第20話 小さな疑問
{アスタビア聖堂の印章}
『敬愛なるリベリンの救世主様へ。
プラクシア、アスタビア聖堂より、近頃、教団の内外で到底説明のつかない異変が相次いでいることをお知らせいたします。
神聖なる力をもってしても解決できず、深い眠りについた者たちが夜明けを迎えられずにおります。
これらすべてが悪魔の仕業ではないかと、疑わずにはいられません。
つきましては、悪魔を消滅させた神にも、勇者にも等しい勇猛さと恩寵を備えた貴殿に、アスタビア聖堂の司教ラウレンシオ・ベルモントより、正式に依頼を申し上げます。
プラクシアの王都アスタビアまでお越しいただき、異変の正体を明らかにしてくださいますよう、切にお願い申し上げます。
ご依頼をお引き受けいただける場合、金貨百枚をお約束いたします。
神の祝福と恩寵が、貴殿とともにありますように。
プラクシア司教『ラウレンシオ・ベルモント』より』
ずずっ。
横目で依頼書を覗いていたサラは、自分には関係ないとばかりに視線を逸らし、紅茶をすすった。
『大ごとになったな…』
悪魔を消滅させると決めた以上、関連する依頼が向こうから舞い込んでくれるのは、俺としてもありがたい。
問題は、それが俺のペースで進む場合に限るってことだ。
こんな、ろくに出番もなかったアスタビア聖堂からの依頼なんて、見たこともない。
この先も予測不能な出来事が次々に飛び出してくるなら、情報の非対称性という俺の唯一の強みが、何の意味もなくなってしまうかもしれない。
『…一度、試してみるか』
俺はシステムウィンドウに輝く《ハッピーエンド》を見つめた。
もし依頼を断った瞬間に《バッドエンド》へ変わるなら、この依頼はメインストーリー。
つまり、俺が変えなきゃならない物語だってことだ。
俺は依頼書をそっとテーブルに置いた。
「…すみません。この依頼は受けられそうにありません」
「は、承知しました。エレン様のお断りの意向は、確かにお伝え――」
ピロン。
――【バッドエンド】
「いえ! やっぱりこの依頼、受けます!」
「え? あ…はい、承知しました。それではプラクシア中央ギルドへお伝えします」
ピロン。
――【ハッピーエンド】
メインストーリーだ。
ドンッ!
思わず机を叩いてしまった。
「す! すみません!」
受付の青年が飛び上がり、訳もわからないまま謝った。
ずずっ、ずずっ。
* * *
結局、引き受けた。
それでも収穫はあった。
依頼を受けるだけで金貨百枚。
承諾した途端、俺名義のギルド銀行口座に前金として振り込まれた。
これだけあれば、王宮の隣の一等地に家を一軒買ってもお釣りがくる。
「サラ、食べたい餌…いや、料理はあるか?」
金があるうちに食わせておかないとな。
「ない」
拗ねたのか?
食いたくないなら別にいい。
いちいち機嫌まで取っている暇はない。
いざとなれば《契約収納》すれば済む話だし。
プラクシアの使節団が来るまで、約一週間。
となれば、一週間後には《スキップ》が封じられる可能性が高い。
その前に、俺もある程度は準備しておかないと。
まずは。
『とりあえず、エステル聖堂にでも寄ってみるか?』
リベリンの聖堂がまったく同じとは限らないが、彼らなりの階級制度はあるはずだし、聖堂というもの自体はどこの王国でも大きく変わらないだろう。
『…正直、どういう仕組みで動いてるのか気にもなるしな』
「サラ、ちょっと寄り道していこう」
「うん」
そうして俺は、聖堂へと足を向けた。
* * *
夕焼けに染まる王都東部、エステル通り。
地図上では中心街に入るものの、東の外れに位置しているせいか、聖堂を訪れる信徒以外の人通りは少なかった。
なんとなく薄気味悪い雰囲気が、西壁村の孤児院の周辺で感じたものと似ている。
「ここか?」
古びて風化した三階建ての石造りの建物。
その背後には、まだらに変色した尖塔が高くそびえていた。
イベリアを捜していたとき、王宮の三階から見えたあの時計塔だ。
『王宮の城塞かと思ってたけど、聖堂の建物だったのか?』
俺は視線を落とし、聖堂の入口に刻まれた見覚えのない紋様を眺めた。
丸い円の中に、円が果てしなく連なっているだけの単純な模様。
「……これは」
しばらく穴が開くほど見つめた末に出した結論。
さっぱりわからん。
背景の置物みたいなこの聖堂が、勝手に生み出した紋様なんて知るわけがない。
俺は扉を押し開け、中へ入った。
ガチャリ、ギイッ。
「にゃあー」
最初に俺を出迎えたのは、扉の隙間をすり抜けるように出てきた黒いシャム猫だった。
『聖堂で飼ってるのか?』
猫の後ろ姿を見下ろしていると、奥のほうから聖職者の声が聞こえてきた。
「…恐れることはありません! 神の御心は絶対です! 天使セファリエル様の御心に従い、我々は皆、罪人であると同時に救われる資格を持つ者なのです!」
「おお、神よ!」
「闇がどれほど深くとも、神の恩寵が届く場所には必ず救いが訪れます! たとえ悪魔がこの世に現れようとも、セファリエル様は我々をお見捨てにはなりません!」
「おお、神よ!」
数十人の信徒たちも頷きながら、声を揃えて叫んだ。
「祈りなさい! 神が皆様の不安と恐怖をすべて取り払い、このリベリンに再び祝福をもたらしてくださるように!」
…カルトじゃないよな。
なんだか妙な方向に発展している気がする。
やっぱり、知らない場所に足を踏み入れるんじゃなかった。
「…出よう。どうやら来る場所を間違えたみたいだ」
振り返って出ていこうとした瞬間、風で扉が閉まった。
ギイッ、ガチャン!
聖堂にいた人々が、一斉にこちらを振り向いた。
げっ。
「………」
「……」
静寂が流れた。
そして。
「ひ、人が入ってきた!?」
一人の信徒が勢いよく立ち上がって叫んだ。
「お願いです! 私たちをお救いください!」
「助けてください!」
「どうか!」
信徒たちが一斉に立ち上がり、俺のほうへ駆け寄ってきた。
「え、え?」
なんだよ、お前ら。
「お願いします! あなたにしか私たちを救えないんです!」
「セファリエル様がお遣わしになった方ですよね!?」
「どうか、この地獄のような場所からお救いを!」
「私たちは忘れ去られたくありません! どうか救いを!」
人々が手を伸ばしながら迫ってくる。
その目は必死そのものだった。
「あ、いや…」
『…なんだこれ』
何から救えっていうんだ。
ベルゼリアの残滓か?
ギイッ。
慌てて扉を開けて外へ飛び出すと、さっきの猫が、ふわぁっと大きくあくびをしながら俺とすれ違い、聖堂の中へ戻っていった。
「…待って!」
「待ってください!」
背後から信徒たちの切羽詰まった声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。
バタンッ!
扉が閉まり、俺は聖堂を背にゆっくり歩き始めた。
インセリウム以外では、背景としてしか存在しなかった聖堂たち。
政治も、行政も、宗教も。
どの分野でも力を持たなかった、置物同然の聖堂は、聖職者NPCたちによって内側から腐り始めていた。
『…プラクシアに行く前に見学でもしようと思ったんだけどな』
ここが腐っているなら、きっとどこの聖堂も腐っているんだろう。
「はぁ」
どうせ経験することになるんだ。
わざわざ先に痛い目を見る必要はない。
そろそろ日も暮れる。
今日は帰って休んで、明日からまた動くか。
「サラ、帰ろう」
「うん」
そうして宿のあるギルド方面へ向き直ると、子供と手を繋いで歩いてきた中年女性と目が合った。
「あら、エレン様!」
「あっ! お兄ちゃん!」
『…誰だ?』
親しげに近づいてくる二人を見て、俺は必死に頭を働かせた。
「お母さん! ほら、お姉ちゃんもいる!」
『お姉ちゃん?』
俺はサラを見た。
サラをお姉ちゃんと呼びそうな奴なんて…。
しばらく考えて、ようやく思い出した。
誰かと思えば、地下牢に閉じ込められていた中年女性と小さな男の子じゃないか。
確か、ポミルだったか?
「やあ、ポミル。久しぶりだな」
「ポメルだよ」
母親の手を握って無邪気に笑っていた子供が、真顔になった。
残念、外したらしい。
「エレン様、エステル通りにはどういったご用件で? もしかして、エレン様も聖堂にいらしたんですか?」
ポメルの母親が微笑みながら話しかけてきた。
「いえ、ちょっと個人的な用事で寄っただけです。あれからお変わりありませんか?」
「おかげさまで、毎日感謝しながら暮らしています。もう少ししたら、ポメルもまた引き取れそうなんです」
「引き取る?」
「ええ、暮らし向きが苦しくて、王都の孤児院に預けてからずいぶん経ちますから。この子には本当に申し訳なくて…」
そう言って、ポメルの頬をそっと撫でた。
「お母さん、来年はおうちに帰れるんだよね?」
「もちろんよ。来年はお母さんが学校にも連れていってあげるから、楽しみにしててね」
「おおー!」
ポメルは嬉しくてたまらないといった顔だ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。明日、孤児院に遊びに来てよ。友達も紹介するから!」
「こら、あんまりしつこくしたらご迷惑だって、お母さん言ったでしょう?」
ポメルの言葉に、俺は少し考えた。
ちょうど孤児院には、プラクシアの使節団が来る前に一度寄るつもりだった。
理由は一つ。
快楽の悪魔が数ある場所の中から、なぜよりによって孤児院という看板の裏に隠れていたのか。
その理由を確かめずには、次へ進めそうになかったからだ。
「いいぞ。明日、こっちのお姉ちゃんと一緒に遊ぼうな」
「わあっ!」
思いもよらない返事に、ポメルは母親の手を離してぴょんぴょん跳ね回った。
その姿を見た中年女性が、申し訳なさそうに言った。
「すみません。まだ子供で、わきまえがなくて…」
「いえいえ、本当に気にしないでください。もともと孤児院には一度伺うつもりだったんです」
「あら、そうだったんですね。それなら私も明日は早めに行かないと」
そう言い終えると、女性は小さく微笑んだ。
「サラ、明日はよろしくな」
「うん」
サラもポメルのことは嫌いじゃないらしく、軽く頷いた。
中年女性は腰を折って挨拶すると、跳ね回るポメルを捕まえ、聖堂の中へ入っていった。
『ああ見えて、一応は聖堂としての役目を果たしてるみたいだな…』
明日、孤児院で会ったら、できるだけああいう聖堂には行かないように言っておこう。
俺は首を振り、再び宿へと足を向けた。
* * *
翌日、王都アルカディアの中心部。
王宮にギルド、学校、市場、そして孤児院まで。リベリンの主な文化や流行が集まる場所だ。
初めてここを訪れたとき、リベリンを表す言葉は『ただただ平和』だった。
だが、西壁村の地下へ足を踏み入れて以来、その印象は少し変わっていた。
まるで釣り針で水面の下に隠れた裏側を引っ張り上げたかのように、市場の路地ではそれまで一度も起きなかったスリが横行し、詐欺や暴行、果ては郊外で殺人事件まで起きるようになった。
要するに、快楽の悪魔の残滓が残ってしまったリベリンは、もはや『平和なだけの国』ではなくなっていた。
「こっちだったか」
人で賑わう中心街。
ギルドの角を曲がって十分ほど歩くと、広い敷地に建つ三階建ての建物が見えてきた。
赤い屋根の上では風車が回り、正門へ続く長い花壇には黄色い花が咲いている。
「見て見て、この塔、僕が作ったんだ。一番大きいだろ?」
「僕のほうが頑丈だもん」
「じゃあ勝負しよう!」
「あーっ! 壊したらどうするんだよ!!」
建物の左側。俺の首くらいの高さしかない低い塀の向こうから、砂場で子供たちが騒ぐ声が聞こえてきた。
その中の男の子が顔を上げ、俺を見るなり大声を出した。
「あっ! お兄ちゃん! 僕に会いに来てくれたの? 見てよ、僕、ご飯もいっぱい食べたし、お肉もすっごく食べたんだ!」
男の子はお腹をぽんぽん叩きながら満面の笑みを浮かべた。
「やあ、ポミル」
「ポメルだよ」
しまった。
俺は話題を変えるため、サラの背中を軽く叩いた。
「…サラ」
「うん?」
サラは一度俺を見ると、つま先立ちになって塀の向こうのポメルと目を合わせた。
男の子はさっきのことなどすっかり忘れ、嬉しそうに喋り始めた。
「本当にお姉ちゃんも一緒に来てくれたんだ!」
「…うん」
サラは無表情のまま頷いた。
「お姉ちゃん、あれ見て! 僕が作ったんだけど…」
俺は子供の相手をサラに任せ、孤児院の中へと足を踏み入れた。
チリン。
中に入ると、香ばしいパンの匂いと、窓の向こうから聞こえる子供たちの笑い声が迎えてくれた。
廊下の壁には木炭で描いたような絵が貼られ、棚には人形がきちんと並べられている。
『確かに、西壁村とは違うな』
あの不気味な絵が飾られていた孤児院とは、まるで違った。
ここは文字どおり、子供たちのための場所だった。
きょろきょろしていると、背後から声をかけられた。
「いらっしゃいませ。子供たちに会いにいらしたんですか?」
振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた修道服姿の女性が、野菜の入った包みを手にこちらを見ていた。
皺の刻まれた顔には、長い年月がそのまま表れているようだった。
「すみません。少し確かめたいことがあって、お邪魔しました」
「ああ、そうでしたか。初めてお見かけする方でしたので、子供たちに会いにいらしたのかと。私はこの孤児院を管理しております、院長修道女のエレナと申します」
エレナは軽く挨拶すると、野菜の包みを抱えたまま脇へ身を寄せた。
「こんな格好でお迎えしてしまって、すみませんね…ひとまず、中へどうぞ」
俺が軽く頭を下げると、院長修道女は先に立って廊下を歩き始めた。
* * *
「どうぞ、お掛けください」
窓が一つだけある質素な応接室。
エレナは古いテーブルの上に温かいお茶を一杯差し出し、向かいに腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「子供たちに会いにいらしたのでなければ、お子さんを預けにいらしたのでしょうか?」
孤児院に来た以上、当然それに関係する用事だと思っているらしい。
俺は軽く首を横に振った。
「いえ、こちらで以前、何かおかしなことが起きたりしませんでしたか?」
「おかしなこと、ですか?」
俺のわかりにくい質問に、彼女はしばらくこちらを見つめ、指先でカップの受け皿を撫でた。
「…子供が大勢おりますから、大小さまざまな騒ぎはいつもありますよ」
それから窓の外、砂場で遊ぶ子供たちを見やった。
「ですが、怪しい出来事と呼べるようなものは…そうですねえ」
「…そうですか」
「もしかして、ギルドの方ですか?」
「あ…ええ、まあ、そんなところです。悪魔の残滓について、少し調べたいことがありまして」
違うと言いかけたが、適当に言葉を濁して質問を続けた。
「こちらの孤児院では、何人くらいの子供を預かっているんですか?」
「今は、ええと…三十二人ですね。この子たちのうち、十六歳までに養子に迎えられなかった子は、見習い兵士や冒険者、ギルドの補助員など、社会へ出るための仕事に繋げて送り出しています」
ギルドの助成金で運営されているだけあって、思ったより仕組みがしっかりしている。
「養子に迎えられたり、社会へ出ていった子たちの中にも、特に変わったことはありませんでしたか?」
「…成人の日や、ランクが上がった月にお礼を言いに来てくれる子はいましたが、その姿はただ健気で愛らしく、変だと思ったことはありませんでした」
そりゃ当然、変なことじゃない。
どうやら、本当に何もなかったらしい。
だからこそ、俺はかえって確信した。
何も起きず、平和だったからこそ、悪魔は孤児院という看板を選んだのだ。
光が最も明るい場所ほど、影は最も濃く落ちる。
つまり、平和の象徴である孤児院と、その裏側で行われていた奴隷売買は、悪魔が身を隠すには最適だったということだ。
そうして俺なりの結論を出しかけた、そのとき。
ガラガラッ!
窓の外から、塀が崩れる音が聞こえた。
振り向くと、小さな窓の向こうでサラが崩れた石塀の一部を手に持ち、どうしたものかと辺りを見回していた。
どうやらポメルと遊んでいるうちに、うっかり壊してしまったらしい。
エレナが慌てて叫んだ。
「あら! あらまあ! いったい何があったんですか!」
「べ、弁償します。クリドにつけておいてください」
「弁償の問題ではなくて…」
ほどなくして、修道女が何人もサラと石塀を取り囲み、おろおろしているのが見えた。
ポメルもほかの子供たちと一緒に煉瓦を一つずつ拾い、砂場を走り回っていた。
『…家に帰ったら、友達が寂しがるだろうな』
元気いっぱいのポメルを眺めながら、俺はエレナに何気なく尋ねた。
「ポメルのお母さんは、普段何時ごろにいらっしゃるんですか?」
エレナは落ち着かない様子で窓の外を見つめていたが、こちらを振り返った。
「え? ポメルのお母様、ですか?」
「はい。あそこで煉瓦を持って走り回っている男の子です」
「ええ、ええ。ポメルのことはもちろん知っていますよ。うちの孤児院で一番のいたずらっ子ですから。以前、行方不明になって帰ってきたときには、どれほどほっとしたことか…」
修道女はため息をつくと、言葉を続けた。
「ですが、ポメルのお母様には一度もお会いしたことがありません」
「…はい?」
エレナは首をかしげ、もう一度答えた。




