第六十三話 最初の一発
三度目の鐘が鳴り終わっても、街はすぐには避難する人間だけにならなかった。
何の鐘なのか分からず通りで立ち止まる者がいれば、店先の商品を片づけ始める者もいる。家族を迎えに戻ろうとして奉徒に止められている男の横では、事情の分からない子供が母親の手を引いていて、昨日まで地図の上に引いていた西への避難路も、実際に人を乗せればところどころで詰まっていた。
その流れに逆らって、北から人の列が近づいてくる。
先頭にいるのはオズワルドだった。濃紺の外套に銀縁の眼鏡、その後ろを三日前より明らかに多い人間が続き、さらに離れた場所にも空座の紋章が見えている。ただ、これだけの人数を連れてきているのに、まだ誰も剣を抜いてはいなかった。
こちらも同じだった。
左腕へ白布を巻いた兵士たちは第三支部と周辺の通りへ散り、二階には銃を持った六人が入っている。俺は北側を見る射手から離れすぎない位置につき、セラは門の近く、カイは中庭側に残っていた。
サイラスが門を出る。
オズワルドは二十歩ほど手前で止まった。
「三日目ですね、オズワルドさん」
オズワルドはその挨拶には返さず、サイラスの後ろや二階の窓へ視線を動かすこともなく、まず一つだけ確認した。
「三日前の落とし前の件、第一席には上げたんですか」
サイラスはすぐには答えなかった。
「上げていません」
オズワルドの後ろにいた男が僅かに顔を動かした。本人も、一度聞き返しかけたように口を開いたが、何も言わずに眼鏡の位置を直した。
「……届いとらんのじゃなくて?」
「僕の判断です」
そこで会話が止まった。
西へ向かう荷車が曲がり角で詰まり、奉徒が二人、後輪を持ち上げるために走っていく。オズワルドはそちらへ目を向けたまましばらく黙っていた。
「てっきり、もう私の話まで全部あの人のところへ持っていっとるもんじゃと思ってましたよ」
サイラスは返さない。
「第一席に止めてもらえば、今日ここへ出てこんでも済んだかもしれんでしょう」
「今回は、でしょうね」
オズワルドの視線だけが戻ってくる。
サイラスはその先を言わなかった。
第一席から止められれば、オズワルドもその場では従うのかもしれない。ただ、それで考えまで変わるわけではない――サイラスがそう思っているのは俺にも分かったが、本人はそこまで説明しなかった。
オズワルドも理由を聞かなかった。
「……そういう返しをするとは思っとらんかったわ」
褒めているようには聞こえなかったし、腹を立てている様子もない。ただ、サイラスを見る目がほんの少し変わった。
それだけで第一席の話を切り上げると、今度はセラへ視線を向けた。
「挨拶はもうええでしょう。返事を聞かせてください」
サイラスの後ろで、セラは黙ったまま立っている。
「セラ・ヴァルクをこちらへ渡す。それが出来ないなら、ヴィクトルをこちらで預かる。どちらにします?」
「どちらも出来ません」
返事だけは早かった。
オズワルドは頷きもせず、治療所から出てきた患者へ目をやる。付き添いに肩を借りた男が西へ歩いていき、その後ろを荷物を抱えた女が追っていた。
「この三日で変わるとは思ってませんでしたけどね」
誰に聞かせるでもない声だった。
少しして、またセラを見る。
「どうして、そこまでそれを抱え込むんです?」
「本人がここに残ると言っています」
「本人?」
そこで初めて、オズワルドの口元が僅かに緩んだ。
「道具に意志なんて、いるか?」
セラの右手が腰へ寄った。
柄には触れない。
サイラスも振り返らなかった。
オズワルドは二人の反応には構わず、足元の小石を靴先で避けながら続けた。
「アークで変化が出て、バスティオンで変わった。アレーテイアでも変わった。ここへ来てヴィクトルまで変わった。そのたび近くに同じ人間がおる。それでもまだ、触るな、待て、と言う」
サイラスは口を挟まない。
「八つ全部ですかね。全部揃ったら今度こそ何か起きる。で、何も起きんかったら?」
遠くで店の戸が閉まった。
オズワルドは少し待ったが、返事がないのでそのまま話す。
「本人がまだ足らんのかもしれん。もっと戦わせる。もう少し追い込む。死にかければ何か出るかもしれん」
セラは何も言わなかった。
「何年やる気です?」
サイラスは視線を落とした。
「分かりません」
オズワルドが少し顔を上げる。
そのまま会話が切れるかと思ったが、サイラスは自分の袖口を直しながら、少し遅れて言葉を足した。
「でも、昨日みたいに一度に全部動かすつもりはありません」
「妥協した」
オズワルドは指を一本だけ立てた。
「ヴィクトルはここ。患者もそのまま。昨日の固定具も使わん」
その指がセラへ向く。
「動かすのは一つだけじゃ」
サイラスは後ろを見なかった。
「行きませんよ」
オズワルドはセラ本人へ確認しようともしない。
「また本人か」
独り言に近かった。
しばらく西へ流れる住民を眺めたあと、今度は治療所の方向へ顔を向ける。
「なら、ヴィクトルを」
「それも出来ません」
最後まで言わせなかった。
オズワルドの眉間へ薄く皺が寄る。
「セラは駄目。ヴィクトルも駄目。条件を変えるのも駄目。第一席にも上げん」
途中で数えるのをやめた。
「サイラス、お前いつまでガキみたいに、あれも嫌これも嫌言うとるんじゃ」
門の内側で誰かが動いた。
サイラスはすぐには答えず、オズワルドを見たまま何か言いかけて、一度やめた。
「……分かっていないものを、分かったつもりで使うのが嫌なんです」
オズワルドの口から息が漏れた。
一度。
もう一度。
それが途中から笑いへ変わる。
「はっ……はは……」
肩が揺れ、やがて腹へ手を当てるほどになった。
「ははははは!」
後ろにいる者たちまで、どう反応すればいいのか分からない顔をしている。
オズワルドはしばらく笑ったあと、自分で眼鏡を外し、後ろの男へ預けた。目元を指で拭い、顔を上げる。
笑った跡だけが残っていた。
「分かっとらんもんを、分かったつもりで使うのが嫌?」
サイラスは返さない。
「よう言うわ」
オズワルドが街へ目を向ける。
鐘を聞いて西へ向かう住民たち。治療所から出される患者。門の周囲へ配置された兵士。
「鐘はよう聞こえましたよ」
サイラスの肩が僅かに動いた。
「私らが来たら住民は逃がす。患者も動かす。兵も並べる」
オズワルドはそこで第三支部を見上げた。
二階。
どの窓とまでは言わない。
「上の連中は、何を狙っとる?」
サイラスも見上げなかった。
「今朝、《最短路》が使えなくなりました。それから、あなたがこの人数を連れて来た」
「で?」
「何もない前提では動けません」
オズワルドは鼻から短く息を抜いた。
「儂らはまだ誰も抜いとらん」
「こちらも撃っていません」
そこだけは返事が早かった。
オズワルドが一歩前へ出る。
「下ろさせんさい」
サイラスは動かない。
「撃たせるつもりはありません」
「聞いとらん」
それきり、二人とも黙った。
市場から荷車の軋む音が聞こえ、門の中では誰かが剣の柄を握り直している。
オズワルドがもう一歩だけ進んだ。
「サイラス」
声は低かった。
「殺すぞ」
その直後、オズワルドの後ろにいた男が外套へ手を入れた。
黒い先端が見える。
何の杭かまでは分からない。
二日間繰り返した言葉だけが、考えるより先に口から出た。
「北、黒! 出した!」
銃声が鳴った。
男の肩が横へ弾かれ、身体が隣の人間へぶつかった。外套から抜きかけていた黒杭が石畳へ落ち、二度跳ねて止まる。
「撃つな!」
サイラスの声が飛ぶ。
二発目は出なかった。
オズワルド側では三人ほどが剣へ手を掛けている。
「抜くな」
さっきの「殺すぞ」とほとんど同じ声だった。
三人の手が止まる。
オズワルド自身もしばらく動かなかった。眼鏡を外したまま、撃たれた男と第三支部の二階を交互に見ている。
「指は」
撃たれた男が肩を押さえながら右手を動かした。
「……動きます」
「下がれ。自分で押さえとけ」
隣の男が肩を貸す。
オズワルドはその背中を少しの間見送ってから、後ろへ手を出した。
眼鏡を受け取り、レンズについた小さな血の飛沫を布で拭う。片方を終え、もう片方も同じように拭いてから掛け直した。
サイラスへ向いた時には、声まで元に戻っていた。
「撃った人を、出してもらえますか」
その変わり方の方が、さっきより近寄りづらかった。
門の中で誰かが息を呑む。
「今なら、その人の判断だったことにします」
サイラスは二階を見なかった。
「それは出来ません」
「命令したんですか」
「していません」
そこで少し言葉に詰まった。
「ただ、銃を置いたのは僕です。トーマさんに黒いものが見えたら知らせるよう頼んだのも――」
オズワルドは途中で手を振った。
最後まで聞かない。
「ならええです」
眼鏡の位置を直す。
「第三支部が撃った。それで話します」
サイラスの顔が僅かに硬くなった。
オズワルドはもう見ていなかった。
後ろへ合図したようにも見えない。それでも人が動き始め、四人ほどが東の路地へ入り、別の一団は西へ走った。北側へ回り込む者もいて、細長い包みを抱えた者たちは治療所のある方向へ散っていく。
最初から、行く場所が決まっていた。
セラが剣を抜いた。
オズワルドへ向かって踏み込もうとした、その前へ一人の人影が滑り込む。
ちょうど建物の隙間から差し込んだ朝日が真正面から重なり、顔の辺りだけが白く潰れて見えた。長い影が石畳へ落ちているのに、俺の位置からでは目鼻立ちまでは判別出来ない。
セラも一度だけ足を緩めた。
「……貴様は」
確信がある声ではなかった。
その人物は答えず、上着の袖を肘まで捲った。武器らしいものは持っていない。
「悪いな。仕事だ」
低い女の声だった。
セラは問い直さない。
剣が走った。
様子見とは思えない速さだった。胴へまともに入れば、そのまま身体ごと持っていくような横薙ぎに対し、女は退かず、身体を僅かにずらして鍔に近い刀身へ掌を打ち合わせた。
剣が止まる。
女の腕が後ろへ押されたわけでも、セラの刃が跳ね返されたわけでもない。あれだけ乗っていたはずの勢いが、掌と刀身の触れたところから先へ進まなくなった。
俺は一瞬、見間違えたのかと思った。
セラはすぐに剣を引く。
間を置かず、二撃目。
今度は斜め上から首元へ落ちる。
女の掌がまた出た。
刃そのものではなく、鍔に近い場所へ触れる。
また止まった。
女はそのまま懐へ入り、反対の拳を返す。セラが左腕で受けたところへ空いている手が肘へ添えられると、受け止めていたはずの腕が不自然に沈み、拳がその内側を抜けた。
セラは上体を捻って頬を掠めるだけに留め、そのまま後方へ跳ぶ。
女の靴先が、石畳を蹴ったセラの踵近くへ重なった。
軽く触れただけに見えたのに、セラの身体が一瞬遅れる。
着地したセラは、すぐには斬り返さなかった。
剣ではなく、女の両手を見ている。
「聞いてたのとは違うな」
女がぼそりと言った。
セラの目が上がる。
「私を知っているのか」
「名前くらいはな」
それ以上、女は話さない。
セラも聞かなかった。
三度目の踏み込みは、それまでと同じに見えた。
女の掌も同じように動く。
触れる直前、セラの肩から力が抜けた。
剣速が急に鈍り、女の掌だけが先を通り過ぎる。その外側を遅れて刃が滑り、袖を裂いた。
肩へ浅い赤い線が走る。
女が一歩下がった。
傷を見たあと、少しだけ口元を歪める。
「……もう変えるのかよ」
セラは返事をしない。
次の瞬間には前へ出ている。
今度は最初から軽い斬撃だった。女が合わせようとしたところで途中から加速し、脇腹すれすれを刃が通る。
返しの二撃目。
掌が刀身へ触れた。
今度は完全には止まらず、女の足が石畳を半歩滑った。
セラの目が僅かに細くなる。
次から剣の振り方が変わった。
大きく踏み込んでおいて寸前で止める。軽く入って途中から腰を使い、刃へ手を出されたと思えば柄頭をぶつける。そのどれにも女はついてきたが、最初の二撃のように綺麗には止まらなくなった。
女の方も、途中から剣だけを見なくなった。
セラの肩、腰、足元へ視線を散らし、刃へ触れられない時は腕へ入り、近すぎれば身体をぶつけて軌道をずらす。
拳と刃の間にほとんど余白がない。
俺には全部は追えなかった。
陽が少し動いた。
建物の縁へ光が隠れ、女の顔を潰していた白さが薄くなる。
額に張りついた髪。
頬。
目元。
どこかで見た。
剣と拳がぶつかる音の中で、少し前の景色が戻ってくる。
セレディア。
人の多い通り。
セラの方を見ていた女がいた。
話したわけじゃない。
一度だけセラと目が合い、そのまま人混みへ消えた。
「……ラウ?」
声に出してから確信した。
女の視線がほんの一瞬だけ俺へ向く。
「ラウ・ルー……ですよね」
セラが俺を見る。
名前には覚えがないらしい。
ただ、改めてラウの顔を見たあと、僅かに眉を寄せた。
「セレディアにいた女か」
ラウは構えたまま肩を竦める。
「覚えてもらっていて光栄だ」
「一度見ただけだ」
ラウはそれには返さず、セラの剣へ視線を戻した。
「あたしは聞いてた通りだ」
「何を聞いた」
「強いってな」
それだけ言って、ラウが踏み込む。
拳が来る。
セラは剣の腹で受けかけ、途中で軌道を変えて避けた。拳が空を切った直後、そのまま開いた手が肩へ伸びる。
セラは身体を沈め、手首を斬り上げる。
ラウが引く。
刃先が指を掠めた。
「怖いな」
ラウが指先を一度振る。
セラは返さない。
次は突きだった。
ラウは外から払わず、横から拳を当てる。
剣先が止まる。
その隙に膝が上がる。
セラが横へ外れて逆袈裟を返し、ラウは肘を合わせたが、完全には止まりきらずに袖がまた裂けた。
それでも二人とも距離を取らない。
ラウの頬へ細い傷が増え、セラの袖にも土がついた。
何をしているのかは分からない。
ただ、セラの剣がラウへ触れる時だけ、妙な止まり方をする。
《不具合鑑定》を向けても、ラウが何を使っているのかまでは出てこなかった。見えるのは起きた結果だけだった。
セラはもう俺よりずっと先へ進んでいる。
最初のような全力の斬撃を繰り返さず、一度ごとに速さも力の入る場所も変えていた。ラウもそれに合わせて手を出す場所を変え、何度傷が増えても前から退かない。
その向こうでは、オズワルド側の人影がすでに何方向かへ散り始めていた。
「西、七人!」
伝令の声で、俺の意識がそちらへ引き戻された。
「旧街道を塞がれてます。住民にはまだ手を出してません。ただ、通しません」
サイラスは一度だけ西へ顔を向ける。
「市場側へ回してください。荷車が邪魔なら置いていって構いません」
伝令が戻る。
入れ替わるように、北から別の男が走ってきた。
「旧染工房にも六人!」
サイラスの手が止まった。
本当に一瞬だった。
「そこは放っておいてください」
「六人いますよ」
「中には何もありません」
報告した男は変な顔をしたが、それ以上は聞かずに戻っていった。
俺はサイラスを見る。
旧染工房へ何か置くという話は、この二日間で一度も聞いていない。
サイラスは近くにいた古参を呼んだ。
「染工房へ弾薬を移す話をしたのは」
男は少し考える。
「三人です」
サイラスは一度頷いた。
古参はそのまま待っている。
「……確認します?」
「今はいいです」
それで話を切った。
朝、採石場側で見つかった黒杭を思い出した。
《最短路》の標点を知っていた人間。銃が運び込まれたことを見た人間。避難の準備に関わった人間。
三日もあれば、普段なら知らないことを見た者はいくらでも増える。
「もしかして、最初から――」
俺が聞くと、サイラスは何か考えていた途中だったらしく、少し遅れてこちらを見た。
「あとで」
それだけだった。
直後、二階の板戸へ矢が刺さった。
中の射手が身体を引く。
少し遅れて、別の窓にも一本当たった。
「北側、狙われてます!」
何もない染工房へ六人も向かわせたのに、本物の射手位置にも人が来ている。
サイラスは建物を見上げた。
「北の二人を下へ。南階段から。行き先は階段を下りてから伝えてください」
兵士が走る。
その少し後、門の外から声が上がった。
「中へ入れてくれ!」
左腕へ白布を巻いた男が二人、北側からこちらへ走ってくる。
「向こうを抜かれた!」
門番の一人が道を空けようとした。
俺も一瞬、味方だと思った。
白布はこっちの印だった。
「止めてください」
サイラスの声で門番が止まる。
走ってきた男が苛立った顔で左腕を上げる。
「見えないのか!」
サイラスは答えなかった。
自分の白布へ手をやり、端を折り返す。
白の裏から、細い赤が現れた。
門の兵士たちも遅れて自分の腕へ手をやる。
俺も白布をめくった。
端の内側だけが赤く染められている。
知らなかった。
外から来た二人の布には何もない。
一人が自分の左腕を見た。
懐へ手を入れる。
それより早くカイが横から入り、手首を取って門柱へ押しつけた。もう一人は外へ戻ろうとしたが、赤を出した兵士二人が前を塞ぐ。
「これ、いつから……」
俺が自分の腕を見たまま言う。
「白布が知られていた可能性を感じたので」
サイラスは捕まった二人を見もしなかった。
「俺たちにも言ってなかったんですか」
返事を待っている間に別の伝令が来て、サイラスはもうそちらへ向いていた。
「市場側にも回られました! 六人です。避難してる人を見てから向きを変えたみたいで――」
南側から乾いた音がした。
銃声だった。
少しして、さっき南階段へ向かった兵士の一人が戻ってくる。頬に血が流れていた。
「下で待たれてました。二人います」
サイラスの顔が変わる。
北から南へ移すと決めたのは、戦いが始まってからだった。
「今のも漏れたんですか」
俺が聞いた。
サイラスはすぐには答えず、戻ってきた兵士、南側の窓、それから通りの向こうへ順番に目を向ける。
オズワルドが第三支部を見上げていた。
誰かから報告を受けている様子はない。
北側の窓から射手が消え、そのあと第三支部の中で何人かが南へ動いた。外からでも見ようと思えば見える。
「……これは違う」
サイラスが言った。
「何がです?」
「今のは漏れたんじゃない」
視線はオズワルドへ向いたままだった。
「見てから変えた」
染工房へは人が向かった。
白布も真似された。
だから、内部から情報が出ている可能性は高い。
けれど、それだけでは今の動きまでは説明出来ない。
サイラスは懐から小さな紙を出した。端にいくつか印がついている。
俺が覗こうとすると、紙を半分に折る。
「染工房の話を知ってた人と、白布のことを知ってた人を重ねたら――」
「まだ教えれません」
途中で切られた。
俺はサイラスを見る。
「今ここで呼び出して、その人が違ったら一人減ります」
そこまで言って、サイラスは紙をしまった。
「中にはいると思います」
それ以上は続けない。
治療所の方で怒鳴り声が上がった。
細長い包みを抱えた男たちが、ヴィクトルの置かれている広場へ回り込もうとしている。
三日前に見た固定具とよく似た長さだった。
「カイさん」
サイラスが呼ぶ。
捕らえた男を別の兵士へ渡したカイが顔を上げた。
「ヴィクトル側へお願いします。追い返さなくていいです。ソフィアさんたちが患者を動かすまで持たせてください」
カイは治療所の方を見た。
それから、自分の肩を一度回す。
何も言わずに走った。
俺もついていこうとしたところで、サイラスに肩を掴まれる。
「トーマさんはここに」
「でも、あれが固定具なら俺が見た方が」
「だからです」
足が止まった。
俺が黒杭を見ることまで、向こうへ伝わっているかもしれない。
西からまた伝令が来た。
「市場側も止まりました! 避難列が戻り始めてます!」
二階からも声が飛ぶ。
「射手二人、下りました! 次はどこへ!」
サイラスはすぐには答えなかった。
西の通り、治療所、二階、それからセラの方へ視線が移る。
ラウの肩からはもう何本も血が流れていた。
最初の二回のようにセラの剣を止められてはいない。セラは一撃の途中で力の入れ方を変え、踏み込み方まで一度ごとに変えながら、少しずつラウの手を外している。
それでもラウは前にいた。
セラが右へ出れば右へ入り、左へ切ればそこへ身体を寄せる。何度か大きく体勢を崩されても、また立ち位置を戻していた。
俺には、そこまでしか分からなかった。
治療所側から鈍い音が響く。
黒い固定具が一本、石畳へ打ち込まれていた。
ヴィクトルの周囲に広がっていた光が僅かに揺れ、ソフィアが何か叫ぶ。
カイがその間へ走り込んだ。
「西は戻さないでください」
サイラスがようやく口を開く。
「市場から南へ回します。射手は一人だけ東倉庫へ。残りは第三支部に残す。カイさんには追加を送らなくていいです」
近くの兵士が、治療所の方を見た。
「一人で持ちますか」
サイラスは答えなかった。
答える前に、別の場所からまた名前を呼ばれた。
そのまま身体をそちらへ向ける。
俺は治療所へ走っていったカイの背中を探したが、もう人の間へ消えていた。




