第六話 警報は二度消された
「偽物なのは、その後に送られた方よ」
ネネの声が、庁舎前へ響いた。
拘束されたアルトを連れていた兵士が足を止める。
「訂正信号にも、第四塔の正式符号が使われていた」
「符号箱を奪われたの」
ネネは兵士をにらんだ。
「正式符号を使ったからって、第四塔から送ったことにはならない」
「根拠は」
「記録を見れば分かる」
庁舎の扉が開いた。
濃紺の髪を後ろで固くまとめた女性が、二人の職員を連れて石段を下りてくる。
灰色の官服。
細い銀縁の眼鏡。
胸元には、ラグナ政局の記章が留められていた。
「続きは記録室で聞きます」
女性はマレクから王命書を受け取った。
印章。
発行日。
派遣目的。
一行ずつ確認していく。
「市政代行官、イルマ・フェルナーです。城主と盾守は、城護盾バスティオンが展開した日から地下管理所へ入ったまま戻っていません」
「連絡は」
マレクが尋ねる。
「伝声管から、定刻ごとに指示が届きます」
「本人の声か」
イルマは一瞬だけ黙った。
「確認できていません」
マレクはそれ以上追及しなかった。
イルマの視線がネネへ移る。
「あなたが、死亡したと報告されたネネ・アシュですね」
「生きてます」
「見れば分かります」
ネネがわずかに眉を寄せる。
「あなたが生きている以上、死亡報告は誤りです」
イルマは続けた。
「ですが、第四塔が襲撃されたことと、アルト・アシュが正しい命令を運んだことは、別に確認します」
「兄さんを疑うの?」
「兄だから信じるのですか」
ネネが口を閉じた。
家族だから。
怪我をしているから。
本人が違うと言っているから。
それだけで正しいと決めれば、偽信号を信じた者と変わらない。
「受信記録を見せてください」
俺は言った。
イルマがこちらを見る。
「《不具合鑑定》で、信号の真偽が分かるのですか」
「内容は読めません。信号を読むのはネネです」
「あなたは何を確認するのです」
「記録板や受信設備へ、後から手が加えられていないかを見ます」
イルマは短く考え、頷いた。
「案内します」
「兄さんも連れていって」
ネネが言う。
「拘束したままなら」
「縄を外して」
「容疑はまだ晴れていません」
ネネが反論しようとする。
アルトが縛られた手を、妹の肩へ置いた。
「俺を見るな」
「でも」
「記録を見ろ」
腫れた左目を細める。
「お前が伝信士なら、信じるのは読んだ後にしろ」
ネネは兄の手首へ食い込んだ縄を見つめた。
やがて、小さく頷いた。
―――
庁舎の廊下を奥へ進んだ。
行き交う職員の数は次第に減り、紙をめくる音や話し声も背後へ遠ざかっていく。
廊下の突き当たりに、鉄板を張った扉があった。
二人の守備兵が左右に立ち、イルマの鍵と市政局の印章を確認する。
扉が開く。
中から、乾いた金属と油の匂いが流れてきた。
伝信記録室は、入口から奥へ細長く伸びていた。
中央には長机が二台並び、職員たちが金属板から帳簿へ信号を書き写している。
俺たちが入ると、手前にいた四人が手を止めた。
さらに奥。
壁際の受信器を扱っていた二人も、こちらを振り返る。
「作業を止めなくて構いません」
イルマが告げた。
「昨日、第四塔から受信した二件の記録だけ出してください」
職員の一人が、左側の棚へ向かった。
棚は人の背丈より高く、薄い金属板が隙間なく差し込まれている。
一枚抜くたび、隣の板が触れ合い、硬い音を立てた。
「こちらです」
二枚の記録板が中央の机へ置かれる。
ネネはすぐに机の横へ回り込んだ。
アルトも兵士に縄を引かれながら、その隣へ立つ。
セラは二人の背後。
マレクは入口付近に残った。
部屋へ入った時から、出入口と人数を確認していたらしい。
俺はネネの向かい側へ立った。
そこから奥を見ると、部屋の一番先だけが鉄格子で仕切られていた。
格子の向こうには、新しい記録板とは違う、黒ずんだ帳簿と古い金属箱が積まれている。
高い位置には、細長い窓が三つ並んでいた。
採光のためのものらしく、人が腕を差し込めるほどの幅しかない。
俺の視線に気づき、イルマが言った。
「城護盾バスティオンが初めて展開された当時の記録です」
「六十八年前の?」
「整理は終わっていません。開封には城主か盾守の許可が必要です」
「その二人は地下から戻っていない」
マレクが入口から言う。
「だから、今は確認できません」
イルマは二枚の記録板へ視線を戻した。
「まず、現在の信号からです」
一枚目は、アルトが城門へ運んだ警報。
城外村の井戸水位低下。
複数の境界石に異常。
避難準備を開始し、城門へ確認員を派遣せよ。
二枚目は、その一時間後に届いた訂正信号。
最初の警報は操作上の誤り。
城外給水は正常。
避難も開門も不要。
どちらにも、第四塔の正式符号が使われている。
ネネは一枚目へ顔を近づけた。
焼きついた光列を指で追う。
三列目で止まった。
「こっちは第四塔から送られてる」
「理由を説明してください」
イルマが求める。
「三列目だけ、少し遅れてる」
ほかの列より、焼き跡がわずかに右へずれていた。
俺には誤差にしか見えない。
「第四塔は基礎が傾いてるから、この列だけ半呼吸遅れるの。誰が送っても必ずずれる」
ネネは二枚目へ移る。
今度はすぐに首を横へ振った。
「こっちは違う。遅れがない」
「設備が調整された可能性は」
「ありません」
アルトが答えた。
「直すなら塔を止めて、基礎から工事する必要がある」
「塔長は何度も、設備台帳に書くよう頼みました」
ネネが言う。
「でも、通信には支障がないって戻された」
机の端にいた記録係が目を伏せた。
「信号は正常に送れていましたので、異常として扱うほどではないと……」
「その異常にしなかった遅れが、本物の証拠なの」
職員は答えなかった。
俺は一枚目の記録板へ意識を向ける。
信号の末尾へ、細い赤線が集まっていた。
《対象名称――伝信記録板》
《異常――受信後加熱》
《損傷箇所――末尾三符号》
「この板は、受信した後に焼かれています」
イルマの表情がわずかに動く。
「内容を消すために?」
「そこまでは分かりません。ただ、末尾だけ熱の入り方が違います」
ネネが板を持ち上げた。
光へ透かそうとして、窓を探す。
職員に示され、棚と棚の間を奥へ進んでいく。
セラがその横についた。
俺も二人の後を追う。
アルトとイルマは中央の机に残り、マレクは入口から部屋全体を見ている。
ネネが細長い窓から差し込む光へ板をかざした。
「残ってる」
焦げ跡をにらむ。
「短符号が三つ」
唇が、光の間隔を数える。
「塔内侵入」
次の符号。
「符号箱奪取」
最後の一つを読んだ瞬間、指が止まった。
「以後の信号を信用するな」
最初の警報には、城外の異常だけではなく、第四塔が襲われたことまで記されていた。
その警告だけが、受信後に消されている。
「この板へ触れた者は」
マレクが入口から尋ねた。
細長い部屋の奥まで、低い声が届く。
「受信担当者と、伝信局長です」
「局長はどこだ」
「訂正信号を確認した後から、所在が分かりません」
アルトが言った。
「俺を捕らえろと命じたのも局長だ」
イルマが入口の兵士へ向き直る。
「伝信局長の執務室を封鎖してください。書類、印章、焼却炉を――」
床下で、何かが鳴った。
硬貨を落としたような、小さな金属音。
一度。
少し離れた場所から、二度目。
鉄格子の向こうから、三度目。
俺の視界に赤い線が浮かび上がる。
中央の机の下。
左側の記録棚の下。
六十八年前の記録区画の下。
床下へ埋め込まれた三本の黒い杭が、同時に脈打っていた。
《対象名称――黒杭》
《術式接続――外部より継続》
《操作状態――術者による起動》
《破損対象――旧管理路封鎖床》
自動で作動した罠ではない。
今、この瞬間。
どこかにいる術者が動かしている。
「全員、伏せて!」
最初の爆発が、中央の長机を真下から持ち上げた。
分厚い天板が割れる。
帳簿と金属板が天井近くまで吹き飛んだ。
イルマとアルトが床へ投げ出される。
続いて、左側の棚の下から青白い火柱が噴き上がった。
炎は床から天井まで届き、棚の木枠を一息で黒く染める。
三つ目の爆発は、鉄格子の向こうだった。
石床が割れ、六十八年前の記録棚が大きく傾いた。
一瞬で、部屋の三か所が燃えた。
床下の溝に沿って、細い炎が走る。
中央。
記録棚。
最奥。
三つの火がつながり、部屋の奥半分を青白く照らした。
熱風が入口まで押し寄せる。
息を吸っただけで喉が焼けた。
黒い煙が天井へ広がり、瞬く間に厚い層を作る。
「出口へ!」
マレクの声が炎の音にかき消されかけた。
吹き上げられた長机が横倒しになり、入口へ続く道を半分塞いでいる。
職員たちが一斉に駆け出す。
肩がぶつかる。
一人が転び、後ろの者がつまずいた。
マレクが倒れた机へ肩を当てる。
「押すな! 入口の兵士は職員を一人ずつ出せ!」
机を押しずらし、人一人分の通路を開ける。
左側の棚から、低い金属音がした。
棚の内部で、何十枚もの記録板が一斉に滑っている。
熱で棚の支柱が曲がり、壁からゆっくり離れ始めていた。
その真下で、受信係の男が転んでいる。
足をくじいたらしく、立ち上がれない。
「セラ!」
俺が叫ぶより早く、彼女は動いていた。
壁に掛けられていた帳簿運搬用の鎖を引き抜く。
鎖の先を一度回し、傾く棚の最上段へ投げた。
先端が棚柱へ巻きつく。
セラは鎖を自分の身体へ巻かなかった。
倒れた長机の脚へ通し、即席の支点を作る。
「伏せろ」
受信係が頭を抱えた。
棚が倒れる。
セラが鎖を引いた。
何十枚もの金属板を積んだ棚が、途中でわずかに向きを変える。
受信係の身体を外れ、すぐ横の石床へ激突した。
轟音。
金属板が床を滑り、火花を散らす。
セラは倒れた男の襟をつかんだ。
「立てるか」
「足が、動かなくて……」
「なら、立たなくていい」
片腕を男の脇へ入れ、そのまま抱え上げる。
燃える棚と倒れた机の間を抜け、入口の兵士へ預けた。
「次」
煙の中を見渡す。
まだ奥に人がいる。
右側の帳簿棚へ火が移った。
数百枚の紙が熱風にあおられ、赤く燃えながら宙を舞う。
高い位置にある窓の一枚が、熱で割れた。
細い隙間から外気が流れ込み、炎が横へ倒れる。
火勢が増した。
「消火槽を開けて!」
イルマが入口側の壁を指す。
若い職員が回転弁へ飛びついた。
両手で回す。
動かない。
もう一人が加わっても、弁は石壁に埋め込まれたように固まっている。
俺の視界に、弁の上部へ集まる赤線が見えた。
《消火槽手動弁――固着》
《固着箇所――上部保持爪》
《弁を先に回した場合――配管破裂》
「回すのをやめて! 上の留め金が引っかかっています!」
「どこです!」
弁から、大人の背丈ほど上。
炎の向こうに、小さな金属爪がある。
人が近づけば、顔と腕を焼かれる。
セラが床へ落ちていた金属板を拾った。
薄い板を左腕の前へ立て、斜めに傾ける。
盾にするのではない。
炎と熱風を上へ逃がす角度を選んでいた。
そのまま数歩進む。
足元から棚を固定していた細い金具を拾い、親指の上へ載せた。
「上の銀色です!」
俺が指す。
セラは一度だけ呼吸した。
金具をはじく。
炎の間を抜け、上部の保持爪だけを正確に弾いた。
「今です!」
職員たちが弁を回す。
今度は動いた。
壁の奥で、大量の水が流れる音がする。
次の瞬間、天井に通された配管から水が噴き出した。
冷たい雨が記録室全体へ降り注ぐ。
炎に触れた水が、一斉に白い蒸気へ変わった。
視界が消える。
熱と蒸気で、呼吸がさらに苦しくなった。
普通の火は弱まり始めた。
だが、黒杭から伸びる青白い炎だけは消えない。
水を押し返すように床を走り、最奥の旧記録区画へ集中していく。
「六十八年前の記録が燃えています!」
鉄格子の向こうで、古い帳簿を収めた棚が炎に包まれていた。
イルマが濡れた袖で口を覆い、奥へ踏み出す。
マレクが腕をつかんだ。
「行くな」
「第一次展開の原記録です!」
「見れば分かる」
「あれを失えば、二度と同じ記録は手に入りません!」
最奥から咳が聞こえた。
鉄格子と倒れた記録棚の間。
年配の記録係が、脚を金属板に挟まれている。
逃げる時に棚へ巻き込まれたらしい。
男のすぐ横には、持ち出し用の古い記録箱が落ちていた。
職員へ続く床も、記録箱へ続く床も燃えている。
黒い煙は、男の頭の高さまで下がっていた。
「セラ!」
彼女が俺を見る。
問い返さない。
俺がどちらを指すか待っている。
職員を先に助ければ、記録は燃える。
記録を先に運べば、職員が煙に巻かれる。
両方へ行ける時間はなかった。
「人を先に!」
声に出した瞬間、セラが走った。
先ほど使った金属板を盾にしたまま、炎の中へ入る。
熱を受けた板が赤く変色した。
それでも手放さない。
倒れた棚の前へ滑り込み、板を床の隙間へ差し込む。
その上へ、折れた机の脚を重ねた。
即席の支点。
セラが両手で押し下げる。
職員の脚を挟んでいた記録板の束が、わずかに持ち上がった。
「マレク!」
マレクが炎へ飛び込む。
生まれた隙間から職員の脚を引き抜いた。
男は意識を失いかけている。
セラは金属板を捨て、男を背負った。
火の粉を浴びながら入口へ走る。
その背後で、古い記録箱へ炎が届いた。
箱の蓋が燃え落ち、中の金属板が床へ滑り出す。
数枚は炎の中へ落ちた。
そのうち一枚が、俺の近くまで滑ってきた。
表面には、公式記録と同じ文章が刻まれている。
『城外集落――灰角王配下の魔物により連絡途絶』
その板にだけ、赤い線が見えた。
文字ではない。
表面へ貼りつけられた薄い層の縁に、亀裂が走っている。
《対象名称――城護盾第一次展開記録板》
《状態――表層剥離》
《表層追加時期――原記録作成後》
《下層――削除処理済み原記録》
本当の記録が残っている。
そう理解した時には、俺は炎の中へ走っていた。
「トーマ!」
マレクの声が背中へ届く。
熱で息が詰まる。
天井から降る水が、顔へ触れる前に蒸気へ変わる。
床へ膝をつき、燃える記録板へ濡れた外套をかぶせた。
浮き上がった表層の隙間へ指を入れる。
熱い。
皮膚が焼ける。
それでも、薄い上張りを引き剥がした。
下から現れたのは、きれいな文章ではなかった。
表面を削られ、傷だらけになった金属板。
けれど、文字の溝までは消しきれていない。
板を抱えて立ち上がる。
すぐ横で、燃えた棚が崩れた。
黒い影が視界を覆う。
次の瞬間、襟が後ろへ引かれた。
セラが戻ってきていた。
俺を記録板ごと炎の外へ引きずり出す。
床へ転がされた俺の手から、焼けた板が落ちた。
「人を先にと言ったのは、お前だ」
「人を助けた後です」
「次は自分も数えろ」
言い返そうとして、咳が出た。
喉が焼けるように痛む。
イルマが濡れた布で板を包み、削られた文字へ目を凝らす。
「……ベルク村。井戸水位、観測限界以下」
俺の視界では、削られた溝が赤い線として浮かんでいた。
「次は、外部送水です」
イルマが指先で傷をなぞる。
「到達確認なし」
その下。
『地脈流――城護盾中枢へ逆流』
『耕作地――地力低下』
『作物――生育停止』
『家畜――原因不明の衰弱』
さらに下。
文字の多くは削られていた。
それでも、残された溝をつなげれば意味は分かる。
『住民――精気流出を確認』
イルマの指が止まった。
「精気……?」
「水だけではありません」
俺は記録板へ走る赤線を追った。
地下水。
地脈。
土壌。
作物。
家畜。
住民。
別々のものから伸びた記録が、最後にはすべて城護盾中枢へ集まっている。
「城護盾は、自分を維持するために、外にあるものを使える順に吸い上げています」
「使える順に?」
「最初に異常として見えるのが水です」
水が減る。
土地の魔力が薄くなる。
作物が育たなくなる。
家畜が倒れる。
そして最後には、人間からも精気が抜けていく。
「水だけを奪っているわけではない」
俺は言った。
「バスティオンを維持するために、城外にあるものを区別なく資源として扱っている」
記録の末尾にも、削り残された文字があった。
『城外生気低下』
『障壁内――水源および精気反応集中』
『魔物群――残存資源方向へ移動』
読めたのは、そこまでだった。
魔物が村を襲ったことは嘘ではない。
だが、襲撃より先に、城護盾バスティオンが村から水も、土地の力も、人間の精気も奪っていた。
弱った村へ、城壁内に集まった水と生気を求める魔物が近づいた。
公式記録は、その前半を別の金属板で覆い隠していた。
「六十八年前の記録では、村は灰角王の魔物に襲われたとされています」
イルマの声がかすれた。
「襲撃はあったんだと思います」
俺は答えた。
「でも、それだけではない。襲われる前に、城護盾が村を生きられない場所へ変えていた」
イルマは返事をしなかった。
燃え残った板を抱える手だけが震えている。
記録室の奥では、まだ青白い炎が床を走っていた。
左側の棚はすべて倒れた。
帳簿棚は半分が焼け、中央の机は形を失っている。
先ほどまで整然と並んでいた記録室は、焼けた鉄と濡れた紙の山へ変わっていた。
その時。
最奥の床下から、鈍い音が響いた。
一度。
二度。
石床へ亀裂が走る。
赤い線が、旧記録区画の真下へ集まっていた。
黒杭が壊そうとしていたもの。
記録棚ではない。
その下にある、分厚い封鎖床だった。
「全員、入口まで下がれ!」
マレクが叫ぶ。
セラが意識のない職員を兵士へ預け、最後尾へ回った。
逃げ遅れた職員の肩を押す。
転びかけたネネの腕をつかみ、入口側へ引き寄せる。
全員が退いた直後、最奥の床が沈んだ。
焼けた棚と記録板が、石床ごと暗い空間へ落ちていく。
轟音。
床全体が揺れ、残っていた窓ガラスがすべて砕けた。
土煙と蒸気が吹き上がる。
やがて煙の向こうに、地下へ続く石段が現れた。
自然に崩れた穴ではない。
壁は石で組まれ、一定の間隔で古い照明受けが並んでいる。
側面には、大盾から十二本の線が伸びる紋章が刻まれていた。
「旧盾守官舎の管理路……」
イルマが呟いた。
「崩落したと記録されていたはずです」
「崩れていません」
俺は穴を見下ろした。
「入口を埋められていただけです」
六十八年間、崩落したことにされていた旧管理路。
それは、改ざんされた記録の真下に隠されていた。
暗い階段の奥から、湿った風が吹き上がる。
壁際の伝声管が震えた。
『道は開いた』
男の声だった。
マレクが伝声管へ歩み寄る。
「お前が命じたのか」
『そうだ』
短い返答だった。
「黒杭を動かした者は、お前の部下か」
『私の命令を受け、起動した』
「部屋に人がいると知っていたな」
『把握していた』
セラの手が剣の柄へ移る。
「死者が出る可能性もあった」
『お前たちがいれば、死者は出ないと判断した』
「外れたらどうするつもりだった」
『外れていない』
言葉に迷いがなかった。
俺は火傷した右手を見る。
「俺たちがどう動くかまで、作業工程に入れたんですね」
『そうだ』
人間を信用したのではない。
セラが人を救うこと。
マレクが出口を確保すること。
俺が燃える記録を見過ごさないこと。
すべてを、装置の動作と同じように計算していた。
「塔を襲った五人も、お前が動かしているのか」
マレクが尋ねた。
『この施設を操作する間、技術上の命令には従わせられる』
「なら、あの五人の行動も止められるはずだ」
『命令できる範囲は限られている』
「同じ命令系統ではないのか」
『同じ側にいても、与えられた目的まで同じとは限らない』
男は、それ以上説明しなかった。
止められないのか。
止める気がないのか。
今の段階では判断できない。
「お前は、なぜ俺たちを地下へ入れる」
俺は尋ねた。
『助けるためではない』
即答だった。
『旧管理路は私が固定している。だが、崩れないように止められるだけだ』
地下の奥で、低い金属音が響いた。
閉じかけた石壁が、途中で押し止められているような音。
『どこを変えれば外部徴収が止まり、どこを壊せば城内へ反動が返るのか。私には見えない』
「俺に探させるつもりですか」
『そうだ』
続いて、男はセラへ向けて言った。
『中枢は現在の盾守を拒んでいる。だが、お前には城門を開いた』
セラの目が細くなる。
「私の何を知っている」
『中枢で確かめる』
答えになっていない。
マレクが、壁際の伝声管へ手を置いた。
「この管は、地下のどこまで通じている」
『旧管理路の各区画につながっている』
「地下から地上へ連絡できるのか」
『管が残っていればな』
男は淡々と続けた。
『現在使えるのは三か所だ。第一点検室、分流制御室、中枢前室。それ以外は潰れている』
「見分け方は」
『大盾から三本の線が伸びた印がある。その下の蓋を開けろ』
マレクが伝声管を三度叩いた。
少し遅れて、地下の奥から三度、硬い音が返ってきた。
完全には途切れていない。
ただし、いつでも話せるわけではない。
三つの中継地点へたどり着かなければ、地上へ状況を伝えることはできない。
だが、男にも俺たちが必要なのは分かった。
通路を維持する者。
壊れる経路を見る者。
城護盾バスティオンから権限者として認識された者。
三つのうち一つでも欠ければ、中枢へは届かない。
庁舎の外から、鐘が鳴った。
一度。
二度。
間を置いて三度。
守備兵が記録室へ駆け込んでくる。
「東の監視所から急報です!」
息を切らし、膝へ手をついた。
「乾谷に魔物の群れを確認! 岩牙猪と灰狼、合わせて百以上!」
「進行方向は」
イルマが尋ねる。
「ラグナです。日没までに、城外の避難民へ到達する可能性があります!」
六十八年前と同じだった。
城護盾バスティオンが、城外から水と精気を吸い上げる。
外側の土地から、生き物を支える力が失われる。
そして、水と濃い生気が集まるラグナへ向けて魔物が移動する。
城外の人々には、水が尽きるまでの時間しかないと思っていた。
実際には、もう一つの期限が迫っていた。
「役割を分ける」
マレクが言った。
「地下へ行くのは、トーマ、セラ、俺だ」
ネネが振り返る。
「私は?」
「地上に残れ」
「どうして!」
「偽信号の送信元は、まだ分かっていない。第四塔固有の遅れを見分けられるのは、お前だけだ」
アルトが近づいた。
「俺たちで正しい警報を送る」
「でも、兄さんは怪我してる」
「手は動く」
「捕まってたばかりでしょ」
「だから記録を残す」
アルトは燃えた棚を見た。
「俺たちが見たものを、次はここだけで終わらせない」
ネネは地下への石段を見た。
「中継管を見つけたら、最初に三度叩いて」
「三度?」
「こっちで聞いてる。返事が一度なら、つながってる」
「返事がなければ」
「そこからは送れない。次の中継管まで進んで」
通信できる地点は三つ。
どこにでもあるわけではない。
途中で道が崩れれば、次の報告は届かなくなる。
「何か分かったら、使える管から伝えて」
ネネが続ける。
「城護盾バスティオンの状態。外から何を吸ってるのか。止められる見込みがあるのか」
「分かりました」
「城外の人にも分かる言葉で。難しい言葉だけ並べないで」
「努力します」
「努力じゃなくて、やって」
「……はい」
ネネは俺の黒い記録帳を指した。
「管が使えなくても、そっちには残して」
「はい」
「帰ってきたら、最初から全部確認するから」
「分かりました」
イルマが護衛へ命じる。
「アルト・アシュの縄を外してください。監視付きで伝信作業へ参加させます」
縄が解かれる。
アルトは赤く腫れた手首をさすった。
「城内の水を、城門へ集めます」
イルマは燃え残った記録板を抱え直した。
「それだけでは足りない」
マレクが遮った。
「魔物が来る」
「分かっています」
イルマは守備兵へ顔を向けた。
「東壁と正門へ弓兵を増員。投石器、予備の弦、矢束を配置してください。非番の守備兵も招集します」
「障壁がある間は、外へ攻撃が通りません」
兵士が答える。
「障壁が弱まってから準備を始めても間に合いません」
イルマの返答に迷いはなかった。
「城外へも魔物接近を知らせます。東壁に赤旗を三本。避難民には城壁の西側へ移動するよう、文字板と誘導旗を出してください」
マレクが続ける。
「外の荷車を、魔物の来る東へ向けて半円に並べさせろ。車輪を石で止め、隙間は木箱と家財で塞ぐ」
「声は障壁を越えません」
「見えるものを使え」
マレクは城壁の方角を指した。
「大きな板へ指示を書け。文字だけではなく、矢印と絵を入れろ。外の代表を一人決めさせ、白布で返答させる」
「外へ命令するのですか」
イルマが尋ねた。
「違う」
マレクは答えた。
「こちらが知っている危険を伝える。外が必要としているものを返させる。障壁の内側だけで、外の動きを勝手に決めるな」
イルマが頷いた。
「城門前には、水と治療道具を用意します。障壁に開口部が生まれた場合、すぐ外へ運べるように」
「城壁上にも水を置け」
マレクが言う。
「外では精気を奪われた者が倒れ始める。治療師を正門へ集めろ。担架と毛布もだ」
「庁舎の守備は」
「残す」
マレクは入口に立つ兵士たちを見る。
「守備隊を三つに分けろ。一隊は東壁と正門。一隊は庁舎と伝信室。残りは予備隊として中央広場へ待機させる」
「命令書が来た場合は?」
イルマが尋ねた。
「発行者本人へ確認が取れるまで従うな。印章だけで人を動かすな」
イルマは腕の中にある記録板を見た。
「正常と書かれている。それだけでは、もう決めません」
伝声管が震える。
『話は終わったか』
男の声だった。
マレクが石段の奥を見る。
「お前はどこにいる」
『別の管理路を進んでいる』
「合流するのか」
『中枢前で会う』
「それまでは」
『私は通路を固定する。お前たちは、開いている間に進め』
「信用しろと?」
『一度も言っていない』
声は平坦だった。
『同じ場所へ、別の道から向かうだけだ』
俺は地下へ続く石段を見下ろした。
地上には、ネネとアルトが残る。
イルマは城壁を守り、外との連絡をつなぎ、水と治療の準備を進める。
俺とセラとマレクは、中枢へ向かう。
声の男は、別の道から同じ場所を目指している。
塔を襲った五人も、この城のどこかで別の目的を追っている。
同じ場所にいる。
だが、守ろうとしているものは、誰一人同じではなかった。
日没まで、もう四時間もない。
先に尽きるのが水か。
人の精気か。
魔物が先に着くのか。
それを確認するためではない。
止めるために、俺たちは地下へ降りた。




