第六十四話 選ばせる
人波の向こうで、さっきの鈍い音がもう一度した。
治療所の前へ目を凝らすと、黒い固定具の横で男が短い槌を持ち上げていた。一本目はすでに石畳の継ぎ目へ半ばまで食い込み、周囲には砕けた石の粉が散っている。男がもう一度頭を叩くと、固定具はさらに沈み、その瞬間だけヴィクトルの周りに広がる白い光が片側へ引かれた。
消えたわけではない。
ただ、それまで均一だった光が、そこだけ薄く波打っている。
「そこから離れて!」
ソフィアが患者を支えていた奉徒の肩を押し、担架の進路を変えた。
もう一人の男は別の包みを開いている。
カイがそちらへ走った。
二本目を抱えた男へ真っ直ぐ行くかと思ったが、途中で横から入ってきた相手に進路を塞がれ、腕を取られる。カイは無理に振りほどかず、掴まれた腕を相手の胸元へ押しつけて身体を入れ替え、そのまま肩から押し返した。
二本目の固定具が治療所へ回る。
カイも追う。
俺は一歩出たところで、隣にいるサイラスが動いていないことに気づいた。
「サイラスさん。《最短路》は使わないんですか」
「使えないんです」
返事はすぐに来た。
俺はそちらを見る。
サイラスは自分の右手を見ていた。指先へ魔力を集め、前へ伸ばしている。淡い光が数寸ほど細く伸びたが、その先が急に揺れ、糸を横から何度も弾かれたようにほどけた。
「朝の杭で?」
「僕も、そう思っていました」
もう一度試す。
今度はさっきより魔力が濃い。
それでも結果は同じだった。経路の形を作りかけたところから光が細かく枝分かれし、そのどれも数瞬と保たない。
「採石場側の標点へ打たれていた杭で、繋いでいた《最短路》だけを切られた。向こう側の標点が駄目なら開けない、それで説明はつくと思ってたんです」
サイラスは途中から俺を見ていなかった。
北。
東。
西。
最後に南。
街を囲むものを探すように視線を巡らせる。
もう一度だけ指先から魔力を出した。
今度は形になる前から揺れた。
「……違う」
「何がです?」
「切られたんじゃない」
サイラスが顔を上げる。
そこにはっきり焦りが出ていた。
「街の中から外へ出そうとする魔力そのものを邪魔されています」
治療所からソフィアの声が飛んできた。
「何なの、これ……!」
負傷した兵士の肩へ手を当てている。
魔力は出ていた。
けれど傷へ届く手前で広がり、ソフィアが指を動かして集め直すと、今度は反対側へ流れる。
「動かないで。あなたじゃなくて……いや、あなたも動かないで」
患者が困った顔をした。
ソフィアは見もしない。
散った魔力を両手で押さえるように集め、ようやく傷口へ細い光を残した頃には、額へ汗が浮いていた。
サイラスがその様子を見ていた。
「……名前だけ、聞いたことがあります」
「何のです?」
「黒杭の一種です。配備帳で見たことはありません。そういう型があるらしい、と昔聞いただけで」
少し間を置いて、口にする。
「《擾杭》」
「《封杭》とは違うんですか」
「《封杭》なら、打ち込んだ周辺の魔力の流れ自体を止める。これは違う。身体の中では魔力が動いてます」
サイラスは自分の胸へ触れ、その手を前へ出した。
「外へ出したところから狂わされる。量も、方向も、術式へ渡す形も少しずつ」
「少しじゃないわよ」
ソフィアが顔も上げずに言った。
「同じ傷を治すのに、出すたび違うところへ流れるの。出来なくはないけど、一回ごとに押さえ直してたら、何人も治せない」
そこへ別の負傷者が運ばれてきた。
ソフィアが一瞬だけ目を閉じる。
「そこへ寝かせて。まだ触らないで」
自分の手元へ戻った。
一本ではないのだろう。
少なくとも、朝に見つけた杭だけでは説明できない。
街の外周を囲むように何本か置かれ、その内側から外へ出ようとする魔力を乱している。
魔力そのものは使える。
だから余計に面倒だった。
《最短路》は、ただ強く出せばいい能力じゃない。細い経路を正確に作って、目的地まで崩さず通さなければならない。
今の状態では道になる前にほどける。
その横で、剣と掌がぶつかった。
セラとラウはまだ戦っていた。
ただ、さっきまでとは距離の取り方が違っている。
ラウの肩には浅い傷がいくつか増え、セラの頬にも拳が掠めた赤い線が一本残っている。それでも、どちらも呼吸は大きく乱れていなかった。
全部を出し切ってはいない。
セラが剣を中段に置いたまま口を開いた。
「一つ聞く」
ラウが顎を上げる。
「今さらか?」
「なぜオズワルドについた」
ラウの返事より先に、セラの右肩が動いた。
「針打」
拳の方が早かった。
大きく振ったわけでもない。セラが剣へ力を乗せる前、ラウの拳が右肩へ触れただけだった。
それで剣の始動が止まる。
ラウはその手を戻さず、支持脚の外へ自分の足を入れた。
セラの身体が傾く。
それでも倒れない。
片足だけで踏ん張ったまま、傾いた姿勢から剣が返る。
ラウは腰から上だけを大きく反らした。
「今それ聞くのかよ」
「答える気がないならいい」
「金だよ」
ラウは反った身体をさらに沈め、片手を石畳へついた。
「伏月」
地面すれすれを踵が走る。
セラが足を上げてかわす。
ラウは蹴りの勢いを殺さず、そのまま身体を一回転させて立ち上がった。
「頼まれて、金を出されて、受けた。それだけだ。傭兵なんてそんなもんだろ」
着地したセラの剣がもう来ている。
ラウが掌を出す。
途中で剣速が上がった。
触れた。
それでも止まらない。
ラウの腕ごと押し込まれ、靴が石畳を二歩滑る。
「何をする男かは知っているだろう」
セラがさらに押す。
「さあな。興味がねぇ」
もう一歩。
掌が震える。
それでも離さず、セラが剣を引こうとした瞬間に反対の手を手首へ添える。
戻す動きだけが鈍った。
その隙に懐へ入る。
肘が胸元へ来る。
セラは左腕で受けた。
「それに全部知ってから仕事選べるほど、傭兵は暇じゃねぇよ」
「そうか」
責めもしない。
納得した様子もない。
セラは受けた肘を押し返しながら、柄頭をラウの顎へ上げた。
ラウが首を振ってかわす。
二人の間が僅かに空いた。
すぐ埋まる。
ラウの拳がセラの目元へ伸びる。
セラが避ける。
その先へ肘が入り、受けられた腕をそのまま絡める。
「三折」
拳。
肘。
そこから投げへ移った。
セラの腰がほんの少し浮く。
ラウが背へ乗せようとする。
浮かない。
セラの足が石畳へ残っている。
「ほんっと、重てぇな」
ラウは途中で投げを捨てた。
背中を向けた体勢のまま上半身を落とし、その反動で踵を後ろへ跳ね上げる。
セラが頭をずらす。
足先が髪を散らした。
ラウは着地すると同時に今度は膝裏へ手を伸ばす。
セラが剣の腹で払った。
「今のも技か」
ラウは低い姿勢から身体を起こしながら鼻で笑った。
「知らねぇ。今作った」
セラは一瞬だけラウを見る。
それ以上は聞かなかった。
次の一撃は、それまでと違った。
途中で速さを変えない。
方向も変えない。
真っ直ぐ、重い。
セラが試している。
俺にもそう見えた。
ラウは先に動かなかった。
剣が加速する。
肩。
腰。
踏み込み。
全部が刃へ乗っていく。
最大まで届く、その直前。
「崩牙」
ラウの掌が鍔元へ入った。
剣が止まった。
跳ね返ったわけじゃない。
逸らされたわけでもない。
あれだけの勢いで走っていた刃だけが、突然そこに置かれた。
セラの上体が前へ流れる。
ラウはもう懐にいた。
右拳が脇腹へ沈む。
鈍い音がした。
セラの息が短く切れ、その足をラウが払う。
片膝が石畳へついた。
門の近くにいた兵士まで、そちらを見た。
セラがこんな簡単に膝をつくところなんて、俺もほとんど見たことがない。
ラウは目の前にいる。
もう一発入れられる。
喉でも、顎でも。
少なくとも俺には、そう見えた。
けれどラウの手はセラの肩へ当たり、その身体を一歩分だけ後ろへ押した。
間合いを戻す。
追わない。
セラが顔を上げる。
ラウの方も無傷じゃない。
左腕が下がり、指先が小さく震えていた。
「……全部合わせても、これだけ返ってくるか」
ラウが腕を一度振る。
セラは立ち上がった。
脇腹には触れない。
「今のは効いた」
ラウが少し目を丸くする。
「素直だな」
「次は通らん」
「ああ、そっちは知ってる」
そこからセラの剣が変わった。
同じ入り方をしない。
重く見せて途中で抜き、ラウが合わせる寸前に角度を変える。軽く触れた次の一撃だけ急に重くする。
ラウの掌が刀身へ触れた。
今度は止まらない。
足が大きく滑る。
肩へ浅く刃が入る。
血が飛んだ。
それでもラウは笑みを消さず、低く潜ってセラの腹へ拳を返す。
セラは半歩だけ下がった。
両方とも、まだ奥がある。
けれどさっきまでの探り合いではなくなっていた。
そこへ北側から兵士が戻ってきた。
脇腹を押さえている。
「北路地。三人いた。裏から入られた」
年配の男だった。
息は荒いが、余計なことは言わない。
「二人やられた。追わせてない」
後ろからもう一人が運ばれてくる。
左脚を引きずっている。
ソフィアが顔を上げた。
「そこへ寝かせて。血が多い方をこっち」
一人目へ手を置く。
魔力が散る。
もう一度。
ようやく細い光が傷へ集まる。
その間に別の負傷者が来た。
「先生、こっちも――」
「こっちへ増やさないで!」
奉徒の足が止まった。
ソフィア自身も止まる。
歯を噛んだ。
「……ごめん。そこへ寝かせて。まだ触らないで」
声を落とした。
余裕がなくなっている。
それが分かった。
オズワルド側の動きも、少し前までとは違っていた。
正面からは来ない。
路地。
裏口。
建物の陰。
第三支部の人間が二人、三人と別れた場所だけを狙い、腕や脚へ傷を残して退く。
殺していない。
動けなくしている。
治療がまともに回らないと分かってからだった。
一人傷つければ、その一人だけでは終わらない。
運ぶ人間が要る。
ソフィアの手が止まる。
守る側の人数も減る。
「ソフィアさん」
サイラスが呼んだ。
「待って」
顔を上げない。
「今、喋るとこれがずれる」
サイラスは口を閉じた。
その間にもカイは治療所の前にいる。
二本目の固定具を持っていた男が、とうとう先端を石畳へ下ろした。
カイが間に足を入れる。
固定具の下側を蹴り上げた。
黒い棒が男の腕から外れ、石畳を滑る。
別の男が拾おうとする。
カイは追わず、その前へ立った。
肩で呼吸をしている。
右腕に細い傷が増えていた。
それでも一度だけ左肩を回すと、俺の方を見た。
目が合う。
カイは何も言わなかった。
そのまま治療所を背にして構え直した。
「ヴィクトルを使います」
サイラスが言った。
ソフィアの手が止まりかけた。
「この中で?」
「試します」
サイラスはヴィクトルへ走った。
俺も少し遅れてついていく。
一本目の固定具はまだ石畳へ刺さったままで、その側だけヴィクトルの光が僅かに歪んでいる。
サイラスは本体へ着くと、右手の掌を表面へぴたりとつけた。
「場所を」
北側から戻ってきた兵士がすぐに答える。
「北三区。薬屋裏。井戸から東二軒、南壁。荷箱横」
聞き慣れた区切り方だった。
二日前、射手たちと何度も繰り返した言い方に近い。
サイラスが一つだけ確認する。
「南壁の内側ですか」
「外。路地側だ」
それで目を閉じた。
右手はヴィクトルから離さない。
薬屋。
井戸。
そこから東へ二軒。
南壁の外。
荷箱の横。
頭の中でそこまで辿っているのだろう。
数秒後、ヴィクトルの紋様が一つ明るくなった。
固定具の側へ光が少し引かれる。
それでも消えない。
遠くで声がした。
「出た! こっちに光が来た!」
ソフィアが顔を上げる。
「届いたの?」
サイラスはまだヴィクトルへ触れていた。
「座標は合ってます」
「《擾杭》は?」
「ヴィクトルも魔力で動いています。でも、今乱されているのは、僕たちが身体の内側から外へ出す魔力です」
サイラスは固定具側へ歪む白い光を見た。
「ヴィクトル自体が影響を受けてないわけじゃない。ただ、今はまだ接続出来る」
北へ向けて声を張る。
「負傷者を動かさないでください! そこから位置が変わったら、座標を取り直します!」
遠くから返事が返ってきた。
右手は離れない。
ここから離れれば、いま繋いだ場所への恩恵も切れる。
サイラス自身が、ヴィクトルの前へ縫いつけられた。
その時、西側から若い奉徒が戻ってきた。
走りながら何度か振り返っている。
「西、通してます!」
サイラスがそちらを見る。
「誰を」
「住民です。武器を持ってない人はそのまま出してる。でも白布の人間だけ止められます。武器を置けば通すって」
「住民には手を出していない?」
「はい。道まで空けてます」
西の通りを見れば、確かに列は動いていた。
老人も、子供を抱いた女も、荷物を背負った男も、そのまま通されている。
白布を巻いた兵士が付き添おうとした時だけ、オズワルド側の人間が前へ出て道を塞ぐ。
剣は抜かない。
殴りもしない。
立つだけだった。
「奉徒を二人ずつつけてください。武器は持たせない」
サイラスが決める。
「白布の人は?」
「戻して」
奉徒が走る。
また第三支部から人が減る。
間を置かず東側から剣のぶつかる音が聞こえた。
「倉庫裏、塀越えられた!」
今度の男は走り込まず、通りの途中から怒鳴った。
「二人だけだ! 中までは入ってねぇ!」
サイラスの目が東へ向く。
右手はヴィクトルにある。
動けない。
北では遠隔の恩恵を維持している。
西へ奉徒を出したばかり。
東へ人を回せば、そのどこかがまた薄くなる。
通りの向こうでオズワルドは急かさない。
こちらが決めるまで待っている。
その間にも、セラとラウは戦っていた。
ラウの肩から血が落ちている。
セラの脇腹にもさっきの拳が残っているはずなのに、動きにはほとんど出ていない。
ただ、一度大きく崩されてから、セラは同じ力を二度使わなくなった。
ラウが肩を見るなら腰から入る。
腰へ意識が動けば足を変える。
重く見せて軽くし、軽く見せた次だけ重くする。
ラウも対応していた。
けれど、最初ほど綺麗には止められない。
それでも。
ラウがセラを大きく崩した時、追わなかった。
さっきも拳を続けられる距離まで入っていたのに、一撃で間を戻した。
逆にセラが横へ抜けようとした時だけ、ラウの動きが急に鋭くなる。
セラの方が先に剣を止めた。
ラウも追わない。
セラは治療所を見る。
西を見る。
オズワルドを見る。
それからラウへ戻った。
「……お前」
ラウは肩から落ちる血を親指で払った。
「私を倒しに来たんじゃないな」
返事はない。
ラウは笑いもしなかった。
セラは少し待ち、剣先を下げた。
「なら、付き合う理由もない」
横を抜ける。
その瞬間だけ、ラウの動きが変わった。
傷のある肩も構わず踏み込み、今までより一歩深くセラの進路へ入る。
そこで口元が緩んだ。
「つれねぇな」
腰を落とす。
「もっと武闘うぜ」
セラが足を止めた。
さっきまでとは位置が違う。
ラウは攻撃を待つ場所にいない。
行かせない場所へ立っている。
セラもそれを見た。
何も言わず、剣を上げ直す。
そこで俺にも遅れて意味が繋がった。
ラウはセラに勝つ必要がない。
セラがあそこから動けなければ、それでいい。
「サイラスさん」
呼んだが、サイラスは俺を見なかった。
西から、また一人戻ってきていた。
今度はさっきの奉徒より顔色が悪い。
「街の外までは出られました」
サイラスがヴィクトルへ触れたまま聞く。
「その先は?」
「旧荷場です。街道へ散ろうとした人だけ戻されてます。武器を持ってない人には手を出してません。でも、荷場から先へは行かせてない」
「何人います」
「俺が見た時点で、百は越えてます。まだ増えてます」
サイラスは黙った。
旧荷場の方を見る。
それから、ヴィクトルへ置いた自分の右手へ視線を落とした。
北では、いま接続している恩恵を待っている負傷者がいる。
西から戻った奉徒は、次の指示を待っている。
サイラスはもう一度、旧荷場の方を見た。
右手だけは、ヴィクトルから離れなかった。




