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最強女騎士は、あと百二十日で壊れる ~粗探ししかできないハズレスキル《不具合鑑定》の俺だけが、それに気づいた~  作者: 出水克幸
勝利譌�ヴィクトル編

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第六十九話 死んだ獣の雷

セラの目には、まだあの気迫が残っていた。


閉じたモスバックの目を見下ろす、青灰色の瞳。


つい先ほどまで、あの目は凄まじい殺気を宿していた。離れた場所にいた俺でさえ、息をするのを忘れそうになったほどだ。


今はもう、殺気は感じない。


けれど、セラは獣から目を離さなかった。


右手には《ウツロイ》を握ったままだ。


何度も攻撃を受け止め続けたせいだろう。指先にはまだ僅かな震えが残っていた。


俺は声を掛けようとして、やめた。


あの森で出会った二頭の若いモスバック。


一頭はベルーガで死んだ。


そして、もう一頭も。


こんな場所で、こんな姿になって。


セラは最後まで、その挑戦を受け止めた。


俺には、今のあいつに何を言えばいいのか分からなかった。


その時だった。


パチッ。


小さな音がした。


顔を向ける。


倒れた獣の腹部で、青白い火花が散っていた。


「……ん?」


獣の身体は、もう動いていない。


俺は先ほど、その生体反応が消失したことを確認していた。


だが、腹部の傷口から覗いている黒杭は違った。


表面に刻まれた溝を、紫色の光が走っている。


その奥。


肉に半ば埋もれた赤黒い塊も、まだ脈打っていた。


一度。


二度。


三度。


……速くなっている?


俺は《不具合鑑定》を向けた。


《生体反応――消失》


《異物接続部――稼働継続》


《内部魔力――蓄積》


《出力調整――機能低下》


さっきも似た表示を見た。


だが、今は違和感があった。


獣の身体は完全に停止している。


雷を放つ口も、再生する肉も、動こうとする脚もない。


なのに、腹部の魔力だけが増えている。


黒杭から伸びていた紫色の筋が、一本ずつ消えていった。


いや、消えているんじゃない。


途中で途切れている。


もう動かない身体へ送り込まれた魔力が、行き場を失っているのか。


「……セラ」


呼びかけると、セラが顔を上げた。


俺の視線を追い、獣の腹へ目を向ける。


その直後、赤黒い塊が強く光った。


パキッ。


乾いた音が響いた。


石の表面に、細い亀裂が走っていた。


《内部魔力――急激増大》


《出力制御――機能喪失》


《接続部――過負荷》


「セラ、離れろ!」


俺が叫んだ時、セラはすでに動こうとしていた。


だが、彼女が最初に向いたのは、窪地の出口だった。


俺のいる方だ。


「トーマ、下がれ!」


言い終わるより早く、赤黒い塊が弾けた。


――――


閃光が視界を埋めた。


爆発音が聞こえたかどうかも分からない。


最初に見えたのは、セラの身体だった。


獣のすぐそばに立っていた彼女を、青白い光が包み込む。


《ウツロイ》を持ち上げかけた右腕が、衝撃に押し戻された。


外套が引き裂かれる。


石畳から足が離れた。


セラの身体が、弾き飛ばされた。


砕けた石片を巻き込みながら窪地を横切り、背中から擁壁へ激突する。


石壁が大きく陥没した。


そのまま壁の一部が崩れ、彼女の姿が土埃の中へ消えた。


「セ――」


声を出しきる前に、俺にも衝撃が届いた。


胸を巨大な掌で殴られたようだった。


肺の中の空気が一気に抜け、身体が後ろへ倒れる。


俺は咄嗟に石壁の角を掴んだ。


指が滑った。


肩が壁へぶつかり、足が地面を離れる。


次の瞬間、背中から石畳へ叩きつけられた。


目の前が白くなる。


耳の奥で、細い音が鳴り続けていた。


キィィィン。


息ができない。


何度か口を開いて、ようやく咳が出た。


喉に砂が入り、激しくむせる。


うつ伏せになって頭を庇うと、背中を小石が何度も打った。


遅れて熱い風が通り過ぎた。


しばらくして顔を上げた時、窪地の中央はまるで別の場所になっていた。


石畳が剥がれ、地面には大きな穴が開いている。


周囲の擁壁にも亀裂が走り、積まれていた石がいくつも崩れ落ちていた。


さっきまで、そこに一頭の熊が横たわっていた。


今はもう、原形を留めていない。


緑褐色の毛が残った肉片や甲殻が、崩れた石の間に散らばっていた。


そして、その上空。


青白い雷が、何本も伸びていた。


「……そんな」


雷は一度きりではなかった。


破裂した魔核の残骸が散った場所から、次々と光が走る。


石壁へ。


鉄製の荷下ろし台へ。


頭上に渡された古い滑車の鎖へ。


鎖が白く光り、火花が落ちていた。


ヴァルガルドの雷と同じ臭いがした。


焼けた鉄と、焦げた肉。


俺はその光景に一瞬足を止めたが、すぐに別のものを探した。


「セラ!」


崩れた壁へ走った。


足元で小石が転がる。


さっき彼女がぶつかった場所は、擁壁の下半分が大きく崩れていた。


瓦礫の間から、濃紺の外套が覗いている。


「セラ!」


駆け寄ると、人影が動いた。


セラだった。


左肩を下にして倒れている。


右腕には血が滲み、外套の胸元も大きく裂けていた。


《ウツロイ》は少し離れた場所に落ちている。


俺は膝をついた。


「セラ、聞こえるか!」


彼女の瞼が動いた。


青灰色の瞳が、ゆっくりこちらを向く。


「……聞こえている」


声が掠れていた。


「よかった……いや、よくない。どこが痛む? 頭は? 胸は?」


セラは俺の質問を聞いているのかいないのか、上体を起こそうとした。


だが、右腕へ力を込めた途端、顔をしかめる。


手が地面から滑った。


「おい、無理するな!」


俺は咄嗟に肩を支えた。


セラは一度だけ目を閉じ、それから左手を石畳へついた。


今度は何とか身体を起こしたが、呼吸のたびに胸元が小さく震えていた。


「……軽傷だ」


「どこが!」


思わず声を荒らげた。


あんなものをまともに受けて、軽傷で済むわけがない。


俺は《不具合鑑定》を向けた。


《右肩部――筋繊維断裂》


《胸郭――複数箇所亀裂》


《肺組織――挫傷》


《右上肢――神経伝達遅延》


《全身――高負荷損傷》


表示を見た瞬間、喉が詰まった。


肋骨に亀裂が入っている。


肺も傷ついている。


右腕は、神経の働きまで鈍っていた。


それでもセラは、もう一度立とうとしている。


「軽傷じゃない。胸も肩も、かなり傷んでる」


「動かせる」


「動くかどうかの話じゃ――」


セラが右手を持ち上げた。


その動きが、途中で僅かに止まる。


彼女自身も気づいたらしい。


指を開き、もう一度握り直した。


「……少し鈍いな」


少し。


その言い方に腹が立ちかけた。


けれど、俺は何も返せなかった。


頭の奥に、以前見た数字が浮かんでいた。


七十九パーセント。


九十五日。


あの時から、どれだけ進んだのだろう。


今すぐ知りたかった。


だが、見ようとしたところで、あの特別な表示が現れるとは限らない。


目の前に並んでいる通常の損傷だけでも、十分に危険な状態だった。


セラは左手を壁につき、ゆっくり立ち上がった。


途中で膝が折れかけ、俺は慌てて腕を回した。


「……悪い」


小さくそう言って、セラは一度だけ俺に体重を預けた。


それが余計に怖かった。


あいつが、自分からそんなことをするなんて。


セラは数回呼吸を整えると、俺の腕から離れた。


そして、落ちていた《ウツロイ》へ歩いていく。


剣の柄を握った時、右手の指が一度滑った。


彼女は左手を添え、握りを直した。


「セラ、待ってくれ。せめて誰かを呼んで――」


その時だった。


頭上から、鋭い金属音が響いた。


俺たちは同時に顔を上げた。


――――


旧荷場の上空には、まだ雷が残っていた。


爆発によって放たれた青白い光が、古い荷下ろし設備を伝っている。


鉄製の滑車。


太い鎖。


荷車を固定するための金具。


その一つ一つが火花を散らしていた。


俺は目で雷を追った。


鎖の先は、窪地の上へ続いている。


ちょうど、二台の荷馬車が置かれている場所だった。


「……まさか」


一筋の雷が、鎖から外れた。


荷馬車へ落ちる。


轟音。


二台目の檻を覆っていた布が燃え上がった。


そこへ、別の雷が落ちた。


今度は三台目だ。


黒杭が激しく光る。


檻の周囲に巻かれていた鎖が、青白い火花を散らした。


「セラ!」


俺は荷場へ駆け戻った。


セラも後を追おうとしたが、途中で足を止め、右肩を押さえた。


振り返りたい。


でも、あの二台がどうなったのかを確かめなければならない。


俺は窪地から続く石段を駆け上がった。


上へ出ると、黒く焦げた荷馬車が見えた。


二台目の車輪が一つ外れ、斜めに傾いている。


三台目は布の半分が燃え、鉄格子がむき出しになっていた。


近くにいた奉徒たちが、慌てて水桶を運んでいる。


「近づくな!」


俺は叫んだ。


「檻には触らないでくれ!」


一人の奉徒が振り返った。


「でも、火が――」


「中にまだ魔獣がいる!」


そう言った瞬間、二台目の黒杭から鈍い音がした。


パキン。


金属の表面に亀裂が走る。


俺の視界へ表示が浮かんだ。


《拘束術式――機能停止》


《固定部――破損》


《封印維持――不能》


二台目。


続いて三台目。


《拘束術式――機能停止》


《固定部――破損》


《封印維持――不能》


……両方とも。


雷で封印が壊れた。


俺は息を呑んだ。


今度は何が出てくる?


さっきのモスバックと同じようなものが、あと二体。


セラは重傷を負っている。


このまま戦えるはずが――。


バギンッ!


二台目の鉄格子が、内側から弾け飛んだ。


分厚い布が引き裂かれる。


そこから、大きな影が飛び出した。


着地の衝撃で石畳が砕けた。


俺は思わず後ずさった。


虎だった。


いや。


虎の頭を持つ、別の何かだ。


二本の脚で立っている。


背丈は普通の男の倍近くあり、分厚い胸と肩には金色と黒の縞模様が走っていた。


腕は人間のものに似ているが、異様に長い。


大きな掌から、曲がった爪が五本ずつ伸びている。


口には鋭い牙が並び、金色の瞳がゆっくり周囲を見回していた。


そして、背中から。


巨大な翼が二枚、広がった。


「……翼?」


羽毛ではなかった。


黒褐色の薄い膜が、骨の支柱の間へ張られている。


だが、左右で形が違う。


右の翼は先端が長く、左は根元の骨が太い。


どちらも無理やり背中へ取り付けたように見えた。


翼を広げた虎は、首を大きく回した。


喉の奥から、低い唸り声が漏れる。


そのまま、空気を震わせるほどの咆哮を上げた。


「グルルルルルルァァァッ!」


俺は反射的に耳を塞いだ。


その隣で、三台目の檻も動いていた。


ただ、こちらは様子が違った。


鉄格子が外へ押し広げられていない。


内側へ。


ゆっくり引き込まれていた。


ギリギリと、金属が曲がる音がする。


燃え残った布が、檻の中へ沈んだ。


その隙間から、細いものが伸びてきた。


脚だった。


異様に長い。


途中に関節が二つあり、どちらも普通の獣とは逆方向へ曲がっている。


脚の先には、蹄も爪もなかった。


人間の指に似たものが、五本。


それが石畳を掴んだ。


続いて、二本目が出てくる。


三本目。


四本目。


さらに二本。


六本の脚が檻の外へ伸び、細い指で地面を掴みながら身体を引き出していった。


俺は息を呑んだ。


胴体が現れた。


灰白色の皮膚。


痩せた胸。


骨の形が浮き上がった腹。


背中には何本もの角が生え、それぞれが別の方向へ曲がっている。


だが、最も異様なのは頭だった。


ない。


首のあるはずの場所で、背骨が途切れていた。


その代わり。


胸の中央が、縦に裂けていた。


皮膚の隙間から、何かが覗いている。


目だ。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


五つ。


大小の違う眼球が、胸の内側に並んでいた。


それぞれが別々の方向を向いている。


一つは俺を。


別の一つは虎を。


残りは、誰もいない建物や地面を見ていた。


六本の脚が動く。


ほとんど音がしなかった。


あれだけ長い脚を持っているのに、石畳の上を滑るように移動している。


一度、胸の目がすべて閉じた。


次に開いた時、五つの目は揃って南側を向いていた。


街の方角だ。


「……おい」


俺は一歩下がった。


その間に、白い異形は建物の壁へ近づいた。


長い脚が一本持ち上がる。


先端の指が壁を掴んだ。


続いて別の脚が上がる。


六本の脚が、まるで地面と壁を区別していないかのように動き始めた。


灰白色の胴体が、ゆっくり壁を登っていく。


「待て!」


俺は叫んだ。


もちろん、止まるはずがない。


何とかしなければ。


だが、近づいてどうする?


俺には剣もない。


あんなものを一人で止められるわけがない。


振り返る。


セラが、ようやく石段を上がってきたところだった。


右肩を庇いながらも、《ウツロイ》を握っている。


その姿を見た瞬間、虎の動きが止まった。


金色の瞳が、セラへ向いた。


大きな鼻が動く。


虎はゆっくりと身体を沈めた。


二本の後脚が折れ曲がる。


背中の翼が、半分ほど開いた。


「……セラ?」


彼女が顔を上げる。


俺も虎を見た。


その後脚。


太い筋肉が、皮膚の下で大きく盛り上がっている。


次の瞬間。


石畳が砕けた。


虎が消えた。


――――


何が起きたのか、分からなかった。


荷馬車の前に立っていたはずの虎が、もう目の前にいた。


翼が大きく広がり、俺たちの頭上へ影を落とす。


その右腕が、振り上げられていた。


巨大な爪。


それが、俺へ向かって落ちてくる。


避けなければ。


頭では分かっている。


だが、身体が動かなかった。


爪が迫る。


その瞬間、横から強い力で突き飛ばされた。


「――っ!」


俺は石畳へ倒れ込んだ。


セラだった。


彼女が俺の肩を押し、自分の身体を前へ出したのだ。


いつものセラなら。


きっと、俺を退かせたあとでも十分に避けられた。


それほどの速さを持っている。


だが、今は違った。


右肩が、僅かに下がる。


踏み込んだ足が、ほんの少し遅れた。


爆発で傷ついた身体が、彼女の動きについてこなかった。


虎の爪が、セラを捉えた。


ザシュッ!


肉が裂ける音がした。


外套が切り裂かれ、鋭い爪が右肩から胸元へ走った。


血が飛ぶ。


セラの身体が、大きく後ろへ反った。


「セラ!」


叫んだ時には、もう一つの動きが始まっていた。


セラの右手だ。


虎の爪が彼女を捉えるのと、ほとんど同時に。


《ウツロイ》の長剣が、下から跳ね上がっていた。


俺は目を見開いた。


あんな状態で。


あんな傷を負いながら。


それでも、斬り返している。


剣先は、虎の喉元へ伸びていた。


正確だった。


いつものセラの剣だ。


あと僅かで、刃が届く。


虎の金色の瞳が大きく開かれた。


その後脚が、地面を蹴る。


一度。


ほんの一度だけ。


次の瞬間、巨体が斜め後方へ跳ね上がった。


長剣の先端が、虎の喉元を掠める。


数本の毛が宙を舞った。


あと少しだった。


剣先が指一本分でも深く入っていれば、虎の喉を捉えていたはずだ。


だが、虎はもう離れていた。


翼を広げた巨体が、壊れた荷馬車の屋根へ着地する。


木材が砕けた。


さらにもう一度跳び、崩れた倉庫の屋根へ移る。


俺は倒れたまま、息を呑んでいた。


速い。


セラの剣を見てから、あの巨体が跳躍した。


しかも、普通の魔獣なら着地して体勢を整えるところを、あいつはほとんど止まらずに次の跳躍へ移っている。


背中の翼が、着地する直前に大きく広がっていた。


飛ぶための翼なのか。


それとも、あの跳躍を補うためのものなのか。


今は分からない。


セラが長剣を構え直した。


右肩から血が流れている。


胸元の外套も大きく裂けていた。


それでも剣先を虎へ向けている。


俺は慌てて立ち上がった。


「セラ! もう戦うな!」


返事はなかった。


彼女は虎を見ていた。


その足元が、僅かに揺れる。


一度、右膝が沈んだ。


セラは左足を踏み直し、何とか姿勢を整えた。


俺はその間に《不具合鑑定》を向けた。


《右肩部――損傷拡大》


《胸部――深部裂創》


《出血――継続》


《右上肢――神経伝達遅延》


《全身――高負荷状態》


さっきの爆発で受けた傷に、さらに爪が入っている。


いつもの速度で剣を振ろうとしても、腕の反応が遅れる。


それでもセラは、反撃を間に合わせた。


……間に合わせてしまった。


だから、余計に怖かった。


この状態でも戦えてしまうなら、あいつはきっと止まらない。


屋根の上で、虎が低く唸った。


セラの剣先が僅かに上がる。


その時だった。


虎の視線が動いた。


セラから。


俺へ。


金色の瞳と、目が合った。


思わず息が止まる。


虎はしばらく俺を見ていた。


口元を僅かに開き、鋭い牙を覗かせている。


次に襲ってくるのは、俺かもしれない。


そう思った。


だが。


虎は顔を背けた。


そして、街の方へ身体を向けた。


「……え?」


後脚が沈む。


翼が大きく開いた。


次の瞬間、屋根が砕けた。


虎の身体が跳ね上がる。


隣の倉庫へ着地。


さらにもう一度。


あっという間に、建物の向こうへ姿を消した。


「……行った?」


俺は呆然と、その方向を見つめていた。


セラは剣を構えたままだった。


しばらくして、ゆっくり刀身を下げる。


その動きに合わせて、右腕が僅かに震えた。


俺は彼女へ駆け寄った。


「大丈夫か!」


セラは答えなかった。


右肩に左手を当て、指先についた血を見ている。


「……セラ」


「傷は浅い」


「またそれかよ……」


今度は、怒る気力も湧かなかった。


俺は外套の裂け目を見た。


血が、まだ流れている。


浅いわけがない。


セラは傷口を押さえたまま、俺の方を見た。


「お前は」


「俺は大丈夫だ。転んだだけだから」


彼女は一度だけ頷いた。


それから、虎の消えた方角へ顔を向けた。


追おうとしているのかと思ったが、足は動かなかった。


代わりに、剣を握り直している。


その指先は、まだ僅かに震えていた。


俺は周囲を見渡した。


崩れた荷馬車。


焼けた布。


砕けた鉄格子。


そこに、あるべきものが一つなかった。


「……あれ?」


三台目から出てきた、白い異形。


六本の長い脚。


胸の内側に並んだ目。


あれが、いない。


「セラ、もう一匹は?」


セラが顔を上げる。


俺は三台目の荷馬車へ走った。


鉄格子は完全に壊れ、内側には何も残っていない。


石畳には、細長い指で引っ掻いたような跡が続いていた。


それが、倉庫の壁へ伸びている。


壁の上にも同じ傷があった。


「……登ったのか」


俺は見上げた。


屋根の端。


そこから先へ、傷が続いている。


南側だった。


街へ向かう方向だ。


嫌な予感がした。


虎に襲われている間、あいつはどこへ行った?


俺たちの近くを通り過ぎたのか。


それとも、最初から街へ向かっていたのか。


俺は倉庫の角へ走った。


その先には、ジェノベックの市街地へ続く坂道がある。


旧荷場は街より少し高い場所にあるため、建物の屋根越しに通りの一部が見渡せた。


俺は崩れた石壁へ手を掛け、上体を乗り出した。


「あ……」


いた。


灰白色の、細長い影。


六本の脚を使い、建物の壁を這うように進んでいた。


速い。


しかも、ほとんど上下に揺れない。


脚だけが異様な速さで動き、胴体は滑るように前へ進んでいく。


あんな身体で、どうしてあれほど静かに動けるんだ。


俺は目で追った。


影は屋根の端へ移り、隣の建物へ飛び移った。


そこからさらに、別の壁へ。


進んでいるのは、南側。


第三支部へ続く道だった。


「……まずい」


その先には、負傷者たちがいる。


避難してきた住民も。


サイラスたちも。


俺は石壁から身を乗り出した。


「おい! 誰か!」


近くの奉徒が振り返った。


「何だ!」


「街へ魔獣が逃げた! 六本脚の、白いやつだ! 第三支部へ知らせてくれ!」


奉徒は一瞬、意味が分からないという顔をした。


だが、俺の指さす方向を見ると、すぐに走り出した。


「分かった! 先回りできる奴を探す!」


俺は再び街の方を見た。


白い異形は、すでに街の外れまで進んでいた。


その先には、荷車が何台も並んでいる。


負傷者を運んでいるのだろう。


担架を抱えた奉徒。


水桶を持って走る男。


道の脇には、座り込んだ住民たちの姿も見える。


そして、その中央に見覚えのある男がいた。


「……カイ?」


剣を下げ、周囲へ指示を出している。


間違いない。


カイだった。


俺はさらに視線を伸ばした。


街の奥、第三支部の広場には、巨大な旗が立っている。


《ヴィクトル》。


その根元には、白い外套をまとった男がいた。


「サイラスさん……」


遠くて表情までは分からない。


だが、旗竿へ片手を添えたまま、周囲の奉徒たちへ何か指示を出しているのが見えた。


次々と運び込まれる負傷者。


その身体を淡い光が包んでいく。


サイラスはヴィクトルから離れていなかった。


カイは街の外れで避難者を守り、サイラスは第三支部で治療を続けている。


二人の間には、いくつもの建物と通りがあった。


俺はもう一度、白い異形を探した。


いた。


建物の壁に張りついている。


細い六本の脚を広げ、身体を低くしていた。


その真下には、負傷者を乗せた荷車がある。


俺は喉が裂けそうなほど叫んだ。


「カイ! 上だ!」


距離がありすぎる。


聞こえるはずがない。


それでも叫んだ。


「カイ! 上を見ろ!」


白い異形が動いた。


六本の脚が、ゆっくり折り畳まれる。


胸の内側に並んだ目が、一斉に開いた。


今度は、別々の方向を見ていなかった。


すべての目が、下へ向いている。


荷車。


そのそばにいる負傷者たちへ。


俺は石壁を掴む手に力を込めた。


間に合わない。


今から坂を駆け下りても、あそこまでは遠すぎる。


その時だった。


荷車のそばにいた一人が、何かに気づいたように顔を上げた。


男の指が、建物の上へ向けられる。


カイが振り返った。


そして、顔を上げた。


白い異形が壁を蹴る。


六本の脚を大きく広げ、荷車へ向かって落ちていく。


カイが剣を抜いた。


その遥か後方では、ヴィクトルの淡い光がまだ揺れていた。


俺の目の前で。


カイのいる場所へ、白い異形の影が覆いかぶさった。

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