第六十八話 あの日の挑戦
刃が捉えたのは、首ではなかった。
獣の腹部から伸びた細い脚が、不意に石畳を蹴ったのだ。
自分の意思で避けたようには見えなかった。巨体が横へ傾き、セラの剣は首筋を外れて右肩へ食い込んだ。
緑褐色の毛が血に染まる。
深い傷だった。
だが、獣は倒れなかった。
太い前脚が石畳を掴み、傾いた身体を支えようとする。ところが、今度は背中の脚が逆方向へ突っ張った。
重心が崩れる。
セラはその隙に踏み込み、《ウツロイ》を大剣へ変形させて獣の胴を打ち上げた。
巨体が横倒しになり、檻の残骸を巻き込んで石畳へ叩きつけられる。折れた鉄格子が跳ね、土埃が舞い上がった。
獣は地面へ爪を立てていた。
何度か起き上がろうとしたものの、そのたびに余分な脚が引っかかり、身体を支えきれずに倒れ込んでしまう。
あれほど巨大な身体を持ちながら、まともに立つことさえ難しいらしい。
俺は《不具合鑑定》を向けた。
《骨格構造――著しい不整合》
《筋組織――複数箇所断裂》
《運動伝達――相互干渉》
《魔力経路――多重化》
身体のあちこちが、互いの動きを邪魔している。
前脚には岩を砕くほどの力がある。後ろに付けられた細い脚にも、あの巨体を動かせるだけの筋力が備わっているのだろう。
だが、力を出す方向が合っていない。
右の腕を動かそうとすれば、腹の脚が逆へ引っ張る。後脚で踏み込もうとすれば、背中の甲殻が傾きを妨げる。
これでは、どれだけ強い部位を持っていても使いこなせない。
セラは剣を構えたまま、獣の正面へ回った。
俺も、その顔を見た。
幅広い鼻先。
苔の絡んだ緑褐色の毛。
額から耳の付け根へ続く、熊らしい輪郭。
その周囲を、別の生き物の鱗や骨が覆っていた。
《苔背熊モスバック》。
かつてベルーガへ向かう街道で出会った、あの熊たちによく似ていた。
いや、似ているだけだろうか。
《基幹骨格――成長途上》
表示を見直した。
こんなに大きな身体をしているのに、中心に残った骨格はまだ成長しきっていない。
あの街道で、セラに挑んできた二頭の若いモスバック。
どちらも群れの長よりずっと小さかった。
セラの殺気に圧されながらも、逃げずに前へ出ようとしていた。
群れの長が止めなければ、本当に襲いかかっていただろう。
そしてベルーガで、一頭は死んだ。
もう一頭は行方が分からなくなった。
「……セラ」
呼びかけても、彼女は振り返らなかった。
倒れた獣の顔を見ている。
獣は大きく口を開き、低く唸った。そのまま前脚を持ち上げようとして、途中で止まる。
セラの剣先が僅かに動いたからだ。
その動きを見た瞬間、背筋が冷たくなった。
あの時と同じだ。
街道でセラへ挑んだ若い熊も、最初の一歩でこんなふうに怯んだ。
それでも、もう一度前へ出ようとした。
セラは剣先を下げなかった。ただ、獣の動きを待っている。
やがて獣が、もう一度前脚を持ち上げた。
「……お前だったのか」
セラの声は小さかった。
俺はその横顔を見た。
いつものセラなら、相手が動く前に首を落としていてもおかしくない。
なのに、今は動かない。
剣を構えたまま、あの熊が起き上がるのを見ている。
その時だった。
ギリ、と。
獣の腹部から、金属が軋むような音がした。
俺は目を向けた。
さっき切り裂かれた脇腹に、黒いものが覗いている。
細長い金属だった。
表面には見覚えのある溝が刻まれている。
「……黒杭?」
周囲の骨が、その金属を包み込むように伸びていた。何本もの筋肉が黒杭の根元へ集まり、そこから別々の方向へ続いている。
まるで、あの無茶苦茶な身体を無理やり繋いでいるようだった。
さらに奥には、赤黒い石のようなものが埋まっている。
親指ほどの大きさしかない。
だが、表面の内側で紫色の光がゆっくり脈打っていた。
《不具合鑑定》を向ける。
《異物固定――正常》
《魔力接続――複数系統》
《出力調整――不安定》
《内部負荷――上昇》
身体のあちこちは異常だらけなのに、黒杭の固定だけは正常。
妙な話だった。
どういうことだ?
考えかけた時、赤黒い塊が強く光った。
獣の身体が跳ねた。
「セラ、離れろ!」
セラはすでに後退していた。
黒杭の表面に刻まれた溝へ、紫色の光が走る。光は細い筋となって枝分かれし、獣の身体の各部へ伸びていった。
肩へ。
背中へ。
後脚へ。
そして、本来あるはずのない余分な脚へ。
獣が咆哮した。
熊の唸りに、別の魔獣の甲高い叫びが重なっている。聞いているだけで耳の奥が痛くなる、ひどく歪んだ声だった。
巨体が持ち上がる。
太い前脚が地面を押した。
後脚が腰を支える。
腹部の脚が身体の傾きに合わせて動き、背中の甲殻が重心を補うように位置を変えた。
さっきまで互いの邪魔をしていた脚が、今度は一つの身体として動いている。
「……なんだよ、それ」
獣が地面を蹴った。
巨体が跳ね上がる。
セラが横へ踏み込む。
直後、彼女のいた場所へ前脚が叩きつけられた。
石畳が砕け、拳ほどの破片が跳ね上がる。
獣は着地すると同時に身体を捻り、再びセラへ飛びかかった。
細く折れ曲がった後脚が、着地の衝撃を吸収して次の跳躍へ繋げている。
セラが長剣を振る。
狙いは、先ほど傷つけた右肩。
だが、刃が届く寸前、背中の甲殻が滑るように動いた。
ギィンッ!
金属を打ったような音が響く。
剣が弾かれた。
セラはすぐに刀身を引いたが、その退路へ長い尾が伸びてきた。
蛇のようにうねる胴。
先端には鋭い鉤爪が付いている。
セラは身を捻り、尾をかわした。
その直後、獣の前脚が振り下ろされる。
《ウツロイ》が大剣へ変わった。
衝突音が響く。
セラの足が石畳を滑った。
二歩ほど押されたところで刀身を傾け、前脚の力を横へ流す。しかし、獣はもう次の攻撃へ移っていた。
後脚が地面を蹴る。
尾が回り込む。
甲殻が肩へ重なる。
違う魔獣の部位が、一つの動きへ繋がっている。
獣が大きく口を開けた。
その奥に、青白い光が集まり始める。
パチッ、と小さな火花が散った。
俺は息を呑んだ。
――あの光。
牙の間で雷が弾ける。
一本だった光が枝分かれし、口の奥から首筋へ広がっていく。
毛が逆立つ。
背中の甲殻の隙間を、青白い雷が網のように走った。
「セラ! 口だ!」
叫んだ直後、雷光が放たれた。
セラが横へ跳ぶ。
閃光は彼女の背後を抜け、荷場の石壁へ直撃した。
轟音とともに壁の一部が砕け、熱を帯びた破片が降り注いだ。
俺は咄嗟に腕で顔を庇った。
鼻の奥に焦げたような臭いが広がる。
その臭いまで覚えていた。
「……ヴァルガルド」
《災厄ヴァルガルド》。
バスティオンで戦った、あの怪物。
あいつの身体にも、青白い雷が網のように走っていた。
雷を放つ直前、空気が嫌な具合に震える。光が届くより早く、肌が粟立つ。
今の雷も、それとよく似ていた。
しかも、似ているのは雷だけじゃなかった。
セラが獣の懐へ飛び込んだ。
長剣が甲殻の隙間へ入り、脇腹を深く斬り裂く。
鮮血が飛んだ。
ところが、傷口の奥で赤黒い肉が蠢き始める。裂けた筋肉が盛り上がり、互いに絡み合った。
皮膚の両側から硬い組織が伸び、傷を押し塞いでいく。
「……再生まで」
これも、見覚えがある。
ヴァルガルドとの戦いでは、壊したはずの肉体が何度も形を取り戻していた。
どれだけ斬っても終わらない。
そう思わされた、あの嫌な感覚。
今、目の前の熊にも同じことが起きている。
《組織修復――異常促進》
《複数魔力経路――同期》
《内部負荷――増大》
《出力調整――不安定》
雷。
異常な再生。
腹部に埋まった赤黒い塊。
……まさか。
俺はその考えを、すぐには口にできなかった。
ヴァルガルドの魔核は、あの崩落のあとどうなったのか分からない。目の前のものが同じだという証拠もない。
それでも、嫌な予感は消えなかった。
獣が再び吠えた。
今度は、南側の通路へ顔を向けている。
そこには、まだ避難しきれていない住民がいた。
「まずい!」
セラが動いた。
獣の口に雷が集まり始めた瞬間、彼女は大剣を振り上げ、その下顎を打った。
雷光が斜め上へ逸れ、倉庫の屋根を吹き飛ばした。
悲鳴が上がる。
セラは獣の前に立ったまま、こちらを見た。
「トーマ、そっちを頼む」
俺は南側へ走った。
――――
さっき確保した倉庫裏の通路には、まだ住民の列が続いていた。
古い水路を利用した抜け道だ。
人が通れるだけの幅はあるが、途中が狭い。一人でも立ち止まると、後ろがすぐに詰まってしまう。
「押さないで! 前の人から順番に!」
俺は声を張り上げた。
老人が足を滑らせ、その後ろの女が転びかける。子どもを抱えた男は何度も北側を振り返っていた。
「あいつ、こっちへ来ねぇだろうな!」
「セラが止めてます! 今は先へ進んでください!」
言いながら、俺も一度だけ荷場を見た。
セラはまだ戦っている。
獣の前脚を大剣で受け止め、横へ流す。尾が伸びれば長剣へ戻して弾き、後脚が迫れば身体を捻ってかわす。
ただ、さっきから気になることがあった。
セラは、避けられるはずの攻撃を何度か受けている。
獣の前脚が振り下ろされた時も、横へ抜ける余裕はあった。
それなのに、半歩だけ踏み込んで受けた。
剣と腕がぶつかる寸前まで待ち、ようやく刃を傾けている。そのたび、衝撃で彼女の足元の石畳が砕けた。
次の攻撃では、尾を避けずに剣で受けた。
鉤爪が刀身へ引っかかり、セラの手首が大きく振られる。それでも剣を離さず、尾の勢いに合わせて身体を回した。
一歩下がれば、あんな危ない受け方をしなくて済む。
「……何してるんだよ」
思わず呟いた。
セラは斬り返せる場面でも深追いせず、また獣が立て直すのを待っていた。
あんな戦い方をするセラを、俺は見たことがなかった。
「おい、兄ちゃん!」
奉徒の声で我に返った。
「そっちの老人、手伝ってくれ!」
俺は慌てて駆け寄った。
足を痛めた老人が、石壁にもたれて座り込んでいる。俺一人では抱えられそうになかったため、奉徒と二人で肩を支えた。
水路の入口まで、少しずつ歩く。
後ろから何度も衝突音が響いた。
振り返りたかった。
だが、俺が手を緩めれば老人が倒れる。
奥の奉徒へ引き渡し、再び戻った頃には、住民の列はかなり短くなっていた。
「北の倉庫は?」
「確認に行った奴が戻ってきた。誰もいなかったって!」
「南側は?」
「最後の連中を通してる。あとは俺たちだけだ!」
俺は息を吐いた。
全部の場所を確認できたわけじゃない。逃げ遅れた人がどこかにいるかもしれない。
それでも、少なくとも目に見える範囲から人の姿は消えていた。
その時、西側から大きな衝突音が響いた。
振り返る。
セラが獣を古い荷下ろし場へ押し込んでいた。
そこは荷場の西端にある、一段低くなった窪地だった。石積みの擁壁に囲まれ、今はほとんど使われていない場所だ。
俺は走り出した。
――――
近づくにつれ、焦げた臭いが強くなった。
獣の身体から紫色の光が漏れている。背中の甲殻の隙間や腹部の傷、口の端で、細かな雷が弾けていた。
セラは窪地の奥に立ち、獣の攻撃を受け続けている。
俺は石壁の陰から叫んだ。
「セラ! 腹の黒杭が、あの身体を繋いでる!」
獣の前脚が振り下ろされた。
セラは大剣で受け、横へ流す。
「壊せば、動きを止められるかもしれない! でも、そのあと魔力が暴走するおそれがある!」
セラは答えなかった。
長剣へ戻した刀身で獣の脚を斬り、さらに窪地の奥へ誘導している。
「確認できた住民は南へ逃がした! 北の倉庫も見てもらった!」
そこまで言って、言葉に詰まった。
全員逃げたと保証できるわけじゃない。あの力が暴走した時、どこまで被害が広がるのかも分からない。
《不具合鑑定》は、そこまで教えてくれなかった。
セラは一度だけこちらを見た。
何か言うかと思ったが、彼女はまた獣へ顔を向けた。
そして、剣を肩に担いだ。
《ウツロイ》の大剣を、右肩へ預ける。
俺は一瞬、息を止めた。
以前、ゼインとの戦いで似た構えを見たことがある。
だが、今は足元の砂も動かないし、空気が妙に静まり返ることもない。
セラは肩で小さく息をしていた。
大剣を支えている右腕にも、僅かな震えが見える。獣の攻撃を受け続けていたせいだろう。左足を一度踏み直し、足場を確かめていた。
それでも、彼女は獣から目を離さなかった。
青灰色の瞳に、いつもとは違う表情が浮かんでいる。
少し、悲しそうだった。
獣が前脚を持ち上げる。
セラはその動きを見つめたまま、静かに口を開いた。
「王国騎士セラ・ヴァルク」
獣が唸った。
太い前脚が振り下ろされる。
避けられる攻撃だった。
セラの右側には、十分な空間があった。
それなのに、彼女は横へ逃げなかった。
振り下ろされる腕の内側へ踏み込み、大剣の側面で正面から受け止めた。
重い衝突音が響く。
セラの靴底が石畳を擦り、身体が僅かに沈んだ。受けた衝撃で肘が下がる。それでも刀身を傾け、前脚の力を横へ逃がした。
爪が地面を削る。
セラは追撃しなかった。
獣が身体を立て直すまで、そこに立っていた。
「名をここに置く」
二つ目の言葉が聞こえた。
俺は息を呑んだ。
聞き覚えがある。
獣が再び前へ出る。
その動きは、先ほどより少し鈍くなっていた。
後脚が踏み込むたび、腹部の黒杭が激しく光る。関節がぎこちなく動き、時折、身体の内側で何かが裂けるような音までしていた。
セラは獣の前脚を受け、脇腹へ長剣を入れた。
血が飛ぶ。
だが、すぐに肉が盛り上がり、傷を塞ぎ始める。
獣は痛みを感じているのだろうか。
俺には分からなかった。
ただ、獣が前へ出ようとするたびに、あの黒杭が強く光っている。
その光を見るのが、嫌になってきた。
セラが大剣を持ち直した。
獣の口が開き、青白い雷が集まり始める。
セラは横へ抜けられる位置にいた。
それなのに、雷が放たれる直前まで動かなかった。
獣の目が自分へ向いていることを確かめるように。
そして、雷光が牙の間へ集まった瞬間、ようやく踏み込んだ。
大剣が下顎を打つ。
雷光が斜め上へ逸れ、窪地の壁を砕いた。
石片が降る。
セラはその中に立ち、獣を見上げていた。
肩が上下している。
大剣を握る指が、ゆっくりと締め直された。
だが、下がろうとはしない。
獣が太い前脚を持ち上げる。
セラは剣を肩に戻した。
「剣の向こう側で」
三つ目の言葉が、雷鳴の合間に響いた。
獣が前へ出る。
太い前脚が石畳を砕き、長い尾が横から伸びてきた。
セラはその尾を長剣で弾いた。
続いて迫る後脚をかわし、獣の懐へ潜り込む。
そこへ、獣の頭が大きく下がった。
口が開く。
雷が集まり始める。
セラは剣を構えたまま、獣の顔を見た。
苔の絡んだ毛。
幅広い鼻先。
あの森で、セラへ挑んだ若い熊。
その面影が、異様な肉や骨の奥に残っている。
セラの表情が変わった。
ほんの一瞬、眉が寄った。
何か言いかけたように唇が動いたが、声にはならない。
俺はその横顔を見ていた。
直後、セラが顔を上げる。
その目を見た瞬間、俺は息を止めた。
ぞっとした。
先ほどまで浮かんでいた悲しげな色が、消えていた。
いや、消えたのかどうかも分からない。
ただ、目の前の獣を射抜く青灰色の瞳から、凄まじい殺気が放たれていた。
喉の奥が勝手に締まる。
離れた石壁の陰にいる俺でさえ、身体が強張った。
あの街道で、二頭の若いモスバックが怯んだ時のことを思い出す。
あの時も、セラは殺気を放った。
だが、今の比ではない。
目の前にいるのが《鬼神のセラ》と呼ばれる女騎士なのだと、嫌でも思い知らされた。
獣も、その殺気を受けた。
太い前脚が止まる。
口の奥に集まっていた雷が、小さく弾けた。
獣の目が大きく開かれる。
そのまま、身体が僅かに後ろへ引かれた。
だが。
獣は、前へ出た。
地面へ爪を立て、震える脚で踏み込んできた。
セラは剣を握り直した。
大剣の切っ先が僅かに下がる。
彼女の足が石畳を踏みしめた。
「神さえ知らぬ結末を見せてやる」
最後の言葉が響いた。
獣が吠える。
太い前脚が振り下ろされる。
セラは避けなかった。
大剣を肩から下ろし、正面へ構える。
振り下ろされた前脚へ、刀身の側面を当てた。
金属と爪がぶつかった。
衝撃でセラの身体が僅かに沈む。
右腕が震え、靴底が石畳を擦った。
それでも、彼女は受け止めたまま一歩踏み込んだ。
刀身を傾ける。
獣の前脚が外側へ流れた。
その瞬間、首筋を覆っていた甲殻がずれた。
ほんの僅かな隙間。
セラはそこへ刃を向けた。
《ウツロイ》が長剣へ変わる。
刀身が細くなり、獣の首筋へ滑り込んだ。
甲殻の隙間。
苔の絡んだ毛の下。
筋肉の奥。
そこへ、正確に刃が入った。
獣が大きく仰け反る。
セラは足を止めなかった。
踏み込んだ右足を軸に、腰を回す。
長剣が再び大剣へ変わる。
重心が前へ移り、増した刀身の質量がそのまま斬撃へ乗った。
筋肉が断たれる。
骨が軋む。
首の奥で、鈍い音がした。
獣の巨体が大きく揺れる。
それでも、太い前脚はまだセラへ伸びようとしていた。
セラは剣を引き抜き、半歩だけ横へ移動した。
そして、もう一度。
今度は、開いた傷口へ正確に刃を入れた。
深く。
一気に。
首の奥で、骨が断たれた。
獣の口が開いた。
しかし、雷は放たれなかった。
大きな身体が、ゆっくり傾く。
後脚が折れ曲がり、腹部から伸びた余分な脚が石畳を引っ掻いた。
背中の甲殻がずれ、重なり合った骨が軋む。
獣は何とか身体を支えようとしていた。
だが、もう力が入らないらしい。
俺は《不具合鑑定》を向けた。
《基幹神経――重度損傷》
《運動伝達――著しく低下》
《生体反応――急速減衰》
その下に、別の表示が重なった。
《異物接続部――稼働継続》
《内部魔力――蓄積》
獣は倒れかけている。
なのに、腹部の黒杭から伸びる紫色の光は消えていなかった。
赤黒い塊も、まだ脈打っている。
俺はその表示を見直そうとした。
だが、その時。
太い前脚が、もう一度持ち上がった。
残った力を振り絞るように。
爪が開く。
その脚は、セラへ向かって伸びていた。
俺は思わず叫びかけた。
「セラ――」
だが、声が出なかった。
彼女は逃げなかった。
避けようとすれば、簡単に避けられたはずだ。
獣の動きは、もうほとんど止まっている。
それでもセラは、そこから動かなかった。
長剣を横へ構え、獣の前脚を正面から受け止めた。
鈍い音が響く。
大きな爪が刀身へ掛かり、セラの肩を掠めた。
外套が裂ける。
受けた重みで、彼女の足が半歩だけ滑った。
剣を握った右腕が震える。
セラの口が小さく開いた。
息を吐こうとしたのだろう。
だが、獣の前脚はまだ重く、彼女は歯を食いしばってそのまま支えていた。
獣はなおも力を込めようとした。
爪が僅かに動く。
セラは受け止めたまま、獣の顔を見ていた。
先ほどまでの凄まじい殺気は、もう感じなかった。
それでも、その青灰色の瞳は最後まで獣を捉えていた。
獣の口から、かすれた息が漏れる。
前脚に掛かっていた重みが、少しずつ弱くなっていった。
セラは膝を折った。
剣を引かず、獣の前脚を支えたまま、ゆっくりと身体を沈めていく。
大きな爪が石畳へ近づいた。
途中でセラの腕が一度震え、剣先が下がった。
それでも彼女は持ち直した。
やがて爪が地面へ触れる。
獣の頭が傾いた。
緑褐色の毛が石畳に広がる。
前脚から、最後の力が抜けていった。
セラは剣を引かなかった。
その重みがなくなるまで、ずっと支えていた。
やがて獣の大きな目が、ゆっくりと閉じる。
もう、前脚は動かなかった。
セラはしばらく、その場に膝をついていた。
剣を握ったまま、顔を上げない。
それでも、倒れた獣から離れようとはしなかった。
俺も何も言えず、ただその姿を見ていた。
やがてセラは、獣の前脚に掛けていた剣をゆっくり外した。
刃が石畳を擦り、小さな音を立てる。
立ち上がろうとして、一度だけ膝が止まった。
彼女は左手を地面へつき、少し間を置いてから身体を起こした。
そして、もう一度だけ獣の顔を見た。
何も言わなかった。
俺も、声を掛けなかった。
窪地には、焦げた臭いと血の匂いが残っていた。
獣の腹部で、赤黒い塊が微かに明滅している。
その光に、まだ俺は気づいていた。
けれど、セラは動かなかった。
閉じた獣の目を、最後まで見ていた。




