第五十八話 同じ紋章
第三支部へ戻った時には、夜が明けかけていた。
中庭からでも救護所の混み具合が分かる。普段なら人の通り道になっている廊下に毛布が敷かれ、吊り場から運び込まれた作業員たちが寝かされていた。壁際には水桶と汚れた布が積まれ、時折、奥から誰かを呼ぶ声が聞こえる。
ソフィアはまだ出てこない。
戻ってからずっと患者を診ているらしく、何度か治療師が入れ替わっているのに、本人だけは同じ部屋にいる。
セラは中庭の壁に背を預け、昨日の土が残った鞘を布で拭いていた。髪にも灰色の埃がついたままだったが、そちらには一度も手をやらない。
俺は縄で擦れた掌に薄い布を巻き直してから、長机のところへ向かった。
サイラスは寝ていなかった。
吊り場の作業員名簿、救護所へ運ばれた人数、使える荷揚げ場の報告。机の上は紙だらけで、祈徒が新しいものを置くたび、古いものを脇へ寄せている。整えているつもりなのかもしれないが、端の方ではもう何枚か床へ落ちていた。
「サイラスさん」
呼ぶと、筆だけが止まった。
顔を上げるまで少し時間があった。
昨日のことをどう聞くかは、戻る途中から考えていた。セラのことも、ヴィクトルのことも、聞けばいくらでも出てくる。ただ、一度に聞いたらまた何が確認できたのか分からなくなる。
「昨日、最後に一つだけ聞いたでしょう。《最短路》を使ったのかって」
サイラスは筆先についた墨を紙の端で落とした。
「あれなら、使っていません」
そこは昨日と変わらない。
俺は巻いたばかりの布を親指で押さえた。
「なら、あの光が瓦礫の下まで行くかもしれないっていうのは」
少し離れたところで、布が止まる音がした。
見なくてもセラだと分かった。
サイラスはすぐには答えず、机の上に散らばっていた一枚を引き寄せた。そこに何が書いてあるのかを見るでもなく、角だけを揃えている。
「可能性としては考えていました。ただ、昨日のように――」
「そこまでは喋るんじゃのう」
知らない声が、すぐ横から入った。
サイラスの手が止まった。
俺も遅れて顔を向けた。
男が一人、机の端に置かれていた報告書を勝手に持ち上げていた。
いつ来た。
少なくとも俺が中庭を横切った時にはいなかった。
濃紺の外套を羽織った細身の男で、顔には深い皺があり、銀縁の眼鏡越しに紙へ目を落としている。黒い髪には白い筋が一本だけ混じり、左手だけ手袋をしていない。その手の甲に、古い切り傷の跡が残っていた。
門を見ると、いつの間にか何人も入っている。
胸につけているのは第三支部の者たちと同じ空座の紋章だった。
門番が止めなかった理由は、それで分かった。
サイラスが椅子を引いた。
「……オズワルドさん」
男は返事の代わりに紙を一枚めくった。
「三人か」
何の話か分からなかったが、サイラスには分かったらしい。
「現時点では」
「重症者は」
「五人です。ソフィアさんが診ています」
「昨晩、ヴィクトルが二度入っとる者は」
そこで初めて、サイラスが男の顔をまともに見た。
「十一人」
オズワルドは鼻から短く息を出し、別の紙を取った。
「多いんてすね」
悼むような声ではなかった。
人数を数えているだけに聞こえた。
俺が何か言うより先に、オズワルドの指が一つの名前で止まった。
「エーリヒ。こいつは事故の前に一度倒れてますね」
「そこまで届いているんですね」
サイラスの声が少し固くなる。
オズワルドは紙から目を上げなかった。
「届いたから来たんよ。そうでなきゃ寝とる」
「連絡くらい」
「したら待つやろ」
そこでようやく顔を上げた。
サイラスを見ている。
笑ってはいない。
「待ってたら、また誰か死ぬかもしれませんし」
サイラスは返さなかった。
その横を、湯を入れた器を持った祈徒が通ろうとして立ち止まった。
「あ……クレイン座主」
オズワルドがそちらを見る。
「ハインツか」
祈徒の方が驚いた顔をした。
「はい」
「まだ荷ぃ運んでるんですか?」
「え?」
「右膝。去年二回こけましたよね」
ハインツは反射的に自分の膝へ手をやった。
今は平気だと言おうとしたらしい。口が開いたところで、オズワルドは近くにいた導師の方へ顔を向けた。
「受付に回ってください。座っとってもできるでしょ」
導師が頷く。
ハインツ本人には、それ以上何も言わなかった。
器を持ったまま取り残されたハインツが、少ししてから救護所へ戻っていく。
オズワルドはもう別の紙を見ていた。
名前も怪我も覚えている。
気にしていないわけではないんだろう。
ただ、どこへ置けばまだ働けるかまで一緒に見ている。
そんな感じがした。
セラが立ち上がった。
それでオズワルドもようやく彼女へ目を向けた。
「あんたがセラ・ヴァルクか」
セラは腰に鞘を戻しただけだった。
「昨夜、変わった反応が出たらしいですね」
返事はない。
オズワルドも待たなかった。
「実物を見た方が早いか」
そのままヴィクトルへ歩き出す。
サイラスが机を回り込んだ。
「オズワルドさん。先に聞きたいことがあります」
「後にしてください」
「よくありません」
そこで二人の足が止まった。
俺は少し迷ってから口を挟んだ。
「あのヴェスパル」
オズワルドの目だけがこちらへ動いた。
「黒い杭を打たれてました。あれ、あなたのところの物ですか」
オズワルドは答えず、俺の顔をしばらく見たあと、眼鏡の位置を押し上げた。
「トーマ・リード」
名前を呼ばれて、今度は俺が黙った。
名乗っていない。
「杭を調べましたね」
質問の形だったが、答えを待っている感じがしない。
「だったら分かると思いますが。あれを作ったところと、使った奴が同じとは限らないということを」
「あなたのところから出たんですね」
オズワルドはヴィクトルの方へ視線を戻した。
「物はな」
それ以上は続けなかった。
俺が問い直そうとすると、救護所の中で長い咳が聞こえた。
オズワルドはそちらへ顔を向ける。
「今はあっちですね」
「忘れませんよ」
言うと、歩きかけていた足が止まった。
振り返りはしない。
「そうですか」
それだけ言って、また歩いた。
セラの横まで来たところで、オズワルドはヴィクトルと彼女を交互に見た。
「ちょっと付き合ってくれませんか」
「何に」
「場所を変えて、昨日と同じ反応が出るか見ます」
「なぜ私が貴様らに協力しないといけない」
セラはヴィクトルを見たまま言った。
オズワルドはしばらく黙っていたが、断った理由までは聞かなかった。
「そうですか」
背後へ手だけ上げる。
「ほんなら持って来い」
そこで初めて、門の近くに細長い黒箱が置かれているのが見えた。
奉徒らしい男が二人、留め具を外す。
蓋の中には黒い金属棒が並んでいた。
操獣杭より長い。
同じ黒でも、形が違う。
俺は《不具合鑑定》を向けた。
《外部固定具》
《接続対象――未固定》
《魔力流路固定――待機》
表示はそこで切れた。
「何に使うんです」
誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。
オズワルドは答えない。
奉徒たちが棒を一本ずつ持ち上げ、ヴィクトルの周囲を歩き始める。地面を見ながら、何か位置を測っている。
サイラスがそのうち一人の前へ入った。
「やめてください」
「まだ何もしてませんよ」
オズワルドはしゃがみ、地面へ残っていた昨日の足跡を指でなぞっている。
「位置を見とるだけです」
「その道具を近づけること自体が何を起こすか分からない」
「分からんから測ります」
サイラスの口が閉じた。
オズワルドは立ち上がると、ヴィクトルの白い光を見た。
「昨日、今までになかったもんが出た。セラさんが近くにいた。怪我人がいた。事故現場やった。他にも条件はあるかもしれません」
指を折って数えるような真似はしない。
ただ、目だけで周囲を追う。
「全部一緒くたじゃ、何が効いたんか分かりません。分けて見ようと思ってます。それだけです」
「患者がいます」
「見えてます」
「なら――」
「見えとる言うたじゃろ」
初めて、サイラスの言葉を途中で切った。
声は大きくない。
「治療師も連れて来た。足らんなら呼ぶ。ヴィクトルを動かして具合が落ちる者がおるなら、そこも見る」
「見る?」
サイラスの顔から、少しずつ表情がなくなっていった。
オズワルドは気づいている。
気づいた上で続けた。
「悪くなる人が一人なら、一人分の条件が取れる。五人なら五人分。次は先に止められるかもしれない」
近くにいた第三支部の祈徒が、こちらを見た。
俺も何か言おうとしたが、うまく言葉が出ない。
理屈だけなら分かる。
昨日、ヴィクトルがなければ死んでいた人がいる。
次に同じことが起きた時のために調べる。
そこまでは。
でも。
「今寝てる人を、そのために使うんですか」
オズワルドは俺を見た。
「使わん方法があるなら出してください」
返す言葉を探しているうちに、救護所の入口からソフィアが出てきた。
袖を肘まで捲り、手にまだ血がついている。
こちらへ来たのはオズワルドに用があったからではないらしい。水を取ろうとして、黒い棒に気づいた。
「それは何」
奉徒の手元を見る。
オズワルドが答える。
「流れを固定する道具てす」
ソフィアは次にオズワルドを見た。
「誰?」
ほんの少し。
男の顔から何かが抜けた。
「……オズワルド・クレイン」
「知らない」
ソフィアはもう固定具の方へ歩いていた。
オズワルドだけが、その背中を一瞬見ていた。
「今それ使わないで。中に、まだ反応が戻り切ってない人がいるから」
「治療師なら――」
「そういう話をしてるんじゃない」
ソフィアは棒の先とヴィクトルの間を見た。
「これ、まさかまだ入れてないよね」
奉徒が首を振る。
「なら離して」
言われた男がオズワルドを見る。
判断を待った。
オズワルドが何か言う前に、もう一人の奉徒が位置を変えた。
固定具の先端が土へ触れる。
打ち込んではいない。
置いただけだった。
それでも、ヴィクトルから広がっていた白い光がわずかに歪んだ。
救護所の奥で、器の割れる音がした。
「先生!」
ソフィアが振り返る。
「五番の方、呼吸落ちてます!」
そのまま走って戻っていった。
中から指示の声が飛ぶ。
サイラスは固定具を見ていた。
「離してください」
奉徒は動かない。
オズワルドの方を見た。
その僅かな時間が、ひどく長く感じた。
「続けて」
オズワルドが言った。
サイラスが動いた。
手を伸ばしたように見えたのは、そこまでだった。
次には、奉徒が持っていたはずの固定具がサイラスの手に移っている。
速かった、とは思わなかった。
俺の目には途中がなかった。
昨日、サイラスが使っていないと言った《最短路》。
あの時とは違う。
今は目の前で使った。
それなのに、昨日の一本の光とはやっぱり何かが違う。
考えかけたところで、鞘が鳴った。
奉徒が腰の剣へ手を掛けている。
その音につられたように、門の近くにいた者たちの姿勢が変わった。
第三支部側でも何人かが反射的に武器へ触れる。
「触らなくていいです」
サイラスは振り返らなかった。
「中を手伝ってください」
誰へ言ったのか曖昧だった。
それでも若い祈徒が一人、剣から手を離した。
隣の者の袖を引いて救護所へ向かう。
残った者もいた。
オズワルドは、その分かれ方を黙って見ていた。
「変わりませんね」
「何がです」
「何でも自分の前で止めようとする」
サイラスは手にした固定具を地面へ横たえた。
「今は患者の話です」
「私はずっとその話をしとるよ」
それ以上は続かなかった。
足音がして、セラがヴィクトルの前へ出た。
さっきまで救護所の入口を見ていたはずなのに、いつの間にかサイラスより前にいる。
ウツロイは抜いていない。
ただ、腰の鞘を邪魔にならない位置へずらした。
オズワルドがそれを見た。
「協力してくれませんかね」
セラは答えない。
オズワルドも二度は聞かなかった。
眼鏡を外し、懐から出した布でレンズを拭き始める。
妙に丁寧だった。
門の近くにいた奉徒たちが、それを合図のように立ち位置を変えた。
誰も剣を抜いていない。
第三支部の側も同じだった。
救護所からはまだソフィアの声が聞こえる。
そのすぐ外で、同じ紋章を胸につけた人間たちが、お互いの手元を見ている。
オズワルドは眼鏡を掛け直した。
「サイラス」
サイラスは返事をしなかった。
固定具とヴィクトルの間から動かない。
「退きんさい」
それでも動かない。
オズワルドは左手を下ろした。
手の甲の古い傷が見える。
「二度は言わんよ」
セラの親指が、鍔へ触れた。
俺はそこで初めて、門の外にも同じ紋章が並んでいるのに気づいた。
誰が味方で、誰が敵なのか。
少なくとも服では分からなかった。
サイラスはヴィクトルの前から退かなかった。




