第17話 章の主役 (2)
この世界には、二十二体の悪魔が存在する。
数百年前、大魔法使いモルカリオンが消滅させた二体を除けば、残るは二十体。
通称、二十大悪魔。
存在が証明されている悪魔もいれば、学説の中にしか存在しない悪魔もいる。
いずれにせよ、実在するかどうかは別として、悪魔という概念そのものは存在する。それが定説だ。
勇者一行は、その悪魔たちを一体ずつ消滅させながら、エンディングへと進んでいく。
頂点に君臨していたドラゴンが消えた今、悪魔は文字どおり、この世界のラスボスだ。
その一体。学説の中にしか存在しなかった快楽の悪魔、ベルゼリアが、俺を嘲笑いながら言った。
「おもちゃが壊れちゃって、興味がなくなったの?」
エレンとして目覚めてから、悪魔が消滅したという知らせは一度も聞いていない。
つまり、勇者でさえまだ悪魔に遭遇していないということだ。
「…」
本来、存在するはずのなかった俺を、世界そのものが追いかけてくるような気分だった。
黙り込んだ俺に、ベルゼリアはもう一度誘惑を仕掛けてきた。
「私のおもちゃにならない? 欲しいものは何でもあげる。お金も、心も、私の愛も。望むなら、この身体だって」
ベルゼリアは自分の首筋から胸元へと、ゆっくり手を滑らせた。
刺激的に、どこまでも刺激的に。
そして微笑むと、再び指を鳴らした。
パチン。
鼻先をくすぐる妖しい香水の匂いとともに、またしても心臓が暴れ始めた。
ドクン、ドクン!
『……また始まった』
目の前にいる、あの悪魔が。
艶めかしい笑みを浮かべ、首筋を撫でているあの悪魔が。
黒いレースの隙間から魅惑的な肌を覗かせているあの悪魔が。
イベリアの腹を貫いた、あの細い手さえも――
あまりにも美しい。
狂おしいほど、美しい。
全身が熱く火照っていく。
『…欲しい。あの美しい悪魔を、俺の好きにできたなら』
気づけば手を伸ばし、歩き出していた。
あの美しい悪魔を手に入れるために。
「はぁ――」
そうだ。ハッピーエンドなんて後回しでいい。
どうして俺は、あんなにも美しい悪魔を――
…
..
ギリッ。
――【危険を感知しました】
【精神干渉を感知しました】
【《イレギュラー》による再執筆】
【魔法《欲望》を遮断します】
口の中に広がる血の味とともに、足が止まった。
赤い目隠しがぴくりと動き、ベルゼリアは初めて見る生き物に出会ったような顔をした。
「人間が私を見ても平気ですって? 二度も?」
「……」
「ねえ、人間。あんなエルフより、望めば好きなだけ貪れる私を選ぶのが当然じゃない?」
「……」
「そもそもね、え? 色欲って、舌を噛んだくらいで耐えられるような低次元の罪じゃないのよ。あなた、一体何なの?」
ベルゼリアは苛立ちを隠さず、ハイヒールで廊下の床をガンガンと踏み鳴らした。
俺はイベリアの血がついた自分の手を、じっと見つめた。
それから拳を握りしめ、顔を上げる。
確かに美人だ。
おそらく、今まで見てきた女の中で、間違いなく一番美しい。
快楽の悪魔とは、そういう悪魔なのだから。
そういう設定なのだから。
だが、あの野郎の作った世界に魅了されるほど、俺はこの小説を面白いと思って読んでいたわけじゃない。
「…お前、クソほどブサイクだな」
「……!?」
静寂。
俺が淡々と吐き捨てた言葉に、ベルゼリアの動きも、声も止まった。
蝋燭の火と月明かりだけが照らす廊下。
ベルゼリアはうつむき、首筋に添えていた手を静かに下ろした。
『まさか、傷ついたのか?』
「…振られたのは」
突然、爪をかりかりと噛み始め、顔を上げてごく小さく囁いた。
「――初めてなのに」
ドゴオオオオオオン――!!
どこから吹きつけてきたのかも分からない赤い風が廊下全体を覆い、窓ガラスが次々と砕け散った。
ガシャアアン――
パン! パン! パン! パン! パン!
――【危険を感知しました】
【精神干渉を感知しました】
【魔法《欲望》を遮断します】
【精神干渉を感知しました】
【魔法《欲望》を遮断します】
【精神干渉を感知しました】
【魔法《欲望》を遮断します】
「ぐあああ――!!」
全身で赤い風を受け止め、必死に踏ん張った。
『ここで戦ったら、イベリアが…』
ダッ。
俺は走った。
赤い風を突っ切り、怒り狂うベルゼリアの横を駆け抜ける。そのまま全速力で走り、三階の手すりを掴んで下へ身を投げた。
ドタン! ガンッ。
「ああっ!」
落下して床に叩きつけられ、肋骨から妙な音がした。
「ぐあ…はっ」
身体を起こし、また走る。
コツ、コツ。
全力疾走する俺を嘲笑うように、ハイヒールの音が頭の中に響き続けた。
走りながら振り返っても、誰もいない。
『一体どこから聞こえてるんだよ』
二階の廊下をがむしゃらに駆け、突き当たりにあった小さな扉を開けて飛び込んだ。
ギイィ――
かび臭い埃が舞い上がる。明かり一つない暗い部屋だった。
廊下から差し込む月明かりに目を細めると、ぼんやりと室内が見えてきた。
「図書室…」
少しカビの匂いもする。どうやら誰も使っていない小さな図書室らしい。
慌てて中に入り、扉を閉めてその場に座り込み、息を整えた。
「はぁ――はぁ――」
コツ、コツ。
「騎士団長の野郎、どこで何してんだよ…」
光のない図書室の扉にもたれ、考え込んでいると。
コツ――
「あれ…?」
頭の中に響いていたハイヒールの音が止まった。
数秒経っただろうか。何の音もしない。
ギイッ。
立ち上がって扉を少し開き、外を覗く。月明かりが暗い廊下を照らしているだけで、誰も見えなかった。
「何だ…?」
廊下へ出ようかとも思ったが、もう少し手を考える必要がある。
ギイッ。
扉を閉め直して振り返ると、図書室の中、俺の真正面に、月明かりを浴びたベルゼリアが立っていた。
「…!!」
悲鳴すら出なかった。
幽霊に出くわしたような気分だ。
「私を振って、逃げるなんて…」
ベルゼリアはまたしても目と鼻の先で、赤い目隠しを少し持ち上げた。
甘い香り。美しい瞳…。
――【危険を感知しました】
【精神干渉を感知しました】
【《イレギュラー》による再執筆】
【魔法《魅了》を遮断します】
赤く染まりかけた視界が、瞬時に元に戻った。
扉を開けて後ずさると、ベルゼリアは赤い目隠しを戻し、一歩近づいてきた。
「どうして? どうして? どうして? こんなに美しい私を好きにならないの?」
どうやら、かなりプライドが傷ついたらしい。
「いや、お前は好みじゃないって言ってるだろ?」
「……!!!?」
俺の言葉に、ベルゼリアはゆっくりとうなだれた。
「……」
俺は無視して、再び廊下を走った。
走りながら振り返ると、図書室の前でこちらを向いたまま、うつむいて微動だにしていない。
タッ、タッ、タッ。
走っている途中、暗い廊下の一階から二階へ続く階段で、誰かと鉢合わせた。
短い金髪に銀色の鎧。
「クリド!」
この野郎、今までどこ行ってやがった。
一人で見ていたホラー映画のクライマックスを、二人で見ることになった気分だ!
「クリド! 三階にお前らの王女がいる! 今すぐ連れていって治療を――」
「いい…いい…」
何言ってんだ。何がいいんだよ?
「おい、クリド! とにかく三階に行ってイベリアを――」
「いい…」
『…?』
うなだれた顔を下から覗き込むと、こいつの目が赤い。
様子もおかしい。…まさか。
「快楽…快楽を!」
ブンッ。
クリドは涎を垂らしながら剣を抜き、俺に振り下ろした。
「ああもう、ふざけんな!」
ドタン! ガン、ガンッ!
そのまま蹴り飛ばし、一階へ突き落とした。
壁にぶつかってぴくりとも動かなくなったかと思えば、突然がばっと起き上がり、ゾンビみたいに一階のどこかへ消えていった。
もう、何でもありかよ。
一瞬でもあいつを認めた俺が馬鹿だった。
そうしてまた走り出そうとしたところで、何かに足を取られ、思いきり床に転んだ。
ドンッ!
「あ、ああ…」
起き上がろうとすると、足首に何かが巻きついていた。
『何だ?』
何気なく見下ろした足首には蔓が絡みつき、その蔓には赤い薔薇が咲いていた。
「…薔薇?」
目で辿ると、蔓は廊下のずっと向こう、いまだうなだれているベルゼリアの足元へと続いていた。
「こんな魔法もあったのか?」
あの野郎の描写があまりにも簡素だったせいで、一度では把握しきれない。
慌てて棘を避けながら蔓を引きちぎり、立ち上がって再びベルゼリアを見る。暗闇の中で微動だにしなかったシルエットが、顔を上げるのが見えた。
部屋に入り込んでじっとしていた虫と、目が合ったような気分だった。
何一つ予測できない未知の恐怖に、息が詰まる。
ポツ。
ポツ、ポツ。
ポツポツポツ――
ザアアア――
「雨…?」
廊下の窓の外をちらりと見ると、雨が降り始めていた。
『…あの悪魔のせいじゃないよな』
黒いシルエットは窓の方へこつこつと歩いていき、手を顔の後ろに回して、何かを完全に外した。
『目隠しを外すのか?』
何で今さら目隠しを…。
予測不能な行動に、得体の知れない恐怖がこみ上げてきた、そのとき。
ゴロゴロッ!
雷が落ち、廊下全体を明るく照らした。
ベルゼリアは赤い目隠しを完全に外し、いたずらっぽく微笑んでいた。
身体に刻まれた淫魔紋も、また別の模様へと変わっている。
何としてでも俺を手に入れようとするかのように。
「初めてよ…私自身が、欲しいと思うものができたのは」
「何を言って――」
「あなた、私のものになりなさい」
章の主役と関わった瞬間、悪魔の執着が始まった。
ドドドドン――
ベルゼリアの足元から赤い薔薇の蔓が爆発するように伸び、凄まじい速さで壁も床も天井もガラスも、触れたものを片っ端から破壊しながら俺に襲いかかってきた。
逃げるには、蔓が速すぎる。
「…!」
迫る薔薇の蔓を見て、慌ててシステムウィンドウに目を向けた。
まだ残っているスキルが…!
=====================
【スキル一覧】
《スキップ》―(無効化)
【一時スキル】
《毒霧》[残り:1]
《火炎光》[残り:1]
=====================
俺はすぐさま、押し寄せる蔓へ手を伸ばした。
《毒霧、発動》
シュアアアア――
指先から緑色の霧が噴き出すと、伸びてきた薔薇の蔓が目に見えて遅くなった。
ベルゼリアの表情がぴくりと動く。
「…あら、ダーリン。私、毒は嫌いなんだけど――」
ドンッ! ドン、ドン、ドン!
言い終わるや否や、廊下の向こうにいた悪魔が、鈍った蔓を引き裂きながら毒霧の中を猛然と駆けてきた。
「こ、このイカれ女が!!」
仰天しながら、広がる緑色の霧を背にして、階段のすぐ脇にある部屋の扉を開け放ち、飛び込んだ。
タッ、タッ、タッ。
俺は覚えている。
毒霧が肺に入り込んだときの痛みと、あのとき鼻を突いたガスの臭いを。
火炎光が肋骨に食い込んだときの痛みと、あのとき身体に散った火花を。
《火炎光、発動》
そのまま窓を背にして、開け放った扉へ向けて手を伸ばし、光の魔法陣を描き出した。
小さな部屋が光で満たされる。
『毒霧に引火性があるかは知らないが、一か八かだ』
窓へ身を投げると同時に、火炎光が放たれた。
イベリアを探して城中を走り回ったおかげで、城の構造はある程度把握している。
階段脇にある、この部屋の窓の向こうは…。
――ガシャアン。
サラのいる庭園だ。
* * *
ドンッ! ドンッ!
ザシュッ!
「陣形を維持しろ! 首を落として再生を遅らせろ! 陛下の護衛が最優先だ!」
エルノは叫んだ。
「これが…本当にベイルの仕業だというのか?」
『ベイルが死者を蘇らせ、復讐に来た』
先ほど会った男の言葉を思い出す。
…あり得ない。
ベイルが優秀な魔法使いなのは事実だが、アンデッド魔法を扱うことはできない。
そもそも黒魔法は、異端教団だけが扱うものとして知られているのだから。
目の前で傷を再生させ、何度でも襲いかかってくる連中を見ながら、息が上がった。
一人ひとりが飛躍的に強くなっているように感じる。
「そもそも…こいつらは本当にアンデッドなのか?」
斬って、斬って、また斬っても、笑いながら立ち上がる。
「もう一度だけ…」
「いい、はぁ――」
ザシュッ!
数人の兵士たちとともに、斬り続けた。
だがエルノには、アンデッドなのか何なのかも分からない連中以上に、理解できないものがあった。
ザシュッ!
ドンッ! ドン、ドン――!
庭園の中央。
目で追うことすらできない速さで、連中を叩き潰している、あの黒いマントをまとった女だ。
クリドを尊敬するエルノだからこそ、確信できた。
「Aランク…いや、上級騎士か?」
息を整えながら女の戦いを見守っていると、夜空から水滴が落ちてきた。
ポツ。
ポツ、ポツ。
――ザアアア。
「…雨?」
突然の雨に、エルノが手を伸ばした瞬間。
――ガシャアン。
庭園の上方から、窓ガラスが粉々に砕ける音とともに、大きな物音が響いた。
「何だ!?」
兵士たちはもちろん、エルノも、国王も、マントをまとった女も、同時に顔を上げた。
月明かりを背に、眩い光を放ちながら、誰かがガラスの破片の中を落ちてきていた。
まるで時間がゆっくり流れているかのようだった。
「――サラ!!」
その男は、落下しながら叫んだ。
切迫していながらも、正確で断固とした声だった。
「命令だ! 三階の廊下、左の突き当たり! イベリアを連れてこい! 今すぐ――!!」
――ドゴオオン!
言い終わると同時に、暴風とともに庭園の地面が砕け散り、黒いマントの女は落下する男の横をすり抜け、一瞬で三階の窓を突き破って城内へ消えた。
つい先ほどまで、狂ったように暴れ回っていた者が。
兵士でも、貴族でも、魔法使いでも、戦士でもない、あのFランクの男の言葉で動いた。
「Fランク…? いや、あの姿はまるで――」
ドゴオオオオオン――!!
それから間もなく、凄まじい衝撃波とともに、王宮の一角が炎に包まれた。




