第八話 扉は壊れていない
非常保守扉を抜けた途端、足音が変わった。
荒れた石床が終わり、平らに磨かれた床へ靴音が硬く返る。
壁には真鍮の管が等間隔で走り、天井には青白い灯りが続いていた。
一つ。
また一つ。
俺たちが近づくより少し早く、奥の灯りが点いていく。
さっきまでの旧保守路とは違う。
ここは死んだ道じゃない。
今も使われている。
「止まれ」
マレクの声に、先頭のセラが足を止めた。
床を見る。
濡れた足跡が二人分。
一つは細い。
もう一つは大きい。
靴底から落ちた水が、まだ完全には乾いていない。
「近いな」
セラが言う。
「はい」
分流機の広間を出てから、俺たちもすぐに追った。
大きく先行されたわけじゃない。
耳を澄ます。
遠くで、
カン。
金属が鳴った。
マレクが剣の柄へ手を置く。
「進むぞ。だが走るな」
「追いつけるうちに追いついた方がいい」
セラが言う。
「向こうは数日前から地下にいる」
「だから?」
「知らないことを知っているかもしれん」
「なら、なおさら見失いたくない」
マレクが黙る。
どちらも間違っていない。
俺は二人を見る。
「セラが先頭で」
「珍しいな」
「何かあった時、一番死ににくいので」
「褒めているのか?」
「事実です」
セラは少し考えた。
「ならいい」
いいらしい。
マレクが俺の横へ並んだ。
「助かる」
「何がです」
「あれを説得できる人間は、そう多くない」
―――
通路はいくつかに枝分かれしていた。
壁の金属板には、
『外周管理区』
『盾守官舎』
『中枢前室』
古い文字が刻まれている。
二人分の足跡は中枢前室へ続いていた。
だが、途中で大きい方だけが消えた。
「待ってください」
セラが止まる。
マレクが床を確認した。
「横道はないな」
俺は上を見る。
太い配管のさらに上。
天井近くに、人一人が通れるほどの細い金属足場が走っていた。
「上に点検路があります」
セラも見上げる。
誰もいない。
「一人は上か」
「たぶん」
「もう一人は前」
マレクが細い足跡を見る。
「挟むつもりかもしれん」
セラが剣を抜いた。
「やはり罠か」
地下へ入る前にも、同じことを言っていた。
安全な道だなんて、最初から思っていない。
それでも。
城外では今も犠牲になっている人がいる。
魔物も迫っている。
「進みます」
俺が言う。
セラがこちらを見た。
「いいのか?」
「安全だから来たわけじゃありません」
一瞬だけ、セラの口元が動いた。
「そうだったな」
そのまま前へ進む。
―――
中枢前室の扉は開いていた。
セラが入口の脇へ寄る。
剣を構えたまま、中を確認した。
「人がいる」
俺とマレクも身構える。
「何人だ」
「一人。座っている」
マレクが先に入った。
俺も続く。
円形の部屋だった。
高い天井。
壁一面を走る太い管。
その上を細い点検廊が一周している。
正面には、見上げるほどの巨大な扉。
そしてその手前。
操作盤の横に、一人の男が座り込んでいた。
五十代ほど。
灰色の作業服。
左胸には、盾を三枚重ねた徽章。
「盾守……?」
男がゆっくり顔を上げる。
頬が落ちている。
唇も乾いていた。
それでも俺たちを見る目だけは鋭い。
「王国の連中か」
「王命調査です」
マレクが答える。
盾守はそれを聞くと、深く息を吐いた。
「遅かったな」
右手を見る。
長い金属の制御桿を握ったままだ。
いや。
握っているというより、
押さえ続けている。
手のひらから血が流れていた。
セラが近づく。
「離せないのか」
「離してもいいぞ」
盾守が乾いた声で答えた。
「東側から吸う量が増えても構わんなら」
俺は制御桿を見る。
《対象名称――東部流量制御桿》
《保持爪――破損》
《手動保持解除――設定位置逸脱》
《逸脱後――残存経路へ負荷増大》
「離さないでください」
「三日近くそれをやっている」
「三日?」
「正確な時間は知らん」
盾守が手元を見る。
「灯りしかない場所では、朝も夜も同じだ」
マレクが周囲を確認する。
「誰にやられた」
盾守の表情が固くなる。
「灰色の外套を着た連中だ」
やはり。
「何人です」
「ここまで連れてきたのは二人」
黒杭の女と。
鎖の男。
「中枢を開けろと言われた」
盾守が正面の巨大扉を見る。
「盾守印は通った。通常操作もできた」
「でも開かなかった?」
「開いた」
思わず盾守を見る。
「開いたんですか?」
「ああ」
男は右手を握ったまま、左手で扉を指した。
「そこまではな」
その先。
中枢の再設定を命じた時だけ、拒絶された。
「止めろと言われた?」
セラが聞く。
盾守が彼女を見る。
「違う」
「では何を」
「中枢の管理条件を書き換えろ、と」
一瞬、誰も言葉を出さなかった。
マレクが低い声で聞く。
「何に書き換える」
「そこまでは聞いていない」
盾守が笑う。
笑っているというより、唇が歪んだだけだった。
「聞く前に、拒絶された」
なるほど。
さっき伝声管から聞いた、中枢に拒まれたという言葉。
その意味がようやく分かった。
盾守自身を拒絶したわけじゃない。
盾守としての権限は認めている。
ただし、
中枢そのものを変える権限だけがなかった。
「城主は?」
マレクが聞いた。
盾守の目が細くなった。
「一緒ではないのか」
嫌な感覚が走った。
「城主も地下へ?」
「ああ」
「どこにいるんです」
「知らん」
盾守の声が低くなる。
「私より先に連れていかれた」
「誰に」
「別の男だ」
別の男。
セラが俺を見る。
俺も同じことを考えていた。
記録室で姿を見せずに話していた男。
「どうして城主まで地下へ?」
盾守は首を振った。
「私たちは伝信局長名義の緊急伝達で呼び出された」
「局長?」
「城護盾の流量異常。城主と盾守本人による確認が必要だとな」
そのあと、城主と盾守は別々にされた。
盾守は中枢前室へ。
城主は別の男に連れられ、別の通路へ。
「局長本人からの連絡だったんですか」
「署名も符号も本物だった」
盾守が言う。
「少なくとも、私にはそう見えた」
胸の奥に何かが引っかかった。
偽の通信。
第四塔。
ラグナの受信記録。
まだ地上で何か続いている。
だが今は、こっちだ。
「この手を、何とかできるか」
盾守が言った。
「感覚がなくなってきた」
制御桿を見る。
折れた保持爪。
横にある工具箱。
その中に、同じ太さに近い金属棒が一本。
「セラ。その短い工具を」
「これか」
「もう一本右」
渡された金属棒を、保持爪があった穴へ差し込む。
少し太い。
「マレクさん。柄を貸してください」
「何をする」
「叩き込みます」
「壊れんのか」
「壊れる場所は見えてます」
「なら任せる」
説明が早い。
助かる。
金属棒を半分だけ入れる。
マレクの剣の柄で、
一度。
二度。
三度。
《仮固定――成立》
《推定保持時間――二十七分》
「ゆっくり手を離してください」
盾守が指を開く。
制御桿は動かない。
男の腕が、そのまま膝へ落ちた。
「……助かった」
「二十七分くらいです」
「十分だ」
セラが言った。
俺は振り返る。
「その言葉、最近信用できなくなってきました」
「なぜだ」
マレクが答える。
「俺もだ」
「二人とも失礼だな」
盾守が初めて少し笑った。
―――
正面の巨大扉へ近づく。
中央に大きな円。
その周囲に、小さな窪みが並んでいる。
操作盤には、盾守が触れた跡が残っていた。
表示も消えていない。
『盾守認証――受理』
『中枢再設定――不受理』
セラが扉を見上げる。
「私なら?」
「まだ分かりません」
「見てみろ」
《不具合鑑定》を向ける。
すぐに文字が浮かんだ。
《対象名称――中枢最終門》
《開閉機構――異常なし》
《認証機構――異常なし》
そこで終わった。
待つ。
何も増えない。
セラが俺を見る。
「それだけか?」
「……はい」
「珍しいな」
「壊れてないので」
セラが扉を見る。
「いいことでは?」
「普通なら」
もう一度見る。
亀裂もない。
歪みもない。
異常な負荷もない。
だから、見えるものがない。
俺の力は説明書じゃない。
触れれば、作った人間の考えまで分かるわけでもない。
断界剣アークで見えたのは、折れた時に何が起きるか。
馬車なら外れかけた金具。
境界石なら、中へ差し込まれた異物。
いつも見えているのは、
正常な使い方じゃない。
壊れる場所と、
壊れた先だ。
「この扉が何を求めてるかは分かりません」
盾守が壁にもたれたまま言った。
「故障していないからか」
「はい」
「不便だな」
「俺もそう思います」
セラが扉へ一歩近づいた。
「では、動かせば分かるか」
「それは――」
カチ。
全員が止まった。
誰も触っていない。
扉の内部。
カチ。
二つ目。
中央を囲む小さな窪みの一つが青白く光る。
続いて隣。
二つ。
三つ。
盾守の顔色が変わった。
「何をした」
「何も」
セラが一歩下がる。
光が止まった。
全員が彼女を見る。
セラも自分を指した。
「私か?」
「もう一度前へ」
「今度はいいのか」
「一歩だけです」
セラが戻る。
カチ。
また光が灯った。
その瞬間。
さっきまでは何もなかった扉の内部に、
細い赤線が浮かんだ。
「あ」
「見えたか」
「少し」
扉が動き始めた。
だから、
初めて「失敗した場合」が生まれた。
認証がどこで止まるか。
どこへ負荷が逃げるか。
その壊れ方だけが、俺には見える。
《認証機構――作動》
《第一照合――通過》
《第二照合――進行中》
「扉がセラを確認しています」
「何として?」
赤線を追う。
途中で消えた。
「そこまでは分かりません」
「役に立つのか、立たないのか分からないな」
「俺が一番そう思ってます」
セラが少しだけ笑った。
その時。
金属が鳴った。
上。
鎖。
「セラ!」
頭上から細い鎖が落ちる。
セラの剣が跳ね上がった。
甲高い音。
鎖が刃へ絡みつく。
点検廊に男が立っていた。
短い槍。
柄から伸びる鎖。
分流機の広間にいた男だ。
セラが鎖をつかむ。
引く。
男の身体が前へ崩れた。
だが、すぐに踏みとどまる。
「ヴェイド」
反対側から女の声。
太い管の陰から、
黒杭の女が姿を現した。
「早いって」
ヴェイド。
それが男の名前らしい。
男が答える。
「遅いのはお前だ、ミレア」
声を聞いた瞬間だった。
違う。
はっきり分かった。
記録室で、
姿を見せずに俺たちへ地下へ降りるよう促した男とは、声が違う。
この男じゃない。
地下には、
この二人とは別の男がいる。
そして――
そいつが城主を連れている。
「気づいた?」
ミレアが俺を見る。
表情を読まれたらしい。
マレクが俺の前へ出る。
「目的は何だ」
ヴェイドは答えない。
視線はセラ。
いや。
その背後の扉も見ている。
セラが鎖を握った。
「私を待っていたのか」
沈黙。
ミレアだけが笑う。
「それを確かめに来たんじゃない?」
「質問している」
「私は答えてない」
セラの眉が少し動いた。
ヴェイドが鎖を引く。
だがセラは動かない。
逆に両手で鎖をつかみ、
一歩下がった。
ヴェイドの身体が前へ引かれる。
点検廊が軋んだ。
ミレアが笑う。
「それ、渡さない方がよかったんじゃない?」
「黙れ」
「武器にされてる」
セラがさらに引く。
ヴェイドが槍の柄をひねった。
鎖が途中で外れる。
床へ落ちる。
同時にミレアが黒杭を投げた。
狙いはセラではない。
俺と中枢扉の間。
「トーマ!」
マレクに肩を引かれる。
杭が床へ刺さり、
青白い炎が噴き上がった。
視界が二つに割れる。
「ミレア」
ヴェイドの声。
「壊すな」
「分かってる」
「回収対象もだ」
セラの目が細くなる。
「回収?」
ミレアが二本目の杭を指先で回した。
「聞かれたよ」
「答えるな」
「はいはい」
軽い返事。
だがヴェイドの構えは軽くない。
狙いは首でも胸でもない。
腕。
脚。
動きを止める場所ばかり。
殺すつもりではない。
捕らえるつもりだ。
「マレクさん」
「見えている」
「俺は扉を見ます」
「そうしろ」
「ミレアは」
「俺が止める」
それだけで十分だった。
盾守が壁際から叫ぶ。
「盤には触らせるな! 流量が変わる!」
「聞いたな」
マレクが盾を構える。
「はい!」
俺は中枢最終門へ視線を戻す。
セラはもう扉から離れている。
ヴェイドと戦っている。
なのに。
光は消えていなかった。
《第二照合――進行中》
《照合負荷――上昇》
動き始めたから、
今度は見える。
異常になる可能性が生まれている。
赤線を追う。
扉の奥へ。
さらに奥へ。
途中で途切れた。
「くそ……」
「どうした!」
マレクの声。
「先が見えません!」
「なら見えるところまで見ろ!」
無茶を言う。
でも正しい。
セラの剣とヴェイドの短槍がぶつかる。
ミレアの黒杭をマレクが盾で弾く。
盾守が操作盤を守る。
扉の光が増える。
四つ。
五つ。
その時。
ドン。
部屋全体が揺れた。
全員が動きを止める。
地震じゃない。
もっと深い。
地下の、
さらに下。
巨大な何かが、
一度だけ脈打ったような振動。
壁の管を流れる水が跳ねた。
ミレアの笑みが消えた。
ヴェイドも扉を見る。
こいつらも知らない。
今のは、
予定どおりじゃない。
「トーマ」
セラが剣を構えたまま言う。
「何です」
「今のも罠か?」
中枢を見る。
赤い線が、
今までとは違う方向へ伸び始めていた。
《中枢動力系――負荷変動》
《原因――対象範囲外》
分からない。
俺の目は、
見えていない場所の答えまで教えてくれない。
「分かりません」
今度は誤魔化さなかった。
足元から、
二度目の振動。
一度目より大きい。
その直後だった。
中枢前室の右側。
今まで閉じていた細い扉の向こうから、
声がした。
「だから言っただろう」
全身が止まる。
知っている。
記録室で聞いた声。
「人間が扱えば、こうなる」
金属扉が、
ゆっくり開いていく。
その向こうに、
男が一人。
そして、
その男の隣には、
両手を縛られたラグナ城主が立っていた。




