第六十五話 細工は流々
サイラスの右手は、ヴィクトルから離れなかった。
西へ出された住民は旧荷場へ送られ続けている。さっき戻ってきた奉徒の話では、確認出来た時点ですでに百人を越えていて、それからも西門を抜ける人の列は途切れていない。旧荷場へ着いた者たちは、そこで待つよう言われているだけで、なぜ街道の先へ進めないのかまで説明されてはいなかった。
サイラスは西へ視線を残したまま、ヴィクトルへ置いた手を動かさない。
その向こうからオズワルドの声がした。
「サイラス。考えは改まったか?」
振り向くと、さっきまで彼の後ろにいた人間のほとんどが消えていた。北へ回った者もいれば、東や西の路地へ入った者もいる。治療所へ固定具を運んだ連中も、いつの間にかこちらから見えなくなっている。
通りの中央に残っているのは、オズワルドだけだった。
セラの前にはラウがいるが、あれはもう護衛という立ち位置ではない。セラをそこへ留めることだけに集中し、オズワルド自身からは随分離れている。
「変わりません」
サイラスは答えた。
オズワルドはすぐには続けなかった。兵士が走り、治療所から担架が運ばれ、遠くで誰かが怒鳴っている。その騒がしさを一度見渡してから、眼鏡の位置を直す。
「慌ただしゅうなってきたのう」
三日前まで残していた丁寧な話し方が、もうほとんどなかった。
「儂もな、これ以上手荒な真似はしたくないんじゃが」
「もう十分しています」
「まだ戻せる」
返事が早かった。
オズワルドは治療所の方へ目を向ける。
「撃たれたうちの奴も生きとる。そっちの兵も、まだ死んどらん。住民にも手ぇ出しとらん。今ならまだ、引き返せるところにおるじゃろ」
「だからセラを渡せと?」
「それでもええし、ヴィクトルでもええ。第一席へ上げ直すんでも構わん」
サイラスの表情は変わらない。
「答えは同じです」
オズワルドは小さく息を吐いた。
怒るでもなく、しばらくサイラスを見ていた。
「……そうか」
その声へ重なるように、治療所で別の声が上がった。
「駄目です、先生!」
若い治癒士が、負傷した兵士の腿へ両手を当てていた。魔力自体は出ているのに、傷口へ届く前から光が細く枝分かれし、押し戻そうとするほど別の方向へ流れていく。
隣でも同じだった。
「こっちも形が保ちません。途中で術式が――」
「貸して」
ソフィアが割って入った。
「でも、まだ先生の方も」
「いいから」
治癒士を退かせ、同じ傷へ自分で手を置く。
一度目は、途中で流れが逸れた。
ソフィアの眉が寄る。
二度目は出力そのものを増やしたらしい。光が濃くなったものの、今度は傷口を掠めるように横へ逃げた。
ソフィアが唇を噛み、三度目でようやく細い流れを傷へ通した。
それでも普段とは違う。
傷を見てから必要な場所へ魔力を流すのではなく、逃げようとする自分の魔力を捕まえ続けているようだった。
「……ふざけないで」
声が漏れた。
誰に向けたものでもなかった。
そこへ、別の負傷者が運ばれてくる。
「先生、こっちもお願いします!」
「待って」
ソフィアは今の患者から手を離せない。
「まだ離したら散るから。そこに寝かせて」
「血が止まらなくて――」
「見えてる!」
声が強くなった。
運んできた奉徒が黙る。
ソフィアも自分の声に気づいたのか、一度歯を噛んだ。
「……ごめん。布を当てて押さえて。まだ術は使わなくていい」
若い治癒士が別の負傷者へ向かおうとする。
ソフィアはそちらを見た。
「無理に使わないで。乱れたまま入れたら、何処へ流れるか分からない」
「でも、このままじゃ」
「分かってるわよ」
今度は声を抑えた。
その方が、さっきより余裕がないように聞こえた。
オズワルドが遠くからその様子を眺めていた。
「大賢者でも、やりにくそうじゃのう」
ソフィアの顔が上がる。
「お前……」
そこで言葉が止まった。
魔力がまたずれたからだ。
ソフィアはオズワルドから視線を切り、自分の手元へ戻る。
「黙ってて」
「儂に言うとる?」
「他に誰がいるのよ」
オズワルドは口元を僅かに上げたが、それ以上は言わなかった。
サイラスの右手はヴィクトルに置かれたままだ。
北側へ送っている恩恵もまだ維持されている。
それを見ながら、オズワルドが呟いた。
「ヴィクトルは使えたんじゃな」
サイラスの目が動く。
「残念でしたか」
「なんでじゃ」
オズワルドは本当に分からないように首を傾けた。
「使えるんなら使やぁええ。怪我した奴は治したらええじゃろ」
その返事が、俺には妙だった。
北の負傷者へヴィクトルの恩恵が届いた時も、オズワルドは何も変えなかった。
《擾杭》で通常の治癒は大きく制限された。それでもヴィクトルなら届くと分かったのなら、普通は何か別の手を打つはずだ。
なのに動じていない。
それどころか、ヴィクトルへ触れたまま動けなくなったサイラスを見ているだけだった。
その時になって、俺はもう一度、オズワルドの後ろを見る。
誰もいない。
「……サイラスさん」
俺が呼ぶと、サイラスは目だけをこちらへ向けた。
「内通してる人間って、こっちの動きを伝えてただけじゃないですよね」
言いながら、別の景色が頭へ浮かんでくる。
染工房へ流した偽の弾薬情報。
白布。
《最短路》の標点。
俺たちは、誰が何を知っていたかばかりを追っていた。
でも向こうにも三日あった。
こちらがどこを守るのかを探る時間だけじゃない。
どの場所から人がいなくなるのか。夜に使われない建物は何処か。荷物を運んでも不自然に見えない通りは何処か。
見ていたなら、それくらい分かる。
いや。
見て終わる理由なんてなかった。
サイラスの視線が街へ走った。
「……何をした」
オズワルドが笑った。
「やっと気づいたんか」
「オズワルドさん」
「細工は流々、仕上げを御覧じろ、じゃ」
眼鏡を押し上げる。
「三日あったけえの。儂らも、お前らの様子を見とっただけじゃない」
サイラスがヴィクトルから手を離しかけた。
ほんの少し指が浮く。
その瞬間、表面の白い紋様が揺れた。
北へ送っている恩恵。
サイラスの手が止まる。
またヴィクトルへ触れ直した。
オズワルドは、それを見ていた。
「まだ間に合う」
サイラスは返さない。
「取り返しつかんようになる前に、結論出しんさい」
「何を仕掛けたんです」
「それ聞いてどうする」
「止めます」
オズワルドの口元が上がった。
「ほいじゃ、止めてみんさい」
サイラスの眉が寄る。
「セラも渡さん。ヴィクトルも渡さん。第一席にも上げん。それがお前の答えなら、儂も儂のやり方で進めるだけじゃ」
通りの向こうから、オズワルドが街を見渡す。
「守れるんなら、全部守ってみんさい」
サイラスが何か言いかけた。
その時だった。
北東から爆音が響いた。
近くではない。
けれど地面を伝って足元まで細かな振動が来た。
何人かが振り返る。
屋根の向こうから土煙が上がった。
「何だ!?」
声が飛ぶ。
その答えが来る前に、今度は南側で爆ぜた。
一拍遅れて窓硝子が震え、治療所の軒から埃が落ちてくる。
東。
さらに西寄り。
同時ではない。
少しずつ間をずらしながら、街の違う場所から爆音が続いた。
「北は旧製材所!」
「人は!?」
「昨日から閉めてる!」
「南は?」
「空き家だ! 誰も入れてない!」
別の報告が重なる。
「東の工房も無人です!」
俺は煙の上がっている位置を追った。
どれも人がいない。
避難で空になった建物。
使われなくなった作業場。
閉鎖していた倉庫。
水場は鳴っていない。
治療所も。
食料を置いている場所も。
西へ住民を逃がしている道も残っている。
街を壊している。
でも、まだ街を殺してはいない。
「……《爆杭》」
サイラスが呟いた。
オズワルドは否定しなかった。
「ようけ仕込んだで」
「いつから」
「そりゃ、今日じゃ間に合わんじゃろ」
その返事で十分だった。
俺たちが訓練していた間。
避難の準備をしていた間。
インクスが銃を持ち帰り、サイラスが人員を振り分けていた間にも、向こうは動いていた。
内通者から情報を取るだけじゃない。
空いた場所へ、仕込みを入れていた。
そんなこと、考えれば分かったはずなのに。
目の前で漏れた情報ばかり追っていた。
サイラスがオズワルドを見る。
「人がいないところだけを?」
「今んところはな」
「……それで手加減してるつもりですか」
「しとるよ」
オズワルドの声から笑いが消えた。
「じゃけえ、まだ誰も爆ぜとらん」
サイラスは何も返さなかった。
ヴィクトルへ置いた右手の甲に、筋だけが浮いている。
オズワルドはそれを見ると、また煙の方へ視線を移した。
「人は治せるんじゃろ」
ヴィクトルを顎で示す。
「斬られても、骨が折れても、まだ生きとりゃ戻せる。便利なもんじゃ」
サイラスの手が僅かに動く。
「じゃが、焼けた家まで元には戻らん。潰れた道も、燃えた店もじゃ」
そこで一度だけ間を置いた。
「死んだ人間は、もっと戻らん」
ソフィアの手が止まりかけた。
「……黙れって言ってるの」
オズワルドはそちらを見る。
数秒。
「分かった」
本当に口を閉じた。
ソフィアはまた治療へ戻る。
その横で若い治癒士が、乱れる魔力を前に手を止めていた。何度やってもまともに形にならないらしい。
ソフィアがそれを見て、顔をしかめる。
「無理に出さない。私が見る」
「先生一人じゃ――」
「わかってる!」
また強くなった。
今度はすぐに謝らない。
自分でも満足に扱えない魔力と、増えていく傷だけを見ている。
オズワルドはその様子へ何も言わず、サイラスへ戻った。
「これでも変わらんか」
サイラスは少しだけ黙った。
最初に聞かれた時より、長かった。
それでも答えは同じだった。
「変わりません」
オズワルドは鼻から息を抜いた。
「そうかい」
また一つ、遠くで爆発した。
サイラスの視線が音の方へ動く。
オズワルドは動かない。
ヴィクトルで負傷兵が治っても、こいつは何も困っていなかった。
兵士を治せるかどうかだけが問題じゃない。
サイラスをここへ置いた。
ソフィアの手を負傷者へ縛った。
セラは――
剣の音が響く。
ラウがセラの斬撃を受けたまま、石畳を二歩滑った。
セラは止まらない。
もうラウとの勝負そのものに興味を向けていなかった。
「退け」
「嫌だね」
セラの剣がもう一度走る。
ラウは掌を入れたが、途中で力を変えられ、完全には止められない。肩口が浅く裂けた。
それでも笑みは残っていた。
「街が燃えている」
セラが言う。
ラウは黒煙へ一瞬だけ目をやった。
「見りゃ分かる」
「なら退け」
ラウは傷のある肩を回した。
さっきまでより笑い方が薄い。
「急いでんだろ」
セラの目が細くなる。
ラウは足を開き、また進路の中央へ立った。
「だったら、あたしを退かして行け」
セラは返事をしなかった。
剣の握りだけが変わる。
ラウもそれを見て、構えを変えた。
次の瞬間。
爆発とは違う音がした。
低い。
遠い。
空気の底を押すような響きだった。
治療所に繋いでいた馬が急に首を上げ、そのまま暴れ始めた。奉徒が慌てて手綱へ飛びつき、近くの荷車まで引かれて軋む。
セラの剣が止まる。
ラウも西へ顔を向けた。
さっきまで残っていた笑みが、消えていた。
「……何だ」
俺は反射的に西へ《不具合鑑定》を向けた。
何も出ない。
遠すぎる。
建物も人も邪魔で、対象そのものが見えていない。
もう一度、咆哮が響いた。
今度はさっきより長く、屋根瓦まで細かく震わせる。
セラが西を見たまま言った。
「獣だな」
その方角には、旧荷場がある。
さっき百人を越えたと報告されたあとも、住民が送られ続けている場所だった。
オズワルドだけが、西を見なかった。




