第六十話 この街で生きてきた
オズワルドたちが去った翌朝も、第三支部は普段どおりには戻らなかった。
救護所には南荷揚げ場の事故で運び込まれた人間が残り、中庭では昨日の騒ぎで倒れた箱や椅子が片づけられている。血は夜のうちに洗われたらしいが、石の継ぎ目にはまだ薄く色が残っていて、その上を誰かが通るたびに靴底の水気で滲んだ。
俺は朝から救護所にいた。
ソフィアに頼まれて水桶を運んでいると、横から手が伸びてきた。
「それ、持ちますよ」
カイだった。
「肩は?」
「もう動きます」
「昨日もそう言って怒られてませんでした?」
「昨日は昨日です」
カイは桶を受け取ろうとしたが、少し離れたところで記録をつけていたソフィアが顔を上げた。
「カイ」
名前だけだった。
カイの手が止まる。
「……別に持ち上げるくらいなら」
ソフィアは何も言わない。
「何と戦ってるんですか、俺は」
「知らない」
カイは桶を諦めた。
昨日、肩を治療してもらったあとも帰らず、事故で運び込まれた負傷者の手当てをずっと手伝っていた。治療はできないから、担架を運び、水を替え、血のついた布を集める。今朝もその続きだった。
その時、奥の寝台で布の擦れる音がした。
ソフィアが先に反応した。
「エーリヒさん?」
俺たちもそちらを見る。
エーリヒ・シュタールが目を開けていた。
焦点が合うまで何度か瞬きをして、それから横へ目を向ける。
寝台の脇には妻がいた。
その隣で、小さな女の子が父親の手を握ったまま眠っている。
「……ここは」
掠れた声がした。
妻が立ち上がった。
「あなた」
椅子が後ろへずれ、その音で女の子も目を覚ました。
「お父さん?」
エーリヒの目がそちらへ動く。
「ベル」
女の子は返事をしなかった。
代わりに父親の手を両手で握り直した。
エーリヒも指を動かす。まだ力は入りきらないらしく、ベルの指へ触れる程度だった。
妻が顔を伏せた。
「何日寝てるつもりだったの」
声だけ聞けば怒っている。
エーリヒは困ったように眉を動かした。
「そんなに?」
「そんなに、じゃない」
水へ手を伸ばしかけた妻を、ソフィアが止める。
「まだ飲ませないで。口だけ湿らせます」
「はい」
ソフィアが濡らした布を唇へ当て、そのまま脈と瞳を確認した。エーリヒはされるがままになりながら、自分の胸や腹へ視線を落とす。
「傷は?」
「今回、倒れた時には大きな外傷はありませんでした」
「じゃあ、なんで」
ソフィアの手が一度止まった。
朝から何度も説明してきた声ではなく、少しゆっくりした。
「まだ分かりません。ただ、以前からヴィクトルで大きな損傷を何度も戻しているでしょう。それが今回の状態に関係している可能性はあります」
妻の顔が強張った。
ベルは母親を見上げた。
エーリヒだけはしばらく黙っていた。
「……ヴィクトルが?」
「可能性の話です。決めつけてはいません」
ソフィアは続ける。
「治療のあと十分休めていたか、仕事の負荷、睡眠、食事。見なければいけない所は他にもある。でも、また同じように意識を失う可能性は否定できない」
「次も起こるかもしれないんですか?」
「あります」
「次も起きたら」
そこから先をエーリヒは言わなかった。
ソフィアも先回りして答えなかった。
エーリヒは窓の向こうを見た。
中庭の先に、ヴィクトルの白い光が見える。
「それでもな」
妻が夫を見る。
「俺、ヴィクトルがなかった方が良かったとは思えないんだ」
「あなた」
「今回のことを軽く見てるわけじゃない」
エーリヒは息を整えた。
長く話すとまだ苦しいらしい。
「昔、大怪我した時。ヴィクトルがなかったら、仕事に戻れなかったかもしれない。足もどうなってたか分からん」
妻は黙っている。
エーリヒはベルの手を見る。
「それからずっと働くことができた。ベルが生まれて、この子が歩くようになって、喋るようになって。飯食わせて、服買って……まあ、十分じゃなかった時もあるけど」
「お父さん、服はお母さんが買ってたよ」
ベルが言った。
一瞬。
エーリヒが目を丸くした。
妻が鼻を啜りながら笑った。
「そこは言わなくていいの」
「だって」
エーリヒも笑いかけたが、咳が出た。
ソフィアに睨まれて、すぐやめる。
「……そういうのも全部です」
今度は妻を見る。
「俺が、お前とベルを支えてこられたのは、あの時ヴィクトルに戻してもらったからだと思ってる」
妻は返事をしなかった。
ベルの髪へ手を置く。
しばらくしてから、窓の外へ目をやった。
「私だって、ヴィクトルを恨んでない」
ソフィアが顔を上げる。
「この人が今回倒れた原因だったとしても、それで昔助けてもらったことまで無かったことにはできないです」
そこで夫へ向き直った。
「でも、また無茶していいって意味じゃないから」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
ベルも父親を見た。
「仕事行くの?」
「今は行かない」
「今は?」
「……しばらくな」
妻が目を細めた。
エーリヒは窓へ逃げた。
俺はその横で、カイが黙ってヴィクトルを見ていることに気づいた。
自分の肩へ一度触れる。
昨日まで傷んでいた場所だった。
治してもらったあと、カイは事故の負傷者を何人も運んだ。
もし肩が使えなかったら。
同じ人数を運べたかは分からない。
カイは何も言わなかった。
ただ、その場を離れなかった。
――――
サイラスが救護所へ来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
事故で残っている患者を一人ずつ見て回り、最後にエーリヒの寝台へ寄った。
「目が覚めて良かったです」
「ご心配をおかけしました、サイラスさん」
「本当に心配しましたよ。しばらく仕事へ戻らないでください。勤務先には第三支部から話します」
エーリヒは少し苦笑した。
「今日、それを言われるの何人目でしょう」
「何人でも聞いてください」
サイラスも少し笑った。
そのまま終わるかと思った。
エーリヒの方が表情を変えた。
「サイラスさん」
「はい」
「三日後のこと、聞きました」
サイラスの笑みが消えた。
妻の手がベルの肩へ置かれる。
「オズワルドが、また来るって」
「ええ」
「どうするんですか」
サイラスはすぐに答えなかった。
窓の向こうを見た。
ヴィクトル。
その向こうに街がある。
しばらくして、こちらへ戻る。
「ヴィクトルは渡しません」
エーリヒが顔を上げた。
「危険があるなら調べます。今までと同じ使い方が出来ないなら、変えなければならない。でも、ヴィクトルを検証のために持ち出していいとは思っていません」
サイラスは窓を見たまま続ける。
「この街には、ヴィクトルが必要な人がいますから」
それからセラを見る。
「もちろんセラさんも渡しません」
セラは何も言わなかった。
サイラス自身が、一度口を閉じる。
「……いや」
少し首を振った。
「僕がそう言うのは違いますね」
セラの青灰色の目が動く。
「僕には、あなたを誰かへ渡す権利がありません。あなたが行かないと決めている。それを、街のためだからと僕が覆すこともしません」
昨日、オズワルドの前で言えなかった言葉を、今は最後まで言った。
「三日後も要求が同じなら、断ります」
エーリヒは黙って聞いていた。
サイラスの手がゆっくり握られる。
「ただ」
その先はすぐには出なかった。
「僕が断れば、タダでは済まないかもしれません」
妻がベルを引き寄せる。
サイラスはそれを見た。
「第三支部の周りには家も店もある。道も人も使っている。オズワルドさんが人を連れてきて、こちらも止めれば……昨日のようには終わらないでしょう」
声が少し遅くなる。
「家が壊れるかもしれない。大怪我をする人も出る」
そこで一度、言葉を飲んだ。
「死ぬ人も、出るかもしれません」
救護所の外から、誰かが物を置く音がした。
サイラスはそちらを見なかった。
「僕が退けば、それを避けられるかもしれない。それでも退かないと決めるなら、その結果を払うのは僕だけじゃない」
俯いた。
「そこが……怖いんです」
エーリヒが少し身体を起こそうとした。
ソフィアの手がすぐ肩へ乗る。
「まだ起きないで」
「大丈夫です。ちょっと話したいだけです」
「寝たまま話せる」
エーリヒは大人しく枕へ戻った。
「サイラスさん」
「はい」
「何かあったら俺も戦います」
妻が立ち上がった。
「あなた!」
ソフィアも間を置かなかった。
「駄目です」
エーリヒは二人を順に見る。
「ヴィクトルを使えば、多少の怪我は無かったことになります」
「さっき何を聞いてたの」
「聞いてたよ」
「あなたが倒れた原因に、過去の治療が関係している可能性がある。もう一度使ったらどうなるか分からない」
「そうだな」
「また意識を失うかもしれない。もっと悪くなる可能性だってある」
「それも」
妻が夫の手を掴んだ。
「じゃあ何でそんなこと言うの」
エーリヒは妻を見た。
ベルもいる。
すぐには答えなかった。
「……俺はヴィクトルに、生きる時間を貰ったと思ってる」
サイラスが目を上げた。
「何年だったのかは分からない。これからどれだけ残ってるかも。でも、あの時大怪我したままだったら、今みたいには暮らせなかった」
ベルが父親の指を握り直す。
「こいつが大きくなるのを見られた。妻と飯食って、仕事して、帰って。また次の日も働いた」
少し息を整える。
「もし今回のことが本当にヴィクトルのせいだったとしても、俺はそれを全部間違いだったとは思えません」
サイラスを見る。
「だから、三日後」
エーリヒの声に、少し力が戻った。
「俺を戦わせてください」
「エーリヒさん」
「また倒れることになってもです」
妻の顔が強張る。
「今度は俺が、サイラスさんと、この街を守りたい」
しばらく誰も喋らなかった。
妻が顔を伏せた。
「私は賛成してないからね」
「ああ」
「絶対に」
「分かってる」
「ベルを置いていくことになるかもしれないんだよ」
エーリヒの返事が止まった。
ベルも父親を見たまま何も言わない。
そこだけは、覚悟だとか恩返しだとかで簡単に越えられないらしい。
長い間があった。
ソフィアが息を吐いた。
「三日後に診断するわ」
エーリヒが顔を上げる。
「その時の脈、呼吸、反応を見ます。立てるか、走れるかも確認します」
「じゃあ――」
「でも戦っていいとは言ってない」
明るくなりかけた顔が戻った。
「立っていいかどうかを診るだけ。それ以上でもないわ」
「……はい」
その時だった。
開けたままの扉の向こうで、靴が動いた。
ソフィアが振り返る。
「さっきから何人いるの」
返事がない。
カイが扉の横から顔を出した。
「……結構いますね」
通路に何人かの兵士がいた。
昨日の事故で治療を受けた者もいる。第三支部の警備に回っていた者もいる。
その中に。
昨日、オズワルドの配下を最初に殴った男がいた。
唇の端はまだ腫れている。
拳にも布が巻かれていた。
ソフィアが全員を見る。
「患者は寝床へ。そうじゃない人は仕事に戻って」
誰も動かなかった。
昨日殴った男が一歩だけ前へ出る。
「俺も、お願いします」
「何を」
「三日後です。必要なら、俺も戦わせて下さい」
ソフィアの眉間に皺が寄った。
「昨日は勝手に殴って、今日は戦わせてくれ?」
男は黙った。
後ろの兵士も視線を落とす。
しばらくして、男は包帯の巻かれた拳を見た。
「……昨日は俺が悪かったです」
サイラスへ向き直る。
「向こうの人間がトーマさんの方へ来たのを見て、連れていかれると思った。サイラスさんが何も言ってないのに、つい、勝手に手が出てしまいました」
サイラスは庇わなかった。
「はい」
男の顔が少し硬くなった。
それでも続ける。
「次は、勝手にやりません」
拳を握りかけて。
途中で開いた。
「止まれって言われたら止まります。下がれって言われたら下がる。昨日みたいなことはしません」
顔を上げる。
「だから必要なら、今度は命令してください」
サイラスの返事が止まった。
昨日。
自分の判断で先に拳を出した男だった。
今は、動く前に命令を求めている。
その後ろで別の兵士が頭を下げた。
「俺もお願いします」
もう一人も続く。
「自分も」
ソフィアが額へ手をやった。
「あなたは昨日、肋骨を戻したばかり」
一人を見る。
「あなたはまだ熱がある」
次。
「その腕、指先の感覚が戻ってないって朝言ったでしょう」
「でも、動きます」
「動くかどうかの話をしてない」
声が強くなる。
「傷が塞がってるからって、身体の中まで全部元どおりだと思わないで。昨日治した人を、三日後また同じ寝台に寝かせるために診てるんじゃない」
誰も帰らなかった。
男たちも反論しない。
ただ、一番後ろにいた兵士が頭を下げたまま言った。
「……すみません」
少し置いて。
「それでも、お願いします」
ソフィアは口を開きかけて、やめた。
カイが自分の肩へ触れた。
「私も昨日、ここで治してもらいました」
ソフィアがそちらを見る。
「カイまで何」
「いや、戦わせてくれって話じゃないですよ」
「まだ何も言ってない」
「言いそうな顔だったんです」
「どんな顔ですか、」
「それ聞かれると困りますけど」
少しだけ。
張っていた空気が緩んだ。
カイはすぐ真面目な顔へ戻った。
「でも、この肩が使えなかったら、昨日の事故で負傷者を運ぶのも手伝えなかったと思うんです」
肩から手を離す。
「ヴィクトルに何かあるなら、調べた方がいい。それはそうです。でも、危ないかもしれないって分かったからって、治してもらったことまで間違いだったことには出来ないでしょう」
エーリヒを見る。
妻。
ベル。
「俺は、あの時治してもらってよかったです」
誰かへ同意を求めたわけではなかった。
自分で確かめるように言って、それで終わった。
セラが壁から離れた。
俺はそちらを見る。
セラはまず、昨日殴った男を見た。
その後ろで頭を下げている兵士たち。
次にエーリヒ。
妻の横にいるベル。
誰も、セラへ何かしてくれとは頼んでいない。
むしろ。
セラを渡さないために、自分たちが残ると言っている。
サイラスもそれに気づいたらしい。
「セラさん」
セラはウツロイの柄へ手を置いた。
「私は昨日、自分のことなら自分で決めると言った」
「はい」
「今も変わらない」
そこで兵士たちの方へ視線を戻す。
「でも、こいつらまで私のために頭を下げるのは違う」
昨日殴った男が顔を上げた。
セラはそちらへ何か言うでもなく、サイラスを見る。
「お前がこの街を守るなら」
少し間があった。
「私もそっちに立つ」
サイラスの目が僅かに動いた。
「力を貸そう」
昨日、オズワルドへ「やってみろ」と言った時とは違う。
相手へ向けた言葉ではない。
サイラスへ渡した言葉だった。
サイラスはすぐには答えなかった。
窓の向こうを見る。
第三支部の外には、何も知らず店を開けている人間もいる。荷車も通っている。
「……まず、戦う人を決める前に」
扉の兵士たちが姿勢を正した。
「住民を逃がします」
誰かが顔を上げる。
「第三支部の周囲だけでは足りない。オズワルドさんたちが入ってきそうな道沿い、倉庫、その近くの家もです。患者と子ども、自力で遠くへ動けない人から先に」
ベルへ一度視線が行った。
「戦わずに済めば、それが一番いい。でも三日後に何か起きてから逃がすのでは遅い」
昨日殴った男が頷く。
「はい、サイラスさん」
「倉庫にある荷車の数を確認してください。人を集める時も、三日後に戦うからとは言わないで。避難の準備だと伝えてください」
「分かりました」
男はもう走り出しかけた。
「まだ」
サイラスが止める。
男が振り返る。
「一人で決めないでください。担当を決めます」
男は少し気まずそうに頭を掻いた。
「……はい」
それを見ていたソフィアが、今度はサイラスを呼んだ。
「サイラス」
「はい?」
「避難先だけ決めて終わらないで」
サイラスが振り向く。
「怪我人をどこから入れるか。第三支部の正面が塞がった時に、どの道から運ぶか。搬送路を最低でももう一本決めて」
サイラスの顔つきが変わる。
「分かりました」
「水も布も足りない。昨日のでかなり使った。今日中に補充。治療できる人間も集めて」
そこで少し離れたヴィクトルへ目を向ける。
「ヴィクトルを使った人は、動けても可能な限り一度こっちへ来てもらいます。本人が大丈夫って言っても帰さない」
エーリヒが苦笑した。
「聞こえてますよ」
「あなたに聞かせてるの」
妻が初めて少し笑った。
ベルもつられて笑う。
ソフィアは別に笑わなかった。
「戦うかどうかは、治療が終わってから決めて。負傷した人間を数に入れた状態で作戦を組まないで」
サイラスは今度はすぐに頷いた。
「はい」
「三日あるなら、三日で準備する」
「分かりました」
サイラスは救護所の中を見回した。
エーリヒと妻。
ベル。
扉の兵士たち。
カイ。
セラ。
そして俺。
怖さがなくなった顔には見えなかった。
誰が傷つくのか。
誰が死ぬかもしれないのか。
たぶん、さっきより具体的に見えている。
それでも。
「三日で出来ることを、全部やります」
ソフィアはもう次の患者の記録へ目を戻していた。
「なら、まず搬送路」
「……はい」
カイが小さく笑った。
サイラスも少しだけ困ったように笑った。
その日の午後から。
第三支部は、三日後に戦うためではなく。
三日後、戦いになっても出来るだけ誰も死なせないために動き始めた。




