第六十一話 三日で出来ること
「なら、まず搬送路」
ソフィアにそう言われた日の午後、第三支部の会議室から帳簿と寄付品の箱が追い出された。
代わりに長机を埋めたのは、ジェノベックの地図が三枚だった。街の中心部を細かく描いたもの、周辺の街道まで含めたもの、最後の一枚には街を囲む境界石の位置が記されている。
朝から外周を回っていた奉徒が、管理図を指で追った。
「北東に三つ。西が一つ。ここは完全に割れてます。南側の二本も上半分が欠けてました。去年替えたやつも一本、土台から傾いてますね」
サイラスが赤い炭筆で印をつけていく。
「残っている石で、境界は保てそうですか」
「普通の魔獣なら問題ないと思います。破損したところだけ探して抜けてくるようなものでもないですから。ただ――」
男の視線が、机の端へ向いた。
そこにはヴェスパルから回収した小さな黒杭が置かれていた。
インクスは会議が始まってからずっと、それをいじっている。窓から入る光へかざしたかと思えば、今度は溝へ爪の先を入れていた。
「自分で来るならね」
誰へともなく言った。
街道で見たヴェスパルが頭に浮かんだ。
境界石がまったく無かったわけじゃない。それでも、あの群れは街道まで出てきた。
サイラスは赤い炭筆を置いた。
「先に言っておきます。人数も装備も、こちらが不利です」
部屋にいたのは、俺とセラ、カイ、インクス。それに第三支部の古参が二人。ソフィアは壁際の台へ昨日の負傷者の記録を広げ、立ったまま聞いている。
「オズワルドさんが三日後に何人連れてくるかは分かりません。昨日より少ないと思って組む理由もないですし、向こうには他の支部から人を集める手段もあります」
「こっちは更に減ります」
ソフィアが記録から顔を上げた。
「治ったように見えても、私が駄目って言った人は数に入れないで」
サイラスは一度だけ頷いた。
インクスが黒杭を地図の上へ寝かせる。
「人数もそうなんだけど、こっちの方が困るかもしれないけどね」
「杭の数ですか?」
俺が聞くと、インクスは首を傾けた。
「数というより…、これは僕の推測だけど黒杭って他にも数種類あるんじゃないかな」
サイラスが黒杭を手元へ引き寄せた。
「インクスさんさすがですね。僕が知っているだけでも、いくつかあります。ただ、全部を知っているわけではありません」
カイが顔を上げる。
「座主でも知らないんですか」
「基本的にオズワルドが管理していてその時に合う黒杭が供給されます。他の座主が扱っているものまで、全部こちらへ報告されるわけではないということです。僕が知っているのは第三支部へ回ってきたものと、共同任務で見たもの。そのくらいです」
「オズワルドが作ってるのか」
セラが聞いた。
「生産と規格をまとめているのは、ほぼオズワルドさんです。全部を一人で作っているわけではありませんけど」
サイラスは黒杭を指先で押した。
「ミレアが使っていた《爆杭》は皆さんも見ていますね」
城護盾で見た。
刺した場所から爆ぜる黒杭。
「それから、ヴェスパルに使われていたものに近い型。現場では《令杭》と呼んでいます」
以前、《不具合鑑定》で見えた文字が浮かぶ。
《保持可能情報量――極小》
《複雑命令――保持不能》
「細かい命令は入れれないですよね」
俺が言うと、サイラスは頷いた。
「杭の大きさにもよりますが進めとか、止まれとか、襲えとか。長い命令を覚えさせるものではありません」
「群れの頭だけ動かせばいい」
セラが地図を見たまま言った。
「そういう使い方も出来ます」
インクスが黒杭を奪うように取った。
「一本で一匹しか動かせなくても、そいつの後ろを百匹が歩くなら同じことだよね。いや、そっちの方が材料も少なくて済むか」
溝の中をまた覗き始めた。
カイは何か言いかけたが、インクスが本気で考え込んでいるのを見てやめた。
サイラスは古参の一人へ向いた。
「《標杭》は残っていますか」
「二本あったと思います。去年の討伐から戻したままです」
「それは何をする杭です?」
俺が聞いた。
「追跡用です。対象へ残しておけば、離れても大まかな位置を追えます。森や霧の中で使うことが多いです」
カイが少し体を起こした。
「魔獣に?」
サイラスは配備図へ目を落とした。
「人にも使えます」
それ以上は続けず、頁をめくる。
「今、考えておきたいのは《封杭》です。僕が見たものは、暴走した術式へ直接打ち込んで、その周辺の魔力の流れを止めていました」
インクスの手が止まった。
「昨日の棒のことだな」
ヴィクトルのそばへ置かれた黒い固定具。
「はい」
「置いただけだ。ヴィクトルにも触れてない」
サイラスはしばらく黙っていた。
「僕も、実際目にするのは初めてでどのように使用するかまでは…」
古参の一人が棚から配備帳を持ってきた。
何年も使っているらしく、角が丸くなっている。
サイラスが頁を捲っていく。
途中に、規格番号だけが飛んでいるところがあった。
「ここ、抜けてません?」
俺が言うと、サイラスの指が止まった。
「第三支部には来ていませんね」
「欠番ですか」
「分かりません。他の支部へ回ったのかもしれないし、試作だけして止まったものかもしれない」
セラが覗き込む。
「オズワルドなら知っているのか」
「僕よりは」
帳面が閉じられる。
昨日の固定具は、そこにも載っていなかった。
「三日後、見覚えのない杭を持っている人間がいたら、無理に確認しに行かないでください。知っている型だと思って近づく方が危ない」
インクスが黒杭を横から眺めたまま言った。
「それにしても変だよねえ」
「何がです?」
「こういうのを武器の術式の延長で考えると、全然合わない」
俺は机の黒杭を見る。
「違うんですか」
「違うよ。剣に術式を入れる時は、もっと素直で簡単だよ」
インクスは自分の腰の剣を鞘ごと机へ置いた。
「使う奴の魔力を柄から刃へ通しやすくしたり、刃先までちゃんと届くように整えたり。異能を武器へ乗せる奴なら、途中で散らないようにしたりね。流れが良くなれば切れ方も変わる」
鞘を指でなぞる。
「でも、鉄を別の性質に変えるわけじゃない。剣は剣のままだよ。使う奴の力を通しやすくしてやるだけ」
その指が黒杭へ戻った。
「こいつらは、そうじゃない。手を離れてから仕事をするようにしている」
しばらく杭を見ていたが、やがて窓の外へ目を向けた。
「遠くから使われたら剣じゃ届かないね」
サイラスもそちらを見る。
「何か用意出来ますか」
ようやくインクスの顔が上がった。
「武器の話になったら僕の出番だね」
椅子へ座り直す。
「こう見えても顔は利くんだよ。なにせ僕は天才だからね。普通の鍛冶屋が触りたくない案件は、だいたい最後に僕のところへ来る」
「銃も?」
「来るよ。撃つたびに少し左へ逸れるとか、異能を流した時だけ銃身が歪むとか。三軒四軒回って、それでも原因が分からなかったやつ」
「直したら売るんですか」
俺が聞くと、インクスは少し眉を寄せた。
「持ち主へ返すけど」
「そのまま?」
「直ったんだから返すだろ」
「ああ……じゃあ、インクスさんが直したって知られないこともあるんじゃないですか。金も普通に作るより――」
そこでやっと何を聞かれているのか分かったらしい。
「ああ、手柄とか名声とか?」
「まあ、そういう」
「どうでもいいなあ」
即答だった。
黒杭をまた摘まむ。
「誰にも分からないものが僕のところへ来て、好きに触っていいって言われるんだよ。開けて、削って、何で壊れたのか調べて、知らない作りが入ってたらそこも見られる」
黒杭の根元を爪で擦り、小さな粉を指先へつける。
「考えただけでもゾクゾクしないかい?」
返事に困った。
インクスは俺の顔を見ても特に気にしない。
「金は材料が買えればいい。名前が売れたって、知らない構造が増えるわけじゃないしね」
口元が少し上がった。
「それに、壊れた理由まで追うと困る人間もいるんだよ。刃だけ直してくれって持ってきたのに、調べたら材料を抜いてたとか、本当はやっちゃいけない使い方してたとか」
「そこまで見るんですか」
「見るよ」
今度は笑った。
「そこを突っつかれたらまずい奴がいるなら、何が埋まってるのか余計に知りたくなるじゃないか。ケケケ。知的好奇心に勝るものなんて、そうそうないのさ」
黒杭を机へ戻す。
「ベルーガなら六挺くらいは集められる。上手くいけば八かな。僕が直した銃も何挺か戻ってるから、持ち主は分かる」
「弾と火薬もお願いします」
サイラスが言う。
「銃だけ持って帰ってきて、どうするのさ」
インクスはベルーガまでの地図を自分の方へ引いた。
銃は高い。
剣と違って、どこの町にもまとまった数があるものではない。弾と火薬も要る。軍へ数を揃えられるのは、それなりの国だけだった。
サイラスが地図へ標点の候補を書き込む。
「今夜はベルーガ側へ《最短路》を固定します。インクスさんが戻ったらそちらを外して、避難用へ切り替えます。固定したまま維持出来るのは一経路だけなので、その順番でいきます」
インクスは地図を回して、自分が出る場所を確認し始めた。
能力について、それ以上の話は出なかった。
―――
「患者は先に出したい」
避難先の候補が古い採石場に決まったところで、ソフィアが言った。
使われなくなった管理小屋が残っていて、水場も近い。
「動かせる人だけでも先に。子供と老人も少しずつ出せるなら、その方が当日楽になる」
「今は動かしません」
サイラスが答えた。
ソフィアが手元の記録を閉じる。
「三日後には逃がすんでしょう」
「逃がします。でも、今から人を減らすと気づかれる」
カイが窓の方を見る。
「もう見張られてると思ってるんですか」
「いる前提で準備します」
サイラスは街の地図を引き寄せた。
「患者が減る。子供や老人が減る。保存食や水が同じ方向へ動く。荷車まで集まり始める。それを何日も続けたら、隠すのは難しいです」
「なぜだ?奴の異能が関わるのか?」
セラが言った。
「ええ。オズワルドは《分解》という異能をもっています。」
「《分解》?」
「分解と聞くと何か壊したりすることイメージされると思いますが、オズワルドの《分解》は、物を壊す異能じゃないんです」
サイラスは机の炭筆を一本取った。
「例えば、この炭筆。文字を書く先端、持つための軸、中の芯。それぞれが何のためにあるかを見る。近い言い方をするなら、そういう異能です」
カイが炭筆を見てから、サイラスを見る。
「人間も?」
「見ます」
炭筆はすぐ机へ戻った。
「ただ、異能だけで何もかも分かるわけではありません。見えたものを、本人が持っている知識と繋げる。あの人はそちらの方も得意です」
ソフィアは採石場につけた印を消さなかった。
その周辺へ別の印を二つ足す。
「じゃあ食料は今の倉庫から動かさない。持ち出す箱だけ決めておく。薬は三か所。水も分ける」
古参が書き留める。
「荷車は?」
「普段の場所へ置いておいてください。集めません」
サイラスが答えた。
ソフィアはもう別の道を見ていた。
「《最短路》が使えなくなった時の道も決めたほうがいいわ。時間がかかってもいいから、普通に街の外へ出られる道を一つ残す。それと、避難する人と怪我人を同じところへ流さないで」
そこから先は、街を知っている古参たちの方が詳しかった。
市場が開いている時間に塞がる道。
足の悪い老人がいる家。
表通りが使えなければ裏口から抜けられる店。
橋が落ちた場合に回れる場所。
サイラスは途中から書き込むのをやめ、二人の話を聞いていた。
「住民へ知らせるのは?」
古参の一人が聞く。
「相手を確認してからです」
「それから家を回るとなると、かなりかかりますよ」
「だから担当だけ先に決めます。どの通りを誰が回るか。合図が出たら一斉に動いてください」
窓の外を、野菜を積んだ荷車が通った。
その後ろを子供が二人走っている。
サイラスは一度だけそちらを見て、また地図へ視線を戻した。
―――
「住民が残ってたら、向こうも派手にはやりにくいんじゃないですか」
避難の話が一段落したところで、カイが言った。
古参の一人が少し顔を曇らせる。
サイラスは首を振った。
「オズワルドさんには、そこを期待しない方がいいです」
「そこまでですか」
「必要ならやります」
俺はゼインを思い出した。
「ゼインも、必要だと思ったら人を殺しますよね」
「ええ。でも、同じではありません」
サイラスは地図の端を押さえたまま、しばらく考えていた。
「ゼインは怒る人でした。誰かを嫌えば、そのまま憎む。逆に肩入れもする。人を殺す時でも、その相手を人として見ていないわけじゃない」
「オズワルドは?」
「そこが薄いんです」
サイラスの声には嫌悪も擁護もなかった。
「五人を傷つければ百人が退く。十人死ねば一日早く終わる。本人がそう判断したら、たぶんやります。その十人に対して感情は必要もない」
カイが少し黙った。
「それで、世界を平和にしたいんですよね」
「本気ですよ」
返事はすぐだった。
サイラスは椅子へ座り直した。
「オズワルドさんの国は、二つの大国に挟まれた小国だったそうです。戦争になるたびに軍を通されて、兵を出して、食料を出した。片方につけば、もう片方から敵と見なされる。どちらにもつかなければ、今度は両方から圧力を受ける」
古参たちも黙って聞いていた。
「それでも利用価値がある間は、国として残された。でも最後は、その価値がなくなった」
「なくなった?」
俺が聞く。
「戦略上、必要とされなくなったそうです。支援を切られて、守る約束も消えた。その後、国は滅びた。オズワルドさんは、それを見ています」
「それで大国を?」
「一つの国だけを憎んだわけじゃないと思います。強い国だけが決められる仕組みそのものを嫌った」
サイラスは水を一口飲んだ。
「その後、各地で王や領主に反発していた集団へ接触しています。徴税で揉めている村、食料を取り上げられていた地域、上に不満を持っている兵士。そういう、元々火種があった場所へ武器や情報を流していた」
「別々に動いてた連中を繋げてたんですか」
「はい。互いに知らなかった集団同士まで」
古参の一人が椅子から少し身を乗り出した。
「軍の倉庫が焼かれた話なら聞いたことがある。役人が無残に殺されたところもあったはずだ」
「まさか連環蜂起事件ですか?」
「なんですかそれは?」
トーマはカイに尋ねた。
「通称『黒旗の春』です。数十年前、離れた土地でほとんど同時に起きた襲撃と蜂起がきっかけで軍の倉庫が焼かれ、徴税所が襲われ、いくつかの都市では駐屯兵まで反旗を翻しました。」
「当時は、それぞれ別の騒乱だと思われていたらしいのですが…オズワルドが関わっていたのですか?」
サイラスが頷いた。
「爆破も、暗殺も。本人が全部手を下したわけではありません。ただ、どこへ手を入れれば大きく崩れるかは選んでいた。いくつもの地域で同時に武装蜂起が起きるところまで、かなり近づいていたそうです」
セラが地図を見たまま聞いた。
「それで良くなると思っていた?」
「今の仕組みを残したままなら、また同じ国が出る。だったら一度壊す。その方が平和に近づくと考えていたんでしょう」
「第一席が止めたのか」
「止めた、というより勧誘しました。あのままオズワルドを手放しにしていると世界は無茶になるかもしれない。なら一層自分が作る組織に幹部として雇い入れて秩序を守ろうとしたということは聞いています」
セラが顔を上げた。
「それでオズワルドが止まるとも考えにくいな。何か他に別の条件も出したのか?」
「知りません」
サイラスは首を振る。
「オズワルドさんも過去の話を話さないし、第一席も。」
その後、オズワルドが関わっていたいくつかの蜂起は止まったという。本人も空座へ入り、外で目立つ爆破や襲撃は減った。
そこまで話して、サイラスは黙った。
机の中央には、さっきまでインクスが弄っていた黒杭が一本残っていた。
古参が配備帳を閉じ、棚へ戻した。
―――
部隊の割り振りは、日が傾くまでかかった。
主隊はセラを中心にする。
サイラスが最初につけた印はヴィクトルのすぐそばだったが、セラは地図を引き寄せ、位置を見比べた。
「ここだと東から来た時に遅れる。ヴィクトルだけ守ればいいなら構わないが、避難路まで見るなら中央へ寄せた方がいい」
「オズワルドさん本人が動いても、街を空けるほど追わないでください」
「そこまでは追わない」
サイラスは配置を少し東へずらした。
それでセラは地図を返した。
銃が届けば、経験者を六人選ぶ。
狙うのは黒杭そのものではない。杭を取り出した者、打ち込もうとする者を止める。
俺は射手たちの近くへ入ることになった。
黒杭らしい物を見つける。鑑定が届くなら型を確認する。
配置表を見ていたセラが口を開いた。
「確認するためだけに前へ出るな。届かないなら、その時は言え」
「戦ってたら言う暇がないかもしれません」
「なら聞こえるところにいろ」
紙を戻された。
カイは一か所へ固定しなかった。
正面が押されればそちらへ。避難路の人手が足りなければ戻る。負傷者が増えれば搬送にも回る。
自分の名前だけ矢印が何本も伸びている配置表を見て、カイが少し眉を寄せた。
「最初どこにいればいいんです?」
「第三支部の中庭で」
「そこから全部?」
「出来る範囲でお願いします」
壁際からソフィアが顔を上げる。
「肩は治療したばかりなんだから、全部やろうとしないで」
「まだ何もしてませんよ」
「三日後の話です」
カイは返事をせず、配置表を畳んだ。
救護と搬送は戦闘部隊から外した。
治療師を増やし、負傷者を運ぶ担当も先に決める。
火薬は治療所から離れた石造りの倉庫へ。
銃と弾薬も一か所にまとめない。
水桶は第三支部の中庭だけではなく、隣の倉庫と中央通りへ出る角にも置く。
食料は普段の倉庫へ残し、持ち出す箱だけ決めておく。
当日、戦闘へ入る者には左腕へ白い布を巻かせる。同じ空座の紋章をつけた者同士が向かい合うことになるからだった。
昨日、第三支部を離れた者が知っている裏道も避難路から外した。
こちらに地の利はある。
ただし、それを知っているのもこちらだけではなかった。
―――
ヴィクトルの扱いだけは、夜になっても決まらなかった。
最初はサイラスとソフィアだけで話していた。
一時間経っても、だいたい同じところを回っている。
「命に関わる傷なら使います」
「その場で誰が決めるの」
「運べない人もいます」
「そういう時は使えばいいって言ってる。私が言ってるのは、治った後」
「使用した人は治療所へ――」
「全員?」
「重傷者は」
「じゃあ重傷じゃないって誰が決める?」
俺とカイは途中から廊下へ出ていた。
しばらくすると、第三支部の兵士が一人来た。
その後ろに二人。
昨日、オズワルドの配下を最初に殴った男もいる。
「まだやってます?」
「まだです」
俺が答えると、三人ともそのまま扉の近くへ立った。
少しすると、さらに二人増えた。
カイが壁際へ詰める。
「中へ入りたいんですか」
「使うかもしれないの、俺らでしょう」
勝手に扉を開ける者はいなかった。
やがてソフィアが出てきた。
廊下に並んだ顔を見て眉を寄せる。
「何してるの」
昨日殴った男が一歩前へ出た。
「俺たちにも聞かせてもらえませんか」
「患者は?」
「二人います」
「その二人は戻って休んで」
「座って聞くだけです」
ソフィアは男を見て、その後ろを見た。
結局、扉を大きく開けた。
会議室には椅子が足りず、半分は壁際に立った。セラも呼ばれて戻ってくる。
サイラスは書きかけの紙を机の真ん中へ押した。
「僕とソフィアさんだけだと、たぶん決まりません」
兵士の一人が困った顔をした。
「俺たちに決めろってことですか」
「そこまでは言いません。ただ、実際に使う可能性がある人へ何も聞かないまま決めるのも違うでしょう」
しばらく誰も口を開かなかった。
一番後ろにいた兵士が先に言った。
「死にそうなら使ってほしいです」
「俺も」
「でも、どこから死にそうなんだ」
別の声が出る。
「腹を刺されたら」
「腕は?」
「腕落ちたら使ってくれ」
「足でも使ってほしいけどな」
話はすぐに散らかった。
サイラスもソフィアも、途中でまとめようとはしなかった。
一人は深い傷なら使ってほしいと言い、別の男はヴィクトルで治された後の方が怖いと言った。
昨日殴った男はしばらく黙っていたが、包帯を巻いた拳を机へ置いた。
「命を惜しんで戦っていたら負けるかもしれない。この戦いは負けれないんでしょ?」
「ええ」
サイラスは頷いた。
「だったら俺たちの後のことは気にしないでください。やばくなったらすぐにヴィクトルで回復させて戦わさせてください」
その場にいた男たちは顔を見合わせ頭を下げた。
ソフィアが男を見る。
「全員?」
「そんなこと許せないわ」
啖呵を切った男は顔を上げ
「後より今が大事なんです。出し惜しみして何もかも失うほうが嫌なんです」
ソフィアは男を見たまま黙っていた。
「お願いします」
周りにいた兵士たちも、ばらばらに頭を下げた。
しばらくして、ソフィアが息を吐いた。
「……分かったわ」
男が顔を上げる。
「でも、一つだけ約束して」
ソフィアは兵士たちを順に見た。
「自分の命を粗末に扱わないこと」
誰かがすぐに返事をすることはなかった。
やがて、昨日殴った男の横にいた男が頷いた。それを見て、隣の男も、その後ろにいた者も続いた。
壁際のカイまで一緒に頷いている。
ソフィアはサイラスの前にあった紙を引き寄せた。
「ヴィクトルを使うかどうかは、その時の傷を見て決める。私が間に合うなら私がやる。間に合わないなら使う。それでいい?」
「はい」
サイラスが答えた。
ソフィアは紙へ一行だけ書き足した。
――自分の命を粗末に扱わないこと。
―――
会議が終わっても、第三支部の中では人が動き続けていた。
インクスはベルーガへ持っていく荷物をまとめ、古参たちは水桶と荷車の場所を確認しに散った。治療所では追加の寝台をどう置くかでソフィアと治療師が話し込み、カイは担架を二枚重ねて運ぼうとして一枚取り上げられていた。
会議室にはサイラスだけが残り、何度も書き直された地図を一枚ずつ畳んでいた。
「インクスさんが戻ったら避難用へ切り替えます。西側と市場側で誘導を分けて、負傷者の搬送は別。明日のうちに担当だけ決めておいてください」
古参が頷き、部屋を出ていく。
俺も後へ続こうとした。
サイラスが最後の地図を折る。
その途中で一度、指先が紙の端に止まった。
何かを書き足すこともなく、そのまま折り目がついた。
「トーマさん」
呼ばれて振り返る。
「明日は射手になる人たちと一度会ってください。鑑定が届く距離だけ、先に伝えておいてもらえると助かります」
「分かりました」
廊下へ出る。
外周では、まだ境界石の補修が続いていた。
北東に三つ。
西に一つ。
南に二つ。
全部を替える時間はない。
残った石と、明日までに直せるところだけ直す。
その頃にはインクスもベルーガへ向かっていた。
固定された《最短路》は、今夜だけそちらへ使われる。
会議室の机には、黒杭の配備帳が一冊残っていた。
途中で抜けた規格番号。
昨日ヴィクトルのそばへ置かれた黒い固定具は、そのどこにも載っていない。
翌朝までにやることは、まだ減っていなかった。




