第五十七話 まだ一人、下にいる
「待て。人数が合わない!」
声が上がったのは、最後の担架が運び出されたと思った直後だった。
吊り場の作業員らしい男が、泥で汚れた帳面を開いている。
指で名前を追い、途中で戻った。
もう一度数える。
「南班、今日入ってたの何人だ」
「十九だ」
「違う、午前で二人帰ってる。十七だ」
「なら合ってるだろ」
「合ってない。運び出したのは十六だ」
近くにいた者たちが一斉に顔を上げた。
誰かが倒れた櫓を見る。
誰かが運び出された人間を見回す。
さっきまで聞こえていた声が、急に減った。
「誰だ」
帳面を持った男が名前を読み上げていく。
返事のある者。
怪我人のそばにいる者。
担架で運ばれた者。
途中で、一つだけ返事がなかった。
もう一度呼ぶ。
誰も答えない。
「最後に見たのは?」
「俺は知らん」
「石を吊った時にはいたぞ」
「下へ降りてなかったか?」
「何で?」
「制動機が引っ掛かって――」
「下?」
声がした。
横たわっていた男だった。
吊り櫓を操作していた、あの男。
ソフィアが診ていたはずなのに、いつの間にか目を開けている。
「下って言ったか」
身体を起こそうとする。
ソフィアが肩を押さえた。
男は気にも留めなかった。
「誰がいない」
帳面を持った男が名前を言った。
その瞬間、顔色が変わった。
「……下だ」
「何?」
「下にいる」
今度こそ起き上がった。
身体が揺れる。
すぐ横の作業員が支えた。
「おい、無理すんな」
「下の制動機が噛んだんだ。石を上げる前に一回。俺が見に行かせた」
「いつだよ」
「だから……」
男の言葉が止まった。
額を押さえる。
何かを探すように目を閉じた。
「石を吊る前だ。多分」
多分。
自分でも分からないらしい。
「そのあと、お前倒れてんだぞ」
「分かってる!」
怒鳴ったあと、男は息を詰まらせた。
また額を押さえる。
「……分かってる」
今度は小さかった。
崩れた吊り櫓を見る。
「あいつに下を見させた。戻ったのを……」
そこで黙る。
戻ってきたところを覚えていない。
誰も続きを言わなかった。
男は支えていた手を振り払い、立とうとした。
足が床につく。
次の瞬間、膝から崩れた。
「くそっ」
両手をつく。
昨日治した腕は身体を支えた。
問題なく。
それが余計に腹ただしかった。
「場所はどこです」
俺が聞いた。
男が顔を上げる。
「案内する」
「歩けないでしょう」
「這ってでも――」
「場所を教えてください」
自分でも思ったより強い声が出た。
男が俺を見る。
少しだけ睨むような顔をして、それから周囲を見回した。
「何か書けるもの」
帳面を持っていた男が差し出す。
「それじゃ小さい。板はあるか」
近くに落ちていた薄い木板を引き寄せる。
炭になった木片を拾い、男は床へ這うような姿勢のまま線を引いた。
最初の一本が途中で曲がった。
舌打ちして消す。
もう一度。
吊り櫓の脚。
石を巻き上げる機構。
その下に、小さな四角を描いた。
「ここ」
「地下ですか」
「地下ってほどじゃない。点検用の空間だ。人一人入れるくらい」
その上へ太い線を重ねる。
「今は多分、櫓の根元がこの上に落ちてる」
誰かが息を呑んだ。
「生きてるわけ――」
言いかけた男を、別の作業員が肘で止めた。
倒れている男は聞こえていないようだった。
「ここに逃げ込めてたら潰れてない。壁が石だから」
「入口は?」
「こっち」
炭を動かす。
途中で止まった。
「いや」
違う場所へ線を引く。
「櫓がこっちへ倒れたなら……塞がってる」
もう一度。
「反対から行ける。資材置場側」
セラが板を覗き込んでいた。
しばらく見たあと、立ち上がる。
何も言わず崩落現場へ向かった。
「セラ」
俺も立とうとした。
セラが振り返る。
視線が一度、俺の足元に転がっていた救助用の縄へ落ちた。
それから崩れた足場を見る。
俺は立つのをやめた。
縄を拾った。
セラはもう行っていた。
別に言葉はいらなかった。
俺と作業員二人で縄を伸ばす。
セラが腰へ結び、資材置場側から瓦礫へ入った。
大きな梁を跨ぎ、傾いた支柱の下をくぐる。
そこまでは俺にも見えた。
その先で姿が消えた。
「もっと右だ!」
倒れている男が叫ぶ。
「その先、二本並んだ柱がある!」
中から返事はない。
木が擦れる音だけがする。
「右の方は触るな! 上がまだ残ってる!」
少しして、瓦礫の奥から鈍い音がした。
縄が張る。
俺は両手で掴み直した。
掌が汗で滑る。
強く握るたびに、ざらついた縄の繊維が皮膚へ食い込んだ。
土埃が舞い上がる。
上に残っていた木材が一本、ずれた。
「セラ!」
返事がない。
もう一度、縄が動く。
切れてはいない。
それだけ確認する。
「引くな!」
奥から声がした。
セラだ。
「分かった!」
叫び返す。
縄を緩める。
横では男が身体を起こしたまま、板と現場を交互に見ている。
「その先は?」
セラの声が遠くから返る。
「石壁がある」
「下に穴がないか!」
しばらく何も聞こえない。
木が動く。
石が転がる。
俺の手の中で縄が少しずつ送られていく。
「ある」
全員の顔が上がった。
「入れるか!」
「狭い」
セラの声がさらに遠くなる。
縄を送る。
まだ行く。
どこまで入る気だ。
俺が止めようかと思った時。
縄が止まった。
「……いた」
誰も動かなかった。
「生きてる!」
空気が一気に戻った。
何人かが声を上げる。
倒れていた操作員は何も言わず、目を閉じた。
ほんの一瞬だけだった。
すぐ開く。
「出せるか!」
「待て」
セラの声。
さっきまでとは違う。
「腹に何か刺さってる」
ソフィアが立ち上がった。
「抜かないで!」
現場へ走る。
崩れた資材の前まで行き、中を覗く。
当然、患者は見えない。
「意識は?」
「ない。息はしてる」
「血は?」
少し間が空く。
「多い」
ソフィアが唇を噛んだ。
「そこまで入れる?」
作業員の一人が首を振る。
「先生じゃ無理だ。途中が狭すぎる」
「広げれば?」
「上が落ちます」
それは操作員だった。
地面に座ったまま、こちらを見ている。
「入口を広げたら、支柱の残りが落ちる。中も潰れる」
ソフィアは瓦礫の隙間へ顔を近づけた。
「セラ、刺さってるものは動かさないで。周りを押さえられる?」
「やってる」
「呼吸、分かる?」
「浅い」
「顔色は」
「暗くてよく見えん」
ソフィアが一度だけ目を閉じた。
手が届かない。
見えない。
治療できない。
それでも中には生きている人間がいる。
「どれくらい持つ」
サイラスが聞いた。
いつの間にかすぐ後ろにいた。
ソフィアは振り返らなかった。
「分からない」
「運び出すまで」
「だから分からない」
少し苛立った声だった。
「刺さってる場所も分からない。今抜いたら、その場で出血するかもしれない」
サイラスは崩れた櫓を見る。
次に、ヴィクトルのある方角を見た。
俺もつられて見る。
白い光はまだ事故現場のあちこちに残っている。
だけど。
瓦礫の奥には届いていない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「セラさん」
サイラスが呼んだ。
奥から返事が来る。
「聞こえている」
「その方に触れられていますか」
「肩なら」
「そのままで」
ソフィアが振り返る。
「何をするつもり?」
サイラスは答えなかった。
崩れた資材の位置を見る。
さっき操作員が描いた板を見る。
その指先で、何かを確かめるように四角を一度なぞった。
それから。
ヴィクトルへ顔を向けた。
白い光が揺れた。
今までみたいに広がったんじゃない。
逆だった。
事故現場に滲んでいた白が、一瞬だけ細く絞られたように見えた。
一本。
細い光が、ヴィクトルの方から走った。
地面すれすれを抜ける。
倒れた木材の脇。
折れた支柱の間。
その先。
セラが消えた瓦礫の奥へ。
俺は息をするのを忘れた。
「……何だ、今の」
誰かが呟いた。
ソフィアも見ていた。
瓦礫へ伸ばしかけた手が途中で止まっている。
届くはずのない距離を測るように、その指先だけが宙に残った。
瓦礫の奥からセラの声がした。
「傷が――」
そこで途切れた。
俺は縄を握り締める。
「セラ!」
「待て」
また少し間が空く。
「血が止まってる」
ざわめきが起きた。
「ヴィクトルだ」
誰かが言った。
「届いたのか?」
「こんなところまで?」
サイラスだけが騒がなかった。
瓦礫の奥を見ている。
見えるはずもないのに。
「今なら動かせるか」
ソフィアが叫ぶ。
「刺さっているものは抜かないで! そのまま固定して!」
「分かった」
セラの声。
次の瞬間、奥で大きな音がした。
縄が一気に張る。
「セラ!」
「引け!」
考えるより先に身体が動いた。
俺と作業員二人で縄を引く。
重い。
さっきから食い込んでいた繊維が、今度は掌を焼くみたいに痛んだ。
途中で何かに引っ掛かった。
「止めろ!」
セラの声。
止める。
中で石が動く。
また。
「引け!」
引く。
少しずつ。
縄についた土が手の中を滑る。
それでも離さない。
暗い隙間から、最初に手が出てきた。
セラの手。
その腕に、男の身体が抱えられている。
「来た!」
周囲の作業員が集まる。
一気に引きずり出さない。
ソフィアが怒鳴る。
「腹を支えて! 刺さってるものを動かさないで!」
木片ごとだった。
腹に太い破片が刺さっている。
その周囲だけ、不自然なほど血が止まっていた。
白い光が薄く残っている。
セラが身体を押し出す。
外にいた者が受け取る。
最後にセラ自身が隙間から這い出した。
髪も服も土まみれだった。
立ち上がるより先に、運び出した男を見る。
ソフィアが膝をつく。
「まだ抜かないで」
手を胸へ当てる。
弱い光を入れる。
待つ。
また入れる。
男の胸が動いた。
浅い。
でも。
動いている。
「担架」
それだけで周りが動いた。
誰かが走る。
毛布が来る。
固定具が来る。
さっきまでヴィクトルへ歓声を上げていた者まで、ソフィアの指示を待っている。
俺はやっと縄から手を離した。
指の付け根が赤くなっていた。
後ろで何か音がした。
振り返る。
操作員が立とうとしていた。
また膝をつく。
それでも、運び出された男を見ている。
「……いたか」
俺はそちらへ行った。
「いました」
声が掠れた。
一度飲み込む。
「生きてます」
男の肩から力が抜けた。
喜ぶでもなく。
泣くでもなく。
ただ、その場に座り直した。
しばらく俯いている。
やがて。
「そうか」
それだけだった。
サイラスが近づく。
操作員は気づかない。
「明日」
ぽつりと言った。
「南、俺が――」
「止めます」
サイラスの声に顔を上げた。
「吊り場は明日も動かしません」
「でも」
「今日の状態で動かす方が困ります」
操作員が何か言おうとする。
サイラスはもう近くの祈徒を呼んでいた。
「南班の方の名簿を。怪我の有無に関係なく、今日は全員帰してください」
「荷はどうします?」
「北へ回せるものだけ回します」
「明日の分は?」
「明日考えます」
祈徒が少し驚いた顔をした。
サイラスも気づいたらしい。
「今決める必要のないことまで、今決めなくていいでしょう」
祈徒は頷き、走っていった。
操作員が小さく言う。
「休んだら、日銭が」
サイラスは足を止めた。
「ああ」
それまで考えていなかったような間だった。
「そこは支部で出します」
「簡単に言うなよ」
「簡単ではないですね」
少し困った顔をした。
「あとで怒られると思います」
操作員が初めて、何とも言えない顔をした。
笑ったわけでもない。
サイラスはそれ以上続けず、別の祈徒へ何かを頼みに行った。
本当に手配するつもりらしい。
ソフィアがその背中へ声を投げる。
「サイラス」
彼が振り返る。
「ヴィクトルを使った人、明日からそのまま仕事へ戻さないで」
「全員ですか」
「少なくとも診るまでは」
一拍。
「分かりました」
それだけだった。
昨日までのやり方を守ろうとはしなかった。
事故が起きた。
なら変える。
そこには迷いがない。
だから余計に。
俺はさっきの光が気になった。
「サイラスさん」
呼び止める。
彼がこちらを見る。
「今の」
喉の奥で言葉が一度止まった。
「《最短路》ですか」
「いいえ」
すぐだった。
「使っていません」
嘘をついているようには見えなかった。
むしろ。
そこだけなら、本当にその通りなんだと思う。
「じゃあ、あれは」
担架が横を通った。
さっき救い出した男。
ソフィアが付き添っている。
サイラスの視線がそちらへ移った。
「先に、その方を診てもらいましょう」
そのまま歩き出す。
追えば聞けた。
多分。
でも俺は動かなかった。
セラも戻ってきた。
土埃を払いながら、俺の横を通り過ぎる。
数歩行ってから止まった。
振り返らない。
視線だけがサイラスの背中へ向いている。
それから。
ヴィクトルへ。
俺も見る。
遠くに立つ白い旗。
見た目は何も変わっていない。
広がる白い光も、もう何度も見た。
なのに。
あの一本だけが頭から離れなかった。
広がったんじゃない。
あそこだけへ。
届いた。
セラは、さっきよりずっとヴィクトルから離れた場所にいた。
それでも。
届いた。
そしてサイラスは。
あの光を見ても、一度も驚かなかった。




