第16話 章の主役
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* * *
「イベリア! どこにいる!」
地下、一階、二階、三階。大広間、食堂、執務室、何に使うのかも分からない部屋まで。
息が上がるほど走り回っても、イベリアが見つからない。
庭園も、エルフも、後始末も、全部ほかの連中に任せた。
あとは俺さえ片づければ、すべて終わる。
また走った。
まだ行っていない一階を走り、二階を走り、三階を走る。
目につく扉を片っ端から開けてみたが、あちこちに倒れた兵士や侍従がいるばかりで、どこにもいない。
「なんだよ…いったい、はあ…」
まさか、宮殿にいないのか?
それなら助かるけど…。
そうして三階の廊下の突き当たりまで来た俺は、窓にもたれかかって荒い息を吐いた。
「広すぎるんだよ、くそ。はあー」
窓の外には、庭園とは反対側の景色が広がっていた。
王宮の中心と思しき広い閲兵場が見え、その周囲には用途の分からない城郭がいくつもそびえている。
そして遠くには、魔法かルーンで動いているらしい大きな時計塔まで一望できて…。
あれ?
…何かがおかしい。
違和感。
「なんだ?」
この景色は確か、二階の廊下からも眺めた景色だ。
なのに今、同じ位置にあるはずの三階から眺めると、何かが違う。
さっき庭園から見上げたこちら側の城の外観は、階高が高いことを除けば、一階から三階までまっすぐに伸びていた。
慌てて二階へ駆け下り、廊下の突き当たりまで走って窓の外を見た。
『……?』
もう一度三階へ上がり、廊下の突き当たりまで走る。
「…短い」
三階の廊下が、二階の廊下より短い。
短すぎる。
同じ位置なのに、二階では正面に見えていた時計塔が、三階からだと時計塔の右側の外壁まで見えている。
つまり三階では、視界が右にずれている。
「……魔法か?」
バチッ。
ほんの一瞬、窓の外を見ていた俺の視界の左側で、壁がノイズのようにちらついた気がした。
「…」
俺は自然と顔を向け、何もない壁を見つめた。
…まさかな。
空間を歪める魔法は、この世界では転移魔法と同じく、ほぼ不可能とされる魔力式だ。
どこかに隠された禁書『歪曲の書』を読み解かない限り、実現できない禁断の魔法。
だが、禁書庫に引きこもって数百年近く出てこなかったはずの知識の悪魔が、唐突にこの王宮へ足を運ぶ理由がない。
なら、残るのは幻覚魔法。
高位魔法使いですら扱うのが難しい魔法だ。
ましてや魔塔のないリベリン王国には、高位魔法使いそのものが存在しない。
『じゃあ、幻覚魔法を使えるような人物が訪れたってことか?』
まさか、聖痕執行官…?
不安が押し寄せた。
窓の横を塞いでいる壁を見つめ、唾を飲み込む。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
バチッ。
すると、壁に遮られるはずの両手が、一瞬青い火花を散らして壁の向こうへ入り込んだ。
…やっぱり幻覚魔法だ。
幻を見るどころか、周囲の空間まで歪んで見えるほど強力な幻覚。
俺はこの魔法を使えそうな存在を必死に否定しながら、壁に入った手を追うように体を押し込み、一気に踏み出した。
バチバチッ。
そこには、同じように続く廊下があった。
本来あるべき三階の廊下が、先へと伸びていた。
そして、その突き当たりに、力なく垂れ下がった人形のようなものが吊るされていた。
柱の燭台はすべて消えていてよく見えなかったが、差し込む月明かりの中で、吊るされたものの姿が徐々に浮かび上がる。
銀色のドレスの上半身はところどころ溶け落ち、スカートは太腿の上まで危ういほど裂けていた。
拘束魔法なのか、どす黒い赤色の糸が真っ白な人形の腕に幾重にも巻きつき、吊り下げている。
以前、中央市場の雑貨店で奇譚の珠を通して目撃した光景。
《イレギュラー》の干渉によって最後まで見られずに抜け出した、あの光景が目の前に広がっていた。
「……」
やがて月明かりがゆっくりと移り、廊下全体を照らすと、人形のように吊るされていた姿が露わになった。
力なく垂れた両脚。
もともと白かった肌はさらに青白くなり、横に傾いた頭から長い銀髪が流れ落ちている。
「…イベリア」
思わず、その名を呟いていた。
その光景を目にした瞬間から、頭の中で状況を猛烈な速さで整理し始めた。
初めて《スキップ》を使ったとき、因果への危険性を知らず、何気なく書き換えてしまった物語全体のスキップ。
そのせいで草原に落ちてきた霊物、サラ。
それから俺は、できる限り慎重に《スキップ》を使ってきた。
物語全体ではなく、自分の行動の結果だけを書き換えるように。
だから俺の《スキップ》のせいで、こんな結果になったわけじゃないはずだ。
少なくとも。
そう、少なくとも《スキップ》が直接の原因ではない。
だが、この世界が均衡を保つために事件を生み出しているという俺の仮説が正しいなら…。
俺はシステムウィンドウに表示されたバッドエンドを見つめた。
むやみにエンディングを変えた代償。
他人にハッピーエンドという結末を任せてしまった、無責任の代償だと考えれば、すべて辻褄が合う。
『…結局、俺のせいってことか』
小さく息を吐き、イベリアへ駆け寄ろうとした、そのとき。
コツン――
「…?」
背後からハイヒールの音がした。
コツン――
コツン――
ゆっくりと振り返ると、俺が通り抜けた壁はすでに消えていて、遠く廊下の端から誰かが歩いてきていた。
一歩近づくたびに、右側の燭台と左から差し込む月明かりに照らされ、シルエットが鮮明になっていく。
『まさか』
腰まで伸びる黒髪に、真っ白な肌。
体のあちこちに刻まれた、意味の分からない赤い刻印。
目を覆う赤い眼帯。
体にぴったりと張りついた黒いレースの隙間から覗く、青白い肌。
見た瞬間、肌で感じる恐怖。
そして…。
頭には、内側へ丸く巻いた二本の小さな暗赤色の角。
コツン。
細い手で髪をかき上げると、その小さな角は雪が溶けるように消えた。
まるで、自分の正体を隠そうとするかのように。
「私のおもちゃを壊した悪い子は、あなたかしら?」
遠くから囁くように響いた毒を含む声が、頭の中に突き刺さる。
…あれは、悪魔だ。
「快楽の悪魔、ベルゼリア…」
コツン――
廊下の真ん中。
歩いていた女の足が止まった。
「あら…私の本当の名前を知っている人間なんて、初めてだわ」
頭の中に響く妖艶な声に、ほんの一瞬目を閉じて開くと、女はすでに目の前にいた。
「…!」
息が止まるかと思った。
ベルゼリアは赤い眼帯を少し持ち上げた。
月明かりに照らされた赤い瞳は、あまりにも美しかった。
――【危険を感知しました。】
【精神干渉を感知しました】
【《イレギュラー》による再執筆】
【魔法『魅了』を遮断します。】
赤く染まりかけた視界が元に戻り、一瞬失っていた意識が戻った。
吐息が触れるほど近くにいる悪魔は、俺がまっすぐ見返すと、耳元で囁いた。
「――面白い人間ね」
そして俺の横を通り過ぎ、イベリアのもとへ歩いていった。
「本当に綺麗な子。そう思わない?」
ベルゼリアの爪がイベリアの体を軽くなぞると、赤い血が流れ落ちた。
「やめろ…!」
思わず叫んだ。
「あら、怖いわ」
ベルゼリアは手を止め、赤い眼帯をつけた顔をこちらに向けた。
「この子は、あなたのおもちゃなのね?」
「……」
悪魔の言葉に踊らされるな。
なぜ今、なぜこの王宮にあの悪魔がいるのかは分からない。
今、確信できることは一つだけ。
イベリアを連れて、何としてでもここから脱出しなければならない。
世界観の頂点にいたドラゴンはペナルティだらけの人間形態で俺に縛られ、勇者一行はここにいない。
ならば今この瞬間、この章の主役はあの悪魔だ。
ここはできる限り、あの悪魔に合わせるのが賢明かもしれない。
ひとまず、魅了にかかったふりをしよう。
首を傾げて興味深そうに俺を眺めているベルゼリアに、ゆっくりと口を開いた。
「ああ…俺のおもちゃだ。だから、やめてくれ」
ベルゼリアの表情が止まった。
「そう…? あなたのおもちゃなのね?」
悪魔が口を裂くように笑った。
「――あなた、正気じゃない」
「……!」
ブシュッ。
ベルゼリアの手がイベリアの腹を突き抜けた。
真っ白だったイベリアが血を噴き、赤く染まっていく。
「人のおもちゃを壊しておいて、自分のおもちゃだけは守ろうとするなんて」
ベルゼリアは首を横に振り、冷たい目で俺を見た。
「自分勝手な人間」
ドサッ。
ベルゼリアが手を引き抜くと、イベリアは全身をびくりと震わせて血を吐き、床に落ちた。
「イベリア!」
間違えた。
悪魔を甘く見すぎた。
俺は床に倒れたイベリアへ駆け寄った。
ベルゼリアがすぐ横にいたが、目に入らなかった。
ただひたすら走り、イベリアを抱き起こした。
ハッピーエンドの鍵を握るこの王位継承候補が死んでしまえば、俺一人ではもう取り返しがつかない。
最も難しいルートに入ってしまうかもしれない。
だから、このハーフエルフだけは絶対に生き残らなければならない。
『…まだ脈はある』
だが、すぐに止まる。
何度も死にかけたからこそ、確信できた。
今すぐ処置しなければ、イベリアは死ぬ。
コツン、コツン。
「私はただ、私のおもちゃを壊した子のおもちゃを、壊しに来ただけよ」
ベルゼリアは用事を済ませたとでもいうように、廊下を歩いていった。
「悪魔の執着って、怖いものなの」
コツン、コツン。
どうすればいい…。
俺に医療技術があるわけでも、治癒魔法が使えるわけでもない。
「ごほっ――」
イベリアが体を震わせ、喉の奥で血が絡む音を立てながら血を吐く。呼吸がどんどん浅くなっていくのが分かった。
『絶対に助けなきゃ』
解決策を見つけようと、イベリアを見つめながら必死に頭を回している俺に、悪魔はなおも囁き続けた。
「エルフの加護だったかしら? 私の美貌を見ても何ともないなんて。これだからエルフって…はあ、今夜はエテノラに愚痴でもこぼそうかしら」
ベルゼリアは軽くため息をつき、遠ざかっていった。
「……」
絶対に勝てない。
勝てる気がまるでしない。
あの悪魔と同じ空間にいることさえ恐ろしい。
たぶん、悪魔の登場を際立たせるためのエキストラの宿命なのかもしれない。
コツン、コツン。
そうだ…とにかくあの悪魔が去るまで、それまで耐えよう。
悪魔が自分から出ていってくれるなら、それに越したことはない。
コツン――
「ところで」
悪魔が突然足を止め、背中を向けたまま呟いた。
どうしても理解できないというように。
「あなたはエルフでもないのに…どうして私を見ても平気なの?」
ゆっくりと振り返って俺を見ると、軽く指を鳴らした。
パチン。
視界がぼやけ、甘ったるい風が吹き抜ける。
鼻先をかすめる香水の匂い。
「……?」
途端に心臓が猛烈な勢いで脈打ち始めた。
ドクン、ドクン、ドクン!
感じる。心臓の鼓動を。
二倍? いや、三倍は速くなった気がする。
「はあっ…は…」
そのせいか、息遣いまで荒くなった。
「恐怖…?」
違う、これは…。
――欲望だ。
腕の中で血を流し、か細い息をしているイベリアを見下ろした。
時間がない。助けなければ。
もう少し、もう少し待てば悪魔は去る。
そうすればハッピーエンドに変わる。
少しだけ耐えれば。
少しだけ耐えればいいのに…。
か細い息を吐く姿も、体をびくつかせながら血を吐く姿も、ところどころ溶け落ちた上衣と裂けたスカートの隙間から覗く真っ白な…。
心臓が脈打ち、イベリアを助けなければという切実な本能を、別の本能が押し潰し始める。
欲望。
ドクン、ドクン。
下へと手を伸ばす。
「はあ…は…はあ…」
か細い息を吐いている、白い肌へ。
そんな俺を見て、美しい悪魔は微笑みながら囁いた。
「今この瞬間…あの子のすべてを染めてしまえるわ。誰にも分からないわよ? 私、口はとても堅いの」
原始的な本能に溺れる人間を見つめ、自分の魅了が効かなかったことを否定するかのように。
…
..
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――【危険を感知しました】
【精神干渉を感知しました】
【《イレギュラー》による再執筆】
【魔法『欲望』を遮断します】
口元を伝う血を拭って顔を上げると、ベルゼリアの赤い眼帯がぴくりと動いた。
「んん? あなた、今、舌を噛んだの?」
俺は小さく震える息を吐き出した。
今ので分かった。
ここでこのエルフを助けたいというのは、俺の欲望だ。
座ってハッピーエンドを待つことも、俺の欲望だ。
あの悪魔がこの章から退場しない限り、俺は欲望と現実を区別できない。
それが目の前にいる快楽の悪魔。
ベルゼリアの淫魔紋。
体に刻まれた退廃的な赤い刻印が絶えず模様を変え、相手の原始的な欲望をかき乱す魔法。
「……」
イベリアを抱く腕に力がこもった。
廊下の真ん中、揺れる蝋燭の火と月明かりの間で、こちらを見て首を傾げるベルゼリア。
悪魔は、エンディングを変えたこのハーフエルフを探しに来た。
なら、世界の干渉だの何だの以前に、そもそもハッピーエンドを他人任せにした俺が悪い。
俺が最後まで片づけるべきだった。
そっと。
慎重にイベリアを床に寝かせ、立ち上がった。
「ちょっと悪魔を倒してくる」




