第六十七話 あの森で、もう一度
「残り二つは、まだ中にいる」
インクスの言葉が終わるのとほぼ同時に、西からまた咆哮が届いた。
さっきよりも長く、低い声だった。途中で何かが軋む音が混じり、近くにいた奉徒たちまで一斉に顔を上げた。
セラはすでに西へ向かっている。
俺もその後を追おうとして、インクスの報告を思い返した。
三台の荷馬車。
檻を何重にも巻いた鎖。
継ぎ目に打ち込まれた黒杭。
そして、布を突き破っていた巨大な腕。
あれほど厳重に閉じ込めなければならないものを、わざわざ住民の避難先へ運び込んだ。
オズワルドは何をさせるつもりなんだ。
「俺も行きます」
サイラスがこちらを見た。
「トーマさんまでですか。セラさんが向かわれたのでしょう?」
「だから気になるんです。あそこに何がいるのか、まだ誰も見てないんですよね?」
「腕だけだよ」
インクスが答えた。
「僕が見た時は、まだ檻から出てなかった。鉄棒がひん曲がってたから、そう長くはもたないと思うけどね」
そんなものが三体もいる。
セラなら大抵の魔獣には勝てる。だが、相手が普通の魔獣かどうかも分からない。
以前ベルーガで遭遇した、あの異常なモスバックが頭をよぎった。
「現物を見てきます。《不具合鑑定》で何か分かるかもしれません」
サイラスはすぐには答えなかった。
北側から負傷者の報告が入り、ヴィクトルへ置いた右手を動かさないまま、その位置を聞き直している。
「……分かりました。セラさんに、よろしくお願いします」
俺は頷き、インクスを振り返った。
「インクスさんは?」
「僕は残るよ」
インクスはヴィクトルの前に立っていた。
支柱の側面にある継ぎ目を見ている。
「……さっき、動いたね」
その言葉に、サイラスが顔を上げた。
「何がですか?」
「ここの継ぎ目。ほんの少しだけど、位置が変わってる」
インクスが指を近づけた。
「インクスさん」
サイラスの声が、それを止めた。
「今は、そのままにしておいてください」
普段と変わらない穏やかな声だったが、返事が妙に早かった。
インクスは伸ばした指を引っ込めた。
「……分かったよ」
それ以上は聞かなかった。
俺は二人を見比べた。
サイラスはすでに次の報告へ戻っていたが、ヴィクトルへ置いた右手の指に、さっきより強く力が入っている。
「じゃあ、ここをお願いします」
「ああ。君は早く行きなよ」
西から、また咆哮が響いた。
俺は走り出した。
治療所の前を通ると、ラウが壁にもたれていた。
肩から胸にかけて衣服が裂け、包帯には血が滲んでいる。
片手で布を巻き直していたが、左腕が思うように上がらないらしい。
「……くそ、届かねぇ」
俺に気づくと、手を止めた。
「何見てんだよ」
「その怪我、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だったら、こんなとこで座ってねぇよ」
ラウは包帯の端を口にくわえ、右手で強く引いた。
「宿に戻って縫う。あとは報酬の残りだな」
「オズワルドからですか?」
「他に誰が払うんだよ」
ラウは立ち上がり、外套を肩へ引っ掛けた。
西から獣の声が届く。
「まだやってんのか、あの剣女」
「セラが向かってます。相手は三台の荷馬車に入れられてたらしいんですけど」
「三台?」
ラウは外套を直していた手を止めた。
「……聞いてねぇな、そんな話」
「ラウにも?」
「あたしの仕事は剣女を足止めすることだけだ。余計なもんまで説明されちゃいねぇよ」
そのまま通りへ出ていく。
「このまま街を出るんですか?」
「この傷で街道歩けって? 冗談だろ」
ラウは振り返らずに答えた。
「しばらく宿にいる。眼鏡野郎から金も取り立てねぇといけねぇしな」
人の流れに紛れて、南へ歩いていく。
俺も西へ走った。
旧荷場へ近づく前から、人の流れがおかしかった。
俺が向かうのとは逆に、何人もの住民が走ってくる。
子どもの手を引いた女。
片方の靴をなくした男。
荷物を持ったまま何度も後ろを振り返っている老人もいた。
その一方で、まだ西へ向かっている人もいる。
爆発の前に出された避難命令しか知らないんだ。
近くにいた奉徒を捕まえた。
「旧荷場へ送るのを止めてください!」
「でも、第三支部から西へって――」
「状況が変わりました。獣がいます!」
「獣?」
「檻に入れられた何かが三体。もう一つは壊れかけてます!」
奉徒は俺の顔を見たあと、後ろから来る住民たちを止めに走った。
旧荷場が見えた。
最初に目へ入ったのは荷馬車じゃなかった。
人だった。
百人は優に越えている。
さらに送り込まれた住民が、周囲の空き地や倉庫前にまで広がっていた。
街へ戻ろうとする人。
南側へ逃げようとする人。
家族を探して逆へ進もうとする人。
あちこちで流れがぶつかり、怒鳴り声が上がっている。
荷場の北側だけが、大きく空いていた。
そこに三台の大型荷馬車が並んでいる。
どれも分厚い布で覆われ、その下には鉄格子の檻があった。
檻の周囲には太い鎖が何重にも巻かれ、継ぎ目には黒い杭が打ち込まれていた。
一台目だけ、布が大きく裂けている。
その隙間から、紫色がかった太い腕が突き出ていた。
爪が石畳を引っ掻くたび、深い溝が刻まれる。
ただ、その腕の根元はまだ檻の中だった。
全身は見えない。
一台目の正面にはセラが立っていた。
長剣を抜いているが、攻撃する様子はない。
「セラ!」
俺の声に気づくと、セラはちらりとこちらを見た。
「トーマ。人を離してくれ」
「分かった。あれは――」
ガンッ!
檻が大きく跳ねた。
鎖が張り詰め、鉄格子が外側へ膨らむ。
突き出た腕が地面を掴み、荷馬車そのものを引きずった。
セラが一歩下がる。
「急いだ方がいい」
俺は近くの奉徒へ駆け寄った。
「北側を空けてください! 人を南へ!」
「南も詰まってる! もう動けねぇんだよ!」
見れば、南へ続く道には荷車が何台も置かれ、その間を住民が無理に通ろうとしていた。
あれでは進めない。
周囲を見回す。
古い倉庫が二棟並んでいた。
その間に、人が通れそうな隙間がある。
「倉庫の裏は、どこへ繋がってますか!」
「あっち? 古い水路だよ。もう使ってねぇけど」
「南へ抜けられます?」
「行けるはずだけど、荷物が積んであって……」
「確認してください! 通れるなら、そっちへ逃がしましょう!」
奉徒が走り出す。
別の男も後を追った。
俺は荷馬車へ目を戻した。
一台目の檻が、また激しく揺れていた。
黒杭の周囲に淡い紫色の光が浮かび、布に描かれた『封』の文字も滲むように発光している。
《不具合鑑定》を向けた。
《拘束術式――稼働中》
《固定部――過負荷》
《構造変形――進行》
鉄格子の一本が、内側から押し曲げられた。
金属の軋む音が耳に刺さる。
「セラ、これ、もう――」
言い終わる前に、檻の内側で何かが大きく膨れ上がった。
黒杭が強く光る。
その瞬間、獣の動きが止まった。
封印が押さえ込んだのか。
そう思った。
だが、次の瞬間。
凄まじい咆哮が響いた。
檻から突き出ていた腕が、石畳へ深く食い込む。
獣はその腕を支点に、自分の身体を檻の外へ引きずり出そうとしていた。
鉄格子が曲がる。
鎖が肉体へ食い込む。
それでも止まらない。
ガギンッ!
黒杭の根元が裂けた。
《固定部――破損》
《拘束術式――維持不能》
「セラ!」
黒杭が弾け飛んだ。
紫色の光が途切れ、巻きついていた鎖が外れていく。
鉄格子が折れ、荷馬車の側板が吹き飛んだ。
俺は咄嗟に腕で顔を庇った。
木片と鉄の破片が降り注ぐ。
粉塵の向こうから、巨大な影が立ち上がった。
最初に見えたのは、熊に似た頭だった。
額から鼻先へ続く形。
耳の位置。
そして、首から背中に残る緑褐色の毛。
苔背熊モスバック。
思わず、その名が浮かんだ。
だが、知っているモスバックとはあまりにも違っていた。
首の下から別の生き物のものらしい細い前脚が伸び、背中の一部には白い鱗が重なっている。
胴は不自然に長く、腹部には毛のない赤黒い肉が露出していた。
左右の脚の長さも違う。
背中の苔に覆われた毛の間から、硬い骨のようなものが突き出している。
何をどうすれば、こんな身体になるんだ。
獣が頭を振った。
その拍子に、顔の片側へ垂れ下がっていた皮膚が剥がれ、下からもう一つ、異なる形の顎が覗いた。
「……嘘だろ」
俺の声は、獣の唸りにかき消された。
セラが剣を構える。
獣はその動きを見た。
そして、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
セラも、すぐには踏み込まなかった。
俺は《不具合鑑定》を向ける。
《骨格構造――著しい不整合》
《筋組織――過剰発達》
《魔力経路――多重化》
《個体識別――判定不能》
表示が揺れた。
何度見直しても、そこから先が安定しない。
けれど、ひとつだけ分かった。
これを単なるモスバックだと思って戦ったら、まずい。
「セラ! 身体の構造がおかしい! 脚の数も、魔力の流れも普通じゃない!」
セラは答えなかった。
獣の顔を見ている。
何かが気になっているようだった。
その時、獣がゆっくり前脚を持ち上げた。
大きく開いた口から、低い唸り声が漏れる。
セラは剣を下ろさない。
だが、踏み込もうともしない。
「……セラ?」
獣が一歩前へ出た。
長すぎる前脚が地面へ落ち、身体が大きく傾く。
それでも姿勢を立て直し、さらに前へ出ようとする。
セラが剣先を僅かに動かした。
その瞬間、獣の動きが止まった。
前脚が宙に浮いたまま、身体を強張らせている。
あの巨体が、まるで何かに怯えたように。
妙な光景だった。
獣はこれほど巨大で、セラより何倍も重い。
それなのに、今の動きには見覚えがあった。
どこで。
……いや、待て。
俺は獣の顔を見直した。
緑褐色の毛。
苔の混じった背中。
前へ出ようとして、一度止まる足。
頭の奥に、ベルーガへ向かう街道の光景が浮かんだ。
あの時も、こんなふうに。
「……セラ」
呼びかけても、返事がなかった。
セラは獣を見ている。
あの街道で、二頭の若いモスバックがセラに挑んできた。
まだ群れの中でも若い個体だった。
セラが殺気を向けると、二頭とも明らかに怯んだ。
それでも、逃げずに踏み込もうとした。
最後は群れの長が低い唸り声で制止し、森の奥へ連れ戻した。
あの時、俺は少し笑ってしまったんだ。
あんなに怖がっているのに、どうして逃げないんだろうって。
セラは笑わなかった。
たしか、二頭が去っていくまで目を向けていた。
そして、その後。
ベルーガで遭遇した異常なモスバック。
あの怪物に襲われ、若い一頭が瀕死の状態で投げ飛ばされてきた。
セラの目の前へ。
血だらけの身体を横たえたまま、その若いモスバックはセラを見た。
それから、森の奥を見た。
もう一度、セラへ視線を戻した。
何を訴えていたのか、今でも分からない。
セラは最後まで目を逸らさなかった。
あの二頭のうち、一頭はそこで死んだ。
もう一頭は。
……もう一頭は、どうなった?
「セラ、まさか……」
獣が吠えた。
俺の声を遮るような、ひどく歪んだ声だった。
そして、突然地面を蹴った。
速い。
さっきまで不自由そうに身体を動かしていたとは思えない。
巨大な前脚がセラへ振り下ろされる。
セラは横へ抜け、長剣を振るった。
刃が肩口へ入る。
血が飛んだ。
だが、獣は止まらない。
背中から伸びた細い脚が、セラの身体へ絡みつこうとした。
セラは剣を引き抜き、距離を取った。
獣が追う。
不揃いな脚が石畳を叩くたび、身体が奇妙な方向へ揺れた。
それでも速さは落ちない。
セラは二撃、三撃と斬り込んだ。
どれも正確だった。
だが、どこかおかしい。
首を落とせる位置に入ったはずなのに、セラはそのまま斬らず、胴へ刃を滑らせた。
その一撃で獣の身体が傾く。
すぐに別の脚が地面を掴み、体勢を立て直した。
俺は獣の動きを追った。
大きな身体の下に、別の生き物の細い脚がある。
背中の鱗。
長く伸びた胴。
そのどれも、知っているモスバックにはないものだった。
だが、首から肩にかけて残る毛だけは違う。
苔の絡んだ、緑褐色の毛。
ベルーガの森で見た、あの群れのものと同じだった。
「……あいつなのか?」
声に出してから、自分でも確信が持てなかった。
モスバックなんて、ほかにもいくらでもいる。
あの群れの個体だという証拠もない。
ただ、行方不明になった若い一頭のことが、どうしても頭から離れなかった。
獣が再び前脚を振り上げた。
セラは剣を大剣へ変形させる。
正面から受けるつもりか。
いや、違う。
セラは獣の前脚へ刃を当て、力を横へ逃がした。
そのまま身体を捻り、獣の足元へ入り込む。
巨大な肩が地面へ落ちた。
すぐに首を狙えば終わる。
そう思った。
だが、セラは追撃しなかった。
獣は転がりながらも、別の脚を突き立てて起き上がろうとする。
セラは少し離れた位置で待っていた。
「セラ! 何してるんだ!」
思わず叫んだ。
獣が起き上がる。
そして、また突進した。
今度はセラではなく、その背後にいる住民へ向かっていた。
「危ない!」
セラが間へ入る。
長剣が一瞬で大剣へ変わり、獣の前脚を受け止めた。
激しい衝突音が響いた。
足元の石が砕ける。
だが、セラは退かなかった。
「トーマ。まだ人がいる」
こちらを見ないまま言った。
俺は振り返った。
倉庫の前には、まだ大勢の住民がいる。
こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
「すぐ離します!」
俺は奉徒のもとへ走った。
「裏の水路はどうなってますか!」
「通れる! 今、荷物をどかした!」
「なら、そっちへ! 子どもと動けない人を先にお願いします!」
奉徒たちが住民を誘導し始める。
俺も荷物を運ぶのを手伝い、通路の前で立ち止まっている人を先へ進ませた。
背後では何度も衝突音が響いていた。
セラが戦っている。
だが、今までのような勢いのある連撃は聞こえない。
振り返る。
セラは大剣で獣の攻撃を受け流しながら、少しずつ北側へ誘導していた。
逃げる住民から、できるだけ遠ざけようとしている。
その途中で、獣の大きな前脚が石畳へ叩きつけられた。
セラは斬り返そうとして、手を止めた。
獣の身体が、また不自然に揺れている。
右側の太い脚と、腹部から伸びる細い脚。
それぞれが別々の方向へ動いていた。
片方はセラへ向かおうとし、もう片方は地面を引っ掻いている。
獣自身も、自分の身体を扱いきれていないようだった。
俺は《不具合鑑定》を向け直した。
《骨格連動――不整合》
《運動伝達――競合》
《関節負荷――増大》
競合。
複数の動きが、互いに邪魔している。
以前ベルーガで戦った異常個体にも、余分な脚や腕があった。
あの時は禍蝕で身体が変わったのだと思っていた。
だが、今のこいつは。
俺は腹部から伸びる細い脚を見た。
動き方が違う。
ほかの脚と、まるで合っていない。
こんな状態でどうして走れるのか、そっちの方が不思議なくらいだった。
「セラ! 脚が別々に動いてる! 身体を捻ると、後ろの脚がついてこない!」
セラはわずかに視線を下げた。
獣が突進する。
セラは正面から受けなかった。
横へ抜け、長剣で胴を浅く斬る。
獣が振り向く。
その時、腹部から伸びた脚が地面に引っかかった。
巨体が大きく傾く。
セラは獣の背後へ回った。
剣が大剣へ変わる。
刃を振り下ろせば、首を落とせる。
そう思った。
だが、セラが斬ったのは首ではなかった。
腹部から伸びた、細い脚だった。
骨を断つ音が響く。
獣が悲鳴を上げた。
切り離された脚が地面へ落ち、巨体が横倒しになる。
セラはすぐに離れた。
獣は暴れた。
残った脚を使って立ち上がろうとするが、身体がうまく動かない。
そのうち、苔に覆われた太い前脚だけが地面を掻き始めた。
何度も。
何度も。
セラが近づく。
獣は頭を上げた。
大きな口を開き、牙を剥く。
だが、吠えなかった。
セラも剣を振らない。
しばらく、互いに動かなかった。
やがて獣が、ゆっくりと前脚を伸ばした。
セラへ届くには遠すぎる。
攻撃しようとしているのか。
それとも、ただ身体を起こしたいだけなのか。
分からなかった。
セラはその腕を見下ろしていた。
「……覚えているのか」
小さな声だった。
俺には、その言葉がどちらへ向けられたものなのか分からなかった。
獣は答えない。
大きく息を吐き、再び前脚を地面へついた。
セラが剣を構え直す。
「セラ」
俺が呼ぶと、彼女はこちらへ目を向けた。
「……あの時の、若い熊か?」
言ってしまってから、胸が嫌な具合に締めつけられた。
セラは何も答えなかった。
ただ、もう一度獣を見た。
首の下に残る緑褐色の毛。
かつて森で見た、若いモスバックとよく似た顔立ち。
その周囲を、別の生き物の肉や骨が覆っている。
俺は、ベルーガで死んだもう一頭のことを思い出した。
セラを見て、森を見て、それからもう一度セラを見た。
あの熊が最後に見ていたもの。
そこへ帰りたかったのか。
何かを知らせたかったのか。
結局、俺たちには分からなかった。
そして今、もう一頭かもしれないものが、目の前にいる。
セラが一歩近づく。
獣の前脚が動いた。
セラは止まった。
その時だった。
獣の背中が大きく盛り上がった。
鱗の下で、別の筋肉が膨らんでいる。
切り離したはずの腹部の脚の付け根が、ひどく不自然に動いた。
「セラ、離れろ!」
背中から、細い尾のようなものが飛び出した。
セラが身体を引く。
鋭い先端が、彼女のいた場所を貫いた。
石畳に深い穴が開く。
獣が立ち上がった。
残った脚を無理やり動かし、再びセラへ向かう。
あの目。
さっきまでは確かにセラを見ていた。
だが、今は焦点が合っていない。
獣は、誰もいない場所へ噛みついた。
それから頭を振り、ようやくセラの方へ向き直る。
自分が何をしているのかも、分からなくなっているのか。
それでも、身体は動く。
勝手に組み合わされた脚が地面を蹴り、長く伸びた尾が石畳を砕く。
セラは避けた。
もう一度、獣が迫る。
今度は大剣を横へ振り、獣の身体を押し返した。
巨体が地面を滑る。
そのまま数歩下がったところで、セラは長剣へ戻した。
俺には分かった。
本気で斬れば、もっと深く入れられたはずだ。
今の一撃は、明らかに力を抑えている。
「セラ!」
返事はなかった。
獣が身体を起こす。
残った脚が震えている。
それでも、また前へ出ようとしていた。
セラは剣を構えたまま、そこから動かなかった。
やがて、剣先が少し下がった。
あの街道でも、そうだった。
自分より遥かに強い相手だと分かっていて、それでも前に出ようとした二頭の若い熊。
群れの長が止めなければ、あの時も戦いになっていたのかもしれない。
今は止めてくれる長がいない。
もう一頭もいない。
その身体には、見知らぬ生き物の脚や骨がいくつも付け足されている。
「……トーマ」
セラが呼んだ。
「人は?」
俺は振り返った。
倉庫の裏へ続く通路には、まだ人が並んでいたが、先ほどよりずっと少なくなっていた。
「もう少し! あと少しで抜けられます!」
セラは頷いた。
獣が再び動いた。
彼女は剣を持ち直し、真正面からその巨体を迎えた。
今度は、さっきまでと違った。
長剣を低く構え、獣が踏み込むのを待っている。
最初から首を狙える位置だった。
それを見て、俺は何も言えなくなった。
セラが、あの若い熊を覚えているのか。
目の前の怪物が、本当にあの時の生き残りなのか。
まだ分からない。
ただ、ひとつだけ。
ベルーガの森で、セラに挑んだ若い熊がいた。
そのうち一頭は、俺たちの目の前で死んだ。
もう一頭は、どれだけ探しても見つからなかった。
そして今。
その答えかもしれないものが、セラへ向かって走っている。
セラは逃げなかった。
長剣の刃が、夕暮れの光を受けて白く光った。
獣が吠える。
セラの足が動いた。
その刹那、獣の前脚が僅かに止まった。
殺気に押されたように。
あの街道で、初めて出会った時と同じように。
それでも獣は、前へ出た。
セラの剣が振り抜かれた。




