光が粉々に砕け、宙に消えた。
「……あれ? 詠唱を間違えたか?」
ぶつぶつ言う魔法使いを無視して、俺は隣に顔を向けた。
「…………」
サラは懸命にもがいているが、動けないらしい。
こんな奴隷密売の末端魔法使いが使う魔法が、高位魔法のはずはない。
いや、たとえ高位魔法だとしても、霊物であるドラゴンの前では無意味なはずだ。
大魔法使いモルカリオンでさえ、ドラゴンに遭遇したときは討伐ではなく回避を選んだほどなのだから。
俺はシステムウィンドウに表示されたサラの状態を目で追った。
……魔法脆弱。
俺との強制契約によって、人間の姿になったサラに課せられたペナルティ。
契約したときから気にはなっていたが、こんなに早く問題になるとは思わなかった。
俺が戸惑っている間に、何本もの廊下から数十人の敵が押し寄せてきた。
「捕まえたぞ!!」
「ここで終わりだ!」
「動くな!」
その声を聞いたサラは歯を食いしばって魔法陣を破ろうとしたが、バチッと弾かれるだけだった。
……まずいな。
「どこから来た奴だ?」
最初に廊下で見かけた二人のうち、貴族らしい服装の男が近づいてきて尋ねた。
「に、西の城壁の補修工事をしていて、間違って迷い込んだんです。すぐ出ていきますから」
「ふざけるな!」
まあ、信じるわけないよな。
とりあえずこの場を切り抜けようと適当に言ってみたが、男の目はまったくごまかされなかった。
俺の嘘を聞いた男が拳を振るう。
当然かわして反撃……したかったのだが。
――ドスッ。
まともに腹を殴られ、その場にうずくまった。
この天才悪魔学者は、頭脳以外は一般人並みという設定なのだろう。
走り続ければ脇腹が痛くなるし、転べば血も出るし、痣もできる。
スキルがあるだけで、それ以外はただの勉強漬けの人間だったはずだ。しかも山ほどペナルティを背負わされ、捨てられたキャラクターなのだから。
「はっ……」
男は休む間もなく俺を蹴りつけた。
――ドカッ!
「がはっ!」
「グルル……」
サラが歯を剥き出しにして男を睨むと、男は眉をひそめた。
「何だ、この女は!」
そして向きを変え、サラまで殴り始めた。
ドカッ、ドカッ、ドカッ。
サラは拘束されたまま、その場で殴られるしかなかった。
「はあ……」
無力だ。
あの野郎が残した厄介事の尻拭いをしていると思うと、腹が立って仕方がない。
どうにか息を整えながら、隣で拘束されているサラの魔法に手を伸ばした。
フォンッ――。
だが、光をすり抜けるように動く俺の手に、《イレギュラー》は反応しなかった。
……拘束された本人にしか作用しない魔法なのか。
厄介なことになった。
サラを置いていくわけにもいかないし、そもそも俺一人で脱出できるかどうかも怪しい。
立ち上がろうとした俺の脇腹を、男が蹴りつけた。
「ぐああっ!」
カラン――。
殴られて転がった拍子に、ポケットから何かが落ちた。
薄く刻まれた蓮の花の模様。
Fランクと鑑定されたとき、馬車の中でイベリアから渡された印章だ。
すっかり忘れていた。
「何だ、これは」
男が印章を拾い上げ、あちこち眺めていると、後ろにいた商人が口を開いた。
「ハーフエルフの王女の印章です。王女が身分を保証する魔法の印章ですよ」
……身分保証? 俺が何者かも知らないのに、こんなものを?
Fランクのリベリン国民が食いっぱぐれないようにと、初対面の相手に王女の名を冠した印章を平然と渡してしまう。
お人好しっていうのは、こういう人のことを言うんだろうか。
その説明を聞いた男の顔が歪んだ。
ドゴッ。
男が商人の顔を殴りつけると、商人は力なく吹っ飛んだ。
「お前がエルフなんぞ拾ってくるから、もう虫が嗅ぎつけてきたじゃねえか!」
「ごほっ……か、確実に問題なく処理を……」
ドカッ、ドカッ。
倒れた商人を何度も踏みつけてから、男は俺を振り返った。
「王女はいつからこれを知っていた?」
知っているわけがない。
初対面の俺に印章まで渡してくれる王女が、こんな奴隷密売を知っていたなら、この地下牢は俺が発見するより前にイベリアがきれいさっぱり片づけていたはずだ。
俺は小さく肩をすくめ、考えた。
状況を見る限り、イベリアが知らないのは確実だ。
だが、この蟻の巣のような地下牢と数十人の密売人。
俺が偶然足を踏み入れたから事件が動き出した、で片づけるには規模が大きすぎる。
表沙汰にならず、これだけの規模を維持するには、少なくとも主要人物クラスの関与が必要だ。
だとすれば……上にいるのは王宮かギルドの人間じゃないか。
「…………」
天才という設定のおかげか、推理の欠片が難なく頭に浮かんでくる。
回収されなかった伏線を世界が勝手につなぎ合わせて作った事件のほうが、あの野郎の考えた筋書きよりよほど説得力があった。
俺は膝に手をついて立ち上がり、言った。
「あの人がやったことなのに、王女が知らないわけないだろ?」
何も知らないくせに、すべてお見通しだという顔で言ってみた。
男の目がわずかに見開かれ、瞳孔が大きくなった。
「……お前、何者だ?」
どうやら黒幕は王宮関係者で正解らしい。
「知ってどうする?」
「この、生意気な……」
それなら、もうここにいる必要はない。
奴隷事件の行き着く先が王宮かギルドの誰かだとわかった以上、ここで決着をつけなくてもバッドエンドを防ぐ方法はいくらでもある。
ただ、その前に……。
血の臭いと絶叫。そして、必死に見ないふりをしてきた鉄格子の中の死体たち。
ここは、ただただ不愉快だ。
「せっかく来たんだ。ここは全部ぶっ壊しておくか」
「……は?」
ダッ――。
予想外の返答に男が戸惑った隙に、俺は地面を蹴って駆け出した。
「な、何だ!?」
慌てて拳を振るう男をすり抜け、そのすぐ後ろで拘束魔法を使っている魔法使いへ――。
正確には、魔法使いの前で輝く杖に向かって、無理やり手を突っ込んだ。
手に熱さが走り、ごつごつした何かに触れる。
――【危険を感知しました】
【Ⅱ度の火傷を感知しました】
【《イレギュラー》により再執筆】
【下級古木の杖を破壊します】
――パリンッ!
光る球体と杖が粉々に砕け、床へぱらぱらと落ちた。
同時に、背後でサラを拘束していた魔法が砕け散る音がした。
今だ。
「サラ! 命令だ! 地下牢の鉄格子を全部ぶっ壊せ!」




