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第4話 霊物とバタフライエフェクト (3)

.

 勇者は、すべての悪魔を倒すまでドラゴンの生息地を避け続けていた。


 なぜなら、ドラゴンはこの小説の頂点に君臨する、バランス崩壊もいいところの存在だったからだ。


 少し……いや、いくらなんでも遭遇するのが早すぎるだろ。


「■■■■■───!!」


――【危険を検知しました】


 鳴りやまない咆哮に、俺の白い髪が激しくなびく。


「■■■■■───!!」


――【危険を検知しました】

【同一魔法による継続的な攻撃を検知しました】

【《イレギュラー》による再執筆を実行】

【魔法『威圧』を一時保存します】


 ……一時保存?


 いつもとは微妙に違う機械音だったが、今は気にしている余裕なんてない。


 ドラゴンの全長は、およそ三十メートル。


 首が痛くなるほど見上げなければならない。その銀色の眼球だけでも、俺の体より大きく感じられた。


「グルルル……」


 腹の底まで響いてくる低い唸り声を無理やり意識から追い出し、俺はゆっくりと周囲を見渡した。


 王女を乗せた使節団なら、王国でもそれなりの精鋭を選んできたはずなのに……。


 気絶して地面に突っ伏している騎士団長クリドをはじめ、大小のクレーターの周囲には騎士や魔法使いたちが倒れていた。


 砕けた盾の隙間には血だまりができている。魔力を使い果たした魔法使いが何人か小さく身じろぎしているものの、意識はなさそうだ。


 仮にあの兵士たちが全員立ち上がったところで、この状況を打開できるとは思えない。


 ……威圧だけで、これか。


 攻撃するまでもなく、ただそこにいるだけで戦場を崩壊させる霊物。


 原作で描かれていたドラゴンの格そのものだった。


「グルルル……」

「…………」


 小さく息を吐き、俺は正面に向き直った。


 完全な一対一。


 目の前で、黒いドラゴンの腹が大きく膨らんだ。


「……っ!」

「─────!!」


――【危険を検知しました】

【魔法『ドラゴンブレス』を検知しました】

【固有スキルと判定。一時保存は不可能です】


 ……固有スキル?


 必死に頭を働かせながら、一度引きちぎられた右腕をさすった。


「…………」


 俺の予想が正しければ、何を食らっても俺は死なない。


 あのブレスを浴びた瞬間、《イレギュラー》が危険と判断して再執筆してくれるはずだ。


 だが、善悪の区別もなく再執筆するのだとしたら?


 俺の後ろにいるBランクの連中も、兵士たちも……あの王女までもが、まとめて死ぬ。


「冗談じゃねえぞ……」


 とにかく、ドラゴンの注意を俺に引きつけなければ。


 ダッ!


 背後に誰もいない場所を目指し、霊物の側面を大きく回り込むように駆け出した。


「グルルル……」


 ぞっとするような低い唸り声が追いかけてくる。


 振り返る暇もなく必死に走り、倒れた兵士のいない場所を探していた、そのとき。


 ピロン。


――【バッドエンド】


「は?」


 システムウィンドウの『ハッピーエンド』が『バッドエンド』に変わっていた。


 足を止めず、首だけをひねってドラゴンを見上げる。


 ……俺を見ていない。


 ドラゴンは銀色の目をぎらつかせ、倒れている兵士たちの方ばかり見つめていた。


「この野郎!! こっち向け!」


 ダダッ!


 慌てて方向を変え、地面を蹴って元の場所へ引き返す。


 ゴオオオ……。


 ドラゴンの腹がますます膨らみ、周囲の空気を残らず吸い込んでいく。口元では真っ赤な炎が蒸気のように立ちのぼっていた。


「……はああっ」


 焼けつく熱が肌に触れた、その瞬間。


「■■■■■■■■■———!!!!」

「ぐあああっ!!」


 三十メートルもの高さから鼓膜を引き裂くような轟音が響き、熱風とともに紫色のブレスが降り注いだ。


 ドゴオオオン!


 熱風に目も開けられないまま、俺は身を投げ出した。


 ブレスが草原の緑を焼き払い、地面に到達する寸前。


 紫の炎が、俺の指先に触れた。


「がああああっ!!」


 触れたと認識した瞬間、手の甲から猛烈な熱が走り、骨の節々を伝って皮膚がどろどろに溶けていく。


――【危険を検知しました】

【身体の溶解を検知しました】

【《イレギュラー》による再執筆を実行】

【魔法『ドラゴンブレス』を破壊します】


 ――パリィン!


 機械音声と同時に炎が止まった。


 炎に触れていた空間そのものが、ガラスのように砕け散って消滅する。


 続いて、溶け落ちた指の骨が伸び、再生した皮膚と神経がそれを包み込んだ。溶けた組織が形を取り戻し、元どおりの手に戻っていく。


 ……再執筆された。


「かはっ……はあ……」


 頭の中が真っ白になった。


 物語のすべてを知っている俺には、この小説をハッピーエンドに変える自信があった。


 けれど、この痛みは本物だ。


 生まれてこのかた、味わったことのない激痛だった。


 ドラゴンは息をつく暇も与えず、再び周囲の空気を吸い込み始める。


 ゴオオオ……。


「ま、待っ……待てって!!」

「■■■■■■■■■———!!!!」


 そして、もう一度。紫色のブレスを頭上から吐き出した。


 全身が溶けそうな熱風に包まれた直後、紫の炎が降りかかる。


「くっ……はっ!」


 息をすることさえ難しい熱気の中、歯を食いしばり、本能的に腕を上げて顔をかばった。


「ぎゃあああああっ!!」


 肉と筋肉が溶けていく。


 筋肉の奥の血管が沸騰し、ぶつぶつと音を立てて破裂する。握りしめた拳は親指から順に崩れ、溶け落ちていった。


 あ……これ、死ぬ。


 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!


――【危険を検知しました】

【身体の溶解を検知しました】

【《イレギュラー》による再執筆を実行】

【魔法『ドラゴンブレス』を破壊します】


 ――パリィン!


 またしても空間が割れるようにブレスが砕け、紫色の破片となって蒸発した。


 同じように、断ち切られた神経の束と溶けた組織が再生し、白い肌がゆっくりと戻ってくる。


 ブレスが地面に届くまでの、ほんの一瞬の出来事だった。


 それでも、生きたまま地獄に落とされた気分だ。


 激痛の余韻に、心臓が暴れ回っている。


「はあ……はあ……正気かよ……」

「■■■■■───!!」


 ドラゴンは死なない虫でも初めて見たのか、長い首をぐっと突き出して咆哮した。


「……もう勘弁してくれ」


 もう一度ブレスを食らえば、ショック死するかもしれない。


 まあ、それすら再執筆されるんだろうけど。


 ドラゴンはもうこのモブに興味を失ったかのように、再び腹を膨らませ始めた。


 俺は素早く視線を走らせ、システムウィンドウを確認する。


=====================

【一時スキル】

《威圧》―(残り:1回)

=====================


 《イレギュラー》によって一時保存されたスキル、《威圧》。


 仕組みはまだよくわからないが、細かいことを気にしている場合じゃない。


 俺は一時スキルに視線を固定した。


 その瞬間。


《威圧、発動》


 ――ドォン!


 視界が一瞬で赤く染まり、強烈な風圧がドラゴンを襲った。


「───!!」


 すると、あの巨大なドラゴンがぶるりと身を震わせて硬直し、吐きかけていた真っ赤な炎をごくりと飲み込んだ。


 威圧に対する本能的な反応……ってやつか?


「グルル……」


 何百年生きてきたのかは知らない。


 だが、最強の生物であるこの霊物は、生まれて初めて他者から威圧されたのだろう。


 小さく喉を鳴らしながら、しばらく俺を見下ろしていた。


「クゥン……」


 やがて子犬のような情けない声を漏らすと、巨大な胴体と頭を地面につけて伏せてしまった。


「……は?」


 まだ威圧の無効化が効いているのか、俺は大胆にもその鼻先に手を置いた。


 本来なら想像もできない行動だ。


 ピロン。


《契約》


 すると、システムウィンドウに《契約》の文字が浮かび上がった。


 霊物が返事をするように鼻息を噴き出したので、さっきの痛みを思い出して思わず手がびくりと跳ねた。


「……契約、ねえ」


 大きな鼻先の向こうでは、長い尻尾がぶんぶんと揺れている。


「…………」


 このドラゴン――霊物は、物語の終盤で勇者が死闘の末に契約を結び、世界征服に大きく貢献する存在だった。


 俺が境界の森でイベリアを救ったことと、この霊物の出現にどんな因果関係があるのかはわからない。


 ただ一つ確かなのは、こいつを勇者に渡すわけにはいかないということだ。


 この霊物は規格外すぎる。


「……さて、と」


 俺はシステムウィンドウで輝く《契約》を、ためらわず発動した。


 すると、ドラゴンの体から青い光が閃いた。


 三十メートルを超える巨体が徐々に縮み、巨大な翼も尻尾も消えていく。


 数秒も経たないうちに、あの巨体は黒いショートヘアに不思議な輝きを宿した瞳を持つ、妖艶な人間の姿へと変わっていた。


 ……何だよ、これ。


 システムウィンドウには《ドラゴン》が追加されている。視線を向けると、詳細情報が表示された。


=====================

【スキル一覧】

《スキップ》―(使用可能)

《ドラゴン》


【一時スキル】

=====================

〈ドラゴン情報〉


【ランク:S】

【名前:サラ】

【人間形態に固定】

【性別:不明】

【ペナルティ:魔法に弱い/魔法使用不可】

=====================


 いつの間にか『バッドエンド』も『ハッピーエンド』に戻り、《スキップ》も使えるようになっていた。


 俺はぽかんと立っている霊物を見つめた。


 ……これ、本当に俺の知ってる世界か?


 ドラゴンのことは知っている。でも、人間形態なんて初耳だ。


 勇者と契約したときでさえ、ドラゴンは元の姿のままだったはず。


 ……そもそも、あいつの小説にこんな細かい設定があるとは思えない。


 一つ確かなのは、Fランクにはマナそのものがないため、ドラゴンどころか誰とも契約できないということだ。


 契約には相手を圧倒するほどの膨大なマナと、高度なマナ学の知識が必要なのだから。


 それは知っていた。


 知ってはいたが、システムウィンドウに《契約》と出てきたら、押さずにはいられなかった。


「その結果が、マナ不足による人間形態への固定ってわけか……」


 背丈は俺より少し低い。真っ白な肌がつやつやしている。


 よく見ると、うっすらと鱗に覆われているようにも見えた。


 それに、性別不明のわりには……。


 ……どう見ても男じゃないよな?


 まあ、厳密には人間でもないし、爬虫類だ。そこは大した問題じゃないだろう。


 ただ、せめて何か着せた方がよさそうだ。


 このまま町へ連れていったら、俺が人間として大事な何かを捨てた気分になる。


「うーん……何かないかな」


 ぼんやり立っているサラを背に、周囲をゆっくり見回した。


 横倒しの馬車、壊れた車輪、倒れた兵士たち。破れた幌の隙間からは補給物資がむき出しになっている。


 俺はその中から、いかにも高級そうな黒い布を一枚引っ張り出した。


 どうせなら、破れていないやつがいい。


「とりあえず、何か羽織ってくれ」


 言葉、通じるのか?


 サラは銀色の瞳で俺を一度見つめ、小さくうなずいた。


 そして布を受け取ると、空中で広げ、黒い短髪を軽く払う。そのままばさりとマントのように肩へ掛け、全身を包み込んだ。


 魔法に弱いというペナルティは気になるが、とにかく開始早々、とんでもない戦力を手に入れてしまった。


 俺はもう一度サラをじっと見つめた。


 死ぬはずだった王女を助けたら、青々とした草原にいきなりドラゴンが降ってきた。


 もし、何の力もないはずの俺が霊物を手に入れたという噂が大陸中に広まれば、最初からねじ曲がってしまったこの物語がどこへ転がるのか、まるで予想できなくなる。


 これ以上は慎重に動いた方がいい。


 となれば。


「……うわっ」


 被害者である俺も、芝生の上にばたりと仰向けになった。


* * *


「クリド様!」


 どこからか聞こえてきた切迫した声に、俺は薄目を開けて様子をうかがった。


 視界の端で、兵士の声を聞いたクリドが慌てて身を起こす。


「霊物は……?」


 いるわけないだろ。


 残っているのは、めちゃくちゃになった現場だけだ。


 倒れた兵士と騎士、壊れた馬車、散乱した補給物資。少し離れた場所ではイベリアが起き上がろうとしている。


 そして、寝転がった俺の前にしゃがみ込んでいるサラ。


 ……あ、そういえば。


 サラのこと、どう説明するか考えてなかった。


「救援部隊を要請しろ! 急げ!」


 しばらく周囲の状況を確認していたクリドが我に返り、兵士たちに怒鳴った。そして、こちらへ歩いてくる。


 少し呆然とした顔で俺を見下ろし、口を開いた。


「君……生きていたのか」

「そう見えるか? そりゃよかった」

「霊物はどうなった?」


 俺はそのまま、ごろんと仰向けになり直した。


「知らない。見てのとおり、俺も気絶してたんでね」

「…………」


 まあ、何だ。


 黙って俺を見つめる様子からして、威圧で気絶する前に自分がさらした醜態を気にしているのかもしれない。


 クリドはしばらく俺を見つめたあと、隣に座っているサラへと視線を移した。


「こちらの者は……」


 何か尋ねかけて、口を閉じる。


 俺から聞き出せることはないと判断したのか。それとも、状況を整理してから改めて問いただすつもりなのか。


 小さく舌打ちすると、背を向けて歩きながら声を張り上げた。


「救援部隊が到着するまで、霊物の行方を可能な限り追跡し、安全を確保する!」

「はっ!」

「第二部隊、後方に負傷者三名を確認! 応急処置ののち、直ちに搬送します!」

「第三部隊、魔法使い隊とともに陣形を維持しています! 防御障壁の魔力はまだ十分です!」


 兵士たちの報告が慌ただしく飛び交う中、寝転がったままの俺に、イベリアがゆっくりと近づいてきた。


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