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第21話 小さな疑問 (2)

「うちの孤児院にポメルの母親が訪ねてきたことは、一度もありません。記録にも残っていませんし」


 …会ったことがない?


 俺は昨日、聖堂の前で出会った中年女性を思い出した。


 二人は間違いなく、仲睦まじい親子だった。


 だが、シスターの言うとおりなら、ポメルも母親に会ったことがないということになる。


 なら、あの人は何だったんだ?


 俺は顔を向け、窓の向こうで子供たちとレンガを投げ合っているポメルを見た。


 …妙だ。


 ベルゼリアは消滅した。残滓といっても、治安が少し悪くなった程度のはずなのに。


「いや、確かに…」


 言いかけて、やめた。


 これ以上話しても答えは出そうにない。


「教えていただき、ありがとうございます。また近いうちに伺います」

「いえ。何か必要なことがあれば、いつでもいらしてくださいね」


 エレナは穏やかに微笑んだ。


 俺は話を切り上げ、シスターたちに囲まれているサラのもとへ向かった。


「どうするおつもりですか!」

「子供たちが怪我をしたらどうするところだったんです!」

「……」


 両手にレンガを持って途方に暮れていたサラは、俺を見るなりシスターたちの間を抜けて駆け寄り、レンガを差し出した。


「これ」

「何だよ」


 普段はしっかりしているように見えても、こういうときはあそこの子供たちと大差ないな。


「大丈夫。弁償することになってる。クリドが」


 俺についてきたエレナがシスターたちに事情をうまく説明してくれたおかげで、騒ぎはひとまず収まった。


 そして、しばらくして。


 崩れた石塀を片づけていたシスターの一人が、子供たちに優しく声をかけた。


「さあ、お昼寝の時間ですよ。中に入ったら手を洗ってくださいね」

「はーい」


 遊んでいた子供たちが一人、また一人と孤児院へ戻っていく。


 ポメルもみんなについていこうとして、俺を見て足を止めた。


「お姉ちゃんもお昼寝していくの?」

「いや、このお姉ちゃんは忙しいから帰らなきゃいけないんだ」

「じゃあ明日も来る?」


 必要な情報はもう手に入った。明日また来る理由はない。


 だが。


「うーん…」


 俺はしばらくポメルを見つめた。


 さっき生まれた、一つの疑問。


 ポメルの母親についてだ。


 本人に直接聞くことにした。


 本人に聞くのが一番確実だ。


「うん、時間があったら会いに来るよ。それよりポメル、お母さんはどこに行ったんだ? 昨日、エステル通りで一緒にいただろ」

「お母さん?」


 ポメルは目をぱちくりさせて答えた。


「お母さん? お兄ちゃん、何言ってるの? 僕、お母さんなんていないよ」

「何言ってるんだよ。確かに一緒にいただろ。なあ、サラ?」


 俺はサラを振り返った。


「…?」


 サラは首をかしげた。


「ほら、地下牢で一緒にいた中年の女の人だよ」


 サラはきっぱりと首を横に振った。


「いなかった。この子、一人だった」


『…会話までしたのに、俺の勘違いだっていうのか?』


 俺はしばし考え込んだ。


 地下牢から救い出した奴隷だけでも百人を超える。


 国籍も種族も所属もばらばらで、そんな連中一人一人に中年女性を見たかと尋ねて回るわけにもいかない。


「ポメル、じゃあどうしてエステルに行ったんだ? ここから結構遠いだろ」


 ポメルは目を上に向け、記憶をたどった。


「うーん…聖堂でおいしいものをくれるっていうから行って、それからカイルが遊ぼうって言うから、西のリテル公園で遊んだんだ。それで…うーん……」


 やがて首を振った。


「わかんない。覚えてない」

「ポメル、何をしているの? お友達はもう手を洗って横になっているわよ」

「お兄ちゃん、明日も絶対来てね!」


 シスターに呼ばれ、ポメルは慌てて走っていった。


「なあ、サラ」

「…うん」

「本当に覚えてないのか?」

「何の話をしてるのかわからない」

「…そうか」


 俺は孤児院へ入っていくポメルを見つめた。


 妙な不安が胸に残る。だが、システムウィンドウのハッピーエンドはまだ輝いている。


 ならば、プラクシア訪問まで一週間もない今、わざわざこの不安を掘り返したくはなかった。


     * * *


 その夜。


『収納するぞ』

『…嫌。窮屈』


 食費を浮かせ、ついでに回復もさせようと《契約収納》を使おうとした俺に、サラが断固拒否の意思を示したおかげで、俺は一人で街へ出ることになった。


「頑固なやつだな」


 いざとなれば強制的に収納すればいい。こんな些細な言い争いに力を使う必要はない。


 そういうわけで、今の俺は二人分の食材を買うために中央広場を少し過ぎ、比較的安い路地裏の市場へ足を運んでいた。


「お客さん! 今日獲れたグリーンフィッシュだよ! 見りゃわかるだろ!」

「見りゃわかるさ、もう死んでるじゃねえか!」

「旦那! じゃあ殺して売らずに、生きたまま売れってのかい!」


 ギルド周辺は王宮から少し離れているせいか、一銭二銭を大切にする庶民であふれていた。


 ランプや提灯の明かりが路地の奥まで続き、油のはぜる音と、何の料理かはわからないがうまそうな匂いが鼻をくすぐる。


 俺はあちこち見回しながら、肉の塊が吊るされた露店の前で足を止めた。


 生臭い匂い。嗅いだだけで普通の獣の肉じゃないとわかる。


「これ、食べられるんですか?」


 純粋な質問だったのに、商人は面倒な客を見るような目で俺をにらんだ。


「食べられないものを売りに出すわけがないでしょう」

「はは…ですよね?」

「こほん。ノスレム産のトロール肉です。まだ再生力が残っていましてね。うまく保存すれば腐りもしませんし、ぴくぴく動くほど新鮮なんですよ」

「動くんですか?」


 それはちょっと嫌だな。


「はは、ご安心を。お買い上げいただければ、内臓と神経はきれいに取り除きますから。まあ、ご希望ならこのままでもお渡しできますが」


 俺にとってトロール肉は、文字どおりゲテモノ料理だ。


『サラは好きかな。食べっぷりを見る限り雑食っぽいけど』


「お値段は?」


 俺の質問に、商人は手についた血をエプロンでごしごし拭い、中華包丁のような刃物を持ち上げた。


「金貨五枚。ですが、そろそろ店じまいですから、特別に金貨二枚でお譲りしましょう」


 うん、お前がたらふく食ってろ。


 ぼったくりにもほどがある。


「また今度にし――」

「こんなところでお会いするとは」


 断ろうとしたそのとき、誰かが隣に近づいて挨拶した。


 振り向くと、修道服を着た女性が立っていた。


 院長のエレナではない。昼間、サラを叱っていたシスターの一人だった。


 俺も軽く頭を下げた。


「シスターもお買い物ですか?」

「子供たちが本当によく食べるものですから…。そういえば、お昼にご一緒だった女性は…?」

「…ああ、家にいます。俺もあの女性がずいぶん大食いなもので」


 もちろん、性別もなければ人間でもないが。


「でしたら、そのトロール肉はおすすめしませんよ。独特の臭みがどうしても抜けませんから」

「あ、そうなんですか? それは残念ですね」


 断ろうとしていたところだ。ちょうどいい。


 商人は本物の厄介客に一言言い返そうとしたが、シスターの悪気のない表情を見て舌打ちするだけにとどめた。


     * * *


「ありがとうございました」


 市場の入り口。


 シスターにすすめられた安くていい食材で袋をいっぱいにした俺は、礼を言った。


「とんでもありません。エレン様がリベリンに授けてくださった恩恵に比べれば、何でもないことです」

「はは…」


 俺が帰ったあと、怪しいと思ったシスターたちがそれなりに調べたらしい。


「そういえば、昼間はエレナさんも買い物帰りみたいでしたけど、一日に二度も買い出しするほど子供たちは元気なんですね」

「エレナ様、ですか?」

「ええ。昼間に伺ったとき、院長先生も野菜をたくさん抱えていたので」


 職員同士で連絡も取らずに暮らしてるのか?


「…エレナ様が、野菜を?」


 シスターは首をかしげた。


「はい。院長先生が昼間に…」

「…申し訳ありませんが、院長を務めているシスターは私、カミラです。エレナというシスターは…聞いたことがありません。ほかのシスターとお間違えではありませんか?」


『…は? くそ、何だよこれ』


 どさっ。


 思わず買い物袋を地面に落とし、自分こそが院長だと名乗るカミラの両肩をつかんだ。


 カミラはひどく驚いた顔をした。


「まあ…!」

「…一つ! 一つだけ確認させてください」


 俺は昼間のエレナとの会話を思い出した。


 ――「今は、そうですね…三十二人です」


「孤児院で預かっている子供は、全部で何人ですか?」


 カミラは目を丸くしたまま、ゆっくり答えた。


「二十人。二十人ほどお預かりしています。あっ、これもギルドからの調査で――」


 俺は話し続けるカミラを無視して、ぼんやりと空を見上げた。


 …どうやら、俺はすでに悪魔に取り憑かれているらしい。


「エレン様?」


 俺は急いで記憶をたどった。


『何だ…こんなエピソードがあったか? いや、俺の記憶には何も――』


「エレン様…? エレン様!」


 カミラの呼び声で我に返った。


「…あ、はい」

「お疲れのようですね。今日はお帰りになって、ゆっくり休まれたほうがよさそうです」

「すみません。また近いうちに伺います」


 俺はうなずき、宿屋へ向かった。


『いったいどうなってるんだ』


 これはもう、快楽の悪魔の残滓なんてものじゃない。


 …なら、忘却魔法か?


 人の記憶を消す魔法。


 高位の魔法使いや上級学者レベルなら、そういう魔法も十分使えるだろうが…。


 それはあくまで、対象者本人の記憶に限った魔法だ。


 今みたいに存在そのものを消し去ったりはしない。


 なら、これは間違いなく悪魔の仕業だ。


 だが。


 どうしても思い当たらない。


 ベルゼリアを除けば残る悪魔は十九体。その中に、存在を消す悪魔なんていない。


 俺はもどかしさに額を押さえた。


「とりあえず…明日もう一度行ってみるか」


 そんなことを考えているうちに宿屋に着き、俺はベッドにばたりと倒れ込んだ。


 その姿を見たのか、隣のベッドの隅で丸まっていたサラが口を開いた。


「ご飯は?」

「あ」


 そうだった。地面に置き去りにしてきた。


 その夜、俺たちは腹をすかせたまま過ごした。


     * * *


 翌朝七時。


「静かだな」


 まだ早朝だからか、子供たちは起きていないらしい。


 俺は孤児院のドアノブを握り、少し迷った。


『もし、一晩のうちにカミラもポメルも消えていたら?』


 そのときは地獄モードの始まりだ。


 俺は首を振り、扉を開けた。


 ちりん。


 廊下は昨日見た光景とまったく同じだった。


「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」


 しばらくすると、まっすぐ伸びた廊下の脇の階段から、修道服を着たシスターが下りてきた。


「あっ、エレン様。お加減はよくなりましたか?」


 カミラだ。


 俺は安堵の息を吐いた。


「はい。お気遣いありがとうございます。子供たちはまだ寝ているんですね」

「ええ。昨夜は寝かしつけるのに本当に苦労したんですよ。あっ、そうだ! 昨日、お買い物を置いていかれたでしょう? この時期はすぐ傷んでしまう食材もありますから、今朝のお料理に使おうと思っているんです。よろしければ召し上がりませんか?」

「それはありがたいです」

「…うん」


 サラも腹が減っていたのか、隣でうなずいた。


「では準備しますので、奥の食堂でお待ちください」


 カミラに案内され、二十人ほどが食事できそうな広さの食堂に腰を下ろした俺は、ゆっくりと周囲を見渡した。


 今日この孤児院を再び訪れた理由はいくつもあるが、その中でも一番大きいのはポメルだ。


 ポメルは、この怪現象に気づくきっかけとなった存在。


 もしこの子まで消えてしまえば、俺がつかめる手がかりは完全に途絶えてしまう。


 そうなれば、俺はリベリンに悪魔の手がかりだけを残し、プラクシアのイベントへ進むことになる。


『そんなわけにはいかない』


「ん…お兄ちゃん…?」


 そんな俺の前に、目をこすりながらポメルが食堂の入り口に姿を現した。


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