第六十六話 見えない患者
三度目の咆哮が西から響いた時、セラの剣とラウの掌はまだぶつかったままだった。
ラウは振り切られる前の鍔元へ手を入れ、剣に力が乗り切る前に止めようとしている。それでもセラの腕は完全には止まらず、押された靴が石畳を半歩滑った。
ラウはそのまま反対の手をセラの肩へ伸ばす。身体の向きまで崩すつもりだったのだろうが、セラは肩を引かず、柄頭をラウの顎へ突き上げた。
首を逸らしてかわしたラウの拳が返る。
セラは左腕で受けた。
二人とも離れない。
その間にも、低い咆哮が屋根の向こうへ長く残っていた。
セラが剣を押し込んだまま聞く。
「聞こえたか」
ラウは鍔元から手を離し、横へ抜けた。
「聞こえた。…で?」
拳が来る。
セラが頭をずらすと、今度は肘へ繋がった。受けた腕を絡めて引かれたが、セラの足は石畳から動かない。
「残念だけどな」
ラウは投げを諦め、距離を戻しながら西へ一瞬だけ目を向けた。
「あの街がどうなろうが、そこにいる奴らがどうなろうが、あたしには関係ねぇよ」
セラの剣先が少し下がる。
「お前は違うのか」
「何が」
「ここに残っている」
ラウは片方の肩を竦めかけたが、傷が引きつったのか途中でやめた。
「あたしがやることは一つだ。お前をここで止める。それ以外は知らねぇ」
セラは少しだけラウを見た。
それから西を見る。
もう咆哮は止んでいた。
「そうか」
剣を握る手が変わった。
「なら、止めてみろ」
ガギン、と金属が噛み合う音がした。
ラウの目が剣へ落ちる。
刀身の一部がずれ、鍔が左右へ開く。柄が伸びるのと同時に刀身の厚みが増し、重心が大きく先へ移っていく。
長剣だったものが、数呼吸もかからず大剣へ変わった。
「……なんだよ。それ。」
ラウが言い終わる前に、セラが踏み込んだ。
大剣が斜めに落ちる。
速さだけなら、さっきまでの長剣の方が上だった。それでもラウの顔から余裕が消えたのは、刃へ乗っている重さがまるで違うからだった。
肩。
腰。
踏み込み。
ラウの目が順番に追う。
最大まで力が乗る少し前へ、掌を差し入れた。
触れる。
ラウの肘が沈んだ。
「っ……!」
剣が止まらない。
掌から肩まで押し込まれ、ラウの靴が石畳を削った。二歩、三歩と滑り、最後に腰を落としてようやく刃の向きを外す。
大剣が石畳へ落ちた。
硬い石が欠け、破片が跳ねる。
ラウは痺れた腕を振った。
「馬鹿みてぇに重いな」
セラは答えない。
もう次が来る。
今度はラウの方が先に動いた。
大剣が加速する前に距離を詰め、セラの手首へ触れる。完全に重さが乗る前なら止められると見たらしい。
大剣の動きが鈍った。
ラウはそのまま懐へ入る。
拳がセラの脇腹へ入った。
セラが半歩下がる。
「……そこか」
ラウはすぐに離れた。
次も同じだった。
セラの大剣が動き始めるより早く、ラウの掌が入る。
一撃目ほど押されない。
三度目には、足がほとんど滑らなくなった。
セラが大剣を肩へ戻す。
「反応のが早いな」
「そっちが分かりやすくなったんだよ」
ラウは息を吐きながら笑った。
「重い分な」
セラが踏み込む。
今までで一番大きく腰が回った。
ラウも下がらない。
剣の軌道を見て、両足を止める。
避ける気がない。
合わせるつもりだった。
大剣が頭上から落ちてくる。
ラウの掌が上がる。
剣へ触れる、その直前だった。
ガギン。
金属の位置が変わった。
振り下ろしている途中で、幅広かった刀身が細くなる。開いていた鍔が閉じ、長かった柄も縮み、先へ寄っていた重心が一気に手元へ戻った。
大剣だったものが、長剣へ変わった。
ラウの掌は、そこに来るはずだった重さへ合わせていた。
力が余る。
身体が前へ流れた。
「は――」
軽くなった剣が加速する。
ラウが無理に身体を捻ったが間に合わない。
刃が肩から胸元へ走った。
上着が裂け、その下から血が飛ぶ。
ラウは横へ転がり、片手をついて止まった。すぐに起き上がろうとしたものの、傷のある肩に力が入らず、一度だけ膝をつく。
セラは追わなかった。
長剣を下げている。
「お前の異能は、大体分かった」
ラウが顔を上げる。
「へえ」
「私が出す力を見ている。場所と、方向と、量」
ラウは返さない。
セラの剣がまた変形を始めた。
大剣。
ラウの目がそちらへ向く。
次の瞬間には長剣へ戻る。
セラが踏み込んだ。
ラウも動いたが、さっきまでより一歩遅い。
「途中で変われば――」
剣が大剣へ戻る。
ラウが退く。
「合わせられないだろう?」
今度は大剣のまま横薙ぎ。
ラウが重さへ合わせようとしたところで長剣へ変わり、速度が上がる。どうにか身体を沈めて避けた直後、返す刃は途中から再び大剣へ変わった。
ラウは剣へ触れるのをやめた。
セラの肩へ入る。
腕へ触れ、始動そのものを止める。
セラの肘が一瞬鈍った。
そこへ拳。
セラが受ける。
ラウは続けて膝を入れ、受けられたところから足を絡めた。
セラの身体が傾く。
それでも倒れない。
大剣の柄尻がラウの腹へ入った。
ラウが離れる。
呼吸が少し乱れていた。
「ほんっと、面倒な剣だな」
セラは何も言わない。
また形を変える。
今度は長剣から大剣へ移り切る前に振り始めた。
変形途中の重心まで使っている。
ラウが合わせる場所を探している間に、刀身の重さがまた変わった。
掌が触れる。
止まらない。
ラウの身体が四歩ほど石畳を滑り、壁の近くまで押された。
西から、また低い咆哮が聞こえた。
今度は少し短い。
ラウがそちらを見る。
セラも一瞬だけ目を向けた。
その隙に互いへ仕掛けることはなかった。
―――
北側から兵士が走ってきた。
「北四区、二人やられました! 一人は右肩、もう一人は腿です!」
サイラスの顔が上がる。
西の咆哮。
街の何か所かからまだ立ち上る煙。
治療所。
一瞬だけ、視線がどこへ行けばいいのか迷った。
その間にも治療所の前ではカイが動いている。
二本目の固定具はまだ石畳へ打ち込まれていなかった。少し離れた場所へ転がった黒い棒を拾おうとする男が出るたび、カイがその前へ入り、治療所へ近づけさせない。
右腕にはさっきより血が滲んでいる。
それでも構えは崩していない。
一度だけ俺の方を見た。
目が合う。
カイは何も言わず、また治療所を背にした。
「サイラスさん!」
北から戻った兵士がもう一度呼ぶ。
サイラスはヴィクトルへ置いた手を強く押しつけた。
顔が上がる。
「場所を」
声はもう迷っていなかった。
「北四区。パン屋裏、井戸から西へ三軒。細路地の曲がり角です!」
「二人は同じ位置ですか」
「肩をやられた方が西壁! 腿の方はそこから十歩くらい北!」
「西壁の人から繋ぎます」
目を閉じる。
薬屋でも、井戸でもない。
今度はパン屋。
そこから西へ三軒。
細路地。
西壁。
ヴィクトルの紋様が動いた。
それまで別の場所へ流れていた白い光が一度細くなり、別の模様へ集まる。
少しして、北から声が返ってきた。
「来た! こっちです!」
ソフィアが治療所から顔を上げた。
「サイラス、待って。その人、治ったからってすぐ戻さないで。ヴィクトルは傷を塞いでも身体まで元通りになるわけじゃない」
サイラスが振り向いた。
「ソフィアさん」
「何」
「僕たちは、覚悟を決めたんです」
ソフィアの眉が寄る。
サイラスは続ける。
「僕が戻れとは言いません。動けるかどうかは本人に任せています。それに戻ると言うなら、一人では行かせない。可能な限り二人以上で戻るように言っています」
「そういう話じゃ――」
言いかけて、ソフィアが止まった。
北から戻ってきた男が、白布を巻き直していた。
さっき肩をやられた兵士だった。
服にはまだ血が残っている。
ヴィクトルの恩恵で傷は閉じても、腕を回せば痛みは残っているはずだった。
「先生」
ソフィアが見る。
「戻ります」
三日前のエーリヒたちが見せた顔と、重なった。
自分の命を粗末にするなと言われ、それでも残ると決めた人間たちの顔だった。
ソフィアの口が少し開く。
けれど、何も言わなかった。
男はもう一人の兵士と一緒に北へ戻った。
しばらくして、細路地の方から剣のぶつかる音がした。
今度はすぐに消えない。
「いたぞ!」
声が上がる。
建物の陰から、オズワルド側の男が一人飛び出してきた。
その後ろからもう一人。
これまでなら、傷を残してそのまま路地へ消えていた連中だった。
今度は違った。
治してもらった兵士が、曲がり角の手前で待っている。
オズワルド側の男が飛び込んできた瞬間、剣を正面から受けずに左へ流し、前へ崩れた身体へ足を掛けた。
もう一人の兵士が横から入る。
二人がかりで地面へ押さえ込む。
別の路地から出た男へも、第三支部の兵士が追いついた。
剣の腹が肩へ入る。
倒れたところへ膝をつき、武器だけを奪った。
殺してはいない。
けれど、さっきまで一方的に削られていた側が、初めて噛み返した。
オズワルドは少し離れた場所からそれを見ていた。
視線がセラへ動く。
長剣と大剣を途中で切り替えられ、ラウはもう最初のようには合わせられていない。
次にサイラス。
ヴィクトルから動けないまま、それでも場所を拾い、傷ついた兵士を戻し始めている。
最後に治療所。
《擾杭》のせいでソフィアは思うように力を使えず、若い治癒士たちはほとんど術を組めない。それでも治療所自体はまだ動いている。
オズワルドはしばらく黙っていた。
人差し指で頬を掻く。
「……なるほど」
サイラスがそちらを見る。
オズワルドの顔には苛立ちより、計算をやり直している時の面倒臭さが出ていた。
「面倒じゃのう」
眼鏡を押し上げる。
「しゃあない。次の段階へ行くか」
サイラスの表情が変わった。
「待ってください」
オズワルドはもう背を向けている。
「オズワルドさん!」
「なんじゃ」
振り返らない。
「どこへ行くんです」
「用事じゃ」
「ここで終わらせる気はないんですか」
オズワルドの足が一度だけ止まった。
「ないけえ、行くんじゃろうが」
また歩く。
「待って――」
サイラスの右手がヴィクトルから浮きかける。
北へ繋いでいる白い光が揺れた。
すぐに手を戻す。
追えない。
その様子を見もしないまま、オズワルドは片手だけ上げた。
「ラウ。もうええぞ」
ラウの眉が上がる。
「……は?」
「十分じゃ。後は好きにしんさい」
「おい、待て。あたしは――」
返事はなかった。
濃紺の外套が路地の向こうへ消える。
ラウはしばらくそちらを見ていた。
セラも攻撃しない。
肩から胸元へ続く傷を掌で押さえながら、ラウが息を吐いた。
「……終わりらしいな」
「追わないのか?」
「あたしが?」
ラウは鼻で笑いかけた。
その時、西からまた咆哮が聞こえた。
笑いが消える。
「何を連れてきたんだか」
セラがラウを見る。
「知らないのか」
「聞いてねぇよ。あたしが聞いてたのは、お前をここへ動かないようにする。それだけだ」
傷のある肩を動かそうとして、途中でやめる。
「今からあの親父追いかけて、まだ働かせろって頼むほど真面目でもねぇしな」
ラウの目がセラの剣へ落ちた。
長剣に戻っている。
「それに、このまま戦たらお前を殴り殺しちまう」
セラは何も返さなかった。
西を見る。
ラウも同じ方を向く。
「行くなら行けよ」
セラの視線だけが戻る。
「止めないのか」
「タダ働きはごめんだ」
ラウは壁へ背を預けた。
セラは剣を下げた。
そのまま西へ走り出す。
数歩進んだところで、後ろからラウの声が飛んだ。
「おい」
セラは止まらない。
「次やる時は、本気でやるからな」
返事はなかった。
ラウも追わなかった。
俺がセラを追うべきか迷った、その時だった。
西側の通りから誰かが走ってくる。
最初は住民だと思った。
近づくにつれて見覚えのある上着と髪が見える。
インクスだった。
いつもの歩き方とは違う。
本気で走っている。
上着の片方は肩からずれ、袖も少し裂けていた。
第三支部の前まで来たところで両膝へ手をつき、大きく息を吸う。
「た……」
息が続かない。
「インクスさん?」
俺が近づく。
顔を上げた。
「大変だ」
いつもの笑いはなかった。
「西に……変なのがいる」
―――
あとでインクスから聞いた話を繋ぐと、少し前、彼は西へ向かう避難者の列へ紛れ込んでいたらしい。
鐘が鳴ったあとも倉庫を回って銃に使えそうな部品を探していたところで避難誘導に巻き込まれ、そのまま旧荷場まで押し出された。
本人は当然、戻るつもりだった。
ただ、列から抜ける場所を探している時、森へ続く道から入ってきた三台の荷馬車に気づいた。
どれも普通の荷車より大きい。
荷台全体へ厚い布が掛けられ、その上から丸太ほどもある鎖が何重にも巻かれている。
一台ではない。
三台。
インクスの目は、中身より先に鎖へ向いた。
「……なんで、そこで繋いでるんだ?」
力を均等に掛ける巻き方ではない。
いくつかの継ぎ目だけが妙に強く固定され、そこへ黒い棒状のものが打ち込まれている。
黒杭。
少なくとも、インクスにはそう見えた。
布にも印があった。
大きな円。
中央に、《封》の一文字。
インクスが人の間を少しずつ寄っていくと、荷車を運んできた男たちの声が聞こえた。
「ここでいいのか?」
「ああ。三つとも北側へ寄せろ。間は空けとけ」
「鎖は?」
「まだ触るな。合図が来る」
「中、かなり暴れとるぞ」
「だから封じてあるんだろ」
その時、荷台の中から低い唸り声が響いた。
布越しなのに、近くにいた住民が一斉に振り返るほど大きい。
「ケケ……」
インクスは笑いかけた。
途中で止まった。
「いや。これは武器じゃないな」
もう半歩近づく。
鎖が跳ねた。
ガシャン、と荷馬車全体が軋む。
周囲の住民も異変へ気づき始め、ざわめきが広がった。
一台目の布が内側から膨らむ。
鎖が張った。
継ぎ目に打ち込まれた黒杭が震える。
次の瞬間、大きな音を立てて布の横が裂けた。
紫色がかった巨大な前脚が突き出す。
先端には短剣ほどもある爪が並んでいた。
住民から悲鳴が上がる。
荷馬車を引いていた馬まで暴れ始めた。
「下がれ!」
オズワルド側の男たちが前へ出た。
「走るな! 押すな!」
その声へ重なるように、街から爆発音が聞こえた。
一つ。
少し遅れて、別の場所でも。
旧荷場にいた住民の多くが街を振り返った。
「今の何だ!」
「煙が――」
「家が!」
街へ戻ろうとする者が出口へ動く。
オズワルド側の人間がそこへ立った。
「戻るな!」
「家族がまだ中にいる!」
「今は動くな!」
人の流れが止まる。
後ろから来た人間がぶつかり、別の場所でも悲鳴が上がった。
誰もインクスを見ていなかった。
荷場の脇に積まれていた空箱の向こうで、古い柵が一部壊れている。
人一人なら通れる。
「今かな」
インクスは箱の間へ身体を滑り込ませた。
上着を釘へ引っ掛けた。
布が裂ける。
それでも止まらず、壊れた柵の隙間から外へ抜ける。
そこから第三支部まで走った。
―――
「三台だ」
インクスはまだ息を整え切れていなかった。
「布を掛けた荷馬車が三台。全部、鎖でぐるぐる巻きだった。継ぎ目には黒い杭みたいなのが入ってた」
俺たちは誰も口を挟まなかった。
「布には《封》って書いてあった。意味は知らない。あれが何を封じてるのかも分からない」
インクスが一度だけ唇を舐めた。
「一つはもう、布から腕が出てた」
西を見る。
そこでは、さっきまで聞こえていた咆哮が止んでいる。




